練馬区 06 (12/01/23) 谷原村 (2) 谷原/高野台

谷原村 谷原 (やはら)

  • 清戸道の碑
  • ふじ大山道 道標
  • 谷原延命地蔵
  • 馬頭観音
  • 増島家薬医門
  • 地蔵堂
  • 土支田北野神社
  • 三軒寺 (さんげんでら) 
    • 真龍寺
    • 宝林寺
    • 敬覚寺

谷原村 高野台 (たかのだい)

  • 愛宕神社
  • 市杵島神社
  • 谷原氷川神社
  • 馬頭観音 (高野台1-17) [未訪問]
  • 神社 (名称不詳)
  • 長命寺
    • 南大門
    • 仁王門
    • 東門
    • 書院
    • 本堂 (金堂)
    • 鐘楼と十三佛
    • 木遣地蔵堂
    • 弘法大師像
    • 木遣塚 (きやりづか)
    • 子育て地蔵
    • 観音堂
    • 奥之院
    • 庚申塔 (102番、103番) 
    • 馬頭観音 (64番、65番、66番、68番) 
    • 庚申塔 (104番、105番)、馬頭観音 (67番) 
    • 庚申塔 (106番)
    • 御影堂 (大師堂)
    • 姿見の井戸
    • 閻魔十王
    • 徳川家光公供養塔、大猷院殿台霊供養塔


昨日 (1月11日) に沖縄那覇から東京成田に到着し、娘達が住んでいる練馬に移動。今回も定期検診の為の上京で約二週間滞在する。今回のフライトはピーチエアを使ったのだが、プロモーションで那覇-東京往復が4500円と格安だった。成田-東京のリムジンバスより安い。沖縄にはこれほどではなくとも格安航空券が常時出ている。ある意味で、他の地方都市よりも経済的に首都圏に移動ができる。新型コロナに対しての不安が低下したせいもあるのだろう、フライトは、以前はガラガラだったのだが、今回はほぼ満席状態だった。

今回も、二週間の滞在中に江戸坂道巡りと旧練馬村探索をする。今日は初日で、軽く近場から始める。旧谷原村だった谷原地区と高野台地区を巡る。この地域は昨年10月に半分ぐらいの史跡は巡っているので今日はその残りを訪問する。


谷原村 谷原 (やはら、ヤワラ)

谷原は練馬区のほぼ中心部に位置する地域で、北部を光が丘、高松、土支田、南部を高野台、東部を高松、西部を三原台と接している。

谷原村は相模の戦国大名北条氏康 (1515年 - 1571年) が作らせた一族家臣の諸役賦課の基準となる役高を記した分限帳の小田原衆所領役帳に「太田新六郎寄子衆、壱貫七百文、石神井谷原在家、岸分」と登場し、岸という武士が谷原のほか、葛西や田端などの在家も知行していたとある。柳田国男「地名考説」によれば、谷原の地名は、阿原 (あわら =浸水しやすい低地) のアが、谷地 (やち =谷あいの湿地)のヤと混同したものといわれる。

谷原村は1932年 (昭和7年) に板橋区に編入され、石神井谷原町2丁目となった。1947年 (昭和22年) に板橋区から練馬区が分離独立後に谷原町となっている。住居表示では旧谷原町2丁目を目白通りで二つに分け、南を高野台、北を谷原とされている。1965年 (昭和40年) に住居表示が行われ、以前は「ヤワラ」といっていたが、これ以降、「ヤハラ」と読むことになった。明治期からの民家の分布を見ると明治から戦前まではほとんど変化していない。この地域の発展は戦後から始まっている。

