Okinawa 沖縄 #2 Day 283 (10/02/25) 旧摩文仁村 (4) Oodo Hamlet 大度集落
大度 (おおど、小渡 ウドゥ)
- 高嶺 (タカンミ) 神屋
- 高嶺のクシ(後ろ)
- 伊敷神屋
- 伊敷の西側の拝所
- 上組砂糖小屋 (サーターヤー)
- 高嶺門中の拝所
- 宇栄 (ウィー) 神屋
- 宇栄の後ろの拝所
- スーマ・アガリジョー (東門)
- イビ屋敷
- 新井泉 (ミーガー)
- 村屋跡
- ウサギ井泉 (ウサギガー)
- 大度公民館
- 綱引場
- 西組砂糖屋/クムイ跡
- 前ン井泉 (メーンカー)
- 中組砂糖小屋 (サーターヤー)
- 東組砂糖小屋 (サーターヤー)
- 野戦重砲兵第23聯隊慰霊碑
- アマンソウガマ
- オドサトグスク
- 福出泉 (フクラシガー)
- 桃原カジマヤー
- 村元 (ムラムトゥ)
- オーマのビジュン
- 馬追い (ンマウィー)
- 小渡潮井泉 (ウドゥスーガー)
- 大度海岸
- 大度の用之助港(おおどのようのすけこう)
- ジョン万次郎上陸之碑
- 番所への宿道
- 板門墓 (イタジョーバカ)
- 佐敷の浜 (サシチンハマ)
- ハンタ原壕
- 洞窟
- 佐敷井泉 (サシチンガー)
- 御地午之方男神 (ウチウマヌファー)
- 御地未之方女神 (ウチヒツジヌファー)
- サシチンガマ (佐敷の洞穴)
- ガーラグスク
- 沖縄清明の丘公園
- 午之方御獄 (ウマヌファーウタキ)
字米須で見落としていたスポットを訪問した後に、字大度集落に移動し、散策をする。
大度 (おおど、小渡 ウドゥ)
字大度は旧摩文仁村に属し、西は字米須、東は字摩文仁に挟まれ、北は旧真壁村の字江城に接して、南は太平洋に面している。大度集落は国道331号線の南側の小字内間原に集中している。
大度は古くは小渡 (ウドゥ)と呼ばれ、琉球王国時代は漁村で、漁夫が徐々にに寄り集って、漁村を形成したと思われる。字米須の海岸近くは小渡古島と呼ばれており、この辺りに小渡漁村があったのだろう。資料によれば、小渡集落は終戦直後までは海岸よりに構えていたが、米軍が海岸を接収する恐れがあり、集落住民の半数は道路にそった上方に移動したと資料にはあったが、明治時代の地図で海岸辺りには民家は見られない。国道331号線の北側へは戦後国道の南側が米軍演習場となり、大度住民は北側に強制移住 (1948年の地図) を強いられたことによる。旧大度集落は戦後もほとんど拡大していない。海岸近くに「さつきの城」という住宅街が開発され、旧大度集落よりも大きな規模になっており、個別の自治会も組織されている。
戦後、1946年 (昭和21年) に摩文仁村が真壁村、喜屋武村と合併し三和村となった際に、発展を願って大度と改称している。
大度集落の南は桃原、平原、ハンタ原の三つの子字があり、畑が広がっているが、サンゴ石灰岩(マージ)に覆われ土地は痩せておりれ、「枯れ摩文仁」と呼ばれていた。戦前は大豆を栽培し糸満に売りにいった。以降はサトウキビや葉タバコを生産していた。
大度の人口は戦前は402人で旧摩文仁村では最も少ない村だったが、現在 (2024年末) では647人で、米須に次いでの規模となっている。糸満市では中堅の字になっている。
1880年 (明治13年) の人口は198人で、沖縄戦直前の1944年には402人と増加している。しかし、沖縄戦では住民半数が犠牲となり、人口は激減している。そこから1986年までは人口データが見当たらなかったが、徐々に戦前レベル近くに戻っていったと思われる。1970年代末から1980年代に南部に「さつきの城」住宅団地が開発され、人口は増加している。さつきの城団地の人口はわからないが、民家の分布を見ると、旧集落よりもはるかに多くの民家が建っているので、人口もさつきの城団地の方が多いことは確かだろう。1986年には1,038人にまで増加しているがその後は大幅な減少 (理由は分からず) が続き、2009年には600人台まで落ち込んでいる。孫後も微減が続き、ようやく2017年から、微増に転じている。近年は世帯数が横ばいとなっているので、人口の増加を期待できないだろう。
琉球国由来記*等に記載されている拝所は以下の通り。
- 御嶽: なし
- 殿: 伊敷の西側の拝所 (殿*)
- 拝所: 高嶺神屋、高嶺のクシ、伊敷神屋 (奥間巫火神*)、高嶺門中拝所、スーマ・アガリジョー (東門)、シュマ巫火ヌ神* (所在地不明)、内古渡巫火ヌ神* (所在地不明)、宇栄神屋、宇栄の後ろの拝所、イビ屋敷、
- 井泉: 前ン井泉、新井泉、ウサギ井泉
祭祀は奥間ノロ、内小渡ノロ、シュマノロによって執り行われていた。
大度集落の祭祀などの村行事は以下の通り。大度集落には奥間ノロ、内小渡ノロ、シュマノロの三人がいたのだが、何故、この小さな集落に三人もいたのかは記載が無かった。昔は三つの集落が存在していたのだろうか?
