Okinawa 沖縄 #2 Day 280 (21/01/25) 旧摩文仁村 (1) Minami Namihira Hamlet 南波平集落

旧摩文仁村 南波平集落 (ハンジャ、みなみなみひら)

  • 南波平集落の前の道
  • 井泉小 (カーグワー)
  • 金満 (カニマン)
  • 前上原 (メーウィーバル) の元屋敷
  • ヌン殿内 (ドゥンチ)の神屋
  • 上門 (ウィージョー) の神屋
  • 神井泉 (カミガー)
  • 上の溜池 (ウィーンクムイ)
  • 東門 (アガリジョー)
  • ウスクサ
  • アシビナー跡?
  • 村屋 (ムラヤー) 跡
  • 高上 (タカウィー)
  • アシビナー跡?
  • 古島
  • 砂糖小屋 (サーターヤー) 跡
  • 南波平公民館 (南波平農村総合管理施設)
  • 地頭火ヌ神 (ジトゥービヌカン)
  • 西ン井泉 (イリンカー)
  • 東ン井泉 (アガリンカー)
  • 寺 (ティラ)
  • 波平 (ハンジャ) グスク
  • 元高上 (ムトゥタカウィー)
  • 殿 (トゥン)
  • 南波平 (波平) 集落発祥地
  • 波平玉川 (ハンジャタマガー)
  • 獅子森小 (シーサームイグワー)
  • 門中墓


今日からは、沖縄本島南部で未訪問だった糸満市の旧摩文仁村の集落を巡る。糸満市の他の村は2020年から2021年に訪れているのだが、当時は旧摩文仁村に関しての資料が見当たらず、糸満市から資料が発行されてからとして後回しにしていた。糸満市は各地域の資料編纂では沖縄の中では最も労力を払っている行政区と思う。その糸満市でもこの旧摩文仁村の資料編纂には苦慮していた様だ。2022年の後半にようやく旧摩文仁村資料が発行されてた。相当苦労した様で、他の村は何百ページの資料だが、旧摩文仁村のものは15ページ程だった。昔を知る人も少なくなる中、分かっている範囲で刊行したのだろう。これでも貴重な資料だ。一時期、郷土史編纂が盛んとなり、各地域で字史作成に取り組んでいたが、行政の支援なく、草稿止まりなど途中で挫折した地域も多い。その中、糸満市では市が率先してまとめようとしている事は評価できる。


旧摩文仁村 南波平集落 (ハンジャ、みなみなみひら)

字南波平は北は字糸洲、東は字真壁、西は字福地、南は字伊原に囲まれている。南波平は琉球王国時代には摩文仁間切に属しており、戦後までは波平だった。琉球王国の文献では、波比良 (ハヒラ) と記載されている。沖縄方言ではハンジャと呼ばれていた。

17世紀末から18世紀始め頃に、羽地朝秀 (1617- 1676) の孫がこの地にきて部落を整えたのが波平村 (南波平) の始まりとされている。当時の集落は現在の集落の場所ではなく、南に横たわっている波平グスクの南側だったという。まもなく、集落は丘陵北側に移動し (古島と呼ばれている)、更に現在地に移動したと伝わっている。

南波平 (旧波平) はサトウキビが主農作とする農業地域だったが生産量は低く、貧しい集落だったでう、戦後は、サトウキビに他に、自給のための野菜を作っていたが、生活は苦しく現金収入の為に軍労務や大工などの労役を行っていた。

1945年 (昭和20年) 10月21日に那覇市、首里市、真和志村、小禄村、豊見城村、兼城村、糸満町、高嶺村、真壁村、喜屋武村、摩文仁村をまとめて糸満軍政地区が設定されている。

人口の減少が著しく行政運営が難しくなった真壁村、喜屋武村、摩文仁村の3村は、1946年 (昭和21年) 4月4日に合併して三和村となっている。

1961年に糸満町、兼城村、高嶺村、三和村が合併し新しい糸満市が誕生した際に、字波平が兼城村にもあった事から、摩文仁村のほうは南波平、兼城村のほうは北波平に字名を変更している。

南波平の現在の人口は旧摩文仁村の中では最も少なく、糸満市の中では5番目に少ない字になる。戦前の人口と比較すると、最も減少率が高い地域。

明治時代から近世までの地図で民家の分布を見ると、琉球王国時代、明治時代から集落は拡張しておらず、その規模も昔のままだ。集落を散策すると、空き家、空き地が目立っていた。

