練馬区 02 (10/10/22) 上練馬村 (2) 向山/春日町/田柄

上練馬村 向山 (こうやま)

  • 庚申塔 (43番)
  • 稲荷大明神
  • 稲荷神社
  • 小瞼現 地蔵尊
  • 須賀神社
  • 練馬城跡
  • どんぶり坂 (伝練馬城堀遺構)
  • 向山庭園

上練馬村 春日町 (かすがちょう)

  • 耳塚
  • ふじ大山道
  • 練馬大根の碑
  • 愛染院、西山稲荷大明神
    • 六地蔵
    • 庚申塔 (無登録、72番)
    • 馬頭観音
    • 庚申塔 (73番) 
  • 練馬国民学校跡
  • 馬頭観音 (22番)、庚申塔 (71番)
  • 一里塚子育地蔵、ふじ大山道道標
  • 馬頭観世音 (46番)
  • 稲荷神社
  • 庚申塔 (65番)
  • 稲荷神社
  • 庚申塔 (67番)
  • 馬頭観音 (47番)
  • 長谷川家薬医門
  • 春日神社
    • 庚申塔 (70番)
    • 馬頭観音 (45番)
  • 寿福寺
    • 庚申塔 (69番)
    • 三峯社小祠、十羅刹女神祠、閻魔堂
    • 庚申塔 (68番)  

上練馬村 田柄 (たがら)

  • 庚申塔 (87番)
  • 田柄川跡 (田柄川緑道)
  • 秋の陽公園
  • 北野八幡神社
  • 光ヶ丘美術館、馬頭観音 (35番)
    • 庚申塔 (76番)、馬頭観音 (34番、36番、37番)
  • 庚申塔 (90番)
  • 稲荷神社
  • 田柄愛宕神社
  • 田柄天祖神社
  • 庚申塔 (91番)
  • 阿弥陀堂
  • 庚申塔 (89番)
  • 子守富久江地蔵
  • 愛染院田柄不動尊
  • 庚申塔 (88番)
  • 相原家薬医門

上練馬村の残りの地域の向山、春日町、田柄を巡る。この地域は10月8日、10日、14日、16日で訪問した。時間が無く、訪問できなかった文化財もあるので、次回東京訪問の際に再訪予定。


向山 (こうやま)

向山は練馬区の南東部に位置し、周囲を春日町、中村北、練馬、貫井などと接する。低層住宅が密集し、狭隘な路地が多いが、概ね閑静な住宅街となっている。

向山の地名は練馬城 (豊島城、後のとしまえん) からみて石神井川の向かいにあったことに由来し、古くは「むこうやま」と呼ばれていた。江戸時代には上練馬村の小名の一つとなり、地元では「こうやま」よりも元々の読みで「こやま」と呼ばれていた。
明治から戦前までは、向山にあった集落はほとんど変化がなく、1889年 (明治22年) の町村制で集落ごとに、東向山、西向山、北向山、向山ケ谷戸 (こうやまがいと) などに行政区が分割された。(下の当時の地図にはこれら地名は表示されていない) 石神井川左岸の高台から南を望み、向いの山という意味で「ムカウヤマ」とも呼ばれていたと考えられ、白子向山 (しらこむこうやま) の地名が残っている。大正時代から昭和時代初期にかけ、山形県人を中心とした文化住宅地として、としまえんの南に「城南住宅」が拓かれた。向山の南側は区画された住宅地で、関東大震災後から昭和初期にかけて造られた文化住宅街になる。1932年 (昭和7年) に板橋区成立時に分割されていた地域をまとめ、「練馬向山町」となり、読みもコヤマからコウヤマに正式に変更されている。

1965年 (昭和40年) に住居表示が実施され「向山町」となっている。この際には向山一丁目には旧中村北二丁目、旧中村北三丁目、旧貫井町のそれぞれの一部、向山四丁目には貫井町の一部が編入されている。1964年から翌年には人口が約40%も増加しているのはこの他地域からの編入によるもの。たの地域と同じく高度成長期の前半は高い人口の伸び率を示している。高度成長期後半は人口増加は鈍化し、微増、横ばいを繰り返しながら、徐々に増え続けている。ここ数年は横ばい状態となっている。世帯数は順調に増加し、その傾向は現在でも続いている。


練馬区史 歴史編に記載されている向山内の寺社仏閣や民間信仰の塔、その他文化財は以下の通り
  • 仏教寺院: なし
  • 神社: 稲荷大明神、稲荷神社、須賀神社
  • 城跡: 練馬城
  • 庚申塔: 1基 馬頭観音: なし


まちづくり情報誌「こもれび」- 向山

練馬区がまちづくり情報誌「こもれび」を発行している。その中で区民調査隊という自由に参加できる活動があり、練馬の町を探索し情報を発信している。その地域を知るには非常に良い情報誌となっている。(https://nerimachi.jp/about/komorebi_backnumber.php)


向山訪問ログ



庚申塔 (43番)

貫井地区の東隣が向山地区になる。中村橋の目白通り沿いに庚申塔が置かれている。1709年に方形笠付の塔に青面金剛像が彫られている。保存状態は良く、青面金剛がショケラを踏みつけ、その下には三猿もはっきりと見える。

稲荷大明神

石神井川の南側に稲荷大明神の鳥居と祠がある。鳥居の上には「正一位稲荷大明神」と変額がかかっている。正一位は神階の最上位だ。それ程の神社であればと調べたが、情報は全くない。分かったのはこの稲荷神社の総本社の伏見稲荷大社が正一位を与えられたので、伏見稲荷大社から勧請を受けた稲荷神社も正一位を称しているそうだ。

