Okinawa 沖縄 #2 Day 234 (07/01/23) 旧首里北平等 (2) Kubakawa Area 首里久場川町

旧首里北平等 久場川町 (くばかわ、クバガー)

  • 安仁屋村跡 (アンニャムラ 行脚村) 跡
  • 龕屋 (ガンヤー) 跡
  • 賓頭盧毛 (ビンジリモー)
  • 御殿山 (ウドゥンヤマ)
  • 久場川上之御殿 (クバガーウィーヌウドゥン) 跡
  • 久場川坂 (クバガービラ)
  • 久場川井戸 (クバガーガー)
  • 端松尾 (ハタマチュー)
  • 前ヌ原 (メーヌハル)
  • 久場川町公民館
  • 虎頭山 (トゥラジヤマ)
  • 佐藤惣之助詩歌碑
  • 虎頭之御殿 (トゥラジヌウドゥン) 跡
  • 那覇漁業無線局跡
  • 久場川大小路 (クバガーウフスージ)
  • 久場川村学校所 (クバガームラガッコウジュ) 跡
  • 平等所 (フィラジュ) 跡、久場川芝居 (クバガーシバイ) 跡
  • 下久場川之御殿 (シチャクバガーヌウドゥン) 跡


今日は前回に旧北平等 (ニシヌフィラ) の首里汀良町に続いて二つ目の久場川町を訪れる。


旧首里北平等 久場川町 (くばかわ、クバガー)

1906年 (明治39年)、首里王府時代の久場川村に西原間切の字久場川が編入され、現在の久場川町が成立した。久場川町は、南は賓頭盧毛 (ビンジリモー) から虎頭山の稜線で、汀良町、赤平町、儀保町に接し、北側はその大部分を石嶺町に、一部が平良町と、 西はくびれて、わずかに儀保町と接している。首里王府時代の久場川村は行脚村 (アンニャムラ) を東端とし、首里の端を意味する 端松尾 (ハタマチュー) から、 虎頭山の裾野にそって、西の太平橋までの東西に細長い地形となっている。弁ヶ岳、御殿山、虎頭山、西森など森続きで、首里城の北の防風林の役目を果たした。
明治時代の久場川村は、農業が主な産業で、約300世帯ほどが御殿山の南側や虎頭山の北側周辺に住んでいた。ほとんどの家が農業に従事していた。昭和の初め頃は70~80戸の世帯数で民家は明治時代に比べて減少している。どの家も屋敷内に井戸が掘られ、家の前にアタイグワーと呼ばれる小さな菜園があったそうだ。沖縄戦後に住民は帰還しているがそれでも100世帯程だった。変化が訪れるのは御殿山跡に市営住宅が1960年代から建設された時期で、この地域を中心として民家が広がっていく。


久場川の人口については、明治13年には299世帯、1412人だったのが昭和初期には役80世帯と減少している。戦後、1960年代にはほとんど民家がなかった現在の二丁目の御殿山跡に市営住宅が建設されてから人口は急増している。1980年代から人口が減少に転じたが、2007年から市営住宅が拡張されマンモス団地となってから増加に転じた。二丁目の人口は久場川の中で約7割を占めるほどになっている。しかし近年では再度人口減少が続いている。現在、首里地区内では5番目に人口の多い町だ。

2020年末の首里区内での人口は以下の通りで、首里久場川町は、首里区の中で5番目に人口が多く、4.2%を占めている。人口では第2グループなのだが、首里石嶺町が総人口の38%も占めており、その他の地域に比べ断トツなので、その他地域の人口はどこも少ないといってよいだろう。


