練馬区 01 (08/10/22) 上練馬村 (1) 貫井/高松
上練馬村 貫井 (ぬくい)
- 庚申塔 (44番)
- 庚申塔 (46番)
- 須賀神社
- 庚申塔 (50番)
- 円光院、庚申塔 (49番)、馬頭観 (29/30/31番)
- 東高野山道道標 [2023年1月18日 訪問]
- おさる坂 [2023年1月18日 訪問]
- 御嶽神社・貫井弁財天 [2023年1月18日 再訪]
- 清戸道
- 須賀神社
- 庚申塔 (48番)
- 馬頭観音 (26番)
- 庚申塔 (47番)
- 馬頭観音 (27番) [2023年1月18日 訪問]
- 秋葉三尺坊大権現
- 伏見稲荷神社
上練馬村 高松 (たかまつ)
- 大日如来虚空藏菩薩下の堂、庚申塔 (81番)
- 宮田橋敷石供養塔、高松庚申塔 (80番)
- 氏神八幡神社
- 高松板碑型庚申塔 (66番)
- ?稲荷神社
- 長久保道跡碑
- 練馬大根大樽
- 稲荷神社
- 若原稲荷神社
- 庚申塔 (79番)
- 稲荷神社
- 八雲神社
- 馬頭観音 (51番)
- 庚申塔 (78番)
- 高松御嶽神社、服部半蔵奉納仁王像
- 庚申塔 (77番)
- 清戸道
- 馬頭観音 (50番)
- 八雲神社 [2023年1月18日 訪問]
- 庚申塔 (82番) [2023年1月18日 訪問]
- 御嶽神社 [2023年1月18日 訪問]
上練馬村
- 古代宿駅の名に由来する乗瀦 (のりぬま) 説。
- 土器の材料となる粘土をねった練場 (ねりば) 説。
- どろぼうが馬を盗んできては訓練したという馬調練説。
- 石神井川が豊水期にあったころ、豊島園付近が広大な沼であったろうとする根沼 (ねぬま) 説。
貫井
貫井村の変遷を見ると、江戸時代から明治時代は江戸東京への街道であった清戸道を中心に集落が造られていた。当時は武蔵国豊島郡上練馬村に属し、西貫井、中貫井、本貫井、北貫井、東貫井の5つの小字で構成されていた。1925年 (大正14年) に貫井駅 (1933年富士見台駅に改称) が開業してはいるが、戦前は集落は以前とそれほど変わっておらず、鉄道沿いはまだ発展していない。1932年(昭和7年)の東京市成立時には当時の板橋区に属して同区練馬貫井町となり、字東貫井、北貫井、本貫井、向貫井、中貫井、田嶋、東田嶋、西貫井、南貫井に区分けされていた。1949年(昭和24年)1月1日に冠称を外して貫井町となった。貫井が発展したのは戦後になり、1965年には貫井全土が住宅で埋め尽くされている。
1965年(昭和40年)4月1日に住居表示が実施され、現行の貫井一丁目から五丁目となった。貫井一丁目には旧中村北四丁目の一部、貫井三丁目には、谷原町一丁目の一部、貫井四丁目には高松町一丁目の一部、貫井五丁目 にも高松町一丁目の一部が編入され、旧貫井町の一部が向山四丁目に編入されている。戦後の高度成長期 (1955年~1973年) は順調に人口は増え続け、特に1950年代の人口増加は顕著で二桁の伸びを示している。高度成長期が終わって、人口は横ばいから、僅かに減少傾向に転じ、2000年以降は僅かに増加傾向になっており、現在もその傾向は続いている。世帯数は戦後から現在まで一貫して増加を続けている。戦後、暫時都市でのライフスタイルの変化が如実に表れている。
練馬区史 歴史編に記載されている貫井内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
- 仏教寺院: 円光院
- 神社: 須賀神社、御嶽神社、須賀神社、秋葉三尺坊大権現、伏見稲荷神社
- 庚申塔: 7基 馬頭観音: 7基
まちづくり情報誌「こもれび」
練馬区がまちづくり情報誌「こもれび」を発行している。その中で区民調査隊という自由に参加できる活動があり、練馬の町を探索し情報を発信している。その地域を知るには非常に良い情報誌となっている。(https://nerimachi.jp/about/komorebi_backnumber.php)
貫井訪問ログ
庚申塔 (44番)
庚申塔 (45番、46番) [移設 貫井4-30]
この後、円光寺を訪れた際に、資料では記載されていない二基の庚申塔があった。後でよく見ると無くなっていた二基の庚申塔 (上の写真) と全く同じなので間違いないと思う。
須賀神社
庚申塔 (50番)
南池山貫井寺円光院、庚申塔 (49番)、馬頭観音 (29/30/31番)
東高野山道道標
円光院の西側、目白通りの歩道に東高野山道道標が保存されている。清戸道から東高野山長命寺へと向かう旧道の分岐点に建立された道標が二基置かれている。向かって左側は、1799年 (寛政11年) に再建された道標で、正面に「東高野山道」と刻まれている。右側も、同年に貫井村の都鄙講中により建立された道標で、正面上部には「東高野山」と書かれ、左側面には「左 高野山十八丁」、 右側面には「右所さいちくぶ道」と刻まれている。いずれも東高野山長命寺への行き先を示す道標になっている。
おさる坂 [2023年1月18日 訪問]
清戸道は東高野山道道標があった所まで東からは目白通りと一致し、東高野山道道標で北に方向が変わり、清人道を北に進むとなだらかな下り坂が石神井川に向かっている。この坂はおさる坂と呼ばれていた。昔は、この坂の左手の丘の上に草に埋もれた二基の庚申搭があった。それぞれは1669年 (寛文9年) に造られた板駒形文字型で三猿が浮き彫りにされている庚申塔 (74番) と、1773年 (安永2年) 造立の方形笠付型で青面金剛像が浮き彫りされた庚申塔 (75番) だった。三猿が刻まれていたことから、おさる坂といわれるようになったと伝わっている。祝儀の際、花嫁が通ると「さる (去る) 」という坂は縁起が悪く離縁になるといわれ通らないようにしたそうだ。現在、この二基の庚申塔は春日町のに安置されているそうだ。
