練馬区 03 (14/10/22) 下練馬村 (1) 北町

下練馬村 北町 (きたまち)

  • 旧川越街道 下練馬宿跡 (北町商店街)
  • 庚申塔 (上板橋2-19-8)
  • 下宿稲荷神社
  • 三叉馬頭観音 (52番、53番)
  • 下練馬大山道道標
  • 稲荷祠
  • 扶桑教辯天宮
  • 脇本陣跡 (内田家)、本陣跡 (木下家)、問屋場跡
  • 浅間 (せんげん) 神社
  • 天祖神社、神明社
  • 清性寺跡
  • 阿弥陀堂、千川家墓所
  • 徳川綱吉御殿跡碑
  • 北町観音堂 (石観音堂)
  • 庚申塔 (85番、86番)、馬頭観音 (54番、55番)
  • 下練馬宿本陣跡 (大木金兵衛館跡)
  • 大松氷川神社
  • 氷川神社富士塚
  • 馬頭観音 (57番)

2023年1月13日 訪問

  • 棚橋跡
  • 子育て地蔵
  • 連隊門哨所
  • 捨て場、馬頭観音で
  • 庚申塔 (83番)
  • 庚申塔 (84番) [不明]
  • 最勝寺


上練馬村訪問は終わり、その東側にあった下練馬村を巡る。今回の東京訪問は午前中に予定を入れており、終日時間が取れないのと、資料の読み込みの時間が取れず、読み続けるたびに見学したい場所が出てきて、この地域も10月8日、10日、14日、16日の四日で訪問した。12日は免許更新を午前中に済ませたが、午後から雨、13日は練馬区の緑内障検査だったが終日雨で文化財巡りは出来ず、ようやく晴れた14日の午前中は練馬区の健康診断とインフルエンザ接種で午後からの文化財巡りとなった。


下練馬村

江戸時代以前の記録には「ねりまの郷」、「江戸練間」とあり、上練馬、下練馬の別はなかった。江戸時代になって、上下両村に分かれた。文政年間 (1818~1830) の新編武蔵風土記稿には今神 (いまがみ)、湿化味 (しっけみ)、三軒在家 (さんげんざいけ)、早淵、田柄、宮ケ谷戸 (みやがいと)、宿 (しゅく)、本村 (ほんむら) の八つの小名が見られる。明治初年、地租改正後の下練馬村には64の小字があった。当時の下宿 (しもじゅく)、渡戸 (わたど)、糀谷 (こうじや)、正久保、羽根木 (はねき) などの小字名称が、今も橋の名に残っている。昭和4年には関東大震災後の人口急増により町制となり練馬町となった。1932年 (昭和7年)、北豊島郡に属していた下練馬村等は、市郡合併で新しくできた板橋区に編入され、下練馬村は北町、仲町、南町の3つの町に分割された。1947年 (昭和22年) に練馬区が独立し仲町と南町の地名は消えた。練馬は純農村地帯で下練馬村も農地が多かったが、武蔵野台地に位置し水利が良くないため、農地としては適さなかった。地主も農作を諦めて土地を貸すなどした者もいて、洪水にも悩まされた。そうした中で田柄用水事業も行われた。




北町 (きたまち)

北町は北部を板橋区の徳丸、上板橋、赤塚新町、西台など、南部を練馬区平和台、田柄、錦などと接している。北町の中心部は旧川越街道沿いのかつての下練馬宿の地域で大いに賑わっていた。現在でも商店街として宿場町の名残が見られる。東武東上線の東武練馬駅付近を中心に工業も比較的盛んな地域だ。
下練馬村時代は、下練馬宿を中心に西の方は馬喰ケ谷戸、大松、久保、その南の農作地帯であった池ノ端、田柄谷、池ノ上、伊勢原、大山街道の北側になる御殿、桜台、庚申塚、大山、富士山、田柄前などと呼ばれた区域だった。