久場川町訪問ログ 



安仁屋村跡 (アンニャムラ 行脚村) 跡

前回訪れた首里汀良町の隣が久場川町でその東端、首里汀良町との境界あたりには、琉球王国時代には安仁屋村があった。安仁屋村は念仏者 (ニンブチャー)、京太郎 (チョンダラー) と呼ばれた人々の居住地だった。行脚村とも書く。この地が念仏者 (ニンブチャー) と呼ばれた由来は、1609年の薩摩の琉球侵攻後、薩摩藩の政策で、一向宗 (浄土真宗) の念仏行脚僧たちを一般社会から遮断してこの場所に閉塞したことに始まる。この政策は薩摩藩では1597年 (慶長2年) に、薩摩藩主島津義弘により一向宗の信仰を禁止されていたので、これを琉球にも適用した。念仏門の人たちは、その信仰を捨てなかったが為に弾圧を受け、1930年代初頭 (昭和初期) まで、葬式人夫として働かざるを得なかった。住人たちは、首里や近郊に葬儀があると、列に加わって墓前では念仏歌を唱えた。葬儀に僧侶を頼めないときは、ニンブチャーが僧侶の代わりを務めていた。念仏者を指すべきニンブチャーが、葬式人夫の代名詞とな り、差別用語として使用されていた。1930年代の中ごろには、アンニャ村の人たちも一般市井の生活にもどり、300年余にわたる差別と抑圧から開放された。ニンブチャーが唱える念仏歌やチョンダラーの芸は、七月エイサーの原型といわれ、組踊村芝居などに取り入れられ、 沖縄の民俗芸能として今に伝わっている。1909年 (明治42年) 頃にはこのアンニャ村、ウチジャク一帯にかけて、療養所を設置する計画を発 表したが、汀志良次、鳥小堀、久場川の三ケ字を中心とした首里区民の大反対で大騒擾となり、設置が沙汰止みとなった。

龕屋 (ガンヤー) 跡

安仁屋村跡 (アンニャムラ) 跡 から南西側に道を入ると数基の小さな墓地地帯がある。そこの一画には死者を墓地まで運ぶ輿 (龕) を収納していた汀志良次の龕屋 (ガンヤー) が1933年 (昭和8年) 頃まで置かれていた。 久場川町にあるのだが、ここは汀志良次村の後背地であるため、汀志良次村がここに龕屋 (ガンヤー) を設けていた。 龕屋が無くなった跡地には、戦後、首精神病罹病者の監置室を設置していたが、1950年代後半頃に廃止撤去されている。

賓頭盧毛 (ビンジリモー)

ガンヤー跡からさらに坂道を登ると、賓頭盧毛 (ビンジリモー) と呼ばれる所になる。この地に賓頭盧 (ビンジリ) の祠が置かれたことから、そう呼ばれている。ビンジリは十六羅漢の筆頭である賓頭盧仏のこ とで、地域によって呼び方がビジュル、ビンズルなど様々だが、ここではビンジリと呼ばれている。首里古地図によると、昔この地には円覚寺の末寺である報恩寺があ り、境内にあった賓頭盧仏が安置され、廃寺になった後も、信仰対象として残ったと思われる。この賓頭盧毛 (ビンジリモー) はNTTに買収され、賓頭盧の祠は毛 の東端に僅かな土地を与えられ残っている。

御殿山 (ウドゥンヤマ)

賓頭盧毛 (ビンジリモー) の北側は久場川団地となっている。久場川団地は那覇でも大規模の集合団地で、2007年から2014年にかけて拡張し、2019年現在では15棟、484戸で970人が暮らしている。
その南側一帯は御殿山 (ウドゥンヤマ) と言われていた。西には久場川上之御殿 (クバガーウィーヌウドゥン) があった事からこの地名が付けられたそうだ。 昔の面影はすっかり消えてしまったが、かつては防風林の役目を果たした森だけに、 樹木が生い茂り、松並木は見事だったという。沖縄戦を前に、老松など大木は陣地壕の坑木として伐採され、御殿山一帯は日本軍の野砲陣地、御殿山の地下は、野砲をかくす坑道が縦横に掘られ激戦の地となった。戦後、一帯は、各地の捕虜収容所から首里へ帰った市民たちが、島尻の戦場で殺された家族の遺骨の仮埋葬の墓地と化し無数の土饅頭があった。