稲荷神社

稲荷大明神の東側、旧豊島園の直ぐ西側の住宅街の中にも稲荷神社があった。伏見稲荷大社の千本鳥居にあやかったのか、ここには数本の朱塗りの鳥居が置かれている。

小瞼現 地蔵尊

稲荷大明神の南、道路脇には新しく造られたような小さな地蔵尊が置かれている。台座は古いものなので、この地蔵尊は作り直されたもののようだ。この地蔵尊についての情報は見当たらなかった。



須賀神社

向山町会々館の横に朱色の鳥居があり、須賀神社ねの参道が奥に続いている。参道は右に曲がり、その奥に須賀神社の祠があり、嵐、暴風雨の神、厄除けの神、縁結びの神、安産の守護神とされる素盞鳴尊が祀られている。その隣にも小さな祠があるが、この祠については情報は無かった。


練馬城跡

向山内には中世の豪族の豊島氏にちなんで名付けられた豊島園があったのだが、長い歴史を終えた豊島園は取り壊し工事中だ。まだ遊園地入り口は残ったままで、哀愁が漂っている。この豊島園は中世に存在した練馬城跡に造られ、当時の城主だった豊島氏から名がつけられた。またこの練馬城は時期は不明だがかつて矢野将監という人物が居城にしていたので矢野屋敷、矢野山城とも呼ばれていた。
跡地はワーナーブラザーズ ジャパンと西武鉄道他で2023年に開演予定で「ワーナー ブラザース スタジオツアー東京 ‐メイキング・オブ ハリー・ポッター」を建設中。
これは跡地開発の一部で東京都が練馬城址公園としても整備する予定になっている。公園は段階的にオープンとなるようで、現在の公園計画図ではまずオープンする所だけ公開されている。計画には歴史文化ゾーンもあるのだが、良く読むと練馬城の地下遺構の保全と練馬城址豊島園の歴史となっており、どれぐらい練馬城に関連したものが出来るのかは不透明。城址公園というので練馬城の復元などを期待していたが、まだそれに関わるものは発表されていない。今後、何か城跡らしきものが再現されればと思える。
練馬区にある史跡にはこの豊島氏が関わっているものが幾つもあるので、豊島氏について知っておく必要があるので、豊島氏についてまとめてみた。
  • 桓武天皇の流れを汲む坂東八平氏の秩父氏 (平将常、秩父将常) の一族が豊島氏で、当時は源氏の家人となっていた。秩父常将の次男 秩父武常が、1023年 (治安3年) に武蔵介藤原真枝を討った功により、武蔵国豊島郡と下総国葛飾郡葛西の地を賜り、この頃に豊島氏または葛西氏を称したと考えられている。武常は源頼義・義家に従って前九年の役か後三年の役で奥州で戦って戦死している。
  • 秩父武常の二代あとの秩父康家が豊島氏の初代とされている)。
  • 康家の子の豊島清光とその三男 葛西清重 (葛西氏の祖) が、1180年 (治承4年) の源頼朝挙兵に協力し関東平定の戦いに従軍した事で、所領を賜り源氏の御家人に加わる。当時は現在の北区豊島に館 (現在の平塚神社) を構えていた。
  • 元弘年間 (1331年〜1333年) に、豊島泰景が石神井城を築き、その弟の豊島左近太夫景村が石神井城の支城として練馬城を築き、石神井郷の一円を支配。
  • 1332年 (元弘2年) に楠木正成が金剛山で挙兵すると豊島一族は幕府軍に参加し、楠木正成を攻めている。1333年 (元弘3年) に足利尊氏が幕府に反旗を翻し、六波羅探題を攻めた際に、豊島重径と家信が探題の北条仲時とともに自刃している。
  • 関東で新田義貞が挙兵すると、豊島景村はこれに加わり分倍河原の戦いに南朝軍として参戦している。鎌倉幕府最後の得宗高時の子の北条時行が南朝に加わって敗れて処刑された後に、景村はその長子の輝時を養子にしている。
  • その後、豊島氏は練馬氏、板橋氏、平塚氏、小具氏など庶流を配して、武蔵国で大きな勢力を形成し、扇谷上杉定正に仕えていたが、上杉氏家臣の長尾景春が1476年 (文明8年) に謀叛を起こし鉢形城で挙兵。豊島泰経 (11代) は、長尾景春に呼応して上杉氏から離反。この背景には豊島氏と太田道灌との対立があった。上杉氏の重要拠点であった河越城と江戸城の間に石神井城、練馬城があったことから、豊島氏は上杉氏の両拠点間の連絡を絶つ重要な役割を担っていた。江戸城と河越城の連絡が絶たれ危機に陥った事から扇谷上杉定の家臣の太田道灌を1477年 (文明9年) 4月13日に江戸城を出発し、練馬城に矢を撃ち込み周辺に放火した。道灌は挑発行動で豊島軍を城から平場へ誘き出す戦術を用いたと言われる。その戦術が功を奏し、泰経の弟の練馬城主 豊島泰明は、石神井城の泰経と連絡を取り全軍で出撃し、両者は道灌が伏兵を潜ませていた江古田原で合戦となった。 (江古田・沼袋原の戦い) 豊島方は泰明ほか数十名が討ち死にし、泰経と他の兵は石神井城へと敗走。その時に、この練馬城も落城したと伝わる。泰経軍は石神井城に籠城したが、落城し平塚城に敗走。翌年の1478年 (文明10年) に泰経は平塚城で再挙するが、道灌の攻撃を受けて落城し、泰経は行方知れずとなり豊島氏本宗家は滅亡している。(小机城に逃れたという説もある)
  • 豊島氏本宗家は滅亡後、泰経の子の康保が後北条氏に仕え、その子孫の経忠が武田氏次いで徳川氏に仕えて旗本になった。経忠の子の忠次は遠江国や近江国の天領代官となっている。忠次の孫の泰盈家系はその後、幕末まで続いている。