その後、1914年 (大正3年) に東上線が開通したが、上板橋駅の次は成増駅で当地に駅はなかった。1931年 (昭和6年) に東武練馬駅が開業している。

1932年 (昭和7年) に板橋区に編入された際、旧練馬町を練馬北町、練馬仲町、練馬南町に分割している。1941年 (昭和16年) に東京府立北野高等女学校 (後の東京都立北野高等学校)が徳丸に開校、1941年 (昭和16年) に川越街道新道が開通し、同倉庫や朝霞の士官学校に通じる道路として重要となり、倉庫敷地も拡張されていった。北町が発展するのは、昭和初期から戦前にかけて、農業振興目的で田柄川の河川改修を含めた耕地整理、その終了後の1940年 (昭和15年)、東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫が置かれてからになる。

第二次世界大戦では練馬区も米空軍の本土空襲の対象となり、1945年 (昭和20年) 4月1日~14日にかけて、大型爆撃機「B29」150機の空襲で区内各地に被害を出し、軍倉庫も火災を起し中宿を中心に民家におよび、多数の焼失家屋を出した。終戦後、練馬区は農地が多く住宅の密集地が少なく、他区に比べてさほど大きな被害は受けなかったので、多くの引揚げ者や避難家族が移り、深刻な住宅問題が起こっていた。戦後は倉庫跡が練馬駐屯地などになり官舎もできた。東武練馬駅周辺や旧川越街道の周辺なども宅地化は急速に進み、商店なども増えた。

戦後は練馬の冠が外れた後、仲町と南町は消え、北町だけがそのまま残っている。1960年代(昭和30年代後半以降の一時期にはの北一商店街、きたまち商店街には、広域から集客し雑踏と殷賑を極めたという。

1966年 (昭和41年) に実施された住居表示で、それまで北町一丁目~三丁目が北町一丁目~八丁目に細分化されている。この時に、旧北町から錦一丁目の北側3分の1、旧錦二丁目の半分強、平和台一丁目と二丁目の北端の一部に編入している。

入手できた人口データの1956年から2022年までは1.9倍と他の地域に比べて極めて低い率になっている。これは北町は元々宿場町で人口も多く、更に北町は練馬区の中では昭和初期から戦前まで、早くから発展をした地域だったことによるのだろう。高度成長期の終盤、1970年を人口ピークとして、それ以降2000年初めまでは人口は減少しているが、それ以降は少しながら増加を続けている。


練馬区史 歴史編に記載されている北町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
  • 仏教寺院: 清性寺跡、阿弥陀堂、北町観音堂 (石観音堂)
  • 神社: 下宿稲荷神社、稲荷祠、扶桑教辯天宮、浅間神社、天祖神社、神明社、大松氷川神社
  • 富士塚: 浅間神社富士塚、氷川神社富士塚
  • 庚申塔: 4基 馬頭観音: 6基


まちづくり情報誌「こもれび」- 北町


北町訪問ログ




旧川越街道 下練馬宿跡 (北町商店街)

