Okinawa 沖縄 #2 Day 281 (26/01/25) 旧摩文仁村 (2) Ihara Hamlet 伊原集落 (1)
摩文仁村 伊原集落 (イハラ、いはら)
- 旧伊礼 (イリー) 村
- 伊礼の村屋 (ムラヤー) 跡
- 砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
- 10番地の広場
- 東井泉 (アガリガー)
- 綱引きが行われた道
- 中ヌ井泉 (ナカヌカー)
- 西井泉 (イリーガー)
- ムックイ
- 伊礼原遺跡
- 伊原遺跡、伊礼ヌ殿 (イリーヌトゥン)
- 喜納殿 (キナートゥン)
- チチャーガ-
- 石原井泉 (イサラガー)
- 佐久真殿 (サクマトゥン)
- ヌン殿内 (ヌンドゥンチ)
- 琉風之碑
- 伊原原遺跡
- 石原 (イサラ) グスク、石原城ヌ獄 (イサラグスクヌタキ)
- 城井泉 (グスクガー) [不明 未訪問]
- ナビワヤー (鍋割)
- 門中墓 - 本部/大宮城腹の墓、上原腹の墓
- 石原ヌ殿 (イサラヌトゥン)
- 殿 (トゥン)
- クバオー
- 外間家 (フカマヤー)
- 石原村村屋跡
- 砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
- 伊原公民館
- クムイ (溜池) のそばの辻
- 新井泉 (ミーガー)
- 門中墓 - 東リ安里腹の墓、西リ殿内小腹の墓、前伊祖腹墓
1月21日に南浪原集落の後、史跡の半分ほど見学した伊原集落の続きで、残りの史跡を巡る。
摩文仁村 伊原集落 (イハラ、いはら)
琉球王府時代、糸満市域は1つの行政区ではなく、摩文仁間切のほか兼城間切、高嶺間切、真壁間切、喜屋武間切の5つの間切に分かれていた。摩文仁間切には摩文仁村、小渡村、米次村(後に米須村)、石原村、伊礼村の五か村が存在し、境界の見直しや村の統合などは無かった。更に古い時代には、喜納村もあったが石原村に吸収されている。1879年 (明治12年) の沖縄県設置後もこの体制が引き継がれていた。
伊原集落の後方に石原グスク跡がある。時代と城主は不明だが、南山時代以前、丘陵の南斜面に古くから集落はあったといわれる。三山時代、南山王国は激動期でこの石原グスクも要塞として利用され、その真っ只中に身を置いていた。グスクの山腹の洞穴は落ち武者の隠れ蓑にもなっていた。石原集落は石原グスクの築城や都落ちした武士が帰農して、このグスクの丘に新しい集落が作られたのが発祥と推測される。その後、時期は不明だが旱魃による水不足とか、台風、風土病があり、グスクの丘から次第に農耕地に適し、通行に便利な現在地の平胆地に移るようになったとされる。
1903年 (明治36年) に伊礼村と石原村が合併し、両村の一文字ずつをとって伊原村となった。この合併以降も旧伊礼村と石原村にはそれぞれの村屋 (ムラヤー) があり、長らく村の管理運営や祭祀も別々に行っていた。
1908年 (明治41年) の沖縄県及島嶼町村制変更で摩文仁間切は摩文仁村となり、伊原村は字伊原となっている。
摩文仁村はその後40年ほど存続したが、1945年 (昭和20年) の沖縄戦による壊滅的な戦災で人口が減少し、行政運営が難しくなったことから、近隣の真壁村、喜屋武村と合併して1946年 (昭和21年) に三和村となり、字伊原はその一部となった。その後、1961年 (昭和36年) に三和村は糸満町、兼城村、高嶺村と合併して新しい糸満町になり、1971年 (昭和46年) の市政施行で糸満市となっている。
琉球国高究帳 (1635年) には「いしわら村 (石原村)」と伊礼村と並んで集落が描かれている。
