東京 (11/10/22) 江戸城 (40) 坂道巡り 新宿区 (5)

新宿区内の坂道

  • 東福院坂 (とうふくいんざか)
  • 於岩田宮稲荷神社
  • 於岩稲荷陽運寺
  • 高力坂 (こうりきざか)
  • 比丘尼坂 (本塩町 びくにさか)
  • 坂町坂 (さかまちざか)
  • 津の守坂 (つのかみざか)
  • 仲坂 (なかさか)
  • 合羽坂 (かっぱさか)
  • 新五段坂 (しんごだんざか)
  • 新坂 (しんざか 荒木町)
  • 台町坂 (だいまちざか)
  • 自証院坂 (じしょういんさか)
  • 自証院



今日は虎の門病院で定期検査だった。午前中にエコーで内臓の状態を検査、午後一番にそ血液検査。検査結果を待ち、医者の診断を受ける。特に問題はなかった。夜は以前働いていた会社の部下達と新宿で会食を予定している。午後は新宿の会食の店に向かって新宿区の坂道巡りを再開する。今まで四回にわたって新宿坂道巡りをしたが、江戸の坂道は非常に多く、まだまだ通っていない坂道が残っている。今日はそれ程時間は取れないのだが、残っている坂道の幾つかを巡る。



新宿区坂道訪問ログ



病院の検診を終えるとすでに2時近くになっている。ここから四谷に向かう。



東福院坂 (とうふくいんざか)

四谷駅を過ぎた若葉地区にある坂道から。この坂は途中にある阿祥山東福院に因んで東福院坂と呼ばれた。天王坂ともいわれ、明治以前の須賀神社は牛頭天王社と称していたため、この辺りが天王横町と呼ばれていたのでこう呼ばれていた。

於岩田宮稲荷神社

東福院坂の西側には田宮稲荷神社がある。この神社は於岩稲荷と呼ばれ、四谷左門町の御先手組同心田宮家の邸内社だった。初代田宮又左衛門の娘 お岩 (1636年 寛永13年没) が信仰し、養子の伊右衛門とともに田宮家再興したことから「お岩さんの稲荷」 と呼ばれて、御利益を求めて次第に人々の信仰を集め、邸内社だったが一般にも開放し、於岩稲荷大巌稲荷、四谷稲荷、左門町稲荷と呼ばれるようになった。その後、鶴谷南北の戯曲「東海道四谷怪談」が1825年 (文政8年) に初演されると更に多くの信仰を集めるようになった。戯曲は怪談仕立てになっているのだが、この時より200年前に実在したお岩と伊右衛門は夫婦円満だったそうだ。伊右衛門は極悪人、お岩は醜い幽霊として描かれてしまい気の毒な気がする。元々の稲荷社は1879年 (明治12年) に火事で消失し、その際に東海道四谷怪談を得意とした初代市川左團次の勧めで芝居小屋の近く、現在の中央区新川の土地の寄進を受け移転している。その後もこの地は田宮家の住居として管理されており、戦後、1952年 (昭和27年) に、四谷の旧地にも神社を再建したのがここの於岩田宮稲荷神社になる。祭神には豊受比売大神とお岩さんの田宮於岩命が祀られている。

於岩稲荷陽運寺

於岩田宮稲荷神社の向かいには於岩稲荷陽運寺がある。お岩さん由来のお寺の様だ。境内にはお岩稲荷がある。また、四谷怪談にも登場するお岩井戸なるものもある。
先程の於岩田宮稲荷神社より綺麗に整備されて、寺の中には土産物屋 (写真左) やとcafe (右) がある。観光地化している。後で調べると、この寺は戦後に造られた寺で、元々はお岩さんとは関係がないのだが、向かいにある於岩田宮稲荷神社のお岩さんにあやかった商売上手の寺の様だ。四谷怪談はフィクションなのでお岩井戸などは存在しないのだが、観光客はそれでもお岩井戸があった方が良い様だ。この寺の御利益は縁結びと縁切りでお守りはその二種類ある。上手くやっている!cafeも洒落ている。儲かっている様だ。向かいの於岩田宮稲荷神社の宮司はこの寺のことをどう思っているのかが、少し気になる。


次は市ヶ谷駅方面に向かう。


高力坂 (こうりきざか)

靖国通りから外堀通り沿いに西に緩やかな登り坂が高力坂だ。新撰東京名所図会には「市谷門より四谷門へ赴く、堀端辺に坂あり、高力坂という。幕臣高力小次郎の邸あり、松ありしかば此名を得たり、高力松は枯れて、今、人見の合力松を存せり,東京電車鉄道の外濠線往復す」とある。高力邸にあった松が 高力松と呼ばれ有名だったので、その松にちなんで、坂名を高力坂と名づけたそうだ。