まずは旧川越街道の下練馬宿沿いの史跡を見ていく。旧川越街道は日本橋から板橋宿までは中山道で、板橋宿の平尾追分で分岐して川越城下の江戸町西大手門に至る43kmの街道だった。江戸時代には6つの宿場が置かれ、中山道板橋宿から二つ目の宿場が下練馬宿になる。下練馬宿は川越のある北西側から上宿・中宿・下宿の3つからなり、本陣、脇本陣、問屋場が揃っていた。参勤交代で通る大名や鷹狩りに行く綱吉、富士や大山への参詣者、秩父巡礼者らが利用した。ただ宿泊者は少なく、休憩利用が多かったという。
この街道の歴史は古く、室町時代の1457年 )長禄元年) に、上杉持朝の家臣 太田道灌が江戸城 (千代田城) と川越城 (河越城) を築き、それまでにあった古道を繋ぎ、2つの城を結ぶ道を作った。これは当時対立していた古河公方に対する扇谷上杉家の防衛線となっていた。後に豊島泰経が道灌に対抗するために練馬城を築いて江戸と河越の間の道を封鎖しようとしたために両者は激しく対立し、両者は江古田・沼袋原で激突し、豊島氏が滅亡している。江戸時代に入って1639年 (寛永16年) に川越藩主になった松平信綱と嫡男の松平輝綱が、中山道の脇往還として整備し、当時は川越道中、川越児玉往還などと呼ばれていた。この川越街道は一般の人はあまり通らず、川越から江戸に向かう大名が使っていた。その為、この宿場には宿屋は置かれておらず、休憩の為の茶屋があったぐらいだった。明治時代になって川越街道と呼ばれるようになった。街道には、中山道の板橋宿の平尾追分で分岐して、上板橋宿、下練馬宿、白子宿、膝折宿、大和田宿、大井宿の6ヵ宿が設置され、各宿には伝馬役が置かれた。各宿場には、川越城下練馬大山道道標のある川越から見て上宿、中宿、下宿が置かれ、それぞれに本陣や脇本陣があった。この下練馬宿は北町商店街になり、下に載せた史跡マップを発行している。手持ちの資料とこのマップを参考に下練馬宿を板橋宿側にある下宿から散策する。

庚申塔 (上板橋2-19-8)

旧川越街道の下練馬宿下宿に道沿い、上板橋との区境界 (上板橋側) に庚申塔が置かれている。この辺りから下宿が始まる。
この近くに昔の宿場町の情緒が感じられる家があった。この後、宿場を見てまわるのだが、これ以外は近代的な家屋、店、ビルに建て替えられている。写真右は1913年 (大正2年) に建てられた野瀬米店。

下宿稲荷神社

下練馬宿の下宿を通る川越街道のすぐ南側の住宅街に入ったすぐ下宿稲荷神社がある。ここはちょうど板橋区との境界になる。下宿稲荷神社の創建年代等は不詳だが、寛政四年村絵図に稲荷祠が記載されているので遅くとも1792年 (寛政4年) には鎮座していたことになる。

三叉馬頭観音 (52番、53番)

先程の庚申塔から川越街道から北西への道に分岐し少し進んだところに三叉馬頭観音が四辻のど真ん中にある。三叉と言うことから昔は三叉路だったのだろう。それにしても道のど真ん中で少し危ない気もする。祠内には馬の置物があり、その奥に二つ馬頭観音が建っている。左の文字が摩滅してしまった方形のものは53番で登録され、道しるべも兼ねており、「右 いたばし道」「左 戸田道」と書かれているそうだ。右の52番駒形馬頭観音は1815年 (文化12年) に作られ、馬頭観音が彫られている。これも道しるべになっており、「右 王子道」、「左 戸田渡みち」と書かれているそうだ。同じところに異なった道しるべとは変なので、どちらかか、両方ともここに移設されたのかも知れない。

下練馬大山道道標

川越街道に戻り、下練馬宿を進むと環八通りの北町若木トンネルの上に至る。ここには下練馬大山道道標が移設されている。環状八号線の工事により少し移動している。元々あった場所の写真が案内板に載っていた。川越街道とふじ大山道の分岐点で1753年 (宝暦3年) に富士・大山信仰の練馬村講中によって建てられている。道標上部の不動明王像は後に制作されたものだそうだ。道標は二つあり向かって左側の角柱は東高野山道標で「左東高野山道」と刻まれ、高野台の長命寺への道し
るべ、右が相模の大山への道しるべとなっている。