高嶺 (タカンミ) 神屋
国道331号線の直ぐ南に村立てに関係しているといわれる旧家の高嶺 (タカンミ) がある。戦前迄はこの場所 (写真上) に屋敷を構えていたが、現在は米須寄りの国道沿いに移り、そこに神屋 (写真下) が建てられている。神屋の神棚には左側にアジュー(按司世) の5つの香炉が置かれ、右側には力ミユー(神世) の4つの香炉が置かれている。神棚右手には今帰仁と玉城への遙拝所も設けられている。
高嶺のクシ(後ろ)
戦前の高嶺の北に拝所があり、高嶺のクシ(後ろ) と呼ばれている。シマクサラーとも呼ばれているので、昔はここが村の北の端で、この拝所では悪霊が村に侵入しないようにムーチーの日には、ここで牛の血を月橘の枝に付け、厄除けとして家に持ち帰ったという。現在では獅子舞などの村御願 (ムラウグヮン) で拝むほか、門中祭祀でも拝んでいる。
伊敷神屋
高嶺のクシ(後ろ)から国道331号線を北に渡った所が伊敷門中の本家の屋敷で祝女元 (ヌルムトゥ)とも呼ばれ、奥間ノ口を出した旧家になる。敷地内には神屋がある。神屋内には2つの火ヌ神 (ヒヌカ ン) と、古い位牌などが祀られている。琉球国由来記の奥間巫火神とされている。
伊敷の西側の拝所
伊敷本家の西側に雑木林がある。その中に3か所の拝所がある。林に入った中央の広場の木の下に数個の石を積んだ拝所 (写真上) があり、ウマチーではここにカミンチュ (神人) が座って神酒 (ミキ) をウサンデー (おさがり) したという。この一帯は琉球国由来記の殿 (トゥン) と考えられており、奥間ノロ、内小渡ノロ、シュマノロが祭祀を司っていた。北の拝所は戦前小さな建物があり、伊敷が管理していたが、現在は石積 (写真下) が残るのみである。現在ではいずれも高嶺門中が5月のウマチーで拝んでいる。
西には屋根付きの祠に3個の石が祀られた拝所があり、「神拝所/昭和五十五年二月十五日完成/伊敷門中」の碑が立っている。
上組砂糖小屋 (サーターヤー)
伊敷神屋の東は上組の砂糖小屋 (サーターヤー) が置かれていた場所になる。
高嶺門中の拝所
上組砂糖小屋 (サーターヤー) の東側にも拝所がある。拝所に入えうと石を丸く置いた場所がある。これは井戸跡になる。手前のコンクリート製の祠が高嶺門中の拝所 (写真右中/下) で、元旦にスージャリ (潮砂利)と海水を撒いて成員の健康を願うている。この祠の両脇に平御香 (ヒラウコウ) が供えられている。これは今帰仁と玉城への遥拝所となっている。祠は他門中も拝む。奥の祠はかつて国道の南にあった伊敷門中の拝所 (写真左中/下) を移設している。
宇栄 (ウィー) 神屋
伊敷本家の道を北に登ると嶽元 (タキムトゥ) や村元 (ムラムトゥ)といわれる旧家の宇栄 (ウィー)の屋敷跡になる。かつて母屋があった場所に二つの神屋が建っている。正面の神屋 (写真中) では、村御願 (ムラウグワン) の際に向かって右手の3つの香炉 (右中) を拝んでいる。手前の神屋 (写真下) にも2つの火ヌ神と5つの香炉があり、村で拝んでいる。2つの神屋の間の獅子屋 (シーサーヤー、写真左下の隅)には獅子頭が保管されている。旧7月13日と8月9日には、鐘や太鼓をうち鳴らし獅子が猛け猛けしく踊りはねていた。夏の月夜に、唐川から鬼があがってきては娘を食ったので、獅子で対抗させたと伝えられている事からこの様な獅子舞となったそうだ。
宇栄の後ろの拝所
宇栄の北側に、コンクリートで固めた広場がある。この一画に30cmほどの石柱を石で丸く囲んだ拝所がある。高嶺門中の拝所にも同じ形の井戸跡があったが、これも井戸跡なのだろうか?広場奥には、祠が置かれ、その中には数個の石が中央に立てられ、左右に白い香炉が置かれている。 詳細は不明。ここで獅子を養ったという伝説が残り、年に3回、獅子舞の時にムラで拝んでいる。
スーマ・アガリジョー (東門)
高嶺と高嶺のクシの間の道を西に進んだ林の中に拝所がある。この拝所には、戦前には高嶺の東に別々にあった二つの拝所が合祀されている。コンクリート製の祠を2つに仕切り、向かって左にスー マ、右に東門 (アガリジョー) を祀っている。スーマは琉球国由来記に記載されているシュマ巫や シュマ巫火ヌ神と何らかの関連があると思われるが、それの関係を明らかににする文献や伝承は残っていない。
イビ屋敷
スーマ・アガリジョー (東門)から南に進むと綱引きの綱などを保管する小屋があり、その外壁の一部を凹ませて、イビと呼ばれている神石を祀ってある。8月のカーサレー (井浚い) の際に村で拝み、ウマ チーでは各門中も拝んでいる。