久場川上之御殿 (クバガーウィーヌウドゥン) 跡

首里王府時代には、御殿山の西には久場川上之御殿 (クバガーウィーヌウドゥン) が置かれていた。首里古地図では、中城御殿御菜園となっていて、世子の中城御殿の御料地として、森に囲われている様子が描かれている。またこの御殿は同楽苑、南苑とも呼ばれ、1000坪を超す広い敷地には、大きな池があり、土地の高低差を利用して滝も造られるなど、すばらしい庭園を誇っていた。この久場川にはこの上之御殿と下之御殿の二ヵ所の御殿屋敷があった。

久場川坂 (クバガービラ)

久場川上之御殿から、久場川井戸 (クバガーガー) に向かう下り坂 (フィラ) を久場川坂 (クバガービラ) と呼んでいた。石敷きの坂 (フィラ) の側溝には澄んだ湧水が絶えず流れており、 小川となり、フナやメダカも泳いでいた。かつての石敷きは、現在ではコンクリートに変わり、昔の情緒は失われ、湧水も枯れている。

久場川井戸 (クバガーガー)

久場川坂 (クバガービラ) を北に下ると久場川井戸 (クバガーガー) になる。首里王府時代、首里と西原間切の境、虎岩山稜の縁下に湧く泉だった。この一帯は、昔は湧水が豊富で、久場川町の地名の元となったのがこの湧泉だ。久場川井戸は一年中枯れることのない 水量を誇り、井戸 (カー) の下手には田芋 (ターンム) を植えた溝田 (ンジュダー) があり、沢蟹や田鰻 (ターンナジャー) が棲みつき、 周辺の子どもたちの遊び場になっていたという。「クバ」とは側や縁を指す「コバ」に対応し、「虎岩山の縁下に湧く泉」ということに由来している。
井戸の後方には祠があり、その中には、野戦銃砲兵第23連隊の英霊碑と久場川町戦没者の霊位を祀っている。

端松尾 (ハタマチュー)

かつては、御殿山 (ウドゥンヤマ) の北東下側に小山があり、松林があったことから端松尾 (ハタマチュー) と呼ばれていた。1906年 (明治39年) に首里区が制定されるまで、ここが首里と西原町の境界で、首里の端にある松尾という事から、この地名となった。沖縄戦以前は、多くの琉球松がそびえる静かなたたずまいのニービ山で、横穴掘込墓 (ワインチャー) が三段から四段の重層になってニービ山全体に並び共同墓地になっていた。 この辺りは人里はなれた場所であったことで斃死した病豚を埋める場所でもあったという。沖縄戦では松は陣地壕の枕木に伐採された。終戦直後、この一帯は日本軍や米軍の戦車残骸があちこちにあったそうだ。久場川団地建設のため墓地群は弁之岳の東の火立毛あたりにある墓地に移転し、山も削られ、現在は久場川団地の一部になっている。

前ヌ原 (メーヌハル)

久場川井戸 (クバガーガー) から北に向かって下方へ抜ける石嶺町との町境の里道に出る手前一帯を前ヌ原 (メーヌハル) と呼んでおり、一帯が畑地だった。この一帯は、1903年 (明治36年) 10月に首里区に編入されるまで、西原間切石嶺村字前原と呼ばれていた。 

久場川町公民館

前ヌ原 (メーヌハル) には久場川町公民館が建てられている。

虎頭山 (トゥラジヤマ)