稲荷祠

環八通り手前の北側の駐車場の隅に小さな稲荷神社祠がある。詳細は不明。

扶桑教辯天宮

稲荷祠の道の向かいには扶桑教の辯天宮がある。扶桑教は各地にあった富士講の集団を結集し1873年 (明治6年) に富士一山講社が設立され、後に扶桑教となった教派神道の一派になる。「地底より天空へ息吹なす冨士山こそ、天地結霊の御柱・萬本の根源である」という冨士道の教義に基づき富士山信仰がベースにある。
扶桑教ができたのが明治初期なので、この神社はそれ以降の創建となる。鳥居を潜った所に手水があり、波汐と三つ鱗の紋がある。三つ鱗は北条氏の家紋なので、北条氏と関係があるのだろうかと思っていたが、調べると北条氏とは関係は無く弁財天の神紋だそうだ。正面に本殿 (中) と境内には稲荷神社 (下) がある。

弁天宮の七夕行事として、ちがや馬を作り、農作物の豊作や無病息災を星に祈願する風習が今も続いている。 七夕星祭りは、毎年8月6日-7日に行われ、雌雄一対の馬を作って飾っている。


脇本陣跡 (内田家)、本陣跡 (木下家)、問屋場跡

下練馬大山道道標のある環八通りを渡った旧川越街道には脇本陣、その先に本陣があった場所になる。本陣は木下家、脇本陣は内田けがその役割を担っていた。今では当時の面影は残っていない。木下家の向かいには島野家が務めた問屋場も置かれていた。この辺りから中宿となっていた。

浅間 (せんげん) 神社

明治前後に創建された浅間神社がある。板橋区にある徳丸北野神社の兼務社で、そのとなりは富士塚になっている。と思ったのだが、実はこの富士塚が浅間神社で隣の社殿は境内社の大日霎貴尊を祀る天祖神社だった。富士塚は下練馬宿の中宿の丸吉講 (まるきちこう) が江戸時代後期に築いたもので、明治5年に修復され、1923年 (大正12年) の関東大震災で崩壊したものを1927年 (昭和2年) に山を崩し、場所を少し移動して築造している。丸吉講は、新座郡片山村の浅海吉右衛門 (行名 蓉行芙厚) が1831年 (天保2年) に開いた富士講の講中で入間郡、多摩郡、豊島郡、新座郡の4郡に加入戸数4000軒の信者をかかえていた。この講中が明治以降も中里の富士塚 (大泉富士)、氷川神社の上赤塚富士、板橋区大門諏訪神社の下赤塚富士を残している。富士塚の頂上に奥宮 (写真右下) が置かれ、祭神 木花咲耶姫命 (このはなさくやひめのみこと) を祀っている。
昔は北町は現在の平和台も含んでおり、町内を通るかつて「ふじ大山道」と呼ばれていた富士街道は大山や富士山などへの多くの参詣者が通っていた。その途中の休憩に下練馬宿が利用されていた。練馬区内でも幾つかの富士講が組織され、北町には丸吉講があった。講中は毎年富士山に登拝していたが、それができない人の為に丸吉講がこの地に富士塚を造った。この富士塚を登ることで富士山を登拝したのと同じ御利益があると言う。富士塚の入り口に登拝案内図が置かれていた。
富士塚にはまずは教祖の像 (左上) が置かれている。富士講の開祖と言われる角行藤仏 (1541~1646)だろうか? 登って行くと三猿、天狗、歌碑、同行碑などがある。

天祖神社、神明社

富士塚の隣には浅間神社の境内社の天祖神社がある。天祖神社への登り階段の脇には小さな石祠の神明社 (右上) がある。この二つが境内社で両方ともに大日霎貴尊を祀っている。また、階段の登り口には昭和15年につくられた国旗掲揚塔がある。当時は日本各地でこの国旗掲揚台/塔が半強制的につくられていた。その隣には水道記念碑が置かれている。水道記念碑には昭和30年に、当時飲料水として使っていた井戸水が水不足で東京都に水道敷設を陳情するも進まず、地域で500人の組合を作り、1700世帯が利用できる私設水道を敷設した事の記念碑だ。