戦前の1944年12月末の人口は、資料では425人とあり、それに比べると現在の人口は当時の34%にまで減少している。ただ、この425人は戸籍ベースの数字で、113人の本土在住者が含まれており、比較の数字としては正しくないだろう。近年では住民登録ベースで人口が発表されているので、昔の人口と比較する際は中位が必要だ。現在の住民登録人口に近い数字は1944年では313人ぐらいだろう。そうすると、現在の人口は当時の半分になっている。近年では世帯数も少しづつ減る傾向にあり、少子化、高齢化で人口は更に減少傾向にある。

南波平集落の拝所

  • 御嶽: なし
  • 殿: 殿 (波平城之殿)
  • 拝所: 金満 (カニマン)、前上原元屋敷、ヌン殿内神屋、上門神屋、高上 、ウスクサ、地頭火ヌ神、寺 (ティラ)、元高上
  • 井泉: 井泉小、神井泉、西ン井泉、東ン井泉、波平玉川

南波平で行われている祭祀行事は以下の通り。琉球王国時代は波平ノロによって執り行われていた



南波平集落の前の道

字糸洲から国道331号を東に越えた所で南波平集落が見えてきた。

集落の南に道が東西に走っている。明治時代の地図を見ると、この道はそれ以降に引かれた様で、当時の前の道は集落に一つ入った道が南波平集落の南端の道だった。

旧暦8月15日の十五夜では、この道で綱引き場が行われている。

この道の北側は登りの緩やかな傾斜地で、そこに南波平集落が広がっている。南波平は2回にわたって移動しており、先ずは現在の集落内の拝所を散策していく。


井泉小 (カーグワー)

集落前の道から集落に入って所に井戸跡がある。井泉小 (カーグワー)又は中ン井泉 (ナカンカー) と呼ばれている。石組のカーで、雑用水として使っていた。現在では水は枯れているそうだが、かつてはたっぷと水を湛えていたという。

井泉小 (カーグワー) の場所は屋号門原小の屋敷跡で、人は住んでおらず、神屋が置かれている。その隣は、屋号仲ヌン殿内になる。沖縄戦で名城に捕虜として収容されている間に、住民各自で自分の屋敷内の遺骨を片づけ、最初は、波平グスク丘陵地の美殿門中墓の前に遺骨を集めていたが、その後、屋号仲ヌン殿内の山に納骨堂を造り、遺骨を移している。


金満 (カニマン)

井小 (カーグヮ) から道を2 ブロック北に進んだ所には古い時代の鍛治屋跡と伝わる場所がある。拝所がある様なのだが、木々で覆われて中には入れず、外から見ても見つからなかった。別の説では野呂井泉 (ヌルガー) という。この拝所の北東にノ口の兄弟が葬られているとの伝承もある。


前上原 (メーウィーバル) の元屋敷

金満 (カニマン)の西側に前上原の屋敷跡がある。資料では屋敷跡に石積の拝所とカー跡があるとなっていたが、屋敷跡は畑になっており、拝所や井戸は見つからなかった。釜廻り (カママーイ) などの村御願 (ムラウグワン) で拝んでいるそうだ。


ヌン殿内 (ドゥンチ) の神屋

南波平集落の北東の端は、かつてのヌン殿内 (ドゥンチ)の屋敷だった。ヌン殿内 (ドゥンチ)はノ口を出した旧家になる。今は民家はなく、屋敷跡に二つの神屋が建ち、そのうち東側の神屋を村で拝んでいる。盆のウークイ(お送り)には各家庭が村行事で使う酒をここに持ち寄るヌン殿内納め (ヌンドゥンチウサミー) を行っている。


上門 (ウィージョー) の神屋

ヌン殿内の西、道を挟んだ所には上門 (ウィージョー) 門中の本家である屋号上門の屋敷がある。敷地の一角に神屋が建てられており、火ヌ神 (ヒヌカン) と7つの香炉があり、村御願 (ムラウグヮン で拝まれている。


神井泉 (カミガー)

南波平集落の北の端に村の共同井戸では最も古いとされる神井泉 (カミガー)がある。カーオーとも呼ばれ、野呂井泉 (ヌルガー) とも伝わっている。


上の溜池 (ウィーンクムイ)