練馬城の推定縄張り図があったので、それを現在の地図にプロットしてみる。もっとも、現在の地形は当時を偲ぶものではないのだが、資料によれば、北は石神井川、西と東には谷があり自然要害を利用し、南は空堀を供えて城の防備としていた。旧街道道はその谷を取り囲むように走り、その街道から練馬城への道が伸びていた。想像では谷と空堀に囲まれた内部に城下町があったのではないだろうか? 今日見学した史跡も旧街道沿いに位置している。何となく中世から近世の練馬城付近が見えてくる。


どんぶり坂 (伝練馬城堀遺構)

練馬城跡だった旧豊島園を囲む道が大きく下り上る部分がある。練馬城の堀だった場所と推定されている。窪んだ所がどんぶりの様という事で名が付けられている。

向山庭園

どんぶり坂の練馬城跡の反対側に向山庭園がある。ここは史跡ではないのだが、ちょっとした散歩には気持ちの良い場所だ。紅葉が進みと更に綺麗だろう。戦前は有力者の土地だったが周辺は宅地化が進んでいた。戦後、宅地用として、不動産屋がこの公園の土地を購入して宅地造成計画を進めたが地元住民の反対で練馬区が買い上げて公園となったという経緯がある。写真にある池はかつての練馬城の堀跡と言われている。先程のどんぶり坂も堀跡というのでこの池はその堀の続きだったのだろう。位置関係はまさに坂を降りた所に池があるのでなるほどと思う。


春日町

向山の北隣の春日町に移る。この地域も何日かかけて訪問したのだが、民間信仰の象徴である庚申塔と馬頭観音が多く残っている。その内半分以上は未訪問となった。探したが見つからなかったものや資料で気づかず見落としたものがある。次回訪問時に再訪して探すことにする。

春日町は練馬区の中部に位置し、北部を田柄、南部を向山、東部を早宮、西部を高松・北町 (東北部) と接する。江戸時代には上練馬村の一部だったが、当時は春日町とは呼ばれておらず、中ノ宮、海老ケ谷 (えびがやつ)、尾崎 (明治時代の地図にはこの地名は見つからず) と呼ばれた村があった。現在の春日町1丁目と2丁目に当たる地域だ。

1932年 (昭和7年) に市郡合併の際に春日町となった。練馬城の城主の豊島氏一族の守護神を祀った旧村社春日神社に由来して付けられた名になる。豊島氏没落後の城主であった海老名左近はこの地を居館の一部としていたので、その地域の小字は海老ケ谷と呼ばれていた。春日小学校建設に伴って尾崎古代遺跡が発見されている。現在の春日町の民家の分布を見ると農村の典型的な形で、畑の近くに小さな集落が散在している。明治時代の地図では中宮、西中宮、北中宮、東中宮、海老ヶ谷戸、新塲の集落が見られる。上練馬村時代は村役場が置かれた中心地だった。1932年 (昭和7年) の東京市成立時には当時の板橋区に属して板橋区練馬春日町一丁目および二丁目となった。この集落は戦前までは大きく変わることなく続いている。春日町の住居地域が拡張したのは戦後になってからだ。1947年 (昭和22年) に板橋区から分離して独立行政区となっている。

練馬区になった後、1949年 (昭和24年) に「練馬」の冠称を外して春日町と名称を変更している。なった。1967年 (昭和42年) に住居表示が実施され、旧春日町一丁目・二丁目は、現行の春日町一丁目から六丁目となった。この際に新春日町一丁目には旧仲町六丁目の一部、新春日町四丁目には田柄町二丁目の一部が編入されている。高度成長期は前半は特に高い伸びで人口は増加している。高度成長期が終わった後は世帯数は横ばい、人口は減少に転じたが、2000年以降は世帯数も人口も堅調に増加している。

 

練馬区史 歴史編に記載されている春日町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
  • 地蔵尊: 一里塚子育地蔵尊
  • 仏教寺院: 愛染院、寿福寺
  • 神社: 西山稲荷大明神、春日神社、稲荷神社、稲荷神社
  • 庚申塔: 11基   馬頭観音: 7基

庚申塔 (74番、75番) は長谷川家敷地内で非公開。三基の馬頭観音 (48番、49番、無登録) は探すも見つからず。 


まちづくり情報誌「こもれび」- 春日町

練馬区がまちづくり情報誌「こもれび」を発行している。その中で区民調査隊という自由に参加できる活動があり、練馬の町を探索し情報を発信している。その地域を知るには非常に良い情報誌となっている。(https://nerimachi.jp/about/komorebi_backnumber.php)


春日町訪問ログ



耳塚

高松地区から東隣の春日町に入った所には耳塚があり、この塚の伝承が残っている。
むかし、上練馬村字中の宮 (春日町五丁目) に信仰心のあつい老婆がいました。老婆は生きていくのが嫌になり、村人たちに頼んで桶に入れて埋めてもらい、鉦をたたきながら往生しました。それからしばらくして、不思議なことに耳の悪い人が竹筒に耳をあてたり、花立てにたまった水で耳を洗うと耳の 病気がよくなりました。このことが近在に知れわたり、多くの人がお参りす るようになりました。現在は「円浄法師之位」と記した明治44年の石碑が建っている。