新井泉 (ミーガー)
イビ屋敷の前にはポンプ施設が置かれている。この下深いところにあるウリーガー (下り井泉)の新井泉 (ミーガー) から水を汲み上げている。水は良質だが、水源は崖下にあり運搬には労力を要したという。近くのおじいに井戸への下り口を聞くと、ポンプ施設の裏の梯子で降りていけると教えられた。昔は下まで降りていって水を汲んでいたそうだ。この辺りが昔からの集落で、元村 (ムトゥムラ) と呼んでいる。村ではポンプ施設の東隣の拝所を拝んでいるそうだ。
村屋跡
新井泉から道を西に1ブロック行くとかつて村屋があった場所になる。現在は民家が建っている。沖縄戦当時、この村屋の近くには石積みの戦車の通行を阻止する障碍が造られていたという。
ウサギ井泉 (ウサギガー)
村屋跡 の前の畑の中にはウサギ井泉 (ウサギガー)と呼ばれる井戸跡がある。井戸はどうも埋め立てられているようで、石を丸く並べた所がある。多分これがウサギ井泉だろう。カーサレー (井浚い) で村で拝まれている。
大度公民館
道を更に西に1ブロック進むと大度公民館が建てられている。戦後、先ほどの村屋跡からこの場所に移っている。現在の建物は平成2年に建て替えられたもの。公民館の角には戦後、村の連絡用鐘として使われた酸素ボンベが吊るされている。
綱引場
酸素ボンベが吊るされた道では旧暦8月15日の十五夜で綱引きが行われる。
西組砂糖屋/クムイ跡
公民館から南に少し進むと、大度集落の南端になり、その南の畑で栽培していたサトウキビを搾り黒糖を作っていたサーターヤーがあった場所がある。ここにはクムイ (溜池) もあったそうだが、現在では埋められている。
この場所から南に綺麗なコスモス畑が見えたので立ち寄ってみた。
前ン井泉 (メーンカー)
集落南端の道を東に行くと大度集落の共同井戸だった前ン井泉 (メーンカー、メーヌカーともいう) 跡がある。簡易水道開通以前はほとんどの家がこの井戸を使っていた。 この井戸は村の産井 (ンブガー)で、正月のハチウガミ (初拝み) では過去1年間に生まれた子どもにこの カーの水でミジナディー (水撫で)をする習わしがあるそうだが、現在では水は涸れているようだ。
中組砂糖小屋 (サーターヤー)
前ン井泉 (メーンカー) の東隣には、大度集落に四つあった砂糖小屋 (サーターヤー) の一つがあった場所で、中組が使用していた。
東組砂糖小屋 (サーターヤー)
道を東に進むと四つ目の砂糖小屋 (サーターヤー) があった場所があり、ここは東組が使用していた。
野戦重砲兵第23聯隊慰霊碑
国道331号線に戻り、大度集落から、東に外れた所に野戦重砲兵第23聯隊の慰霊碑が 1978年(昭和53年) に建立されている。
野戦重砲兵第 23連隊は1942年 (昭和17年) に満州国東満総省梨樹鎮において編成され、1944年 (昭和19年) 10月に沖縄守備隊の第32軍の軍直轄部隊としての動員、連隊本部は前田高地に守備陣地をおき、第一大隊は首里を基幹とする石嶺周辺に陣地を構築、第二大隊は島尻地区に陣地を構築。1945年 (昭和20年) 4月中旬には嘉数高地、前田高地にての米軍 と日本軍との激しい戦闘が行われて第一大隊は 壊滅的な打撃を受け多くの戦死者を出している。残存兵を率いて南部へ撤退。第二大隊は十分なる兵力をもって攻撃を行っていた。5月に米軍の猛烈な攻撃により軍司令部が南部撤退を決定。第二大隊も八重瀬岳に転 進、更に6月中旬には第一大隊残存兵と第二大隊の最後陣地となる小渡 (大度) に後退集結し、山中の松林の中に陣地を構築して砲列を敷いていた。集結当時、使用可能な火砲はわずか2門だったが、この火砲で米軍への砲撃を行なっていた。やがて壊滅状態になり、斬込を行い玉砕の後、6月19日に部隊は解散した。野戦重砲兵第23連隊1180人のうち、生き残ったのはわずか148人だったという。この慰霊碑では1000柱が祀られておる、この慰霊碑の前両脇に野戦重砲兵になぞられた重砲が置かれ、その中央には当時の部隊長だった神崎清治少将の神崎の頭文字である「カ」が刻まれている。碑文には
この碑は太平洋戦争中最も激戦であったと謂われる沖縄戦において本土防衛のため、祖国日本の勝利と、家族の安泰を念じ、終始果敢に戦って散華した野戦重砲兵第23連隊戦没(球3109)戦没将兵の霊を祀ったものである。
