練馬区 03 (14/10/22) 下練馬村 (1) 北町
下練馬村 北町 (きたまち)
- 旧川越街道 下練馬宿跡 (北町商店街)
- 庚申塔 (上板橋2-19-8)
- 下宿稲荷神社
- 三叉馬頭観音 (52番、53番)
- 下練馬大山道道標
- 稲荷祠
- 扶桑教辯天宮
- 脇本陣跡 (内田家)、本陣跡 (木下家)、問屋場跡
- 浅間 (せんげん) 神社
- 天祖神社、神明社
- 清性寺跡
- 阿弥陀堂、千川家墓所
- 徳川綱吉御殿跡碑
- 北町観音堂 (石観音堂)
- 庚申塔 (85番、86番)、馬頭観音 (54番、55番)
- 下練馬宿本陣跡 (大木金兵衛館跡)
- 大松氷川神社
- 氷川神社富士塚
- 馬頭観音 (57番)
2023年1月13日 訪問
- 棚橋跡
- 子育て地蔵
- 連隊門哨所
- 捨て場、馬頭観音で
- 庚申塔 (83番)
- 庚申塔 (84番) [不明]
- 最勝寺
下練馬村
北町 (きたまち)
その後、1914年 (大正3年) に東上線が開通したが、上板橋駅の次は成増駅で当地に駅はなかった。1931年 (昭和6年) に東武練馬駅が開業している。
1932年 (昭和7年) に板橋区に編入された際、旧練馬町を練馬北町、練馬仲町、練馬南町に分割している。1941年 (昭和16年) に東京府立北野高等女学校 (後の東京都立北野高等学校)が徳丸に開校、1941年 (昭和16年) に川越街道新道が開通し、同倉庫や朝霞の士官学校に通じる道路として重要となり、倉庫敷地も拡張されていった。北町が発展するのは、昭和初期から戦前にかけて、農業振興目的で田柄川の河川改修を含めた耕地整理、その終了後の1940年 (昭和15年)、東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫が置かれてからになる。
第二次世界大戦では練馬区も米空軍の本土空襲の対象となり、1945年 (昭和20年) 4月1日~14日にかけて、大型爆撃機「B29」150機の空襲で区内各地に被害を出し、軍倉庫も火災を起し中宿を中心に民家におよび、多数の焼失家屋を出した。終戦後、練馬区は農地が多く住宅の密集地が少なく、他区に比べてさほど大きな被害は受けなかったので、多くの引揚げ者や避難家族が移り、深刻な住宅問題が起こっていた。戦後は倉庫跡が練馬駐屯地などになり官舎もできた。東武練馬駅周辺や旧川越街道の周辺なども宅地化は急速に進み、商店なども増えた。
戦後は練馬の冠が外れた後、仲町と南町は消え、北町だけがそのまま残っている。1960年代(昭和30年代後半以降の一時期にはの北一商店街、きたまち商店街には、広域から集客し雑踏と殷賑を極めたという。
1966年 (昭和41年) に実施された住居表示で、それまで北町一丁目~三丁目が北町一丁目~八丁目に細分化されている。この時に、旧北町から錦一丁目の北側3分の1、旧錦二丁目の半分強、平和台一丁目と二丁目の北端の一部に編入している。
入手できた人口データの1956年から2022年までは1.9倍と他の地域に比べて極めて低い率になっている。これは北町は元々宿場町で人口も多く、更に北町は練馬区の中では昭和初期から戦前まで、早くから発展をした地域だったことによるのだろう。高度成長期の終盤、1970年を人口ピークとして、それ以降2000年初めまでは人口は減少しているが、それ以降は少しながら増加を続けている。
- 仏教寺院: 清性寺跡、阿弥陀堂、北町観音堂 (石観音堂)
- 神社: 下宿稲荷神社、稲荷祠、扶桑教辯天宮、浅間神社、天祖神社、神明社、大松氷川神社
- 富士塚: 浅間神社富士塚、氷川神社富士塚
- 庚申塔: 4基 馬頭観音: 6基
まちづくり情報誌「こもれび」- 北町
北町訪問ログ
旧川越街道 下練馬宿跡 (北町商店街)
庚申塔 (上板橋2-19-8)
下宿稲荷神社
三叉馬頭観音 (52番、53番)
下練馬大山道道標
稲荷祠
扶桑教辯天宮