ふじ大山道

愛染院の入り口にふじ大山道跡碑が立っていた。大山道は、大山街道、富士街道、道者街道ともよばれ、阿夫利山ともいわれた大山 (神 奈川県伊勢原市) へ、更に大山から富士山への道者たちが通っていた事から道名になっている。この街道は、旧川越街道から分かれて、 石神井、田無を経て伊勢原市に向かう道で、 練馬の中央部をほぼ北東から南西に横断している。愛染院前の交差点付近は中ノ宮と呼ばれ、江戸時代には近くに名主役宅や高札場、郷蔵などがあって村の中心だった。明治になってから、村役場や小学校、登記所ができたそうだ。旧暦の六月 (水無月) には江戸や関東の各地で祭礼が盛んに行われ、連日、関東の村々から集まった大山講や富士講の人々がこの道を通り、賑わっていた。

練馬大根の碑

練馬の名産品が練馬大根で広く知られていた。練馬大根のはじまりについては、五代将軍徳川綱吉が藩主であった頃、尾張から種子をとりよせ、下練馬村の百姓大木金兵衛に作らせたとか、上練馬村の百姓又六が作りだしたとかの、逸話が伝えられている。江戸の町が発展し、明治以降、東京となり人口が増加すると、練馬では、都市向けの大根が大量に栽培され、練馬大根の沢庵漬けは、特産として全国的に有名になった。これを記念して1940年 (昭和15年) に東京練馬漬物組合によってこの大根碑が建立されている。隣には練馬大根の品種改良と普及育成に貢献した鹿島安太郎の顕彰碑も建てられている。

愛染院、西山稲荷大明神

大根碑がある参詣道を奥に進むと愛染院となる。練月山愛染院観音寺といい、真言宗豊山派 (豊島八十八ヶ所第二十六番札所) の寺院。縁起によると1437年 (永享9年) に、能円房尊岳が尾崎 (現在の春日小学校付近) に開いた寺で、寛永年間 (1624~1644) に大僧都尊智によって現在地に移され、中興したと伝わる。寛政年間 (1789~1801) の火災により、山門と梵鐘を残して建造物はことごとく焼失した。明治の廃仏毀釈の際、末寺の成就院 (向山)、高松寺 (高松)、養福寺、泉蔵院 (田柄) の四寺を合併している。山門 (写真左上) を入ると正面に本堂 (下) がある。本尊として愛染明王を祀っている。山門とは別に長屋門 (右上) もある。山門と長屋門は昔からあるもの。
境内には、西山稲荷大明神 (写真右上)、鐘楼 (左上)、大師堂 (右下)、多宝塔 (左下) の建物がある。これらの建物は比較的新しく昭和55年頃に建造されたもの。

六地蔵

境内には六地蔵 (1739 元文4年)、弘法大師一千年供養塔、板碑、地蔵尊などの数多くの石造物が置かれていた。


庚申塔 (無登録、72番)

墓地への入り口の所には多くの地蔵尊が並んでいる。その手前には二つの庚申塔が置かれている。右端にある庚申塔は練馬区では無登録だが、1742年 (寛保2年) に方形笠付の石塔が造られ、青面金剛像、三猿が浮き彫りされている。その隣の庚申塔は72番で登録されており、1709年 (宝永6年) に建立され、板駒形の石塔で正面には青面金剛像、三猿が浮き彫りされている。


馬頭観音

馬頭観音もあった。練馬区では登録番号はふられていないのだが、1916年 (大正5年) に造られた方形文字型の馬頭観音になっている。


庚申塔 (72番)

愛染院外壁の外側隅に庚申塔がある。1731年 (享保16年) に作られ、方形笠付柱型の石塔で正面には日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂が浮き彫りされている。

練馬国民学校跡

愛染院の南には春日町青少年館がある。ここには戦前は練馬国民学校だったところになる。練馬地域には17の国民学校があり、練馬地区に9校、石神井地区に3校、大泉地区に5校置かれていた。ここには明治10年に開校した練馬国民学校があった。


海老谷ヶ戶の馬頭観音 (22番)、又六庚申塔 (71番)

春日町青少年館の庭には移設された庚申塔と馬頭観音が置かれている。

又六庚申塔 (71番 写真右上) は元々は春日町3丁目33番の富士街道沿いに建っていたが、道路拡幅整備で移設された。練馬大根発祥の伝説に関わる石造物で、青面金剛像と三猿が彫られ、「中宮村 講中十三人」「享保二丁酉霜月十日」「親講 鹿嶋又六」と銘がある。 又六は練馬大根を作りはじめた上練馬村の百姓。練馬大根発祥については、徳川綱吉が脚気のため練馬で療養していた時、旧家に栽培させたとの説や又六に宮重大根の種を与え栽培させたなどの伝説もある。又六庚申塔の隣には海老谷ヶ戸の人々が、1778年 (安永7年) に安全祈願などのために、この近くの豊島園沿いの道が二又に分かれた場所 (練馬4-8) に建てた海老ヶ谷戶の馬頭観音 (左下) を移設してきている。板駒形の石塔で馬頭観音が浮き彫りされ、側面には「右ハ中村南 蔵院道」、「左ハぞうしかや道」と記され、 道しるべになっている。