部隊は、旧満州国より転進、沖縄本島各地に展開し、友軍歩兵部隊の戦闘によく協力、再三に亘り米軍の進出を阻み、軍直轄砲兵としての任務を全うし、この地で玉砕したのである。
その偉勲を永遠に称えるとともに、戦友よ、安らかにと願い、ここに関係者一同相協力しておれを建立した。
昭和53年3月19日
野重二三戦友会 戦歿者遺族一同
とある。
野戦重砲兵第23連隊の慰霊碑は二箇所あり、もう一つは那覇市首里久場川町の久場川井戸 (クバガーガー) 拝所の中にあり、第一大隊の第2中隊 (浜田隊) の小さな慰霊碑が置かれている。この井戸によって多くの兵士が命を救われたことで、この場所に昭和55年に慰霊碑の建立し、久場川住民の戦没者と共に慰霊されている。
アマンソウガマ
野戦重砲兵第23聯隊慰霊碑の東にアマンソウガマと呼ばれた自然洞穴がある。この辺りにはヌル墓やアジシー墓が置かれている。ガマは何百人も入れる大きさだったので、ここを整備して避難壕として使用していた。
1945年 (昭和20年) 3月に米軍の艦砲射撃が始まると、大度住民200人程はこのアマンソウガマに避難していた。日本軍は住民に山原に避難するようにと命じてガ マから追い出している。追い出された住民は、山原に疎開したり、真栄平のウフドウ壕などに避難した。ウフドウ壕には多くの住民の字民が隠れていたが、やがてこの壕は真栄平区域の避難場所ということになり、大度住民はそこを出て、多くは八重瀬岳の高良ン上の岩陰や小さな穴に隠れていた。しばらくして大度に戻り、その時には日本兵があまりいなかったアマンソウガマに100人程が避難していたが、すぐに日本軍部隊が大度に撤退してきて、再度追い出されている。避難場所を失った住民は海岸の岩陰や小さなガマや屋敷壕など部落周辺に身を隠していた。こうした逃げ場のない状況下でも日本兵 による追い出しは続いていたという。 このアマンソウガマで捕虜となった一般住民は一人だけだったという。このガマに避難していた住民のほとんどが日本兵に追い出された結果だった。だだ、追い出しは日本兵だけではなく、避難していた住民の中でも起こっている。赤ちゃんや幼児を連れてガマに避難していた人たちは、子供が泣くと米軍に見つかるということで、壕から出る事様に強要され、仕方なく、戦場を彷徨い犠牲となっている例もある。この地は沖縄戦終盤で日本兵、住民共に極限状態に置かれ、色々な悲劇が起こっている。
野戦重砲兵第23聯隊慰霊碑の東にアマンソウガマと呼ばれた自然洞穴がある。この辺りにはヌル墓やアジシー墓が置かれている。ガマは何百人も入れる大きさだったので、ここを整備して避難壕として使用していた。
1945年 (昭和20年) 3月に米軍の艦砲射撃が始まると、大度住民200人程はこのアマンソウガマに避難していた。日本軍は住民に山原に避難するようにと命じてガ マから追い出している。追い出された住民は、山原に疎開したり、真栄平のウフドウ壕などに避難した。ウフドウ壕には多くの住民の字民が隠れていたが、やがてこの壕は真栄平区域の避難場所ということになり、大度住民はそこを出て、多くは八重瀬岳の高良ン上の岩陰や小さな穴に隠れていた。しばらくして大度に戻り、その時には日本兵があまりいなかったアマンソウガマに100人程が避難していたが、すぐに日本軍部隊が大度に撤退してきて、再度追い出されている。避難場所を失った住民は海岸の岩陰や小さなガマや屋敷壕など部落周辺に身を隠していた。こうした逃げ場のない状況下でも日本兵 による追い出しは続いていたという。 このアマンソウガマで捕虜となった一般住民は一人だけだったという。このガマに避難していた住民のほとんどが日本兵に追い出された結果だった。だだ、追い出しは日本兵だけではなく、避難していた住民の中でも起こっている。赤ちゃんや幼児を連れてガマに避難していた人たちは、子供が泣くと米軍に見つかるということで、壕から出る事様に強要され、仕方なく、戦場を彷徨い犠牲となっている例もある。この地は沖縄戦終盤で日本兵、住民共に極限状態に置かれ、色々な悲劇が起こっている。
糸満市が実施した調査では、戸籍ベースでの調査した411人のうち戦没者は166人で、戦没率は40.4%となる。全69世帯のうち、戦没者がいる世帯は 60世帯 (86.9%) で、家族の半数以上が戦没した世帯は28世帯 (40.5%)、一家全滅した世帯が8世帯 (11.5%) となっている。県内所在者は309 (軍人除く 279人) 人で、その内 134人 (軍人除く 111人) が戦没しており、戦没率は43.4% (軍人除く 39.8%) で糸満市内では高い率になっている。軍人軍属は外地、海上を除く34人中25人(戦没率73.5%)が戦没している。(外地、海上を含めると66.7%) 日本本土には、軍人軍属を除いて21人(出稼ぎ20人、疎開者1人) が所在し、そのうち戦没者は2人。外地には、軍人軍属を除いて一般人42人が所在し、戦没者は30人、戦没率71.4%と非常に高率になっている。