1801年 (文化6年) の谷原村 (谷原、富士見台、高野台) の戸数は110戸だった。人口は書かれてないのだが一世帯5人とすると550人程だったかもしれない。1873年 (明治5年) の人口は647人だったとあり、小さな村だった。1956年の谷原村 (谷原、富士見台、高野台) の戸数は1,819戸で17倍に拡大している。高度成長期前半は高い人口増加率を示している。1965年に大きく人口が増加しているのは、住居表示実施の際に、北田中町、土支田町、高松町のそれぞれ一部を編入されたことによるもので自然増ではない。高度成長期後半は人口増加は低くなり、それ以降現在に至るまで、毎年僅かではあるが人口は増加している。


練馬区史 歴史編に記載されている谷原内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: 真龍寺、宝林寺、敬覚寺
  • 地蔵尊: 谷原延命地蔵、地蔵堂
  • 神社: 土支田北野神社
  • 庚申塔: なし  馬頭観音: 1基 (無登録)


まちづくり情報誌「こもれび」- 谷原

練馬区がまちづくり情報誌「こもれび」を発行している。その中で区民調査隊という自由に参加できる活動があり、練馬の町を探索し情報を発信している。その地域を知るには非常に良い情報誌となっている。(https://nerimachi.jp/about/komorebi_backnumber.php)


谷原訪問ログ



清戸道の碑

練馬区の東端から西端まで延長約15Kmで練馬区のほぼ中央を横断している道路が清戸道だった。谷原交差点の東側の目白通り沿いに道標があった。元々の道標ではなく、新しく造られている。この道を東に行くと目白駅をへて江戸川橋に達し、北西に行けば保谷、久留米をへて清戸 (清瀬市) に通じている。練馬の村々から江戸に出るためには、この道を通るのが最も近道で、江戸時代から練馬の百姓は朝早く野菜をもって町に向い、昼頃には下肥を運んで帰って来た。その下肥を、中農以上の百姓は、馬の背で、中農以下の百姓は、天秤棒で運んだという農産物輸送の重要な道路だった。

ふじ大山道 道標

大山道は主要なものに8道あり、青山通り大山道、府中通り大山道、八王子通り大山道、柏尾通り大山道、田村通り大山道、羽尾通り大山道、六本松通り大山道、蓑毛通り大山道がある。ここに通っている大山道 (現在は池袋谷原線) はふじ大山道と呼ばれて、下練馬村から、田無 - 押立の渡し - 長沼 - 図師 - 府中通り大山道を経て大山へ向かう。富士山への参詣者も通ったため、ふじ大山道と呼ばれ、明治期に入って富士街道と呼ばれるようになった。谷原交差点近くを通るふじ大山道には道標が残っている。「西田無二里、府中五里、東練馬宿」と刻まれている。


谷原延命地蔵

道標からふじ大山道を東に少し進んだ所、橋戸道が分岐する場所に地蔵尊がたっている。延命地蔵と呼ばれ、1775年 (安永4年) に谷原村の念仏講中によって作られたもの。蓮華座台石の右側には「みぎ はしど道」、左側には「左 たなし道 おおやまみち 二里」と刻まれ、道しるべも兼ねている。

馬頭観音

ふじ大山道 (池袋谷原線) の道標を谷原交差点に向かって西に少し進んだ所に、馬頭観音があった。この馬頭観音は練馬区の資料では無登録だった。詳細は不明。

増島家薬医門

谷原交差点を西に渡り、笹目通りを北に進んだ所に昔から続いている旧家がある。谷原地域の豪農だった増島家で、長命寺を開いた増島重明を祖先としている。江戸時代末期に建てられた立派な薬医門が残っている。表札は増島なので、現在もその子孫が住んでいる様だ。増島家は小田原後北条氏の家臣であった増島重明 (北条早雲の曾孫と伝わる) が北条氏没落後に隠棲し、慶算阿闍梨と号し、高野山へ登り木食修行において弘法大師の木像を感得し、1613年 (慶長18年) に僧の慶算 (後北条氏の一族である増島重明) が谷原に弘法大師像を祀る庵を営んだのが始まりと伝わっている。重明の甥にあたる重俊は増島家の家督を継承し、慶算阿闍梨の志を継いで、紀州高野山の構えにならって堂宇を建造した。これより遡る1590年 (天正18年) には家康により長谷川重国 (増島氏) が谷原村の代官に任命されたと記録にはあるので、かなり昔からこの地で勢力をもっていた事がわかる。1596年には、この後、訪れる氷川神社も増島家が建立している。この谷原では広大な敷地を持っていた名士だった。
この通りには、幾つか大きな屋敷がある。表札を見るといずれも増島となっている。この一帯は増島家の所有地だったのだ。

