練馬区 02 (10/10/22) 上練馬村 (2) 向山/春日町/田柄
上練馬村 向山 (こうやま)
- 庚申塔 (43番)
- 稲荷大明神
- 稲荷神社
- 小瞼現 地蔵尊
- 須賀神社
- 練馬城跡
- どんぶり坂 (伝練馬城堀遺構)
- 向山庭園
上練馬村 春日町 (かすがちょう)
- 耳塚
- ふじ大山道
- 練馬大根の碑
- 愛染院、西山稲荷大明神
- 六地蔵
- 庚申塔 (無登録、72番)
- 馬頭観音
- 庚申塔 (73番)
- 練馬国民学校跡
- 馬頭観音 (22番)、庚申塔 (71番)
- 一里塚子育地蔵、ふじ大山道道標
- 馬頭観世音 (46番)
- 稲荷神社
- 庚申塔 (65番)
- 稲荷神社
- 庚申塔 (67番)
- 馬頭観音 (47番)
- 長谷川家薬医門
- 春日神社
- 庚申塔 (70番)
- 馬頭観音 (45番)
- 寿福寺
- 庚申塔 (69番)
- 三峯社小祠、十羅刹女神祠、閻魔堂
- 庚申塔 (68番)
上練馬村 田柄 (たがら)
- 庚申塔 (87番)
- 田柄川跡 (田柄川緑道)
- 秋の陽公園
- 北野八幡神社
- 光ヶ丘美術館、馬頭観音 (35番)
- 庚申塔 (76番)、馬頭観音 (34番、36番、37番)
- 庚申塔 (90番)
- 稲荷神社
- 田柄愛宕神社
- 田柄天祖神社
- 庚申塔 (91番)
- 阿弥陀堂
- 庚申塔 (89番)
- 子守富久江地蔵
- 愛染院田柄不動尊
- 庚申塔 (88番)
- 相原家薬医門
向山 (こうやま)
向山は練馬区の南東部に位置し、周囲を春日町、中村北、練馬、貫井などと接する。低層住宅が密集し、狭隘な路地が多いが、概ね閑静な住宅街となっている。
1965年 (昭和40年) に住居表示が実施され「向山町」となっている。この際には向山一丁目には旧中村北二丁目、旧中村北三丁目、旧貫井町のそれぞれの一部、向山四丁目には貫井町の一部が編入されている。1964年から翌年には人口が約40%も増加しているのはこの他地域からの編入によるもの。たの地域と同じく高度成長期の前半は高い人口の伸び率を示している。高度成長期後半は人口増加は鈍化し、微増、横ばいを繰り返しながら、徐々に増え続けている。ここ数年は横ばい状態となっている。世帯数は順調に増加し、その傾向は現在でも続いている。
- 仏教寺院: なし
- 神社: 稲荷大明神、稲荷神社、須賀神社
- 城跡: 練馬城
- 庚申塔: 1基 馬頭観音: なし
まちづくり情報誌「こもれび」- 向山
練馬区がまちづくり情報誌「こもれび」を発行している。その中で区民調査隊という自由に参加できる活動があり、練馬の町を探索し情報を発信している。その地域を知るには非常に良い情報誌となっている。(https://nerimachi.jp/about/komorebi_backnumber.php)
向山訪問ログ
庚申塔 (43番)
稲荷大明神
稲荷神社
小瞼現 地蔵尊
稲荷大明神の南、道路脇には新しく造られたような小さな地蔵尊が置かれている。台座は古いものなので、この地蔵尊は作り直されたもののようだ。この地蔵尊についての情報は見当たらなかった。
須賀神社
向山町会々館の横に朱色の鳥居があり、須賀神社ねの参道が奥に続いている。参道は右に曲がり、その奥に須賀神社の祠があり、嵐、暴風雨の神、厄除けの神、縁結びの神、安産の守護神とされる素盞鳴尊が祀られている。その隣にも小さな祠があるが、この祠については情報は無かった。
練馬城跡
- 桓武天皇の流れを汲む坂東八平氏の秩父氏 (平将常、秩父将常) の一族が豊島氏で、当時は源氏の家人となっていた。秩父常将の次男 秩父武常が、1023年 (治安3年) に武蔵介藤原真枝を討った功により、武蔵国豊島郡と下総国葛飾郡葛西の地を賜り、この頃に豊島氏または葛西氏を称したと考えられている。武常は源頼義・義家に従って前九年の役か後三年の役で奥州で戦って戦死している。
- 秩父武常の二代あとの秩父康家が豊島氏の初代とされている)。