神井泉 (カミガー) の西、畑の中に溜池 (クムイ) が残っている。南波平集落の北、上部にあるので上の溜池 (ウィーンクムイ) と呼ばれている。


集落の南側の前の道に戻り、道を東に進む。


東門 (アガリジョー)

集落の東の入り口には小さな広場があり、東門 (アガリジョー) と呼ばれている。旧暦8月15日の十五夜 (ジューグヤー) の際、村御願 (ムラウグワン) の後に、この場所で仏壇に供えるための豆腐が村の人々に配られていた。


ウスクサ

東門 (アガリジョー) から西に集落を入った場所には、村の旧家の美殿 (ミードゥン) の屋敷跡があり、敷地の一角に神屋が建てられ、火ヌ神 (ヒヌカン) と香炉が祀られている。この場所はウスクサと呼ばれている。ウスクサは仮宿舎の意味で、昔は按司が泊まる所だったと伝わっている。

現在は人は住んでおらず、大きなカジュマルの木が何本も生えている。


アシビナー跡?

ウスクサの隣は広場になっている。戦前の集落地図でも広場になっている。アシビナーだったのかも知れない。隣のウスクサのカジュマルの木が大きく枝を伸ばしている。その下に酸素ボンベが横たわっている。多分、戦後、カジュマルの木の枝にボンベを吊り下げ、集落住民への連絡用の鐘として使っていたのだろう。


村屋 (ムラヤー) 跡

ウスクサの北、道の斜向かいには以前の村屋 (ムラヤー) が建てられていた。現在では広場になっており、8月11日にシーサーモーラシー (獅子舞) が行われている。いつ頃に獅子舞が始まったのかは不明だが、遅くとも明治時代の初めには集落で獅子舞が営まれていたという。


高上 (タカウィー)

村屋跡の東隣には古い時代の国元 (クニムトゥ) だった旧家の高上屋敷跡がある。今は人は住んでおらず、敷地内に神屋が残っている。

この神屋の奥にも、もう一つ神屋があり、旧摩文仁村集落ガイドマップではこちらの写真が高上の神屋として紹介されている。神屋内には火ヌ神 (ヒヌカン) と5つの香炉が置かれ、村御願 (ムラウグワン)では最初に拝まれているそうだ。



古島

次に前の道の南側に移動する。波平グスクのある丘陵北麓が古島で現在地に移動する前に集落があった場所になる。どの様な理由で古島から現在地に移動したのかはわからなかった。


砂糖小屋 (サーターヤー) 跡

道沿い南側には戦前は二つの砂糖小屋 (サーターヤー) が置かれていた。


南波平公民館 (南波平農村総合管理施設)

新しい公民館が2004年に建設されている。年代から見ると、ここにあった公民館を建て替えたと思われる。集落内にあった村屋からいつこの地に移って来たのかはわからなかった。公民館敷地の中には広い広場があり、ゲートボール場として使われている。

資料では二つの砂糖小屋 (サーターヤー) の間に避難用のサーターヤー壕の壕があり全員が入れるほどの大きなものだった。穴が二つあり、南側をヘーン壕、北側をニシン壕と呼んでいた。地図によれば、ここの公民館の広場付近と思われる。

1944年 (昭和19年)に日本軍武部隊が波平集落に駐屯したが、同年12月には台湾に移動している。その後、部落の前の方に山部隊が駐屯し、波平グスク丘陵麓などに、住民が動員し、四つ程茅葺兵舎が建てられ、軍陣地を三ヶ所ぐらい造られていた。集落内には慰安所が設置されていた。南風原村津嘉山の陣地壕や小禄飛行場、読谷飛行場の建設にも動員されていた。

10-10空襲では、南波平周辺には被害はなかったが、米軍の沖縄上陸の危機感も高まり、10ー10空襲の後、精糖場 (サーターヤー) にあった自然壕を共同避難壕として整備している。

1945年 (昭和20年) 3月に米軍の攻撃が始まると、住民はつら山の壕、シマアガリの壕、サーターヤー壕に避難していた。多くが避難していたサーターヤー壕は、南波平集落住民全員が入れるほどの大きな壕だったが、日本軍がこの壕に負傷兵を運び込み、避難していた住民を追い出し、人々は集落内の屋敷壕に隠れたり、糸洲のウッカーガマなどに避難していた。墓に隠れていた住民も日本兵に追い出されている。