大度で捕虜になった住民の多くは玉城村方面に運ばれ収容されている。1945年 (昭和20年) 11月頃より、各収容所から名城の居住地区への移動が始まり、移動してきた順にテントに割り当てられてい た。名城から大度に移動する際には、建築資材の配給を受け、先発隊が家屋を建てて受け入れ準備をしている最初は10数軒しか完成せず、1軒に3~4世帯が暮らしていた。
大度集落の南側から米須にかけては、真和志村民の居住地区になっていた。真和志村民が移動した後には国道331号線の南側が米軍によって演習場になってしまった。元の集落はその演習場内となり、大度住民は国道の北側に強制的に移転させられ、住民は一度建てた家屋を解体して移動した。演習場では実弾演習もあり立ち入りはできず、この状態は1~2年間続いた。
オドサトグスク
アマンソウガマの背後の標高約50mの琉球石灰岩丘陵上にはオドサトグスクがあったとされている。グスクの場所は特定されていないが、丘陵では屋敷跡の石敷遺構が確認されている。グスク時代の遺構や遺物などは見つかっていない。オドサトグスクは大度 (小渡) 集落の発祥に関係があるという古老もいるが、それを裏付ける文献などは見つかっていない。
次に大度集落の南の畑地帯から海岸にかけてのスポットを見ていく。
福出泉 (フクラシガー)
字米須と字大度の境、畑の中に福出泉 (フクラシガー) がある。1853年に摩文仁の間切役人監励のため派遣された仲井間里之親雲上と下知役田里築登雲上の2人によって発見され、琉球石灰岩を人力で掘って整備された。主に米須集落東部の人と大度集落の西部の人が飲料水として利用されていた。福出泉は琉球石灰岩を地下約10mまで掘り下げたウリカー (降り井泉) で、 水場まで0~30メートルの緩やかな石段が続き、降り道はU字型に回り湧水のカーカカン (水源地) にたどり着く。カーカカンのすぐ側には丸い台座が残っている。水浴場や洗濯場も設けられていた。この泉は飲料水、主に東米須と大度の人々がよく使用していた。
桃原カジマヤー
農地の広がる桃原にある市道米須大度南線と農道の交差点で、アブシバレーの村御願 (ムラウグヮン) で、一角から東方を拝む。
村元 (ムラムトゥ)
小渡村の元島があったという所。アプシバレーで大度集落で拝んでいる。ここに集落があった時代は漁村だったそうだ。
オーマのビジュン
字米須から字大度の海岸にかけて砂丘が広がっており、オーマと呼ばれている。このオーマの中に字米須では奥間御嶽 (ウクマヌタキ) 、字大度ではオーマのビジュンと呼んでいる拝所がある。琉球国由来記のアカウヅカサノ御イベの御嶽にあたり、奥間ノロによって祭祀が行われていた。現在は祠に7つの香炉がありビジュンと呼ぶ霊石が祀られている。この霊石 (ビジュン) に豊作豊漁、航海安全、雨乞い、子授けなどを祈願している。
祠の後ろにも幾つもの香炉が置かれている。ここはお通し (ウトゥーシ 遥拝所) だそうだ。どこへの遙拝を行っているのかは記載がなかった。
馬追い (ンマウィー)
かつてはオーマの北に馬場がありンマスープ (競馬)も行われた。 戦前、綱引き前には男たちがここで酒を酌み交わしたという。資料では場所が特定されていなかったが、明治時代の地図にある道では、オーマのビジュンの所を米須にあった間切番所に向かって伸びている道のどこかに馬場があった様に思える。
小渡潮井泉 (ウドゥスーガー)
字米須当原の海岸の真水の湧水の うち、東側を小渡潮井泉 (ウドゥスーガー)と呼んでいる。東南にあるカンサー、タマチ ブなどと呼ぶ礁湖もこの近くから遥拝している。
大度海岸
字大度には珊瑚礁の大度海岸がある。戦前迄は小渡浜 (ウドゥハマ) と呼ばれ、干潮時には見事なイノーが現れる。ダイビングスポットで、今日も多くの人がシュノーケリングやパドリングを楽しんでいた。鎖国中の幕末に、中濱萬次郎ことジョン万次郎がアメリカから帰国する際に上陸したことから「ジョン万ビーチ」とも呼ばれている。初夏から夏にかけては、ウミガメが産卵に訪れる浜としても知られている。