- 康家の子の豊島清光とその三男 葛西清重 (葛西氏の祖) が、1180年 (治承4年) の源頼朝挙兵に協力し関東平定の戦いに従軍した事で、所領を賜り源氏の御家人に加わる。当時は現在の北区豊島に館 (現在の平塚神社) を構えていた。
- 元弘年間 (1331年〜1333年) に、豊島泰景が石神井城を築き、その弟の豊島左近太夫景村が石神井城の支城として練馬城を築き、石神井郷の一円を支配。
- 1332年 (元弘2年) に楠木正成が金剛山で挙兵すると豊島一族は幕府軍に参加し、楠木正成を攻めている。1333年 (元弘3年) に足利尊氏が幕府に反旗を翻し、六波羅探題を攻めた際に、豊島重径と家信が探題の北条仲時とともに自刃している。
- 関東で新田義貞が挙兵すると、豊島景村はこれに加わり分倍河原の戦いに南朝軍として参戦している。鎌倉幕府最後の得宗高時の子の北条時行が南朝に加わって敗れて処刑された後に、景村はその長子の輝時を養子にしている。
- その後、豊島氏は練馬氏、板橋氏、平塚氏、小具氏など庶流を配して、武蔵国で大きな勢力を形成し、扇谷上杉定正に仕えていたが、上杉氏家臣の長尾景春が1476年 (文明8年) に謀叛を起こし鉢形城で挙兵。豊島泰経 (11代) は、長尾景春に呼応して上杉氏から離反。この背景には豊島氏と太田道灌との対立があった。上杉氏の重要拠点であった河越城と江戸城の間に石神井城、練馬城があったことから、豊島氏は上杉氏の両拠点間の連絡を絶つ重要な役割を担っていた。江戸城と河越城の連絡が絶たれ危機に陥った事から扇谷上杉定の家臣の太田道灌を1477年 (文明9年) 4月13日に江戸城を出発し、練馬城に矢を撃ち込み周辺に放火した。道灌は挑発行動で豊島軍を城から平場へ誘き出す戦術を用いたと言われる。その戦術が功を奏し、泰経の弟の練馬城主 豊島泰明は、石神井城の泰経と連絡を取り全軍で出撃し、両者は道灌が伏兵を潜ませていた江古田原で合戦となった。 (江古田・沼袋原の戦い) 豊島方は泰明ほか数十名が討ち死にし、泰経と他の兵は石神井城へと敗走。その時に、この練馬城も落城したと伝わる。泰経軍は石神井城に籠城したが、落城し平塚城に敗走。翌年の1478年 (文明10年) に泰経は平塚城で再挙するが、道灌の攻撃を受けて落城し、泰経は行方知れずとなり豊島氏本宗家は滅亡している。(小机城に逃れたという説もある)
- 豊島氏本宗家は滅亡後、泰経の子の康保が後北条氏に仕え、その子孫の経忠が武田氏次いで徳川氏に仕えて旗本になった。経忠の子の忠次は遠江国や近江国の天領代官となっている。忠次の孫の泰盈家系はその後、幕末まで続いている。
練馬城の推定縄張り図があったので、それを現在の地図にプロットしてみる。もっとも、現在の地形は当時を偲ぶものではないのだが、資料によれば、北は石神井川、西と東には谷があり自然要害を利用し、南は空堀を供えて城の防備としていた。旧街道道はその谷を取り囲むように走り、その街道から練馬城への道が伸びていた。想像では谷と空堀に囲まれた内部に城下町があったのではないだろうか? 今日見学した史跡も旧街道沿いに位置している。何となく中世から近世の練馬城付近が見えてくる。
どんぶり坂 (伝練馬城堀遺構)
向山庭園
春日町
向山の北隣の春日町に移る。この地域も何日かかけて訪問したのだが、民間信仰の象徴である庚申塔と馬頭観音が多く残っている。その内半分以上は未訪問となった。探したが見つからなかったものや資料で気づかず見落としたものがある。次回訪問時に再訪して探すことにする。
1932年 (昭和7年) に市郡合併の際に春日町となった。練馬城の城主の豊島氏一族の守護神を祀った旧村社春日神社に由来して付けられた名になる。豊島氏没落後の城主であった海老名左近はこの地を居館の一部としていたので、その地域の小字は海老ケ谷と呼ばれていた。春日小学校建設に伴って尾崎古代遺跡が発見されている。現在の春日町の民家の分布を見ると農村の典型的な形で、畑の近くに小さな集落が散在している。明治時代の地図では中宮、西中宮、北中宮、東中宮、海老ヶ谷戸、新塲の集落が見られる。上練馬村時代は村役場が置かれた中心地だった。1932年 (昭和7年) の東京市成立時には当時の板橋区に属して板橋区練馬春日町一丁目および二丁目となった。この集落は戦前までは大きく変わることなく続いている。春日町の住居地域が拡張したのは戦後になってからだ。1947年 (昭和22年) に板橋区から分離して独立行政区となっている。