一里塚子育地蔵、ふじ大山道道標

愛染院の前の旧ふじ大山道は東に進むと環八通りに合流する。ここからしばらくは旧ふじ大山道 (正式名は大山道) は現在の環八通りになっている。その環八通り沿いにふじ大山道道標 (しるべいし 写真右下) が一里塚子育地蔵の覆屋の隣に立っている。
ふじ大山道は富士講や大山講で富士山や大山へ登拝に行く際に通った道者街道で、その事から富士街道とも呼ばれていた。富士山への登拝の際には大山にも登拝していたのでふじ大山道と呼ばれる様になった。ここには練馬一里塚があったそうだ。一里塚が置かれていることから、当時は多くの人がこの道を利用していた事がわかる。江戸から登拝に出発した人達がここで休憩を取ったのだろう。
ここに建てられている覆屋の中には1774年 (安永3年) に造立の六十六部供養塔 (写真中下 六十六部=全国の社寺霊場を仏道修行のために巡礼する人)、地蔵尊が置かれている。地蔵尊は安永年間に建立されたもので、その隣には1957年 (昭和31年) に新しい赤ちゃんを抱いた子育て地蔵尊が作られている。ここに練馬一里塚があったので、一里塚子育地蔵と呼ばれるようになった。練馬を廻って気がつくのは道端に地蔵尊が少ない事だ。移設や撤去されたのかとも思っていたが、庚申塔や馬頭観音は多く残っている。地蔵尊信仰よりも庚申信仰の方がこの地域では主流だったにだろう。地方にとって、民間信仰が異なっているのは興味深い。四国では多くの地蔵尊、中山道では道祖神を道沿いで目にした。

馬頭観世音 (46番)

愛染院から環八通りを東に渡った所、かつては名主だった長谷川家の塀の窪みに、1906年 (明治39年) に作られた馬頭観世音が建っている。この馬頭観音は方形タイプで観音像ではなく馬頭観世音と書かれているだけ。このタイプの文字型馬頭観音塔は比較的多い。

稲荷神社

馬頭観音のすぐ東側には稲荷神社が小高い丘の上にある。この神社の詳細は見つからず。

庚申塔 (65番)

馬頭観世音 (46番) の北の田柄通りの田柄地区との境の道端には65番で登録されている庚申塔が置かれている。1696年に作られた方形笠付タイプで青面金剛像が彫られている。花が供えられている。この通りには多くの商店が並んでいるので、その人たちが面倒を見ているのだろう。

稲荷神社

もう一つ稲荷神社が環八通り北側の住宅街の中にある。祠が二つある。両方とも中には稲荷神社と書かれた札が置かれていた。この神社の詳細は見つからず。

庚申塔 (67番)

練馬東中学校北東十字路に 1766年 (明和3年) に造られた駒形の庚申塔があり、正面には日月雲 邪鬼を踏みつけた青面金剛立像 合掌型六臂が浮き彫りされている。


馬頭観音 (47番)

稲荷神社の北側に47番に登録された馬頭観音が民家の入り口に置かれていた。1915年 (大正4年) に作られた比較的新しい文字タイプの馬頭観音になる。この家の人がいたので話すと、家の改築の際にここに移したいう。多分この家の人が作ったのだろう。作られた経緯などはわからないと言っていたが、想像できるのは、この家はかなり広い敷地なので、地域の有力農家だったのだろう。使っていた馬の供養の意味で建てたのかも知れない。わざわざこの馬頭観音を見にきてくれたと喜んでいた。


長谷川家薬医門

長谷川家は江戸時代中期から代々上練馬村名主を務め、明治時代には戸長を務めていた。長谷川家には様々な古文書が所蔵され、「長谷川家文書」として保存され、1998年に練馬区文化財として登録されている。当時の世帯数、産業など村の概要を表した「村方銘細書上帳」、村絵図などがあり、江戸時代の上練馬村の様子を表した重要な史料。長谷川家住宅は江戸時代後期に建てられた茅葺屋根の大屋敷だったが、老朽化のため瓦葺の建物に建て替えられ、現在では薬医門だけが残っている。薬医門は切妻屋根の門で格式ある門構えとなっている。



春日神社

春日神社は鎌倉時代、工藤祐経の孫の祐宗が頼朝に従って奥州征伐に向かう途中、自分の先祖藤原氏の氏神である大和の春日神社の祭神をここに勧請して、戦勝を祈願したのにはじまるという。その後、練馬城の城主、豊島泰経も一族の守護神として当社を深く崇敬した。豊島氏没落後、あとの練馬城主海老名左近はここを居館の一部としていた。この地域はかつては海老名と呼ばれていたのはこの事による。神社は江戸時代、十羅刹女 (じゅうらせつにょ) 社と呼んでいたが、明治の神仏分離で、十羅刹女社は隣の寿福寺へ、祭神 (天児屋根大神) は春日神社として祭られた。境内には1917年 (大正6年) に新築された春日造りの本殿と拝殿からなる社殿が正面にある。

境内の右側には1956年 (昭和31年) 改築の神楽殿と1965年 (昭和40年) に改築された絵馬殿がある。
末社は本殿右側に稲荷神社 (祭神 宇迦之御魂命)、
左側に三峯神社 (祭神 火産霊命神) と第六天神社 (祭神 面足之命) が並んでいる。
春日神社の敷地内は広く多くの碑が建てられ、日露戦争関連で日露戦役紀年碑) と日露戦争の戦病没者を弔った表忠碑、太平洋戦争の碑が目立っていた。

庚申塔 (70番)

本殿奥には庚申塔が置かれている。通常の庚申塔が置かれる場所ではないので移設されたのだろう。1709年 (宝永6年) に作られたもので、駒形タイプの青面金剛像が彫られている。

馬頭観音

神楽殿と絵馬殿の間の奥には馬頭観音があった。正面には馬頭観世音と刻まれ、側面に明治三年とつくられた年が刻まれている。


寿福寺

春日神社の隣には明治の神仏分離令で分かれた寿福寺がある。真言宗豊山派で本尊は薬師如来の豊島八十八ヶ所霊場の19番札所になる。開山年は不詳だが1659年 (万治2年) 以前からあったという。先に訪れた愛染院の隠居寺であったとも言われる。今年に境内の前の部分などを改築して以前とは少し趣きが変わってはいるが庭は綺麗になっている。1910年 (明治43年) に再建された本堂とその前には子育地蔵尊がある。隣の墓地には練馬の名木に選ばれた榎の大木 (写真右上) がある。