比丘尼坂 (本塩町 びくにさか)

高力坂を降りてまた登る。そこから靖国通り方面に短い坂がある。比丘尼坂という。昔、この坂の近くの尾張家の屋敷に剃髪し尼僧となった老女がいたことから、こう呼ばれたという。

坂町坂 (さかまちざか)

比丘尼坂のすぐ西側に北から南への緩やかな登り坂があり、江戸時代は名はなかったが、この辺りが四谷坂町だったので明治時代から坂町坂と呼ばれる様になったそうだ。

津の守坂 (つのかみざか)

新宿駅方面に向かう。新宿歴史博物館を過ぎたところが南側から北側へ下る津の守坂通りががあり、この緩やかな長い坂道が津の守坂になる。小栗坂ともいう。昔、坂上の西脇に 松平摂津の守の屋敷があったので、こう呼ばれている。

仲坂 (なかさか)

次の坂は仲坂で、津の守坂を降りて、坂の反対側にわたり、もう一度坂を登る。坂道の真ん中ぐらいから西に進んだところにあった。階段の坂だった。自転車を停めて階段を降りる。降りたところ両脇に石柱があり、左は坂の名が刻まれ、右には昭和7年竣工とある。新しい坂道だった。

合羽坂 (かっぱさか)

仲坂を登って自転車に乗って靖国通りに出る。靖国通りから防衛省の西端の合羽坂下交差点から北西方向に分岐する緩やかな登り坂がある。新撰東京名所図会には「合羽坂は、四谷区市谷片町の前より本村町に沿うて、仲之町に登る坂路をいう。昔 此坂の東南に蓮池と称する大池あり。雨夜など獺しばしば出たりしを、里人誤りて河童と思いしより 坂の呼名と… 転じて 合羽の文字を用い云々」 とある。河童坂が合羽坂となったのだ。坂の下には河童のモニュメントが置かれていた。ここが蓮池跡なのだろうか?

新五段坂 (しんごだんざか)

合羽坂を登ってクロスするのが新五段坂で北北東に向かって登りのやや急坂になっている。江戸時代にあった尾張藩邸 (現在の防衛省) の藩士たちが居住する武家長屋「五段長屋」があり、その前の坂は「五段坂」と呼ばれていたが、明治維新後に尾張藩邸は陸軍の陸軍士官学校 (戦後は米国により接収) となり、五段坂もその構内に取り込まれ消滅した。戦後は自衛隊となりその敷地の西側に作られたのがこの坂で「新五段坂」と命名された。呼ばれている。 


新坂 (しんざか 荒木町)

新五段坂を南に下ると外苑東通りになり、そこから北側の曙橋に向かって下る急坂道があり、全勝寺の地所を削って新しくできた新しい坂なので新坂と呼ばれた。新撰東京名所図会には「全勝寺は…大門長くして杉樹連なりしを以て俗に杉門と呼べり。今は杉樹は伐採し、其の路は新道に通じ直に市谷に達せり」と記されている。

台町坂 (だいまちざか)

新坂を下り、曙橋駅を渡ると予丁町通りに入る。ここも登り坂道になっており、この辺りは市ヶ谷台町だったことから台町坂と呼ばれている。江戸時代にはこの坂は存在せず、この辺り一帯は岡山藩板倉家の中屋敷だった。ここで五時を過ぎており、あたりは薄暗くなり始め、ヘッドライトを点灯している車が多くなって来た。そろそろ、坂道巡りを切り上げる時間だ。

自証院坂 (じしょういんさか)

台町坂近くにもう一つ坂道があるので、それが今日最後の坂にする。台町坂を登り左への路地に入り進んだ所寺があり、そこから靖国通りに出る下り坂になっている。この寺が自証院という名なので、自証院坂と呼ばれている。江戸時代はここは自証院の敷地内だった。

自証院

坂の名となった自証院は、1640年 (寛永17年)、尾張藩主徳川光友の夫人 千代姫の母、自証院を供養するために創建された寺。s創建当時は日蓮宗本理山自証寺だったが、後に天台宗に改宗されている。古くは桜の名所で、堂塔の用材に使われていた檜の節目が多かったのでも、ふし寺または瘤寺とも呼ばれていた。今では小さな寺だが、江戸時代には上の地図の様に一万坪の広大な敷地だった。

この後、あたりは急速に暗くなり、自転車のライトをつけて、今日の会食場所がある新宿駅付近に向かう。会食にはまだ少し時間があり途中の公園で休憩を取ってから、居酒屋で、元部下二人と再開。

0コメント

  • 1000 / 1000