地蔵堂

増島家の前の道を西に進んでいくと、畑の中に地蔵尊があり、地元では大切にされているのだろう、花など供物が多く置かれていた。

土支田 (どしだ) 北野神社

更に西に進んでいくと、住宅地の中に土支田 (どしだ) 北野神社がある。この神社は関口勘右衛門が関口家の守護神として慶長年間 (1596-1615年) に創祀したといい、後に江戸中期には土支田村字三丁目の守護神として崇敬されていた。祭神として菅原道真を祀っている。現在の社殿は1983年 (昭和58年) に修理されたもの。神社への細い参道 (写真左上) に皇紀2600年の記念碑が残っている。昭和15年に練馬土支田町会建立とある。この地は江戸時代は土支田村だった。土支田村は大きな村だったので、明治時代に上土支田村と下土支田村に分かれている。上土支田村は現在の東京都練馬区東大泉、土支田3丁目、大泉町2丁目、三原台1-3丁目にあたり、下土支田村は、現在の東京都練馬区土支田1-4丁目、旭町1-3丁目、高松5-6丁目、田柄4丁目、谷原4、6丁目、光が丘4-5丁目に相当すし、この北野神社がある場所は下土支田村の一部にある。
境内には境内社 御嶽神社、稲荷神社として御嶽神社と稲荷神社の祠が置かれ、鳥居落成参拝記念碑 (大正9年)、宗教法人設立記念碑 (昭和58年)、御嶽山太々神楽講碑 (明治43年) などの記念碑がててられている。

三軒寺 (さんげんでら) 

谷原の中に三軒寺 (さんげんでら) と呼ばれる地域がある。関東大震災で全焼した三つの寺院が築地から移転して来た事から、こう呼ばれている。真龍寺、宝林寺、敬覚寺になり、まずは真龍寺を見学する。

真龍寺

真龍寺は阿弥陀如来を本尊とする浄土真宗本願寺派の寺院で、文明年間 (1467-87年) に、武州金杉にで織田氏の一族といわれている僧の願浄が創建したと伝えられ、1657年 (明暦3年) の明暦の大火 (3月2日 - 4日) で全焼して同宗派の築地本願寺の寺中に入り移転。大正時代には関東大震災で被災した。この時に、本尊や過去帳その他を築地の川に浮かべ、杭に繋いでおいたところ紐が焼けて流されたが、本尊は人に拾われて事なきを得たという。震災後の築地区画整理により、宝林寺、敬覚寺とともに、昭和3年に、この地に新築移転移転し、他の二つの寺院と合わせて三軒寺と呼ばれている。

宝林寺

真龍寺の隣には宝林寺がある。この寺院の創建年代は不詳だが、明暦年間に没した僧の林西が日本橋浜町に創建したと伝わる。真龍寺と同様に1657年の明暦の大火の際に築地本願寺寺内へ移転している。この後も、1695年 (元禄8年)、1784年 (天明4年)、1872年 (明治5年) と何度か消失、再建を繰り返している。1923年 (大正12年) の関東大震災でも焼失し、築地市場の場外地にあった五十数ヶ寺が東京市の復興による道路拡張のため各地に移転することになった。これにより、1928年 (昭和3年) に現在地に移転して、1937年 (昭和12年) 鉄筋コンクリートで現代的な建物で本堂を建て替えている。本堂には、本尊阿弥陀如来を中心に、右側に親鸞上人、聖徳太子、左側に良如上人、七高僧の絵像が安置されている。