庚申塔 (69番) 

墓地の入り口に地蔵尊と馬頭観音がある。移設されたものだろう。1707年 (宝永4年) の舟形で正面には邪鬼を踏みつけた青面金剛像と三猿が浮き彫りされている。

三峯社小祠、十羅刹女神祠、閻魔堂

本堂の左、墓地の奥まった所には三峯神社小祠、十羅刹女神祠、閻魔堂がある。三峯社小祠は埼玉県秩父市に所在する三峯神社へ毎年参拝して大神楽を奉納していた春日町三峯五十人講によって、昭和9年に建てられたもの。十羅刹女神祠は神仏分離時に隣の春日神社から移されたという。(昔は、隣の春日神社は十羅刹女社と呼ばれていたそうだ)


庚申塔 (68番)

三つの祠の前にも庚申塔があった。1706年 (宝永3年) に武州豊嶋郡上練馬海老ケ谷戸村により置かれたもので、舟形で正面には邪鬼を踏みつけた青面金剛像と三猿が浮き彫りされている。



田柄

春日町の次は、その北の地域で旧上練馬村の一つだった田柄を散策する。

田柄は練馬区の北部に位置し、北部は光が丘、板橋区赤塚新町、東部は練馬区北町、南部は春日町、西部は光が丘とそれぞれ接している。

江戸時代の田柄は、現在の田柄の約2倍の広さがあった。東は旧下練馬村の北町の自衛隊付近 (当時の下田柄) から、西は旧上練馬村の光が丘 (当時の上田柄) までにまたがっていた。現在の田柄地域にあたる上田柄は東田柄、中田柄、西田柄、前田柄、北田柄、田柄谷、田柄久保の字に分かれていた。当時、田柄は水利が良くなく、水の涸れた空の田んぼがあり、田の作柄はあまり芳しくなく、年貢の率は他の地域に比べて低かった。 明治4年、干ばつに悩む村人たちは資金を出し合い、近隣の村々と協力して、玉川上水の分水を引き、干上がった水田は、この多摩川の流れで潤った。

1932年 (昭和7年)、旧上練馬村の田柄地区は板橋区練馬田柄町となった。1949年 (昭和24年) に田柄町となった。1967年 (昭和42年) に住居表示を実施して現行の田柄一丁目から五丁目となった。明治時代からの民家の分布を見ると戦前までは点在していた元々の集落が僅かに広がったぐらいで、大きく拡大するのは戦後になる。

江戸時代には武蔵国豊島郡上練馬村小名上田柄で、田柄という地名はそれ以前、古くから存在していたが、その由来は定かでないそうだ。上練馬村と下練馬村にまたがり、区別のため上練馬側は上田柄と呼ばれ、現在の光が丘のあたりまで、下練馬川端も田柄といい現在の北町の自衛隊練馬駐屯地あたりまでを指す広大な範囲だった。上田柄は東田柄、中田柄、西田柄、前田柄、北田柄、田柄谷 (たがらや)、田柄久保 (たがらくぼ) 等の字に分かれていた。1932年(昭和7年)の板橋区成立時に練馬田柄町となり、練馬田柄町一丁目 (字は上田柄、中田柄、西田柄、菅原、田柄久保、前神明) と練馬田柄町二丁目 (字は愛宕原、神明ヶ谷戶、北田柄、前田柄、田柄谷、東田柄、神明久保、北神明、神明原) の行政地区となっている。

1947年 (昭和22年) に練馬区が板橋区から分離し、独立行政区となって、田柄町はそのまま練馬区に属することになった。1949年 (昭和24年) に「練馬」冠を外して田柄町と名称を変更している。1967年 (昭和42年) に住居表示を実施して田柄町から現行の田柄一丁目から五丁目の構成となっている。この時に田柄三丁目には旧春日町一丁目の一部、田柄四丁目には旭町の一部が編入されている。高度成長期には、1960年代は高い人口増加率で、その後は増加率はしだいに減少してはいるが、2020年までは常に前年を上回っていた。2021年を境に人口は少しづつ減少となり、その傾向は今後も続くと考えられる。世帯数も同様に堅調に増加していたが2020年以降は横ばいとなっている。



練馬区史 歴史編に記載されている田柄内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
  • 仏教寺院: 阿弥陀堂、不動堂
  • 神社: 北野八幡神社、稲荷神社、田柄天祖神社、田柄愛宕神社
  • 地蔵尊: 古森富久江地蔵
  • 庚申塔: 6基  馬頭観音: 1基

庚申塔 (92番) と馬頭観音 (58番) は探したが見つからず。2023年4月20日に石神井町の郷土資料室の池淵遺跡公園を訪れた際に、この二つが移設されていた。



まちづくり情報誌「こもれび」- 田柄

練馬区がまちづくり情報誌「こもれび」を発行している。その中で区民調査隊という自由に参加できる活動があり、練馬の町を探索し情報を発信している。その地域を知るには非常に良い情報誌となっている。(https://nerimachi.jp/about/komorebi_backnumber.php)


田柄訪問ログ



庚申塔 (87番)

春日町の庚申塔 (65番)がある田柄通り沿いのすぐ西側にも庚申塔が置かれ、この庚申塔も綺麗な花が供えられている。この庚申塔は1745年に作られ、板駒形の塔に青面金剛像が彫られている。

田柄川跡 (田柄川緑道)

かつては、田柄地区に中を東西に荒川水系の石神井川の支流の田柄川が流れていた。土支田、光が丘公園辺りから東流し、田柄、北町、錦、城北中央公園を経て、桜川で石神井川に注いでいる。昭和30年代からの宅地化されたが、この辺りは湿地帯であったことや、田柄川には生活用排水が流され、大雨ごとに家屋浸水被害が頻出し、田柄川は「やっかい堀」になってしまった。対策として昭和47年ごろから工事が始まり暗渠化され下水道として利用されている。ほとんど地上部分は田柄川緑道に姿を変えている。ジョギングコースにもなっており、練馬だいこんコースとも呼ばれている。