練馬区になった後、1949年 (昭和24年) に「練馬」の冠称を外して春日町と名称を変更している。なった。1967年 (昭和42年) に住居表示が実施され、旧春日町一丁目・二丁目は、現行の春日町一丁目から六丁目となった。この際に新春日町一丁目には旧仲町六丁目の一部、新春日町四丁目には田柄町二丁目の一部が編入されている。高度成長期は前半は特に高い伸びで人口は増加している。高度成長期が終わった後は世帯数は横ばい、人口は減少に転じたが、2000年以降は世帯数も人口も堅調に増加している。
- 地蔵尊: 一里塚子育地蔵尊
- 仏教寺院: 愛染院、寿福寺
- 神社: 西山稲荷大明神、春日神社、稲荷神社、稲荷神社
- 庚申塔: 11基 馬頭観音: 7基
庚申塔 (74番、75番) は長谷川家敷地内で非公開。三基の馬頭観音 (48番、49番、無登録) は探すも見つからず。
まちづくり情報誌「こもれび」- 春日町
練馬区がまちづくり情報誌「こもれび」を発行している。その中で区民調査隊という自由に参加できる活動があり、練馬の町を探索し情報を発信している。その地域を知るには非常に良い情報誌となっている。(https://nerimachi.jp/about/komorebi_backnumber.php)
春日町訪問ログ
耳塚
むかし、上練馬村字中の宮 (春日町五丁目) に信仰心のあつい老婆がいました。老婆は生きていくのが嫌になり、村人たちに頼んで桶に入れて埋めてもらい、鉦をたたきながら往生しました。それからしばらくして、不思議なことに耳の悪い人が竹筒に耳をあてたり、花立てにたまった水で耳を洗うと耳の 病気がよくなりました。このことが近在に知れわたり、多くの人がお参りす るようになりました。現在は「円浄法師之位」と記した明治44年の石碑が建っている。
ふじ大山道
練馬大根の碑
愛染院、西山稲荷大明神
六地蔵
境内には六地蔵 (1739 元文4年)、弘法大師一千年供養塔、板碑、地蔵尊などの数多くの石造物が置かれていた。
庚申塔 (無登録、72番)
墓地への入り口の所には多くの地蔵尊が並んでいる。その手前には二つの庚申塔が置かれている。右端にある庚申塔は練馬区では無登録だが、1742年 (寛保2年) に方形笠付の石塔が造られ、青面金剛像、三猿が浮き彫りされている。その隣の庚申塔は72番で登録されており、1709年 (宝永6年) に建立され、板駒形の石塔で正面には青面金剛像、三猿が浮き彫りされている。
馬頭観音
馬頭観音もあった。練馬区では登録番号はふられていないのだが、1916年 (大正5年) に造られた方形文字型の馬頭観音になっている。
庚申塔 (72番)
練馬国民学校跡
愛染院の南には春日町青少年館がある。ここには戦前は練馬国民学校だったところになる。練馬地域には17の国民学校があり、練馬地区に9校、石神井地区に3校、大泉地区に5校置かれていた。ここには明治10年に開校した練馬国民学校があった。
海老谷ヶ戶の馬頭観音 (22番)、又六庚申塔 (71番)
春日町青少年館の庭には移設された庚申塔と馬頭観音が置かれている。