集落の発祥については不明だが、伝承では、石原グスクがあった丘陵の南側に南山時代以前から部落はあったという。当時は、石原、佐久間、喜納、伊礼の集落があったと思われる。その後、部落は南側の農耕地に適し、通行に便利な平胆地に移動している。
字伊原の人口は2024年12月末では215人 (110戸) で、旧摩文仁村の中では二番目、糸満市では7番目に人口の少ない字になっている。戦前1944年には 477人之人口だったので、現在は半分以下になっている。
明治時代から現在に至る地図で民家の分布をみても、集落はほとんど拡大していない。
字伊原の戦後の人口は減少が続いていたが、ここ数年は横ばい状態となっている。集落を散策すると空き地や朽ちた空き家がめだっていた。
伊原集落の拝所
- 御嶽: 上ムツコノ嶽 (伊礼 不明)、下ムツコノ嶽 (伊礼不明)、佐久真ヌ嶽 (不明)、 石原城ノ獄 (石原 神名 チヤゲ森ムヤゲ森ノ御イベ)
- 殿: 伊礼ヌ殿 (伊礼)、喜納殿 (喜納)、佐久真殿 (佐久真)、石原ヌ殿 (石原)
- 拝所: 伊礼巫火神 (伊礼)、ヌン殿内 (石原)
- 井泉: 東井泉 (伊礼)、中ヌ井泉 (伊礼)、西井泉 (伊礼)、石原井泉 (石原)、城井泉 (石原)、新井泉、フチチャー井
琉球王国時代には伊礼村と石原村にはそれぞれ伊礼ノロ、石原ノロがおり、当該拝所の祭祀を執り行っていた。1903年 (明治36年) に両村が合併した以降も祭祀は、それぞれの村で独自に行われている。
旧伊礼 (イリー) 村
南波平集落から国道331号線を東に進んで所に字伊原の中の旧伊礼 (イリー) 村に入る。集落は小さく国道331号線をまたいで南北に広がっている。
伊礼の村屋 (ムラヤー) 跡
国道331号線の南側、小字の伊礼前原 (オリーメーバル) には、旧集落の南端にかつての伊礼村の村屋 (ムラヤー) が置かれていた。明治時代に石原村と合併し伊原村の一部になった後も、ここの村屋は存続し、旧伊礼村のまま、独立した形で行政運営や祭祀行事を行なっていた。現在は村屋跡地は空き地となっている。
砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
旧村屋の西側、国道331号線の南は砂糖小屋 (サーターヤー) があった場所になる。
10番地の広場
旧村屋の北側、国道331号線沿いに空き地がある。ここは伊礼集落の10番地なので、この広場は10番地の広場と記載されていた。かつては伊礼ノ口を排出した屋号本部が戦後に移り住んだ所になる。広場一角に伊礼の村御願 (ムラウグヮン) で拝まれていた神屋が置かれている。また、伊礼の綱引きの綱はここのガジュマルの枝を利用して作ったという。
東井泉 (アガリガー)
国道331号線を北に渡り、小字伊礼原 (イリーバル) 内、伊礼集落の北東側の端には旧伊礼村の産井泉 (ンブガー) だった東井泉 (アガリガー) がある。湧水を半円形の石組で階段状に囲ってあり、水量は少ないながら、現在も端正なまいを保っている。
綱引きが行われた道
東井泉 (アガリガー) の南北に走る道ではかつては綱引きが行われていた。現在では行われていない。
中ヌ井泉 (ナカヌカー)
東井泉 (アガリガー) から西に道を進むと、広場の奥に中ヌ井泉 (ナカヌカー)がある。水量が豊富なカーで、飲料水として利用されていた。この井戸も旧伊礼村の産井泉 (ンブガー) だったといわれている。
西井泉 (イリーガー)
更に道を西に進み、集落の西の端に西井泉 (イリーガー)がある。大規模に石組された井戸で、主に洗濯場として利用された。かつては下流に水田が造られていたという。
