練馬区 04 (15/10/22) 谷原村 (1) 富士見台

谷原村 (やはら、ヤワラ)
富士見台 (ふじみだい)

  • 馬頭観音 (61番)
  • 谷原庚申塔 (96番)
  • 富士見台稲荷神社
  • 稲荷神社

2023年1月12日に訪問したスポット
  • 南光寺地蔵 (2023年1月12日 訪問)
  • 庚申塔 (97番)
  • 庚申塔 (95番) [未訪問]



今日は元部下達と昼食をする。片道1時間程かかる。午前中1-2時間ぐらい時間があるので、ルートの途中の富士見台の史跡を見ながら成城学園に向かう。富士見台には史跡は少ないのでちょうど良い。



谷原村 (やはら、ヤワラ)

富士見台は江戸時代は谷原村に属していたので、まずは谷原村について調べた。
戦国時代の末の小田原衆所領役帳に「石神井内、谷原在家」の記載がある。古くから、集落が散在していたのだ。当時は「やわら」と呼ばれており、新編武蔵風土記稿の谷原村の項には小名として箕輪、西原、北原、中通り、蕪ケ谷戸 (かぶがやと)、七子竹 (ななこたけ) の六つが記されている。戦前の地図にはこのうち、西原、中通り、蕪ケ谷戸の名が見られる。
  • 箕輪は石神井川は谷原交差点付近で流れを南から東へ変える辺りにあたる。農具の箕の縁がU字形に湾曲しているように、川や道が曲がっている場所を箕輪、また一説では箕輪はミワ (水曲) で、川の水が迂回するところという意味からこの地名になったとする。戦前の地図では堀北と記載されている。
  • 北原は現在の谷原3~6丁目にわたる広い平らな原で、主に江戸時代に開拓された新田だった。
  • 中通りは各地にある地名だが、村の中央を通る道に沿った場所をいう。富士見台3、4丁目の一部である。戦前の地図では東中通と西中通が見られる。
  • 蕪ケ谷戸のカブは野菜のカブのことだそうだ。1823年 (文政6年) の地誌調写置 (ちししらべうつしおき) に谷原村の特産として大根と蕪の記載がある。谷原村はダイコンと並んでカブの生産も盛んであった。今の富士見台の1、2丁目から、3、4丁目の一部にかけての範囲にあたる。
  • 七子竹は、由来も場所も不明だが、ナナコは魚の子 (魚卵) のことで、形状が似ていることから、彫金技法の一種や絹織物の織り方をも表している。谷原村のどこかに魚の卵塊や模様のある竹か茸の生えている所があったのかも知れない。
明治時代には小字は19に増えている。昭和7年 に、 板橋区石神井谷原町1、2丁目となり、その後昭和40年、住居表示で1丁目は富士見台に、2丁目は高野台と谷原になり、同時に、谷原は、ヤワラからヤハラと呼び方が変更となっている。

もう少し詳しい江戸時代の地図で現在とくらべてみると、谷原村の範囲は練馬区の作成のものと異なっている。江戸時代の地図では貫井の半分ほどが谷原村に含まれている。



富士見台 (ふじみだい)

富士見台は練馬区の南部に位置し、北部を高野台、南部を中野区上鷺宮、杉並区井草、西部を高野台、南田中、東部を貫井と接している。

現在の富士見台は旧谷原村のうち石神井川の南側にあたる。1889年 (明治22年) には石神井村大字谷原となり、1932年 (昭和7年) の板橋区成立の際に石神井谷原町1丁目となった。板橋区から練馬区が独立行政区となった後、旧谷原村は石神井の冠称をとり谷原となった。1964年 (昭和39年) に住居表示変更で現町名の富士見台となった。 練馬区内には富士山 (旧下練馬村の小字)、富士下 (旧橋戸村の小字)、富士見池 (関町北)、石神井川に架かっていた高富士橋、富士見橋など、富士にちなむ地名は多く、かつては富士見台からも富士山が臨めた。 

1935年 (昭和10年) 代は東京近郊の沿線開発が盛んとなり住宅地分譲を行われた。当時、武蔵野鉄道 (現在のた西武池袋線) 沿線も開発され、当時の貫井駅 (1939年 (昭和14年) に富士見台駅と改称) 周辺では富士見台と名付けた文化住宅分譲地が売り出された。当時は瀟洒な文化住宅が建ち並らび西の方に四季折々の富士山の姿が望めたという。地図を見ると戦前まではまだ開発は行われていないようで、戦後に住宅地が広がっている。現在では富士見台のほぼ全土が住宅街で埋め尽くされている。

高度成長期前半には富士見台の人口は高い率で毎年増加し、後半は増加率が鈍化したものの1970年代後半まで増加は続いている。その後はほぼ横ばい状態が続き現在もその傾向にある。


練馬区史 歴史編に記載されている北町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: なし
  • 神社: 富士見台稲荷神社、稲荷神社
  • 庚申塔: 3基 馬頭観音: 1基


富士見台訪問ログ



馬頭観音 (61番)

環八通りの練馬トンネルの北側、南光寺地蔵の近くに富士見台唯一の馬頭観音がある。練馬区では61番として登録している。1786年 (天明6年) に講中宇25人によって作られており、舟形で馬頭観音像が刻まれている。道しるべ庚申塔の脇には尊像脇には「左 東高野山道」と道しるべが刻まれている。ここからの東への道が東高野道となる。