清性寺跡

浅間神社の奥は墓地になっているが、かつてはここには清性寺があった。清性寺は、江戸時代初期に金乗院末として創建されたものと推定されている。明治維新の廃仏毀釈に際し、この近くにある阿弥陀堂、威徳院 (豊島園附近)、松林寺、高徳寺 (北町5丁目歩道橋附近)、東林寺 (金乗院門前)等と共に金乗院に吸収されている。平成8年に北町の有志がお堂と稲荷社を再建し、清性寺管理委員会を組織して管理している。入り口にその記念碑 (右下) がある。その隣には招魂碑があり千川上水の開拓者の千川家の名前を始め、多くの阿弥陀堂有力者の名前が刻まれている。
境内には再建された本堂 (写真下) があり、不動像が本尊だそうだ。弘法の作と伝わり、火災により全体が焦げて手は無いものの現存しているそうだ。本尊以外にも弘法大師像、木魚等が残っていると言う。お堂隣には稲荷社がある。この稲荷社は白狐稲荷と呼ばれ、その伝承が紹介されていた。
白狐稲荷は白い狐が石に浮き出ている霊石で、徳丸の斉藤家から祭りこみを依頼されたものと言われております。斉藤家の由来によれば、これは、豊臣秀吉公の守り神であったが、慶長5年、関ヶ原の戦の際に、秀頼公から石田三成に渡したものだと言われ、戦いに敗れた石田三成は、越後に逃げ延びたが、大切なこの石を泊まった宿に預けてしまったため、捕まって死罪になったと言われております。もしこの霊石を、離さず持っていれば難に遭わなかったのではないかと言われ、その後は、この宿の災難よけの稲荷となっていたものだそうであり、斉藤家はその宿の子孫にあたります。

阿弥陀堂、千川家墓所

宿場町から少し南に外れた所に真言宗豊山派の金乗院阿弥陀堂がある。阿弥陀堂の入口を入ると堂宇までの参道両側に50基程の石仏 (地蔵菩薩、聖観音菩薩像、如意輪観音像など) が並んでいる。入口の左右各3基が六地蔵とされている。石仏は17世紀中から18世紀中までにつくられている。
阿弥陀堂は江戸時代は先程訪れた清性寺持ちの堂宇だったが、明治維新の廃仏毀釈の折に清性寺は廃寺となり、阿弥陀堂は金乗院の管理となった。創建年代等は不詳。本堂に掛かっている半鐘 (左下) は1843年 (天保14年) に江戸の鋳物師粉川市正により作られ、銘文「神明山清性寺持阿弥陀堂」清性寺が阿弥陀堂を管理していたことや旧下練馬村の人々の名などが刻まれている。
墓地には千川上水開設の功労者として知られる千川家累代の墓 (右下) がある。千川上水は1696年 (元禄9年) に江戸下町方面の飲料水として玉川上水から分水された水道で、工事には徳兵衛、太兵衛の二人があたった。私費を投じて工事を完成させた功績により、両人は幕府から名字帯刀を許され、千川家の姓を賜わっている。開通から10年程後の1707年 (宝永4年)、上水は付近20ヶ村の農民の願いで、灌漑用水として利用できるようになった。両人の子孫は代々下練馬村のこの北町に住み、千川上水の取締役として維持管理を務めた。

徳川綱吉御殿跡碑

先日 (10月10日) に田柄川緑道を走った際に、緑道沿いに徳川綱吉御殿跡碑が建てられていた。この場所には徳川幕府五代将軍となる前の右馬頭時代、寛文年間に綱吉が建てた鷹場御殿があった。綱吉はここで脚気の療養をしていたと伝わる。練馬大根発祥の逸話が残っている。その逸話はこの後に訪れる下練馬宿本陣跡 (大木金兵衛館跡) のところで触れる。幕末には飢饉に備えて郷蔵が置かれていたそうだ。

北町観音堂 (石観音堂)