ムックイ
綱引きが行われた道に戻り、道を北に進む。この道は伊礼集落から南波平に抜ける道で、前方に丘陵があり、切通しになっているようだ。この場所はムックイと呼ばれており、「ムイラクイーユン(森を越える)」というところから、こう呼ばれるようになったそうだ。昔は切通しではなく丘陵を登って降りる道だったのだろう。
伊礼原遺跡
この丘陵の西側部分、先に訪れた波平グスクの丘陵の東側は伊礼原遺跡で、14世紀から15世紀のもと思われる土器、陶磁器、骨製品、鉄製品などが発掘されている。
伊原遺跡、伊礼ヌ殿 (イリーヌトゥン)
伊礼原遺跡の東側でも遺跡が見つかっている。14世紀から15世紀のグスク時代の伊原遺跡で、輸入陶磁器、製鉄炉の空気口の羽口(はぐち)、釘、鉄を作る際にできる鉄滓も大量に出土しており、鉄器の製造が行われていたとも推測される。また、ここには伊礼の殿 (イリーヌトゥン) が置かれ、ウマチーなどで拝まれている。
伊礼ヌ殿の裏側に石畳の道があり、道を進むと岩場になっている。ここが聖域だった様にも思える。
次は伊礼集落の東側の石原集落に移動する。石原集落は喜納集落を吸収しているが、石原集落の西側がかつての喜納集落になる。旧喜納集落、旧石原集落の史跡を見ていく。
喜納殿 (キナートゥン)
国道331号線から丘陵に向かって農道を北に進む。ビニールハウス群の手前、農道脇に拝所が置かれている。石原村に吸収されたかつての喜納村の拝所で、喜納一族の宗家跡だと伝わっている。現在は村御願 (ムラウグワン) で拝まれている。
チチャーガ-
喜納殿の西の畑の中に井戸跡が残っている。資料ではフチチャーガ-となっているが、詳細のついての記述はなかった。
石原井泉 (イサラガー)
喜納殿の農道を更に北に進んだ所に石原井泉 (イサラガー)がある。旧石原村の産井泉 (ンブガー)で、後井泉 (クシンカー)、伊原村井泉 (イサラムラガー)とも呼ばれている。簡易水道敷設以前は石原集落の主な飲料水源だった。
佐久真殿 (サクマトゥン)
ビニールハウス群の北側の丘陵麓にも拝所がある。古い時代の血縁集団のひとつである佐久真一族が住んでいたとされる場所にあり、琉球国由来記の佐久真殿か佐久真殿嶽と推測されている。
ヌン殿内 (ヌンドゥンチ)
旧喜納村から北に外れた所に石原ノロを出した屋号ヌン殿内の屋敷跡がある。現在は人は住んでおらず、神屋のみ建っている。神屋内には幾つもの香炉等火ヌ神が置かれている。伊原集落の祭祀の中心地だった。ここの分かれだという字大度の門中など、他地域からも多くの人が参拝に訪れている。
琉風之碑
ヌン殿内の道を北に進むと沖縄戦に巻き込まれた沖縄気象台職員の慰霊碑が建てられている。那覇小禄の鏡水にあった沖縄地方気象台は日本軍に重要な気象データを提供していた。沖縄戦が間近になり、台長、台長代が職務放棄し本土に避難、残された職員98名の内、職務遂行を誓った37名は沖縄に残り気象データを送り続け、米軍侵攻を受け、島尻での逃避行となり、この伊原に辿り着いた時には12名にまで減り、ここで気象隊を解散、その後全員が散っていったという悲しくも感動を呼ぶ行動だった。ここには戦死した沖縄地方気象台と軍気象隊の職員の慰霊塔が建立されている。
碑文は以下の様に刻まれている。