又六庚申塔 (71番 写真右上) は元々は春日町3丁目33番の富士街道沿いに建っていたが、道路拡幅整備で移設された。練馬大根発祥の伝説に関わる石造物で、青面金剛像と三猿が彫られ、「中宮村 講中十三人」「享保二丁酉霜月十日」「親講 鹿嶋又六」と銘がある。 又六は練馬大根を作りはじめた上練馬村の百姓。練馬大根発祥については、徳川綱吉が脚気のため練馬で療養していた時、旧家に栽培させたとの説や又六に宮重大根の種を与え栽培させたなどの伝説もある。又六庚申塔の隣には海老谷ヶ戸の人々が、1778年 (安永7年) に安全祈願などのために、この近くの豊島園沿いの道が二又に分かれた場所 (練馬4-8) に建てた海老ヶ谷戶の馬頭観音 (左下) を移設してきている。板駒形の石塔で馬頭観音が浮き彫りされ、側面には「右ハ中村南 蔵院道」、「左ハぞうしかや道」と記され、 道しるべになっている。
一里塚子育地蔵、ふじ大山道道標
馬頭観世音 (46番)
稲荷神社
庚申塔 (65番)
稲荷神社
庚申塔 (67番)
練馬東中学校北東十字路に 1766年 (明和3年) に造られた駒形の庚申塔があり、正面には日月雲 邪鬼を踏みつけた青面金剛立像 合掌型六臂が浮き彫りされている。
馬頭観音 (47番)
長谷川家薬医門
長谷川家は江戸時代中期から代々上練馬村名主を務め、明治時代には戸長を務めていた。長谷川家には様々な古文書が所蔵され、「長谷川家文書」として保存され、1998年に練馬区文化財として登録されている。当時の世帯数、産業など村の概要を表した「村方銘細書上帳」、村絵図などがあり、江戸時代の上練馬村の様子を表した重要な史料。長谷川家住宅は江戸時代後期に建てられた茅葺屋根の大屋敷だったが、老朽化のため瓦葺の建物に建て替えられ、現在では薬医門だけが残っている。薬医門は切妻屋根の門で格式ある門構えとなっている。
春日神社
春日神社は鎌倉時代、工藤祐経の孫の祐宗が頼朝に従って奥州征伐に向かう途中、自分の先祖藤原氏の氏神である大和の春日神社の祭神をここに勧請して、戦勝を祈願したのにはじまるという。その後、練馬城の城主、豊島泰経も一族の守護神として当社を深く崇敬した。豊島氏没落後、あとの練馬城主海老名左近はここを居館の一部としていた。この地域はかつては海老名と呼ばれていたのはこの事による。神社は江戸時代、十羅刹女 (じゅうらせつにょ) 社と呼んでいたが、明治の神仏分離で、十羅刹女社は隣の寿福寺へ、祭神 (天児屋根大神) は春日神社として祭られた。境内には1917年 (大正6年) に新築された春日造りの本殿と拝殿からなる社殿が正面にある。
庚申塔 (70番)
馬頭観音
神楽殿と絵馬殿の間の奥には馬頭観音があった。正面には馬頭観世音と刻まれ、側面に明治三年とつくられた年が刻まれている。
寿福寺
庚申塔 (69番)
三峯社小祠、十羅刹女神祠、閻魔堂
本堂の左、墓地の奥まった所には三峯神社小祠、十羅刹女神祠、閻魔堂がある。三峯社小祠は埼玉県秩父市に所在する三峯神社へ毎年参拝して大神楽を奉納していた春日町三峯五十人講によって、昭和9年に建てられたもの。十羅刹女神祠は神仏分離時に隣の春日神社から移されたという。(昔は、隣の春日神社は十羅刹女社と呼ばれていたそうだ)
庚申塔 (68番)
三つの祠の前にも庚申塔があった。1706年 (宝永3年) に武州豊嶋郡上練馬海老ケ谷戸村により置かれたもので、舟形で正面には邪鬼を踏みつけた青面金剛像と三猿が浮き彫りされている。
田柄
田柄は練馬区の北部に位置し、北部は光が丘、板橋区赤塚新町、東部は練馬区北町、南部は春日町、西部は光が丘とそれぞれ接している。
江戸時代の田柄は、現在の田柄の約2倍の広さがあった。東は旧下練馬村の北町の自衛隊付近 (当時の下田柄) から、西は旧上練馬村の光が丘 (当時の上田柄) までにまたがっていた。現在の田柄地域にあたる上田柄は東田柄、中田柄、西田柄、前田柄、北田柄、田柄谷、田柄久保の字に分かれていた。当時、田柄は水利が良くなく、水の涸れた空の田んぼがあり、田の作柄はあまり芳しくなく、年貢の率は他の地域に比べて低かった。 明治4年、干ばつに悩む村人たちは資金を出し合い、近隣の村々と協力して、玉川上水の分水を引き、干上がった水田は、この多摩川の流れで潤った。