大度園地にはジョン万次郎をイメージした彫刻コンテスト (ジョン万賞) の受賞作品が野外展示されている。全部で5作品で2018年から五回開催され、それぞれの受賞作品だ。
右上は
- 2018 (1) のジョン万次郎を表すトビウオ 「FLYING FISH」
左下から、
- 2022 (4) 海での難破、渡米、帰国を表現した「波 静けさ」
- 2023 (5) 帰国の際に乗船したAdventurer号はジョン万の「ロマン」の始まり
- 2021 (3) 米国でも帰国後も目標を失わず前に進む姿を現す「羅針盤」
- 2020 (2)何度も「Onda agitada (荒波)」を潜り抜けた波瀾万丈の人生
大度の用之助港(おおどのようのすけこう)
大度海岸に入江があって唐川とよばれている。むかしは自然の良港で、支那と交易があったといわれ、かなり開けたところと思われる。この大度海岸沖に、イノーの切れ目が見えている。1904年の大干魃に際して、島尻郡長だった齋藤用之助は政府の救助金を農民に分配するより、長期的な視野に基づき公共事業を起こし雇用を創出し半農半漁であった住民の生活の安定と漁業振興を目的として、この小渡浜 (大度海岸) の沖の珊瑚礁を開削し、港口(ンナトゥグチ)を設ける工事を行なった。工事は干潮時にしか作業ができずな2年7ヶ月を要し、1907年(明治40年)に幅5.4m、深さ2.1m、長さ216mの港口が完成した。これにより干潮時にも船の出入港が可能となり、砂糖の積出港として多いに利用され、地域に大きな利益をもたらしたという。また、漁民の避難港としても使われていた。住民はこの港口を齋藤用之助に因み「用之助港」と、小渡浜を摩文仁村長の宮里蒲助に因んで「蒲助浜」と呼んでいた。今日は干潮の度合いが低く、港口が現れる程では無かった。写真右下は糸満市が紹介している港口の様子。
ジョン万次郎上陸之碑
大度海岸にはジョン万次郎上陸之碑が建てられている。幕末の1851年にこの碑の下のサシチンハマ(佐敷の浜)に上陸している。万次郎像は上陸時の姿をイメージしたベストやジーン ズを着用し、カウボーイハットを被り、故郷の土佐清水を指差している。
銅像の台座にはジョン万次郎が遭難漂流してから帰国後の活躍迄をイラストで紹介している。
❶ - 万次郎は、中ノ浜 (高知県土佐清水市) で生まれました。1841年、漁師になった14歳の万次郎は、宇佐浦からはえ縄漁に出ました。この舟には、船頭の筆之丞 (後に伝蔵と改名)、重助、五右衛門の3兄弟と、寅右衛門、そして万次郎の5人が乗り込みました。ところが、漁に出て3日後に足摺岬沖で嵐に遭い漂流しました。その後、太平洋の孤島の鳥島に漂着しました。そこで過酷な無人島生活を送り、143日後、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって救助されました。ジョン・ハウランド号のウイリアム・H・ホイットフィールド船長は、5人を安全 なハワイへと連れて行きました。旺盛な好奇心と前向きな行動力で船長に認められた万次郎は、4人の仲間をハワイに残し、1人アメリカへ渡る決心をしました。また、そのころに「ジョン・マン」という愛称が付けられたといわれています。
❷ - 1843年、万次郎が救出されてから2年後、船はアメリカ最大の捕鯨基地、マサ チューセッツ州ニューベットフォードに帰港しました。万次郎は、日本人として初 めてアメリカ本土に上陸しました。万次郎の訪れたアメリカは、西部開拓の時代でした。ホイットフィールド船長は、 ジョン・マンを我が子のように愛し、ふるさとのフェアヘーブンに連れ帰り、英語、 数学、測量、航海術などの教育を受けさせました。ここに、日本人留学生第1号が 誕生しました。学校を卒業した万次郎は、捕鯨船フランクリン号に乗って7つの海を航海し、副船長にまでなりました。航海を経てニューベットフォードに帰港した万次郎は、カリルフォルニアで起こったゴールドラッシュのことを知りました。1850年、万次郎は、日本へ帰国するための資金を得ようとサクラメントの金山に向かい、600ドルを稼ぐと、仲間のいるハワイへと向かいました。
❸ - ハワイに到着した万次郎は、伝蔵、五右衛門らに帰国の決意を伝えました。また、「琉球の地に小舟にて渡れば便利なり」と考え、捕鯨ボートを購入し、アドベンチャラー号と名付けました。そして、上海へ向かう商船サラボイド号へ乗船しました。1850年12月17日、サラボイド号は上海へ向けてハワイを出港しました。翌年 1851年2月2日、北風が吹きみぞれが降る悪天候の中、万次郎たちは、糸満市喜屋武岬の沖合でアドベンチャラー号を降ろし、陸地を目指しました。深夜、海岸に着くと干潮だったため浜には行けず、仕方なく岩礁にいかりを下し、朝まで一眠りしました。朝になると、近くにいた釣り人の指示に従い、万次郎、伝蔵、五右衛門 の3名は、小渡浜 (古港口: フルンナトゥグチ) に上陸することができました。