沖縄戦も終結に近い昭和20年 5月下旬戦局は小禄村鏡水の沖縄地方気象台近くまで前線化した職員は近くの壕内で業務を続けていたが遂に5月27日には壕を放棄し南へ後退せざるを得なくなった。この一団は豊見城村饒波をとおり6月3日真壁村真栄平につき、そこで首里石嶺から軍気象隊とともに撤退してきた同隊への派遣職員と合流し一体となって、さらに南下をつづけ、この伊原の地にたどりついた。約一ヵ月にわたる苦難の道をたどり死闘を重ねて多くの同僚は戦没し負傷し、いまや全く力つき果て6月22日に至り生存者僅かに12名となり、この岩陰に集まり最後の解散をし、その後、それぞれ悲しき運命をたどった。 ここにこの地を元沖縄気象台職員の終焉の地として戦没者70柱の御霊を祀るため全国の気象職員の芳志により昭和30年12月15日琉風之碑が建立された。いま御霊の33年忌にあたり哀切新たなるを覚え、碑建立の概要を記し昇天の霊にささげる。
昭和52年 6月23日
慰霊塔の下には戦没者70人が刻銘され、中央気象台台長の和達清吉博士の句も刻まれている。
夏草の原耳散るべき花も那く
伊原集落の沖縄戦については、1944年 (昭和19年) の夏ごろに第9師団武部隊が伊原集落に駐屯し、民家に宿泊していた。武部隊は12月に台湾に移動したが、入れ替わりに第24師団山部隊が配備され、民家 (7軒) に宿泊していた。部隊は集落内に槍先製造の為、軍鉄工所を設置、部落後方の山に住民も動員し陣地壕を構築していた。住民は読谷飛行場や小緑飛行場、豊見城村与根の滑走路などの建設工事に動員されていた。
1944年 (昭和19年) 10月10日の空襲では被害は無かったが、その後は、空襲警報が鳴ると、住民は伊原アブチラ壕に避難していた。
伊原集落から学童は熊本県に11人、一般人は本土へ20人、山原へは37人が疎開している。また、伊原住民の内、35人 (兵隊9人、防衛隊20人、学徒隊1人等) が日本軍に動員された。
1945年 (昭和20年) 3月に米軍の攻撃が始まると、住民は部落周辺の伊原アブチラ壕などの自然壕に避難していたが、日本軍により伊原第一外科が使用するということで住民全員は追い出された。6月の初めごろには、チブラーアブに避難していた伊原や米須の住民も日本軍に追い出されている。更に米軍が南部に進攻すると、家族で隠れているような小さな避難壕や墓なども日本兵による追い出しを受けるようになり、字内に行き場を失った人々は、山城一帯の山中に逃げ込んだという。日本兵に追い出されて山城一帯の山中に避難していた多くの字民は、戦火に追われてさらに海岸地帯に逃げ込んでいる。やがて海陸両面から米軍に包囲されて、そこで捕虜になった者が多かった。
6月17日に真栄里部落が米軍に占領され、米軍は日本軍の最後の防衛線を突破して急速に南下し、 小波蔵、糸洲方面から東に向かい、18日には小波蔵の丘陵を占領、小波蔵-真壁の日本軍陣地まで前進した。一部の部隊は伊原の北側に達している。19日には伊原の丘陵に前進し伊原集落は占領されている。更に、一部の部隊は米須の南海岸にまで到達した。
沖縄戦での戦没者は、調査した491人中118人で戦没率は24%、県内所在の伊原住民 (軍属を除く) は274人中 75人で戦没率は27.4%、軍人軍属を含む沖縄所在の伊原住民309人中 98人で戦没率は31.7%と糸満市の中では低い方になっている。この内、75.3%が糸満市域で犠牲になっている。これは隣部落の米須の戦没率58.4%に比べると低い数値になっている。多数の伊原住民は、日本軍に追い出されたために分散して逃げている。逃げる途中で傷つき犠牲になる者も多かったが、米須のように壕に避難した住民がほとんど全滅するというようなことはなかった。
本土には、民間人88人(出稼ぎ57人、疎開者31人) が所在していたが、戦没者はいない。外地には、民間人8人 (南洋に5人、台湾に3人) が所在していたが、5人が犠牲になっている。軍人軍属は、69人中 35人 (戦没率50.7%) が戦没している。