南波平では三方から米軍艦砲の集中攻撃をされ、部落の全てが破壊され、焼失を免れた家屋は一軒も無かった。6月18日に米軍海兵隊が伊原の北に達し、19日には、伊原・米須丘陵に前進し、真壁一帯で戦闘が行われている。真壁部落まで米軍が来た時には南波平にいた日本兵や避難民も村外に逃げ出し、南波平も米軍に占領されている。6月23日が日本軍の組織的戦闘終了日とされているので、沖縄戦の最終局面でこの時期は戦没者の数が突出しており、南波平集落にもその悲劇が起こっている。

南波平に残っていた住民は南波平村内で42人、東里で10人が犠牲となり、捕虜となったのは南波平で49人、糸洲で12人、東里で8人だった。サーターヤー壕を日本軍に奪われたために、屋敷壕などの避難場所に身を置くしかなく、字内での戦没者が多くなったものと思われる。また、部落を出て避難した人々は、糸洲の壕に避難した者と東里の山中を逃げた者がおり、避難場所によって明暗が分かれた。南波平集落住民の戦没者は集落に残った人だけでなく、サイパンにいた民家人や軍人、軍属90人のうち、1944年 (昭和19年) の米軍サイパン上陸で地上戦にまきこまれ、38人が犠牲となっている。外地全体では、戦没者が41人だった。本土に出稼ぎや疎開 (波平住民の20%) していた人では戦没者はいなかった。

糸満市では沖縄戦に関して、戦没者の調査が行われ、かなり詳しい資料を出している。その資料のデータをグラフで可視化してみた。先に記述した戦没者と数字は一致しないのが、南波平集落での戦災の傾向が見えてくる。

戦没者率はその母数に何を使うかによって数字は異なってくる。南波平の戦没者率は29.9%と他の地域に比べて高くは見えないのだが、この率の計算では母数を調査数を使用している。これは、戸籍をもとに本土の居住者や海外移民も含まれている。当時実際に沖縄に居住していたのは戸籍人数の半数ぐらいになる。計算の母数を沖縄居住の南波平住民とすると、南波平住民 (軍属を除く) では200人中 67人 (戦没率は33.5%)、軍人軍属を含む沖縄所在の伊原住民229人中 85人 (戦没率は37.1%) と糸満市の中では低い方になっている。この率が実態を表しているだろう。全73世帯のうち、戦没者がいる世帯は53世帯(72.6%)、家族の半数以上が戦没した世帯は19世帯(26.0%)、一家全滅した世帯が3世帯(4.1%)となっている。更に数字から見えて来るのは、南波平集落では海外居住者が多く、特にサイパンに集中し、米軍のサイパン攻撃で南波平出身一般住民の51.3%が亡くなっている。また、南波平の軍人軍属の戦没者率も52.2%と高い。この中には、正式な手続きではなく、半強制的に召集された防衛隊が多く含まれている。

南波平住民で捕虜になったのは86人で、その内49人は南波平集落で、他は糸洲、束辺名、上里などで捕虜となっている。捕虜となり、豊見城村伊良波の収容所を経由して現在の名護市の久志村の収容所、更に宜野座村に送られている。また、糸洲のウッカーガマで捕虜になり、玉城村百名の収容所に送られた者もいる。1945年 (昭和20年) 11月ごろより、摩文仁村民は各収容所から名城の米軍兵舎跡に移動し、翌年5月になって、ようやく各部落に帰ることが許可された。帰還を果たし部落の再建が開始され、当初は10軒ぐらいしか建てられず、1軒に数家族が同居する生活だったそうだ。



地頭火ヌ神 (ジトゥービヌカン)

公民館の前に小さな祠が置かれている。これは地頭火ヌ神 (ジトゥービヌカン)で、もともとは古島の一角にあったものをここに移設している。地頭か地頭代の屋敷の火ヌ神だろう。わざわざ北向きに祠が置かれているので祠の後が拝所入口に面している。元々の向きを保持しているのだろう。村御願 (ムラウグワン) で拝まれ、かつてのウマチーでは最後にここを拝んだという。


西ン井泉 (イリンカー)

公民館の西側に西ン井泉 (イリンカー)があると資料にあったので探す。窪んだ場所があり、その中に井戸が置かれていた。資料には写真は無かったのだが、これがそうだろう。戦前までは、ここで洗濯や製糖作業などが行われたというので、井戸の周りは広い洗い場になっていたのだろう。また、使ったカー。葬儀の際、湯灌の死水 (シニミジ) はここで汲んだそうだ。


東ン井泉 (アガリンカー)