❹ - 上陸した小渡浜で万次郎、伝蔵、五右衛門の3名は、浜に集まってきた小渡の村人たちから、温かいふかしイモをごちそうされました。万次郎たちは、親切な村人たちのもてなしに感謝の気持ちで胸がいっぱいになったといいます。また、万次郎たちは、持ってきた牛肉やコーヒーを火に掛け、その場で食して見ませました。万次郎たちの荷物はすべて、摩文仁間切番所 (米須集落内) の役人によって没収され、番所に運ばれました。荷物には、航海術書、数学書、ジョージ・ワシントン伝記、 地図、八分儀、コンパス、ピストルなどがありました。取り調べをした役人たちにとっては、見たことのない品物ばかりでした。また、役人からご飯とお箸を渡され、3人とも上手に使いこなしたことから、日本人であることが認められました。
❺ - 万次郎たちは、取り調べ後に那覇へ護送されることになっていました。摩文仁間切から真壁、高嶺、兼城、豊見城間切の宿道を歩き向かいましたが、那覇でイギリ ス人宣教師べッテルハイムに会うことを心配した薩摩藩と琉球王府の役人は、「豊見城間切りに戻せ」との伝令を出し、豊見城間切翁長村へ戻り、親雲上 (ペーチン) の高安家 (屋号: 徳門) で幽閉されました。万次郎たちは、半年間に及ぶ捕らわれの身ではありましたが、村の綱引きや毛あしびーに参加するなど、村人たちと自由に交流することができました。また、かつて琉球の進貢船が難破した際、土佐藩の人たちに助けられたことがありました。琉球国王は、土佐藩の人たちへの恩返しとして、万次郎たちへの手厚い保護のほか、豚、 鳥、魚、泡盛、衣服などを贈りました。万次郎たちは、多くの人たちの「いちゃりばちょーで一 (一度会えば皆兄弟)」精神に触れることがで きました。
❻ - 幽閉されていた万次郎たちは、琉球王府の役人により取り調べを受けました。その際、通事牧志朝忠は、特にジョージ・ワシントン伝記に興味を持ちました。伝記にはアメリカの民主主義社会の制度や人権尊重について書かれていました。そのようなことから、万次郎が封建社会の日本に持ち帰りたかったのは、アメリカで体験した 民主主義の思想だったとも考えられています。その後、万次郎は11年ぶりにふるさとの土佐に帰りました。ペリー提督が黒船 を率いて現れた際、幕府は万次郎を直参として江戸に呼び寄せました。万次郎は、開国への熱い思いを込めて、老中らの前でアメリカの事情について話しました。その後の万次郎は、翻訳、測量、捕鯨などを主な仕事としていました。明治新政 府になっても、普仏戦争の視察として海外出張を命ぜられたほか、東京大学の前身「開成学校」の英語教授に就任するなど、国際人として活躍しました。
番所への宿道
ジョン万次郎像の台座の説明にあった摩文仁間切番所へ宿道が残っている。ジョン万次郎像から坂道を登った所にある。宿道は摩文仁村と米須の間切番所を通り、真壁、高嶺、兼城、豊見城を経て那覇に続いている。宿道を入ると、摩文仁間切番所への道は木々に覆われ進めず、摩文仁村への道を進む。道はニブイビラと呼ばれる坂道になり、登って行くと道は雑草で覆われ、その先には進めなかった。
板門墓 (イタジョーバカ)
摩文仁村への宿道の途中に古墓があった。資料にある板門墓 (イタジョーバカ) と思う。(資料には写真がなく確信はないのだが) 板門墓は高嶺門中の分かれで、字大里へ移った小渡腹が使っていた。昔は墓口が分厚い板で閉じてあったのでこの名が付いたという。
佐敷の浜 (サシチンハマ)
ジョン万次郎が上陸したと伝わっている佐敷の浜 (サシチンハマ) に降りる。ここで、万次郎達が小渡の村人たちに親切にされ、万次郎達が持ってきた牛肉やコーヒーを火に掛け、その場で食して見せた場所。
ハンタ原壕
佐敷の浜 (サシチンハマ) の東側の崖には幾つもの洞穴がある。その一つはハンタ原壕で、昔、「はんた若按司」とも呼ばれていた米須按司が舟遊びをするときの休憩場だったと伝わり、この地域は小字のハンタ原と呼ばれている。洞穴は黒く焼けただれている。沖縄戦で米軍が焼き払った跡と思う。村の避難壕を日本軍に追い出された住民が隠れていたのか、それとも日本軍が使っていたのだろうか?