戦後、1945年 (昭和20年) 11月頃より、捕虜となっていた摩文仁村民へは各収容所からへの帰還先発隊として名城海岸の居住地区 (米軍兵舎跡) に移動した。1946年 (昭和21年) 4月に三和村が誕生し、5月ごろに住民にそれぞれの部落への帰還にが許可され、建設班が配給資材で規格住宅を造ったが全世帯分はなく、しばらくは一軒に数世帯が住んで共同生活をしていた。帰還後、集落内で収集された遺骨は、真和志村民が建立した魂魄之塔に納骨した。戦後しばらくして、喜屋武岬一帯が米軍の演習場になり域内の部落の強制移転が行なわれ、山城部落住民は、伊原部落の西側に家屋を建てて数年間暮らしていた。
伊原原遺跡
琉風之碑の背後の丘陵地でも遺跡が発見されればおり、伊原原遺跡と命名されている。
石原 (イサラ) グスク、石原城ヌ獄 (イサラグスクヌタキ)
琉風之碑の道を北に進むと丘陵地への階段がある。石原 (イサラ) グスクへの登口になる。石原グスクは標高約45mの丘陵に築かれ、伊原グスクや伊舎良 (いしゃら) とも呼ばれている。グスクへの階段は急な岩場道になる、登り切ると平場がある。周りを野面積みと切石積みの石垣で囲っている。木々が茂っており、全貌はわからないのだが、昔の平場はもっと広い様に思える。
詳細な歴史は不明だが、おもろさうしに「石原世之主」を称えるおもろが掲っている事から、石原按司の居城との説がある。
いしやらたうくすく(石原平グスク)
ゆかるたうくすく(良き平グスク)
かみてたの まふりゆわるくすく(神とテダが守りたもうグスク)
又 いしやらよのぬしの(石原世の主が)
けらへたる御くすく(造営したお城)
又 いくさ よせるまし(軍勢を寄せるまい)
かたき よせるまし(敵が寄せるまい)
また、怕尼芝 (ハニジ) に滅ぼされた今帰仁按司一族の一人が落ち延び、石原按司の入り婿となって跡を継いだという言い伝えも残っている。
丘陵上の平場には石積みの拝所があり、琉球国由来記の石原城ノ獄 (神名 チヤゲ森ムヤゲ森ノ御イベ)と考えられている。この拝所では畦払い (アブシバレー) と十五夜 (ジューグヤー) で村御願 (ムラウグヮン) が行われている。
城井泉 (グスクガー) [不明 未訪問]
資料では、石原グスクから南西に下ったところに城井泉 (グスクガー)があるとなっていたので探してみた。湿地があり、草叢の中に道らしきものがある。この道の先にありそうと思い、中に入って行き探したが見つからなかった。この井戸はアジガー (按司井泉) とも呼ばれる。琉球国由来記にはアシ川の記載があり、ここの井戸と推測されている。
ナビワヤー (鍋割)
石原グスクから道路を北へ向かう所は東のワイトゥイ(割取、切り通し)の坂道になっている。昔、村の人が転んでナービ(鍋)を割ってしまったことからナビワヤー (鍋割) と呼ばれている。
門中墓 - 本部/大宮城腹の墓、上原腹の墓
ナビワヤーの道を北に降りると、石原グスクのある丘陵北斜面に伊原集落の門中墓が二つ造られている。
丘陵の麓には本部/大宮城腹の墓
丘陵の中腹には上原腹の墓がある。
石原ヌ殿 (イサラヌトゥン)
かつては石原グスクの丘陵南斜面には石原一族が住んでいたといわれ、グスクへの階段がある道路の東側には石原一族の宗家の屋敷跡があり、そこには石原ヌ殿 (イサラヌトゥン)と拝所が造られている。
殿 (トゥン)
石原ヌ殿から旧石原村へ通じる道がある。この道を南に進むと、畑の中に殿 (トゥン)があり、中にはに数個の香炉が置かれている。
クバオー
道を更に南に進むと石原集落の北の端に入る。ここには立派な石垣で囲まれた屋号宇江の民家がある。