御嶽神社・貫井弁財天 [2023年1月18日 再訪]
清戸道
須賀神社
庚申塔 (48番)
馬頭観音 (26番)
庚申塔 (47番)
馬頭観音 (27番) [2023年1月18日 訪問]
秋葉三尺坊大権現
伏見稲荷神社
高松
高松は練馬区の中部に位置する地域で、住宅が立ち並び、今でも耕作地も多く見られる。高松一丁目から高松四丁目までは北部が光が丘と隣接し、光が丘の南西部を包み込むように高松五丁目と高松六丁目が伸びた独特の形をしている。高松五丁目・高松六丁目は北部が土支田と旭町と隣接し、南部は貫井、東部は春日町、西部は谷原と隣接している。
高松は明治時代から1969年 (昭和44年) の区画整理までは現在の光ヶ丘の一部を含んでいた。明治時代の地図では旧街道 (ふじ大山道、清戸道、長久保道) 周辺にいくつもの小さな集落が点在している。大門山、平松、高松、高松前、西高松、東高松、中高松、南高松の集落名が見える。戦前までは、これら集落がわずかに拡張したぐらいで、現在の光ヶ丘の場所が昭和18年に旧日本陸軍の成増飛行場 (高松飛行場) となり、その影響があるのか、この時期の地図では、民家が減少している。戦後は連合軍に接収され、無期限使用施設としてアメリカ空軍の家族宿舎グラント・ハイツ住宅地区となった。この時期に、戦前民家が減少していたが、民家も増え始めている。ただ、1973年 (昭和48年) に全面返還されるまでは、練馬の他の地域と比較して発展速度は遅く、まだまだ畑が多い地域だった。急速な発展は一部返還された返還跡地に1957年 (昭和32年) に光ヶ丘団地が開発され入居が開始され、その好影響が出始めてからになる。
1932年 (昭和7年) の板橋区成立時に練馬高松町一丁目・練馬高松町二丁目となる。1947年 (昭和22年) に板橋区から練馬区が分離、1949年 (昭和24年) に冠称を外して高松町となった。他の地域同様に高松も高度成長期 (1955年~1973年) に大きく人口増加がみられる。特に前半期は高い人口増加率を示している。1969年 (昭和44年) に住居表示が実施され、高松町は現行の高松一丁目から高松六丁目となり、高松五丁目には旭町の一部、高松六丁目には土支田町の一部が編入され、光が丘は田柄町一丁目の全域、田柄町二丁目の全域、旧高松町一丁目の一部、旧高松町二丁目の一部、旭町北東部で構成されることとなった。この時の人口は前年から12.6%と突出しているのは、この住居表示実施で編入地があったことによる。人口データが入手できていない1980年から2001年までの約20年間で1979年に比べ50%の人口増加している。近年は人口は横ばい状態に変わっているが、世帯数は増加が続いており、人気の高い地域になっている。
練馬区史 歴史編に記載されている高松内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
- 仏教寺院: なし
- 神社: 氏神八幡神社、稲荷神社、若原稲荷神社、高松御嶽神社
- 庚申塔: 7基 馬頭観音: 2基
まちづくり情報誌「こもれび」- 高松
高松訪問ログ
大日如来虚空藏菩薩下の堂、延命地蔵尊、庚申塔 (81番)
宮田橋敷石供養塔/高松庚申塔 (80番)
氏神八幡神社
高松板碑型庚申塔 (66番)
?稲荷神社
長久保道跡
練馬大根漬物用大樽 (とうご)
稲荷神社
若原稲荷神社
庚申塔 (79番)
稲荷神社
八雲神社
馬頭観音 (51番)
庚申塔 (78番)
高松御嶽神社、服部半蔵奉納仁王像
庚申塔 (77番)
清戸道跡
馬頭観音 (50番)
八雲神社 [2023年1月18日 訪問]
更に北側、光が丘公園の西側、光が丘第一中学校側にも、もひとつ八雲神社があった。新しく建て替えられたいるようだ。牛頭天王 (こずてんのう) を祀っている。
庚申塔 (82番) [2023年1月18日 訪問]
八雲神社鳥居の側に庚申塔がある。この庚申塔は見落としていたので、2023年1月にもう一度探し見つけたもの。1711年 (正徳元年) に作られた方形笠付タイプで青面金剛像が浮き彫りされている。
御嶽神社 [2023年1月18日 訪問]
八雲神社から笹目通りを東に渡った所、ここにも御嶽神社がある。高松地区には御嶽神社が二つある。いずれも、江戸時代にブームとなった木曽御嶽を崇拝する一山講の行者により創建されている。ここの御嶽神社にはその由緒の説明書があった。それによると、明治13年に初代先達の篠田直次郎が木曽御嶽登拝を重ね、地域の安寧を祈るために、この地に一山講の宮として創建し、主祭神を木曽御嶽大神 (御嶽山座王大権現)、稲倉魂命 (権兵衛稲荷)、摂社 一山霊神、脇仏 不動明王を祀っている。一山開闢講社 (いっさんかいびゃくこうしゃ) が維持管理をしている。
参考文献
- 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
- 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
- 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
- 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
- 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
- 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
- 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)
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