敬覚寺

三軒寺の三つ目の寺院が敬覚寺で、宝林寺と
真龍寺のすぐ近くにある。敬覚寺は、1641年 (寛永18年) に、本願寺十三世門主良如上人の弟子となり法名を了玄と称した武士の吉川内蔵之助玄武が江戸青山に専照寺として創建したが、明暦の大火後、1659年 (万冶2年) に築地本願寺の地中に移転、敬覚寺と改称している。関東大震災後の築地区画整理により、宝林寺、真龍寺とともに、1928年 (昭和3年) にこの地へ移転している。


次は旧谷原村の南側にあった高野台に移動する。

谷原村 高野台 (たかのだい)

高野台は練馬区の中央よりやや南西部に位置し、北部を谷原、東部を富士見台、南部を南田中、西部を石神井町と接している。

江戸時代からつづいた谷原 (やわら) 村は、1932年 (昭和7年)、板橋区になって谷原町1丁目と2丁目に分かれた。1965年 (昭和40年) の住居表示で1丁目は富士見台に、2丁目は目白通りの北側の谷原 (やはら) と南が高野台となった。高野台と地名となったのは、この地に長命寺があり、その山号が高野山だったことによる。「こうや」ではなく「たかの」になったのは、その当時、足立区に高野町 (こうやちょう) があり、住居表示では、同一または類似の町名はできるだけつけないことになっていたため、本来の音読みではなく訓読みにしたという。

高野台の明治期からの民家分布の変遷を見ると1927年 (昭和3年) には長命寺辺りが寺前となり少し民家が増えている。それ以降、戦前はそれ程の変化は見られず、戦後になって高野台の西側地域に民家が多くたち始めている。1994年に練馬高野台駅が設置されてからは東側に民家が建設されはじめ、現在でほぼ全域に民家が立ち並んでいる。

かつての谷原2丁目が谷原と高野台に分かれてからは、両地域とも順調に人口、世帯数は増加しており、今後もこの傾向が続くと思われる。


練馬区史 歴史編に記載されている高野台内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: 長命寺
  • 神社: 市杵島神社、谷原氷川神社、神社 (名称不詳)
  • 庚申塔: 5基  馬頭観音: 8基

まちづくり情報誌「こもれび」- 高野台

練馬区がまちづくり情報誌「こもれび」を発行している。その中で区民調査隊という自由に参加できる活動があり、練馬の町を探索し情報を発信している。その地域を知るには非常に良い情報誌となっている。(https://nerimachi.jp/about/komorebi_backnumber.php)


高野台訪問ログ



愛宕神社

谷原交差点の南西側の住宅街の中に低い小さな丘の上に愛宕神社がある。創建の時期は不明だが、1923年 (大正12年) に修復されたと記録があるので、それ以前になる。防火の神の火之迦具土神(かぐつち、火産霊神 [ほむすびのみこと]、秋葉大神)を祀っている。
本社脇には境内社の東伏見稲荷神社が置かれている。

市杵島神社

愛宕神社から少し南の住宅街の中にもう一つ祠の神社がある。氷川神社の境外神社となる市杵島神社 (箕輪築真弁財天) があり、江戸時代に創建されている。祭祀神は市杵島姫命。今は埋められて消滅してしまったのだが、近隣の水田の灌漑用水として使われていた弁天池に祀られていた。明治24年に弁財天の社殿を造営し水神として拝まれていたが、その後、弁天池も埋られ、多くの方々の信仰を得てまいりましたが、水田も無くなり、社殿も荒れ果てた。1987年 (昭和62年) に谷原氷川神社の境内神社となり、1998年 (平成10年) に現在の社殿に立て替えられている。

神社 (名称不詳)