秋の陽公園 (田柄緑道起点)

この田柄川緑道を西から東まで走って見た。田柄の東の北町、錦を通って氷川台の城北中央公園まで続いている。緑道はその地域ごとにデザインが異なっている。田柄から外れるのだが、田柄川緑道のそれぞれの地区の風景を載せておく。田柄川の西の起点付近、田柄川緑道のスタート地点が光が丘の秋の陽公園になる。
田柄内の緑道は道路の真ん中が公園になっている。恐竜公園と呼ばれている。田柄の小学生の作品三つを巨大オブジェに作ったそうだ。
北町に入ると少し趣が変わり住宅地の中の遊歩道となる。花壇や並木が植えられて散歩には良い雰囲気になっている。
しばらくすると、また道路中央の公園と変わる。細長い公園は遊歩道となり道路と交差するところはかつて橋が架かっており、それぞれに名札が付いている。橋は幾つもあった。川幅はそれ程では無かったので、住民の生活道として容易に橋が架けられたのだろう。
北町から錦に近くなると、再度住宅街の中の遊歩道となる。道も綺麗に整備されてゴミ一つ落ちていない。ここから少し東に行くと終点の城北中央公園となる。城北中央公園は下練馬村の訪問記に含めることにする。この田柄川緑道を走りながら、その道沿い、南と北にあるスポットに寄り道しながらとなった。

北野八幡神社

秋の陽公園の南に北野八幡神社がある。創立年代不詳だが、平安時代中期の永承年間 (1046~1052年)、または康平年間 (1058~1064年) の創建と考えられ、上田柄の氏神として、当時は飯綱権現社と呼ばれ崇められていた。1872年 (明治5年) の廃仏毀釈によってこの地にあった別当の養福寺は他三ヶ寺とともに真言宗豊山派の練月山愛染院観音寺に合併され、この神社は八幡神社となり、翌1873年 (明治6年) に天満天神社が合祀された。祭神は応神天皇と菅原道真公。境内には拝殿/本殿 (写真左中、下)、一座/神楽殿 (右中) があり、末社として神楽殿脇に櫛麻智命を祀る御嶽神社 (右上) が鎮座している。

光ヶ丘美術館、馬頭観音 (35番)

北野八幡神社のすぐ北には光ヶ丘美術館があり、江戸情緒の海鼠壁の建物になっている。その入り口に、氷川台2-6にあった庚申塔1基と馬頭観音4基が集められていた。一番手前には1804年 (文化元年) に造られた大きな角柱型の馬頭観音塔があり、側面には右側面にふきあげ道とあり道しるべになっていた。

庚申塔 (76番)、馬頭観音 (34番、36番、37番)

更に奥にも三つの馬頭観音と庚申塔が置かれている。

  • 庚申塔 (76番 右端):1724年 (享保9年) の板駒形で、邪鬼を踏みつけた六臂青面金剛立像、日月、三猿が浮き彫りされて、「奉造立庚申供養為二世安樂也」とあり、「武刕豊嶋郡上練馬村上田柄邑講中二十人、願主 相原▢衛門」と刻まれている。
  • 馬頭観音 (34番 右から二番目):1755年 (宝暦5年) の駒型で正面に馬頭観音が浮き彫りにされ、右上には「武刕豊嶋郡上田柄▢▢」とある。
  • 馬頭観音 (36番 左から二番目):1808年 (文化5年) の櫛型角柱型で正面には南無馬頭觀世音菩薩 観音講中、右脇には武州豊嶋郡上練馬邑上田柄と刻まれている。
  • 馬頭観音 (37番 左端):1857年 (安政4年) の小さな角柱文字型でかなり摩滅してが「馬頭観世音 位と掘られ、側面には安政4年十二月の年紀と相原玉左ヱ門の願主名が刻まれている。


庚申塔 (90番)

光が丘東大通り沿いには90番として登録された庚申塔が残っている。板駒形の青面金剛像で1698年に建てられている。


稲荷神社

北野八幡神社の前の道を東に進んだところに、赤鳥居の奥の小さな祠の稲荷神社があった。この稲荷神社の詳細は見つからなかった。

資料では別の場所にも稲荷神社があるとなっていたので、そこに行ってみたが見つからなかった。後で訪問記の編集でインターネットを見ていると、見つからなかった場所にこの稲荷神社と全く同じものが写った写真があった。ここには元の場所から移設されていたようだ。下の写真が元の場所に置かれていた時のもの。


田柄愛宕神社

田柄川緑道から北に外れ、豊島園通りとの間に田柄愛宕神社がある。吉田弥五衛翁が江戸時代初頭の慶長年間 (1596~1615年) に、山城国愛宕大明神の分霊を勧請し、火除、農産物、家内安全、産業発展、子宝の神徳がある迦具突智大神を祭神として創建され、以降中田柄郷の鎮守として祀られている。これとは別に、文明年間 (1469年~1487年) に太田道灌によって創建されたという説もある。江戸幕府より朱印地三町八反を附されていたが、明治維新の際に明治政府への上地となり、神体を別当の吉田家に遷した。社殿は1877年 (明治10年)、1922年 (大正11年) にそれぞれ改築がなされたもの。1923年 (大正12年) には隣祠の天祖神社を合祀し、天照皇大神を相殿神として祀っている。
迦具突智大神は火防 (ひぶせ) の神とされており、明治時代初期に開削された田柄用水を大正期に境内へ引き込んだ池があり、金魚を放していた。この池は1941年額 (昭和16年) 頃に用水が枯れ埋められた。金魚は祭神の神徳である火防や農耕に関わるとされ、毎年7月24日に開かれている例大祭では1877年 (明治10年) 頃から始まったといわれる金魚市が催され、住民は厄除けや火除けとして金魚を持ち帰る風習がある。
境内末社として須佐之男命を祀る須賀神社 (写真右上と右中)、宇迦之魂命を祀る稲荷神社 (左中)、その隣には弁財天の水神宮碑 (左上の三角の石) と市杵島比売命の市杵島神社 (不明) が鎮座している。写真左下は神楽殿。