公民館の西側に虎瀬公園がある。ここは赤平町になる。公園が整備される前には虎頭山があり、赤平から久場川への里道が虎頭山の稜線を南から北へと通っていた。首里赤平町の北沿いに延びる標高約130mの琉球石灰岩の丘陵で頂上の岩石が虎の頭に見えたことから、虎頭山、虎山とも表記され、遠くに海を見渡せる景勝の地だった。また、首里城の北北東に位置し、首里城からは風水の位置で白虎に当たる事が名の由来ともいう。虎瀬山の景観は首里八景の一つ、虎山松涛 (こざんしょうとう) と謳われ、松・月を歌題に虎瀬山を謳った詩歌が多く残された。1945年 (昭和20) の沖縄戦で虎瀬山の松林は焼失。戦後、丘陵の東側及び周縁部は削られて宅地化されたが、1982年 (昭和57) に頂上一帯が整備され虎瀬公園となった。公園内には遊歩道が整備されている。
虎頭山の頂上には東屋が置かれ、そに脇にはコンクリート製の小さな祠が置かれていた。何を祀っているのかの情報は見つからなかったが、祠の中には大きな石が置かれている。ビジュル (霊石 ) だろう。その脇には歌碑と力石 (チチイシ) だろうか?丸い石が置かれていた。
ここから首里城 (写真右下) や那覇街並みが臨める。
この虎頭山には2019年8月22日に訪れている。その際にここから見える首里城の写真を撮っていた。首里城火災の数ヶ月前だったので、まだ赤瓦の正殿などが写っている。
虎頭山の中腹の遊歩道を歩いていると、別の東屋があり、その脇には井戸拝所があった。香炉も置かれている。
虎瀬山公園の入り口付近に出っ張った岩が金網フェンスで囲われている。近くで金網の中を覗くと、何箇所かがコンクリートで固められている。古墓の入り口か、洞窟か、旧日本軍の陣地壕だろうか? 沖縄戦では首里城の地下に掘られた32軍の司令部壕防衛のため虎頭山の久場川の斜面に野砲陣地が構築され米軍との間で激戦がくり広げられた。 歴史的にも地形的にも首里城を守る防護ラインを 形づくる役割を担ってきた場所だった。

佐藤惣之助詩歌碑

虎瀬公園内の西側の様子が2019年8月に訪れた時とちょっと様子が変わっていた。その時にはあった佐藤惣之助詩歌碑が写真右上の様に無くなっている。この歌碑は元々は1959年 (昭和34) に、惣之助の出身地である川崎市から、那覇市との友好と文化的交流親善を深めるため送られ、当時首里城にあった琉球大学構内に設置されていた。首里城復元により、1992年に首里・那覇が眺められるこの虎瀬公園に移設されていたのだが、川崎市や那覇住民の要望で元の首里城公園に戻ったそうだ。佐藤惣之助は川崎市出身の詩人で1890年 (明治23) 生まれ。12才の頃から俳句を学び、詩作を志した。1922年 (大正11) に、沖縄及び台湾旅行を行い、『琉球諸島風物詩集』(1922年12月刊)を上梓した。詩集には、琉球諸島で接した風物を、琉歌の調子と琉球の言葉を取り入れて詠んだ詩85篇の他、紀行文が収められた。惣之助は新人教育にも力を入れ、津嘉山一穂 (つかやまいっすい)、伊波南哲 (いばなんてつ) など多くの沖縄出身の詩人を送り出した。1942年 (昭和17年) 死去、享年53歳。

虎頭之御殿 (トゥラジヌウドゥン) 跡

琉球王国時代、松の生い茂る虎瀬山には、岩石を切り開き100坪ほどの王家の別荘の一つ「虎瀬御殿(トゥラジヌヌウドゥン)」と呼ばれる小規模な別邸 (創建年不明) が造られ、王家の遊覧地となっていた。敷地の規模から茶室風の建物だった推測される。下久場川之御殿の付属施設だったという説もある。1879年 (明治12) の沖縄県設置後、虎瀬ヌ御殿は廃されてしまった。

那覇漁業無線局跡

虎瀬公園の西に出た所、仏之坂への小径辺入り口に那覇漁業無線局と書かれた門柱が残っている。現在は空き地となっているが、昔はここにアンテナがあり、那覇管轄の漁船と無線連絡を取る基地となっていた。この跡地は公園用地となっていると看板が出ていた。


久場川大小路 (クバガーウフスージ)

久場川坂 (クバガービラ) を下り、久場川井戸(クバガーガー) の角を左に折れ、虎頭山の北西側添いの麓を平等所 (フィラジュ) まで石敷きの道が数100mにわたって続いていたという。この道は久場川大小路 (クバガーウフスージ) と呼ばれていた。道筋には久場川村学校所が建っており、赤平町の仏の坂 (フトゥキヌヒラ) から久場川へと通ずる石敷きの里道が交わっていた。現在はアスファルト道路に変わり、往時の面影はなくなっている。