公民館の東側にも井戸がある。こんもりとした林があり、そこから石畳の階段を降りた所にあった。波平集落の産井泉 (ンブガー) で東ン井泉 (アガリンカー) と呼ばれている。主に飲料水として使われ、字福地や字糸洲の人も汲みに来たという。井戸にはパイプが引き込まれているので、現在でも農業用に使われているのだろう。戦前は波平平松 (ハンジャヒラマーチ)と呼ばれる立派な松の木があったそうだ。


寺 (ティラ)

西ン井泉 (イリンカー)から西に進んだ所に立派な祠が建てられている。寺 (ティラ) と呼ばれている。寺といっても、本土の仏教の寺ではなく、拝所や祠をそう呼んでいるケースがある。Google Map では南波原神社とある。ここでは9月9日に村でティラウガミ(寺拝み) が行われており、過去1年に結婚や出産、新築など祝い事があった家も報告と感謝の拝みを行う。この祠は近年建て替えられたもので、この時に集落内の屋号川上小 (カーウィーグヮ) にあったホーイヤーという拝所を合祀している。


波平 (ハンジャ) グスク

南波平集落の南側標高約50mの石灰岩丘陵上には波平グスクが築かれていた。おもろそうしには波平按司の居城だったことがうかがえる歌がある。小説 尚巴志伝では組踊の波平大主道行口説八重瀬の万歳と忠臣身替の中をヒントに、三山時代、南山王の汪応祖、他魯毎の重臣とし、八重瀬按司の達勃期を討ち、尚巴志が南山国を攻めた際に尚巴志側に寝返ったとのストーリー展開になっている。

波平大主については辺土名親雲上作といわれる組踊の波平大主道行口説八重瀬の万歳と忠臣身替の中に登場する。

八重瀬按司は、玉村の按司夫人に横恋慕し大里城に攻め入るが、夫人は按司とともに死んでしまう。若按司は逃れて勝連の山田大主のもとに身を寄せるるが、それを聞いた八重瀬按司は後のわざわいを絶とうと山田大主を攻める計画を立てる。この計画を聞いた玉村の按司の頭役、里川の長子・亀千代は山田大主のもとに駆けつけ若按司の身替りになることを提案する。山田大主の部下の吉田の子は亀千代に縄をかけ若按司として八重瀬城へ突き出し、城へ乗り込む。ことの真相を知った玉村の頭役・波平大主は吉田の子からの内通を受けて、八重瀬城を攻め主君の仇を討ち、亀千代を助け出した。

公民館から波平グスクへの道がある。道を進むと登口が見えてくる。


元高上 (ムトゥタカウィー)

波平グスク北麓は古島だとされている場所で、グスクへの登口の西側が平地の空間がある。資料では詳しい場所や写真は掲載されていないが、この場所が波平集落 (南波平) の国元 (クニムトゥ) とされる高上 (タカウィー) の屋敷跡と思う。集落内で訪れた高上家が波平グスクの南から北に移動した際に居を構えた所で、元高上 (ムトゥタカウィー) と呼ばれている。この高上の元屋敷跡の中に祠が作られている。この元高上には玉城の三穂田 (ミーフーダ)から鳥がくわえてきた3本の稲穂をここに供えたという伝承が残っている。この稲穂の話は今まで訪れた所では、佐敷村津波集落の穂取田 (フートゥイダー)、玉城村新原集落の産井泉 (ウブガー)、玉城村百名集落のハンタの井泉、受水走水 (ウキンジュハインジュ)、伊波井泉 (イハガー)、米地井泉 (メージガー)、米地 (メージ) カラオカラに伝わっている。

ごろごろと岩の宮な登り道の途中に井戸跡の様なものがあった。

登り切ると正面には虎口らしき場所 (写真右上) と左手に伸びている道 (写真下) がある。先ずは虎口からグスクに入る。

中に入ると木々が茂って入るが平場になっている。ここが波平グスクの本丸になる。所々に石垣が残っている。


殿 (トゥン)

広場の中に石を丸く並べ、その中心に尖った石が置かれている。人為的なものなので拝所と思われる。資料には琉球国由来記に記載されている波平城之殿やグスクの神を祀る拝所が波平グスクにあると書かれている。写真も無いので確証は無いが、多分これが殿 (トゥン) かグスクの神を祀る拝所と思う。殿では、かつてはウマチーやアブシバレー(畔払い)で祭祀が行われていた。