宿場町に戻り川越街道を進み上宿に入ると真言宗豊山派の北町観音堂 (石観音堂) がある。ここには、1682年 (天和2年) 銘の北町聖観音座像をはじめ馬頭観音や庚申塔など数多くの石造物が残っている。入り口をはいると仁王門があり、向かって右には阿形像、左には吽形像が堂を守っている。重厚な造りの像で、両像の背には「天和三年 ・・・奉立之施主光岳宗智・・・」の銘があり、聖観音座像建立の翌年 (1683年) に作られている。
境内には二つの堂があり、一つには北町聖観音座像が鎮座している。像は高さ270cmで区内最大の石仏になる。背には「武州川越多賀町隔夜浅草光岳宗智月参所 奉新造正観音為四恩報謝也(時) 天和二年八月・・・」、台座には川越街道沿 いの29の地名が刻まれている。
もう一つの堂には馬頭観音 (登録番号無し) が置かれ、高さ138cm頭上に馬頭を戴き、忿怒の相をして、彫りの美しさは素晴らしく、建立にあたってはかなりの費用をかけたものとみられている。制作年は不詳だが形態から江戸時代の造立と推測されている。また、堂の隣には大東亜戦争での町内戦没者の慰霊顕彰碑が昭和45年に建立されており、碑には当時防衛庁長官だった中曽根康弘の書で第二次世界大戦戦没者慰霊塔とある。慰霊された柱数は書かれていなかった。

庚申塔 (85番、86番)、馬頭観音 (54番、55番)

2012年 (平成24年) に観音堂の整備工事が行われた際に旧川越街道の宿場町のイメージで観音堂の塀の一部を海鼠壁にして境内にあった小型の石仏4体を道路沿いに移している。
向かって左から
  • 馬頭観音 54番 1897年 (明治30年) 方形 文字
  • 庚申塔 85番 1750年 (寛延3年) 方形笠付 青面金剛像
  • 馬頭観音 55番 年号不明 光背形 馬頭観音像
  • 庚申塔 86番 1714年 (正徳4年) 方形笠付 青面金剛像

下練馬宿本陣跡 (大木金兵衛館跡)

北町観音堂 (石観音堂) から少し進んだ所にも海鼠壁の塀があり中は公園になっている。この辺りは下練馬宿の上宿で、この公園は江戸時代には大木家の屋敷で本陣として使われていた。
公園内には練馬大根のモニュメントが置かれている。本陣だった大木家と関係がある。その逸話は
徳川五代将軍綱吉が将軍になる前に脚気にかかり、下練馬村に御殿を建てて移り住んでいた。大根が脚気によく効くという事から、尾張から大根の種を取り寄せ、土地の百姓大木金兵衛に作らせ、綱吉は大根を喜んで食べ、病気も良くなりお城に帰った。将軍になった綱吉は、大木金兵衛 に大根を献上させ大名に振舞って自慢したことから、練馬大根の名がたちまち日本中に知れ渡ったという。 

下練馬宿を北に抜け、次は川越街道の西南側にある文化財を巡る。


大松氷川神社

旧川越街道を進むと新川越街道 (国道256号) に合流する。合流地点の南側に建速須佐之男命を祭神とする大松氷川神社がある。大松氷川神社の創建年代等は不詳だが、江戸期にはこの辺りの下練馬村小名大松で祀られてきた。地元では大松の氷川様といわれていた。1800年 (寛政12年) 建造の一の鳥居をくぐり参道を進み階段を登ると境内に出る。境内にある今の社殿は1928年 (昭和3年) に再建されたもので、その他、境内には神楽殿 (左下)、神輿2基を収めた神輿庫がある。社殿奥には五つの境内社を祀った五連の祠 (右下) があり、向かって左から、御嶽神社 (日本武尊)、稲荷神社 (伊邪那美命)、皇大神宮社、諏訪神社、白山神社となっている。
境内には日露戦役紀念碑 (明治43年)、招魂碑 (昭和46年、大東亜戦争戦役者39名) が建っていた。