谷原交差点から富士街道を石神井方面に進んだ所のビルの狭間に神社がある。この神社には二つの祠が建っているが、名称も載ってなく、情報は皆無だった。

谷原氷川神社

谷原交差点からオリンピック道路と呼ばれた笹目通りを南側に進んだ、道路沿いに谷原氷川神社がある。慶長年間(1596-1615年) に増島左内 (谷原に立派な屋敷がある) が村民と氷川大神を勧請して創建し、祭神として須佐之男命を祀っている。明治時代の神仏分離や道路拡幅工事などで、幾度か移転改築が行われたが、棟札によると本殿は1835年 (天保6年)、社殿、拝殿は1852年 (嘉永5年) に建築されたと記録に残っている。この近くにある長命寺は江戸時代には、この氷川神社の別当寺だった。江戸期には谷原村の鎮守として祀られ、明治時代には谷原村の村社となっている。拝殿前の狛犬は大正7年に造られたもの。また、本殿内には金山稲荷が合祀され、祭神は 「旧谷原村の鎮守だった宇稲魂命 (ウガノミタマノミコト) を祀っている。
境内社としては三社稲荷神社があり、皇大神宮 (祭神 天照大神 [中])、八幡神社 (祭神 応神天皇 [右])、春日神社 (祭神 天児屋根命 [左]) を祀っている。江戸時代は長命寺の境内にあったが、神仏分離後に氷川神社に移されている。
もう一つの境内社として稲荷神社の国廣神社があり、保食命が祀られている。
入り口の大鳥居の横には慰霊碑が置かれていた。裏面には谷原町二丁目の戦没者44名の刻印をし慰霊のため1959年 (昭和34年) に建立されたとある。

馬頭観音 (高野台1-17) [未訪問]

氷川神社の西側に馬頭観音があると資料には載っていた。1908年 (明治41年) 9月に造られた駒形文字型とある。正確な位置の情報はないので、その地番付近を探すが結局は見つからなかった。


長命寺

長命寺は、真言宗豊山派の寺院で山号は東高野山。1613年 (慶長18年) に小田原後北条氏の家臣であった増島重明 (北条早雲の曾孫と伝わる) が北条氏没落後に隠棲し、慶算阿闍梨と号し、高野山へ登り木食修行において弘法大師の木像を感得し、谷原に弘法大師像を祀る庵を営んだのが始まりと伝わっている。重明の甥にあたる重俊 (谷原にある増島家) が増島家の家督を継承し、慶算阿闍梨の志を継いで、紀州高野山の構えにならって堂宇を建造した。重俊によって、元横山砦 (金山郭) の本丸跡観音堂、金堂、氷川社などが整えられ、二の丸のあたる金山 (横山) 稲荷も合祀して谷原村の鎮守となっている。1640年 (寛永17年) には長谷寺小池坊の僧正秀算が、長命寺と命名された。1648年には徳川三代将軍徳川家光により朱印地を賜り (谷原にある増島家) 、朱印寺となった。当初は山号は谷原山だったが、高野山奥の院を模して多くの石仏・石塔が作られ、東高野山とも称されるようになり「東の高野山」として人々から信仰を得るようになった。武蔵野三十三観音霊場一番、御府内八十八箇所十七番、豊島八十八箇所十七番の札所にもなっている。
1878年 (明治11年) には長命寺の境内に石神井東小学校の前身となる谷田 (こくでん) 小学校を開校している。(仮校舎谷原村と田中村の名をとった) 長命寺は創建以来、何度となく火災にみまわれている。1658年 (万治元年) 失火全焼し、1667年 (寛文7年) に観音堂が再建された。1897年 (明治30年) に再度、本堂、庫裡、長屋門を焼失、1904年 (明治37年) に本堂と金堂が再建されたが、1977年 (昭和52年) には観音堂が全焼し、1979年に再建している。