入って来た虎口から道に戻り、道を進むと、本丸に沿ってぐるっと周る。本丸は垂直に崖上にあり、野面積みの石垣が残っている。道はグスクの南側に出る。ここにも本丸への虎口 (写真下) がある。

この波平グスクの斜面には按司墓や沖縄戦では沖縄陸軍病院の外科壕(波平第一外科壕)があったという。南風原村にあった沖縄陸軍病院は1945年 (昭和20年) 5月25 日に撤退し、第一外科は南波平と伊原に移動。波平グスクの丘陵にある二つの構築壕に看護婦や衛生兵、ひめゆり学徒隊の生徒たちが避難していたが、米軍が迫って きたため、6月18日夕刻に伊原の第一外科壕に移動している。この壕の場所はわからず、木々が深いので探すのは諦めた。道は南に続き、民家に降りていく。



南波平 (波平) 集落発祥地

道を南側に降りると、一面畑地になっている。ここは波平 (波平) 集落の発祥地とされる。17世紀末から18世紀始め頃に、羽地朝秀 (1617- 1676) の孫がこの地にきて部落を整えたと伝わっている。畑からは須惠器、青磁、グスク式土器、土器片が採集されている。


波平玉川 (ハンジャタマガー)

集落の発祥地近く、国道331号線から入る井戸がある。元の波平集落で使用されていたのだろう。この地から波平グスクの北側に集落が移動した際に福地の獅子頭と交換したという伝承が残る。ここは行政区では旧喜屋武村の字福地になり、福地集落では東ヌ井泉 (アガリンカー) と呼ばれている。

南波平集落ではこの井戸が、平敷屋朝敏 (1701 - 1734年) の組踊「手水の縁」に登場する波平玉川だという説がある。旧兼城間切の北波平村では東井 (アガリガー) が波平玉川との伝承があり、手水の縁は北波平の波平玉川 (東井) が舞台と言っている。

瀬長山を散歩中の山戸は波平玉川で水を飲もうとして、川で髪を洗おうとしていた知念山口の盛小屋大主の一人娘玉津に出会い、互いに惹かれ合う。しかし事態が発覚し、盛小屋の大主は玉津を知念の浜で打ち首にすることを命じる。執行される直前に山戸が刑場に駆け込んできて自分が玉津の身代わりになることを願い出る。山戸の申し出に心が動かされた刑の執行役は二人を逃がし、大守には執行したと虚偽の報告をすることにする。二人は礼を述べて夜の闇に消えていく。


獅子森小 (シーサームイグワー)

南波平交差点近くに獅子森小 (シーサームイグワー) があった。ここでは壊れたり古くなったりして役目を終えたシーサーを弔う場所だそうだ。今まで訪問した幾つかの集落でこの様に獅子頭やシーサーの埋葬場所があった。ここに拝所が置かれているのだが、以前は「波平拝所」 と書かれた柱が建てられていた。

獅子頭は波平玉川と交換されてから、旧暦7月15日に農作物の保護神、疫病退治の守り神の獅子舞が続いていた。この期間、いくつかは世代交代があり、この地で弔われたのだろうが、戦前の獅子頭は米軍に持ち去られてしまった。戦後、新たに獅子頭が作られ、それも2019年に30年ぶりに獅子頭が新調され、現在でも獅子舞が続けられている。


門中墓

集落から北東に外れた所に立派な亀甲墓がある。南波平集落の大屋腹門中之墓になる。本家の大屋門中とその腹 (分家) のヌン殿内門中、上門門中、上原門中、川上小門中、佐久真門中 (喜屋武村束辺名)、仲間門中 (喜屋武村福地) の共同墓だ。大屋門中は南波平集落の3分の2を占める筆頭門中になる。

集落の南西外れには伊集門中の墓もある。


ここから国道331号線を東に進み伊原集落に向かう。伊原集落は伊礼村と石原村が合併した所で、この後、伊礼村を散策した。伊礼村の訪問レポートは次回石原村を見終わってから、まとめて作成予定。


参考文献

  • 糸満市の歴史と民俗を歩く 旧摩文仁村集落ガイドマップ (2022 糸満市教育委員会)
  • 糸満市史 資料編 7 戦時資料 上巻 (2003 糸満市教育委員会)
  • 糸満市史 資料編 7 戦時資料 下巻 戦災記録・体験談 (1998 糸満市教育委員会)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)

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