1932年 (昭和7年)、旧上練馬村の田柄地区は板橋区練馬田柄町となった。1949年 (昭和24年) に田柄町となった。1967年 (昭和42年) に住居表示を実施して現行の田柄一丁目から五丁目となった。明治時代からの民家の分布を見ると戦前までは点在していた元々の集落が僅かに広がったぐらいで、大きく拡大するのは戦後になる。
江戸時代には武蔵国豊島郡上練馬村小名上田柄で、田柄という地名はそれ以前、古くから存在していたが、その由来は定かでないそうだ。上練馬村と下練馬村にまたがり、区別のため上練馬側は上田柄と呼ばれ、現在の光が丘のあたりまで、下練馬川端も田柄といい現在の北町の自衛隊練馬駐屯地あたりまでを指す広大な範囲だった。上田柄は東田柄、中田柄、西田柄、前田柄、北田柄、田柄谷 (たがらや)、田柄久保 (たがらくぼ) 等の字に分かれていた。1932年(昭和7年)の板橋区成立時に練馬田柄町となり、練馬田柄町一丁目 (字は上田柄、中田柄、西田柄、菅原、田柄久保、前神明) と練馬田柄町二丁目 (字は愛宕原、神明ヶ谷戶、北田柄、前田柄、田柄谷、東田柄、神明久保、北神明、神明原) の行政地区となっている。
1947年 (昭和22年) に練馬区が板橋区から分離し、独立行政区となって、田柄町はそのまま練馬区に属することになった。1949年 (昭和24年) に「練馬」冠を外して田柄町と名称を変更している。1967年 (昭和42年) に住居表示を実施して田柄町から現行の田柄一丁目から五丁目の構成となっている。この時に田柄三丁目には旧春日町一丁目の一部、田柄四丁目には旭町の一部が編入されている。高度成長期には、1960年代は高い人口増加率で、その後は増加率はしだいに減少してはいるが、2020年までは常に前年を上回っていた。2021年を境に人口は少しづつ減少となり、その傾向は今後も続くと考えられる。世帯数も同様に堅調に増加していたが2020年以降は横ばいとなっている。
- 仏教寺院: 阿弥陀堂、不動堂
- 神社: 北野八幡神社、稲荷神社、田柄天祖神社、田柄愛宕神社
- 地蔵尊: 古森富久江地蔵
- 庚申塔: 6基 馬頭観音: 1基
庚申塔 (92番) と馬頭観音 (58番) は探したが見つからず。2023年4月20日に石神井町の郷土資料室の池淵遺跡公園を訪れた際に、この二つが移設されていた。
まちづくり情報誌「こもれび」- 田柄
練馬区がまちづくり情報誌「こもれび」を発行している。その中で区民調査隊という自由に参加できる活動があり、練馬の町を探索し情報を発信している。その地域を知るには非常に良い情報誌となっている。(https://nerimachi.jp/about/komorebi_backnumber.php)
田柄訪問ログ
庚申塔 (87番)
田柄川跡 (田柄川緑道)
秋の陽公園 (田柄緑道起点)
北野八幡神社
光ヶ丘美術館、馬頭観音 (35番)
庚申塔 (76番)、馬頭観音 (34番、36番、37番)
更に奥にも三つの馬頭観音と庚申塔が置かれている。
- 庚申塔 (76番 右端):1724年 (享保9年) の板駒形で、邪鬼を踏みつけた六臂青面金剛立像、日月、三猿が浮き彫りされて、「奉造立庚申供養為二世安樂也」とあり、「武刕豊嶋郡上練馬村上田柄邑講中二十人、願主 相原▢衛門」と刻まれている。
- 馬頭観音 (34番 右から二番目):1755年 (宝暦5年) の駒型で正面に馬頭観音が浮き彫りにされ、右上には「武刕豊嶋郡上田柄▢▢」とある。
- 馬頭観音 (36番 左から二番目):1808年 (文化5年) の櫛型角柱型で正面には南無馬頭觀世音菩薩 観音講中、右脇には武州豊嶋郡上練馬邑上田柄と刻まれている。
- 馬頭観音 (37番 左端):1857年 (安政4年) の小さな角柱文字型でかなり摩滅してが「馬頭観世音 位と掘られ、側面には安政4年十二月の年紀と相原玉左ヱ門の願主名が刻まれている。
庚申塔 (90番)
稲荷神社
北野八幡神社の前の道を東に進んだところに、赤鳥居の奥の小さな祠の稲荷神社があった。この稲荷神社の詳細は見つからなかった。