田柄天祖神社

田柄愛宕神社の西側近くに天照大御神を祭神とする田柄天祖神社がある。江戸時代初頭1598年 (慶長3年) に上野伝五右衛門等が伊勢神宮の分霊を勧請し邸内に奉安した。後に村民が社殿を造営し、神明ケ谷戸一円の産土神として祀り、神明宮または神明社と称した。1868年 (明治元年)、神仏分離により独立し社殿を造替し、1873年 (明治5年) に天祖神社と改称した。別当の長松山地蔵院泉蔵寺は他三ヶ寺とともに真言宗豊山派の練月山愛染院観音寺に合併された。鳥居横には田柄用水記念碑 (写真右上) が残されている。もとは東側の分水路にあったという。田柄用水は鳥居の前の道に変わったが、1871年 (明治4年)、田無用水を分水し開削されたものの、当初は流量が少なかったが、開削後20余年を経て増水の請願がよくやく実った事を記念し、1893年 (明治26年) に建立されている。
社殿両脇に末社が三社の末社が鎮座している。社殿向かって左手は櫛麻知命を祀る御嶽神社と榛名神社 (写真左上)、右手は宇迦之御魂神を祀る稲荷神社 (右上) になる。
また、境内には記念碑がたてられれいる。向かって左から大山阿夫利神社大神楽奏上記念碑、終戦50周年記念碑、富士登山記念碑が建っている。多くの神社にはこの様な記念碑がいくつも見られる。現在行っている沖縄集落巡りでは、沖縄戦慰霊碑がほとんどでこの手の記念碑はない。関東では終戦記念碑、軍人兵隊の忠魂碑、講中の登拝碑が多く、地域の事情の差が表れている。

庚申塔 (91番)

田柄地区の北西に豊島園通りの三叉路に1699年 (元禄12年) に建てられた板駒形の庚申塔が残っている。正面には青面金剛像が浮き彫りされて、六臂で上の左手に輪になった羂索、下の左手に弓、上の右手にの鉾状の棒、下の右手に矢を持っている。台座には三猿も刻まれている。


阿弥陀堂

愛宕神社の南側には豊島八十八ヶ所霊場42番札所の田柄阿弥陀堂がある。は、創建年代は不詳だが、江戸時代には清性寺が管理していたといい、清性寺の創建が江戸時代初期なので江戸時代初期以降の創建と推定できる。入り口に脇には顕彰碑、忠魂碑、霊場由来碑が建てられている。

庚申塔 (89番)

田柄愛宕神社の北側豊島園通り沿いには、1764年 (宝暦14年) に造られた駒形タイプで青面金剛像が掘られた庚申塔があった。ここにも花が供えられている。先に訪れた近くにある87番庚申塔にも花が供えられており、この地域では今でも庚申信仰が強く残っていることが判る。


子守富久江地蔵

庚申塔 (89番) から更に東に行ったところには地蔵尊があった。田柄地区では寺院以外に、道端の地蔵尊はこれは初めてだ。練馬では地蔵信仰よりも庚申信仰の方が民衆には身近な存在だった。詳細は不明だが、綺麗の掃除がされており、千羽鶴が欠けられ、造花ではあるが花が供えられて、この地蔵も地域住民に大切にされていることが判る。子守とあるので、子供に係わる御利益があるのだろう。


愛染院田柄不動尊

愛染院田柄不動堂は愛染院の境外仏堂で本院愛染院の北にある。新しい堂宇が建てられているが、2011年にたてかえられたもの。。


庚申塔 (88番)

動堂の左の通路を進み墓所入口の手前に2基の石仏が置かれている。向かって左には、舟型の如意輪観音像で、1674年 (延宝2年) 建てられたもの。隣には、1780年 (安永9年) に造られた方形の庚申塔があり、正面には文字で青面金剛が刻まれ、基壇正面には三猿が浮き彫りされている。左側面に「武州豊嶋郡上練馬村」と刻まれ、基壇には「南 なかむら道 講中 二拾壱人」「北 ふきあげ道 願主 直心 妙圓」と刻まれ道しるべとなっている。元々は、別の場所にあったものを、ここに移設されている。


相原家薬医門

相原家は、代々この付近一帯の組頭を務めた豪農で、奥州盛岡の大名の南部家の領地がこの付近にあり、南部家との関係があったと伝わっている。そのため、この相原家薬医門は、「南部の赤門」と呼ばれていた。現在の相原家薬医門は、1860年 (万延元年) にの再建され、切妻破風造造りの茅葺屋根で木部全体がにはベンガラ(当初は柿渋)が塗られている。この相原家敷地内には74番と75番の庚申塔があるようだが、民家になっており非公開なので見ることはできない。





これで今回訪れた田柄地区の文化財だが、多くの庚申塔、馬頭観音などは未訪問なので次回の東京訪問の際に見学を予定している。これで上練馬村訪問は終了。田柄訪問の後に、旧下練馬村も何回かに分けて訪れたが、訪問記は別とする。




参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
  • 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
  • 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)

0コメント

  • 1000 / 1000