この付近にクバオーの拝所があるのだが、場所がわからない。屋号宇江の人が外で仕事をしていたので、拝所の場所を尋ねると丁寧に場所を教えてくれ、説明もしてくれた。クバオーはすぐ近くの大岩の奥にあった。今でも村御願 (ムラウグワン)で拝まれている。また、屋号宇江の神屋にも村の人達が拝みに来ていると言っていた。
外間家 (フカマヤー)
屋号宇江の人によりと、屋号宇江の南側の広場では、かつては獅子舞が催されていたそうで、広場には神屋があり、村の重要な拝所だった。獅子頭はここで保管されていた。残念ながら、現在では獅子舞は行われていない。神屋内には幾つもの香炉が置かれ、正面の神棚は字伊原の村御願 (ムラウグワン) や門中祭祀で拝み、左の神棚は字大度の門中が拝んでいるそうだ。
石原村村屋跡
外間家 (フカマヤー) のすぐ南には旧石原集落の村屋があった場所になる。伊礼村と石原村 (イサラ) が明治期に合併して伊原村となったが、以降も長らく村屋 (ムラヤー) はそれぞれにあり、祭祀も別々に行っている。
砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
国道331号線に戻る。ここが伊原集落の南の端で、この道路の南側は小字の前原 (メーバル) になる。道路沿いには、戦前、石原村の 砂糖小屋 (サーターヤー) が置かれていた。
伊原公民館
石原村砂糖小屋跡のすぐ西側に伊原公民館が建てられている。旧伊礼村と旧石原村が合併した後もそれぞれの村屋で、行政、祭祀を別々にやっていたそうなので、いつ頃、字伊原として一つにまとまった公民館ができたのかが気にはなったが、近所の人に聞いても分からずじまい。
クムイ (溜池) のそばの辻
伊原公民館から国道331号線を少し東に進んだところには、クムイ (溜池) があった。今は埋められて消滅しているが、戦前にはこのクムイの側の辻で、盆の14日に石原村の若者頭が集まり、シブイナマシ(冬瓜のなます)などを食べながら、十五夜行事に催す棒術について話し合った場所という。かつては力石も置かれていたというので、アシビナーの様な場所だったのだろう。
新井泉 (ミーガー)
小字前原 (メーバル) の畑の中に大きな井戸跡が残っている。戦前に掘削された井戸で、比較的新しいので、新井泉 (ミーガー)と呼ばれ、また、前井泉小 (メーガーグワー) とも呼ばれている。
門中墓 - 東リ安里腹の墓、西リ殿内小腹の墓、前伊祖腹墓
新井泉から南に進むと小字の東原 (アガリバル) に入る。民家などは無く、一面畑になっている。その中に三つほど伊原集落の門中墓がある。
[東リ安里腹の墓]
[西リ殿内小腹の墓]
[前伊祖腹の墓]
字伊原には沖縄戦の戦争遺構が幾つかあり、この後訪問した。その一つがひめゆりの塔なのだが、時間がなくひめゆり平和祈念資料館はみれなかった。この資料館には以前訪れているのだが、その後、展示内容がリニューアルされているそうなので、次の集落散策で訪れる予定。その際に、伊原集落の他の戦争遺構も含めてレポートを予定。
参考文献
- 糸満市の歴史と民俗を歩く 旧摩文仁村集落ガイドマップ (2022 糸満市教育委員会)
- 糸満市史 資料編 7 戦時資料 上巻 (2003 糸満市教育委員会)
- 糸満市史 資料編 7 戦時資料 下巻 戦災記録・体験談 (1998 糸満市教育委員会)
- ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
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