久場川村学校所 (クバガームラガッコウジュ) 跡

久場川大小路 (クバガーウフスージ) を平等所 (フィラジュ) に向かって行くと、途中右手に久場川村学校が置かれていた。 「蒙昧 (知識が開けず、 道理にくらい事) を開く」という意味で発蒙館 (はつもうかん) とも呼ばれていた。

平等所 (フィラジュ) 跡、久場川芝居 (クバガーシバイ) 跡

首里王府時代には、久場川大小路 (クバガーウフスージ) の西の端に、設置年代は不明だが、平等所 (フィラジュ) が建っていた。平等所とは、第二尚氏の時代に設置され、刑事民事の裁判所と警察、拘置所の機能を併せ持つ役所で、その他、首里中の土地・山林に関する事務について管掌し、玉陵 (タマウドゥン) の警護も担っていた。さらに、首里泊、那覇の掃除、共同井戸 (ムラガー) の管理も所管していた。平等所の組織は平等之側 (平等所長官)、平等方吟味役 (次官) の下に平等所大屋子主取 (主席判事)、 平等所大屋子 (判事) 等の役人がおり、主取、大屋子が取調をもとに調書と判決の案文を提出し、 斬刑・流罪・寺預などの判決が確定した。
この平等所に関わる冤罪大嶽に「牧志恩河事件」がある。 薩摩藩主島津斉彬は、親薩摩派を登用し、琉球を利用した積極外交と貿易の拡大で、富国強兵策を展開していた。島津斉彬の急死による「斉彬くずれ」は、薩摩だけに止まらず、直ちに琉球にも波及し、反薩摩派が親薩摩派 (親斉彬派) の弾圧が始まる。三司官小禄親方良忠、物奉行恩納親方朝恒、異国通事牧志親雲上朝忠 (ドラマテンペストのモデル) が免職投獄となった。 王府内の親斉彬派に対する反対派の自白の誅求は惨酷を極め、物奉行恩河親方は、投獄一年未決のうちに獄死する程であった。
1879年 (明治12年) の廃琉置県後、王府施設や建造物は入札にかけられ、払い下げで私有地となっていった。平等所 (フィラジュ) も例にもれず払い下げられ、演芸場が建てられた。正式には朝日座という演芸場だったが、人々は久場川芝居 (クバガーシバイ) と呼び、このすぐ側を流れる安謝川に架かる太平橋の周辺の平良市場 (テーラマチ) に集う人々の娯楽の場として、組踊などを上演し賑わっていたそうだ。平良市場 (テーラマチ) では、大根、ゴーヤー、ナーベーラー、砂糖キビが運ばれて売りに出されていた。また、1609年、薩摩の軍勢が侵略して来た時には、首里城防衛のため太平橋あたりが激戦地となっていた。

下久場川之御殿 (シチャクバガーヌウドゥン) 跡

平等所 (フィラジュ) から平良市場 (テーラマチ) の手前を左に折れて進むと、1609年、薩摩の琉球侵略時の激戦地だったタチヌクチ (太刀の口) を過ぎた左側に、下久場川之御殿跡があった。 ここは赤平町になる。王府の別荘の一つだが、往時の姿は跡形も無い。この御殿へは石敷道があったそうで、虎頭山稜線を行く細い里道を経て、虎頭之御殿 (トゥラジヌウドゥン)と呼んだ小さな別荘へと続いていた。

これで久場川町巡りは終了。来週は定期検診で東京行きとなり、2週間滞在する予定。前回の東京訪問に続いて、東京の街を巡る事にしており、出発まではその下調べに費やす。という事で、首里の街巡りはここで中断して、続きは東京から帰ってきてからとなる。2月からの再開予定。


参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)
  • 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
  • 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
  • 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
  • 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
  • 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)

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