弁天宮の七夕行事として、ちがや馬を作り、農作物の豊作や無病息災を星に祈願する風習が今も続いている。 七夕星祭りは、毎年8月6日-7日に行われ、雌雄一対の馬を作って飾っている。
脇本陣跡 (内田家)、本陣跡 (木下家)、問屋場跡
浅間 (せんげん) 神社
天祖神社、神明社
清性寺跡
白狐稲荷は白い狐が石に浮き出ている霊石で、徳丸の斉藤家から祭りこみを依頼されたものと言われております。斉藤家の由来によれば、これは、豊臣秀吉公の守り神であったが、慶長5年、関ヶ原の戦の際に、秀頼公から石田三成に渡したものだと言われ、戦いに敗れた石田三成は、越後に逃げ延びたが、大切なこの石を泊まった宿に預けてしまったため、捕まって死罪になったと言われております。もしこの霊石を、離さず持っていれば難に遭わなかったのではないかと言われ、その後は、この宿の災難よけの稲荷となっていたものだそうであり、斉藤家はその宿の子孫にあたります。
阿弥陀堂、千川家墓所
徳川綱吉御殿跡碑
北町観音堂 (石観音堂)
庚申塔 (85番、86番)、馬頭観音 (54番、55番)
- 馬頭観音 54番 1897年 (明治30年) 方形 文字
- 庚申塔 85番 1750年 (寛延3年) 方形笠付 青面金剛像
- 馬頭観音 55番 年号不明 光背形 馬頭観音像
- 庚申塔 86番 1714年 (正徳4年) 方形笠付 青面金剛像
下練馬宿本陣跡 (大木金兵衛館跡)
徳川五代将軍綱吉が将軍になる前に脚気にかかり、下練馬村に御殿を建てて移り住んでいた。大根が脚気によく効くという事から、尾張から大根の種を取り寄せ、土地の百姓大木金兵衛に作らせ、綱吉は大根を喜んで食べ、病気も良くなりお城に帰った。将軍になった綱吉は、大木金兵衛 に大根を献上させ大名に振舞って自慢したことから、練馬大根の名がたちまち日本中に知れ渡ったという。
大松氷川神社
氷川神社富士塚
馬頭観音 (57番)
棚橋跡
棚橋は田川にかかる富士大山道の橋でした。 かつて、神奈川県伊勢原の大山や富士山を信仰する人びとが霊峰を目指し、この道を歩き、旧川越街道から分かれて最初に 渡った橋でした。田柄川は田柄用水とともに農業用水として使われましたが、昭和四十九年から始まった下水道の整備により川は地表から婆を流し、遊歩道として 面影を伝えています。
安楽子育て地蔵
連隊門哨所
第一普通科連隊の前身「警察予備隊普通科第1連隊」は、昭和26年9月28日に、久里浜駐屯地から練馬駐屯地に移駐した。この哨所は、移駐から約2か月後の昭和26年(1951)11月15日に竣工し、以来、昭和46年(1971)11月にこの連隊門(西門)閉門するまでの約20年間、駐屯地警備に使用された。
捨て場、馬頭観音
庚申塔 (83番)
庚申塔 (84番) 北町8-5 [不明]
最勝寺
最勝寺は浄土真宗本願寺派の寺院で阿弥陀如来を本尊としている。創建は新しく、昭和7年に東京都北区十条に説教所を開設し、昭和27年に最勝寺となり、昭和36年にこの地に移転してきている。
参考文献
- 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
- 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
- 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
- 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
- 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
- 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
- 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)
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