洞窟
海岸側にも洞穴がある。
拝所が置かれている。岩場の穴にしめ縄があり、中には二つの霊石が置かれている。詳細は不明。
佐敷井泉 (サシチンガー)
海岸の先に向かってコンクリート製のパイプが洞穴へ伸びており、そこには佐敷井泉 (サシチンガー) と呼ばれる井戸がある。さつきの城の東側丘陵南端の石灰岩の断層からの湧水で、簡易水道の水源 としても使われていた。岩場の奥に拝所があり、酒が供えられている。三山時代に佐敷小按司だった尚巴志が、ここで水浴びをしたと伝わっており、その名が付いたといわれている。
御地午之方男神 (ウチウマヌファー)
佐敷井泉 (サシチンガー) の手前には御地午之方男神と刻まれた石柱が建つ拝所がある。琉球王国を守る国四鎮 (くにゆちん) の南の龍宮神で、ここには干支の午の神の辨天負泰彦大神が祀られている。Google Map では御地牛之方男神となっていたが、石碑では御地午之方男神となっていたので、Google Map の誤記だろう。
因みに、琉球の龍神伝説の神の一覧は以下のとおり
御地未之方女神 (ウチヒツジヌファー)
佐敷井泉 (サシチンガー) の向こう側にもう一つ龍神が祀られている。こちらは干支の未の神にあたる仁天屋しろの大神だが、石柱には女神となっている。仁天屋しろの大神は男神なので、沖縄の龍神には色々なバージョンがあるのだろう。
男神と女神の間には御先七御水 (うさちななうびしん) という温水の場所があるそうだが、場所は分からなかった。
サシチンガマ (佐敷の洞穴)
御地未之方女神から岬を廻った所にサシチンガマ(佐敷の洞穴) があるのだが、今日は大潮ではなく、海岸は海水で覆われて、そこには行けなかった。潮位が低くなる日を調べて再度訪問予定とする。このガマの奥には拝所が設けられている。沖縄戦では独立高射砲第27大隊患者壕として使用されたとも言われている。やがて戦車が攻撃してきたので、海岸にあるサシキンガマに避難した。沖縄戦終盤には、このガマには住民31人と日本兵約20人が隠れていたが、子どもが泣くと日本兵は銃を向けたという。米軍に包囲されて攻撃を受け、6月25日に住民は全員捕虜になっている。壕内は黒く焼け爛れている。米軍火炎放射器によるものだろう。この摩文仁は沖縄戦の最終局面で激戦地だった。この時には組織的戦闘はなく、ガマに潜んでゲリラ戦に変わっていた。米軍の記録では、この珊瑚の岩山陣地には日本軍が機関銃、擲弾筒、81ミリ迫撃砲の陣地が置かれ、米軍の摩文仁の司令本部への進撃をくい止めていたとある。この辺りには幾つもの陣地壕跡があるそうなので、次回訪問時に探してみる。
ガーラグスク
大度海岸の東の琉球石灰岩丘陵地にはガーラグスクが存在していたという。その場所については資料によって異なっている。丘陵上にあったという資料と、現在のさつきの城団地の場所がグスク跡とする資料がある。どちらにせよ、地形そのものが大きく変化したおり、遺物は発見されていない。
沖縄清明の丘公園
午之方御獄 (ウマヌファーウタキ)
沖縄清明の丘公園の端から岬先端への道があり、崖上に午之方御獄が置かれている。海に向かって五つの香炉が置かれている。資料には紹介されておらず、詳細は不明。
まだ、数ヶ所見つからなかったスポットや未訪問スポットがあるのだが、それらは次回に字摩文仁を訪問する際に立ち寄ることにした。2月中旬に東京に行く予定なので、今月の沖縄集落巡りはこれが最後で、3月に沖縄に帰ってきてから再開する。
今日、散策中に目に付いた花や植物
参考文献
- 糸満市の歴史と民俗を歩く 旧摩文仁村集落ガイドマップ (2022 糸満市教育委員会)
- 沖縄風土記全集 第2巻 糸満町編 (1967 沖縄風土記刊行会)
- 糸満市史 資料編 7 戦時資料 上巻 (2003 糸満市教育委員会)
- 糸満市史 資料編 7 戦時資料 下巻 戦災記録・体験談 (1998 糸満市教育委員会)
- 沖縄県戦争遺跡詳細分布調査 I 南部編 (2001 沖縄県立埋蔵文化財センター)
- ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
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