南大門

長命寺は大きな寺で、寺には三つの門から入る。その一つは南大門で長命寺の山門で広目天、増長天、持國天、多聞天の四天王像が安置されている。

仁王門

南大門のすぐ側には17世紀後半に建てられた仁王門があり練馬区指定有形文化財に指定されている。

東門

三つ目の門が東門になる。東門参道がの奥にある。

書院

東門を入った右側には書院が建てられている。境内側には巨石を利用した立派な手水舎がある。

本堂 (金堂)

不動明王像などが安置されている。

鐘楼と十三佛

境内にある鐘楼の鐘は1650年 (慶安3年) 鋳造で、区内最古とされ、練馬区指定有形文化財になっている。鐘楼の周りには十三佛像が置かれていた。

木遣地蔵堂

境内にある明治32年に江戸消防記念会 第一区の寄進により建立された木遣地蔵堂には木造地蔵尊が安置されている。堂の前には弘法大師供養塔 (左中) や講の碑 (右中) が置かれている。木遣にちなんでだろう、地蔵堂の屋根には火消の纏があしらわれている。

弘法大師像

弘法大師1150年御遠忌供養塔として建てられている。

木遣塚 (きやりづか)

木遣塚(きやりづか) は、元禄年間に江戸城普請の時に歌い始めた木遣節を後世に伝えるため多くの神社に建てられたそうで、この長命寺にもあった。


子育て地蔵

赤ん坊を抱いた地蔵がある。子育て地蔵との事。

観音堂

本尊である十一面観音像が安置されている。現在の本尊の十一面観音像は当初ものではなく、後年の新たにつくられたもの。
境内にはこれ以外にも多くの板碑が建てられている。講中の記念碑が多く見られる。浅草光明講紀念碑、三界萬霊塔、永楽講碑、阿弥陀如来立像など。

奥之院

奥之院は重俊が慶算の志を継ぎ、紀州高野山の弘法大師入定の地勢を模して整備したもの。御廟橋から奥之院(大師堂)に通ずる沿道の両側には多数の供養塔、灯籠、六地蔵尊、宝篋印塔、五百羅漢、水盤、姿見井戸などが配列されている。このように紀州高野山を模して造られたので東高野山と呼ばれている。奥之院の入り口左手前には「右 東高野山道」と道しるべが、右手前には「東かうや山おくのいん入口」と刻まれた石塔が建っている。
参道を入ると左側に幾つもの石塔や石仏が立ち並んでいる。奥之院にある多くの石仏、石塔は、1652年 (慶安5年) に徳川家光の一周忌を追悼して安置したものという。その数は練馬区最多にのぼっている。1956年には東京都指定文化財となっている。

庚申塔 (102番、103番)

更に奥にも石仏が置かれ、そのうちの二体は庚申塔だ。手前の庚申塔 (102番 写真右上) は享和元辛酉5月吉日とあり、1801年に造られた舟形で青面金剛像が掘られ、道しるべとなっている。その隣には103番で登録されたもので、1712年 (正徳2壬辰2月7日) と刻まれ、102番より90年程古い舟形 青面金剛像の庚申塔。

馬頭観音 (64番、65番、66番、68番)

その奥には馬頭観音の石塔が並んでいる。64番 (左上) は1811年 (文化8年未歳) 9月吉辰日と刻まれた駒形文字型。65番 (右上) は1816年 (文化13丙子年) 4月吉良日と刻まれた駒形文字型。66番 (中上) は比較的新しく、1897年 (明治30年) 8月28日に造られた駒形文字型となっている。68番 (左下) は更に新しく、1907年 (明治40年) 4月吉日に造られた方形文字型馬頭観音塔。もう一つ大正12年4月と刻まれた馬頭観音 (左中) があるがこれには番号がふられていない未登録のもののようだ。

庚申塔 (104番、105番)、馬頭観音 (67番)