氷川神社富士塚

参道の階段の下に富士塚への鳥居がある。江戸時代中頃から江戸を中心に盛行した富士信仰の丸吉講によって築かれた。下練馬宿にも丸吉講が造った浅間神社の富士塚があったので、江戸時代から昭和初期まではこの様な山岳信仰が民間に根強いていた事がわかる。頂上には1835年 (天保6年) に再建された石宮 (奥社) が置かれている。塚中腹にはの1838年 (天保9年) に再建された御手洗石や明治大正時代の御嶽 (御嶽講)、伊勢 (練馬講)、富士 (富士講) の富士登山記念碑などが置かれている。

馬頭観音 (57番)

氷川神社の南の田柄川緑道を越えた所に馬頭観音 (57番) がある。この馬頭観音は方形 文字タイプで比較的新しく、1931年 (昭和6年) に造られている。



この日 (14日) の夕方から以前の会社で一緒に働いていた友人との飲み会が予定されているので、少し早めにきりあげて阿佐ヶ谷に向かう。まだ訪問できなかったスポットも少しあるのだが、今回の北町訪問は以上となり、未訪問スポットは次回とする。



2022年10月14日に時間切れで見てなかった史跡を2023年1月13日に訪問した。

棚橋跡

以前訪れた徳川綱吉御殿跡碑から田柄川緑道を少し東に進むと棚橋跡がある。この田柄川緑道にはいくつもの橋跡の表示はあるのだが、遺構が残されているのは、ここだけかも知れない。ここには親柱が残っている。案内板が設置されていた。
棚橋は田川にかかる富士大山道の橋でした。 かつて、神奈川県伊勢原の大山や富士山を信仰する人びとが霊峰を目指し、この道を歩き、旧川越街道から分かれて最初に 渡った橋でした。田柄川は田柄用水とともに農業用水として使われましたが、昭和四十九年から始まった下水道の整備により川は地表から婆を流し、遊歩道として 面影を伝えています。

安楽子育て地蔵

棚橋跡のすぐそば、ふじ大山道沿いには1784年 (天明4年) 造立の子育て地蔵が鎮座している。

連隊門哨所

北町には陸上自衛隊練馬駐屯地が置かれている。戦前には1930年 (昭和5年) に東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫があったが、戦後、1951年 (昭和26年) に警察予備隊、1954年 (昭和29年) に陸上自衛隊の駐屯地となった。西門の所には連隊門哨所が残され、案内板が置かれている
第一普通科連隊の前身「警察予備隊普通科第1連隊」は、昭和26年9月28日に、久里浜駐屯地から練馬駐屯地に移駐した。この哨所は、移駐から約2か月後の昭和26年(1951)11月15日に竣工し、以来、昭和46年(1971)11月にこの連隊門(西門)閉門するまでの約20年間、駐屯地警備に使用された。

捨て場、馬頭観音

北町の宿場町の外れの路地には「捨て場」と呼ばれた場所がある。ここは、死んだ馬や牛を捨てていた場所になる。そこに、馬頭観音が残っている。風化がすすんでおり、文字は磨耗して消えている。

庚申塔 (83番)

北町の西端、赤塚との境界にあたる川越街道沿い歩道に明治14年2月設置の庚申塔が残っている。この場所は川越街道と所沢道の分岐点だった事から道標を兼ねた庚申塔になる。「左りところ沢」「右川ご江」と刻まれている。

庚申塔 (84番) 北町8-5 [不明]

1778年 (安永7年) に造られた方形文字型の庚申塔で道しるべも兼ねていた。この庚申塔を探したのだが見つからなかった。


最勝寺

最勝寺は浄土真宗本願寺派の寺院で阿弥陀如来を本尊としている。創建は新しく、昭和7年に東京都北区十条に説教所を開設し、昭和27年に最勝寺となり、昭和36年にこの地に移転してきている。


参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
  • 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
  • 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)

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