資料では別の場所にも稲荷神社があるとなっていたので、そこに行ってみたが見つからなかった。後で訪問記の編集でインターネットを見ていると、見つからなかった場所にこの稲荷神社と全く同じものが写った写真があった。ここには元の場所から移設されていたようだ。下の写真が元の場所に置かれていた時のもの。
田柄愛宕神社
田柄天祖神社
庚申塔 (91番)
田柄地区の北西に豊島園通りの三叉路に1699年 (元禄12年) に建てられた板駒形の庚申塔が残っている。正面には青面金剛像が浮き彫りされて、六臂で上の左手に輪になった羂索、下の左手に弓、上の右手にの鉾状の棒、下の右手に矢を持っている。台座には三猿も刻まれている。
阿弥陀堂
庚申塔 (89番)
田柄愛宕神社の北側豊島園通り沿いには、1764年 (宝暦14年) に造られた駒形タイプで青面金剛像が掘られた庚申塔があった。ここにも花が供えられている。先に訪れた近くにある87番庚申塔にも花が供えられており、この地域では今でも庚申信仰が強く残っていることが判る。
子守富久江地蔵
庚申塔 (89番) から更に東に行ったところには地蔵尊があった。田柄地区では寺院以外に、道端の地蔵尊はこれは初めてだ。練馬では地蔵信仰よりも庚申信仰の方が民衆には身近な存在だった。詳細は不明だが、綺麗の掃除がされており、千羽鶴が欠けられ、造花ではあるが花が供えられて、この地蔵も地域住民に大切にされていることが判る。子守とあるので、子供に係わる御利益があるのだろう。
愛染院田柄不動尊
愛染院田柄不動堂は愛染院の境外仏堂で本院愛染院の北にある。新しい堂宇が建てられているが、2011年にたてかえられたもの。。
庚申塔 (88番)
動堂の左の通路を進み墓所入口の手前に2基の石仏が置かれている。向かって左には、舟型の如意輪観音像で、1674年 (延宝2年) 建てられたもの。隣には、1780年 (安永9年) に造られた方形の庚申塔があり、正面には文字で青面金剛が刻まれ、基壇正面には三猿が浮き彫りされている。左側面に「武州豊嶋郡上練馬村」と刻まれ、基壇には「南 なかむら道 講中 二拾壱人」「北 ふきあげ道 願主 直心 妙圓」と刻まれ道しるべとなっている。元々は、別の場所にあったものを、ここに移設されている。
相原家薬医門
相原家は、代々この付近一帯の組頭を務めた豪農で、奥州盛岡の大名の南部家の領地がこの付近にあり、南部家との関係があったと伝わっている。そのため、この相原家薬医門は、「南部の赤門」と呼ばれていた。現在の相原家薬医門は、1860年 (万延元年) にの再建され、切妻破風造造りの茅葺屋根で木部全体がにはベンガラ(当初は柿渋)が塗られている。この相原家敷地内には74番と75番の庚申塔があるようだが、民家になっており非公開なので見ることはできない。
これで今回訪れた田柄地区の文化財だが、多くの庚申塔、馬頭観音などは未訪問なので次回の東京訪問の際に見学を予定している。これで上練馬村訪問は終了。田柄訪問の後に、旧下練馬村も何回かに分けて訪れたが、訪問記は別とする。
参考文献
- 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
- 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
- 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
- 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
- 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
- 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
- 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)
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