参道の反対側にもニ基の庚申塔と一基の馬頭観音が置かれている。104番 (左下) の庚申塔は1761年 (宝暦11年辛巳) 8月吉日と刻まれた方形文字型、105番 (中下) は1881年 (明治14年) 9月吉日に造られた方形文字型となっている。写真右下は67番に登録されている馬頭観音で正面の文字が削れてしまっているが、1905年 (明治38年) 8月に造られた駒形文字型になっている。
奥之院の参道には御廟橋が架かっている。1854年 (嘉永7年) の修復されたもの、江戸時代の絵図にも載っているので昔からあったようだ。橋の前にも石仏が二つある。一つは邪鬼を踏むつけているので庚申塔だ。唐破風屋根の方形笠付で青面金剛立像が浮彫りされ、1776年 (安永5年) 造立のもので道しるべも兼ねている。右側面には「右 田中道」、左側面「左 石神井みち」と刻まれている。どうも、ここに移設されたものだろう。練馬区の庚申塔リストには登録されていないようだ。御廟橋を渡った右側には近年造られた紫陽庭がある。今は冬なので紫陽花は咲いていないのだが、夏には境内の至る所で紫陽花が咲いているようだ。
御廟橋を渡ると、参道は一直線に大師堂に続いている。参道両側には両側に六地蔵や、増上寺からの移設したものも含んだ十基の宝篋印塔が並んでいる。

庚申塔 (106番)

大師堂に向かう参道の右側にもう一つ庚申塔がある。106番 (写真中) で登録されて、1695年 (元禄8乙亥年) 10月7日に造られた駒形で青面金剛像が浮き彫りされている。
その隣にも石仏、石碑が立ち並び、その中に珍しい男女二神が寄り添い和合の形を表す双体道祖神 (写真右) があった。
更に奥にも馬頭観音 (写真中左) が置かれている。比較的新しく建てられたもののようだ。登録はされていないようだ。

御影堂 (大師堂)

奥之院の参道奥には御影堂がある。ここには開基である増島重明によって祀られた弘法大師像が安置されている。

門には立派な彫刻が施されていた。

弘法大師像は秘仏で普段は非公開だが、毎年4月21日に開帳され、その日には境内で植木市と稚児行列が行われている。昔は、前の年に嫁入りした新妻が花嫁衣裳で参詣していた事から花嫁市と呼ばれていた。
大師堂の横から奥にも道が続き、その道沿いには5体の仏像が立っている。


姿見の井戸

昔からこの井戸の水に顔が写れば長生きすると伝えられている井戸が残っている。井戸を覗いてみる。残念ながら顔はうつらなかった。


閻魔十王

奥の墓地との境には、閻魔大王と死者の罪状を審判するといわれている十王像が鎮座している。お寺ではよく閻魔堂があり、堂内には閻魔像が祀られているが、境内に立派な閻魔石像は見た事がなかった。変わり種は1654年の銘が刻まれている「身代わり閻魔」と呼ばれる石像もある。 (写真真ん中) かつて住職が盗賊に襲われた際身代わりになって斬られたという言い伝えがあるそうだ。よくみると、確かに、この閻魔の胸から腹にかけては斬られたかの様にえぐれていた。

徳川家光公供養塔、大猷院殿台霊供養塔

閻魔十王の石像の途中に大猷院 (徳川家光) の一周忌に増島重俊が1652年 (慶安5年) 建立した徳川家光公供養塔 (写真左) があり、その先にも同年に建立された大猷院殿台霊供養塔 (右) がある。
閻魔十王が終わると十三仏となる。江戸時代の創建当初に造られたと考えられている。
大師堂を囲む奥之院の道もこれで終わりで境内に戻るようになっている。この道沿いにも仏像が7体置かれていた。



これで谷原と高野台の史跡巡りは終了。長命寺は見どころ満載だったので、日暮れまでの見学となった。


参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
  • 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
  • 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)

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