この辺りは明治時代の地図では堀北と書かれている。石神井川が北に流れていたのがこの辺りで東に流れが変わっている。古代から豊かな土地で、縄文時代~古墳時代の堀北遺跡という密集した10以上の竪穴住居址が発見されている。また、その後の発掘調査では、古墳時代の住居址も発見されている。

谷原庚申塔 (96番)

馬頭観音の南西、堀北遺跡の西側に庚申塔が置かれている。1709年 (宝永6年) 10月に観照院 (長命寺の旧塔頭、のち廃寺) を願主として谷原村の庚申講結衆22人によって建てられたもの。唐破風屋根の方形笠付タイプで、岩座の上の邪鬼を踏むつける青面金剛立像が浮彫りされ、梵字「バン」(大日如来種子) が刻まれている。庚申塔左側面には阿弥陀如来立像の浮彫りと梵字「キリーク」(阿弥陀如来種子) の陰刻、右 側面には地蔵菩薩立像の浮彫りと梵字「力」(地蔵菩薩種子) の陰刻がある。

富士見台稲荷神社 (一山稲荷神社)

谷原庚申塔のすぐ側に富士見台稲荷神社がある。この稲荷神社は、1717年 (享保2年)に稲荷大神を奉斎、谷原村内の増島氏を中心に村民が社殿を造営した。文政年間 (18181-1830) には御嶽一山講が設立され、崇敬者、村民が共に維持経営にあたっていた。祭神は字気母知命 (ウケモチノミコト、保食神) で、相殿として須佐之男命、大穴牟遅神 (オオアナムチ = 大国主)、少名毘古那神 (スクナビコナ) を祀っている。社殿中央に稲荷神社、左右に須賀神社、御嶽神社の三つの掲額がある。
境内には、鳥居をくぐって参詣道に御嶽講奉納水盤 (写真左上) がある。境内で残っている石造物では一番古く、1874年 (明治7年) に谷原村と上練馬村の御嶽講の一員によって奉納されたもので正面に木曾御獄神社の神紋が刻まれ、左側面に講の世話人の氏名、先達をつとめた増嶋大伝の名前が刻まれてる。水盤の奥には境内社の一山神社 (右上) がある。この一山神社は、北条一族の伊豆韮山城主が北条氏滅亡後、この谷原村へ移り農民となった旧家増島氏の末裔で、一山講の先達を務めた増島大傳が1875年 (明治8年) に建てたもので、ここを拠点に一山講布教に励み、二代目先達の時には800人の講員を有していた。(増島氏子孫は連綿として現在もこの地に住居している。) この一山神社があることから、稲荷神社は、地元では「一山様」、「谷原のおんたけさん」と呼ばれている。境内には御嶽信仰の碑が幾つも並び建んでいる。一山霊神碑 (右下)、明心霊神碑 (中下の左)、光明霊神/覚道霊神/義心霊神碑 (中下の右)、二つの三社大神碑 (左下の右手前)、大傳を記念した聖庵大安縛大傳の碑 (左下の右奥) がある。また、1958年 (昭和33年) には戦役者慰霊碑 (左下の左) が建てられ、41名の戦役者を慰霊している。


稲荷神社

富士見台稲荷神社から南に進み、細い路地に入った所にも稲荷神社があった。小さな朱色の祠が建っている。この稲荷神社の情報は見つからなかったが、規模から見ると民家の敷地内にあった屋敷神ではないかと思う。練馬区には多くの屋敷神が残っている。自転車で道を走っていると、良く民家の庭に鳥居と小祠を見かける。殆どが屋敷稲荷でこの地域ではうち屋敷の稲荷と呼んでいる。京都の伏見稲荷の五穀豊穣、商売繁盛、家内安全の神の宇迦之御魂大神 (うかのみたまのおおかみ) を勧請し、幾つかは伏見稲荷の神階の「正一位稲荷大明神」の掲額を掲げているものもある。


まだ二つ程見ていない史跡があるのだが、約束の時間が迫っているので、ここで切り上げて成城学園に向かう。駅側の駐輪場に自転車を停めてレストランに。今日はフランス料理で、フルコースをアレンジしてくれていた。フランス料理は何年ぶりだろう。皆んなは元気そうだ。二人は新しい会社に転職して頑張っている。別の二人は部署は変わっているがまだ前の会社で奮闘している。コロナでリモートワークで色々と問題もあるとか、来れなかった人達の近況を話していた。会社勤めてを辞めて何年も経っているので、会社や仕事の話は懐かしい。今の生活には満足してがいるのだが、将来、今の生活に飽きるか、足腰が弱って自転車旅行ができなくなったら、また仕事に復帰しても良いかなとも思う。会食は盛り上がり、随分と時間が経ち、終わってからは、もう富士見台の文化財巡りを続ける時間は無くなっている。続きは次回東京に来た際に持ち越しとなった。自宅に戻り、夜は娘たちが誕生日を祝ってくれるというので、焼き肉屋で夕食をとる。勘定はこちら持ちだったが、まだまだ収入は娘たちよりも多いので、気持ちだけで十分だ。


前回 (2022年10月15日) 見落としていた史跡を2023年1月12日に訪問した。

南光寺地蔵 (2023年1月12日 訪問)

前回 (2022年10月15日) で見落とした南光寺地蔵を2023年1月12日に訪問した。かつては長命寺末寺として、この場所には南光寺が存在していた。その場所に地蔵堂があり、その中に二体の地蔵が安置されている。左の地蔵尊の造立年は不明だが、右の舟型地蔵尊は1688年 (貞享5年) 2月に武刕谷原村 同行27人によりの造立されている。脇には「右ハ 田中」「左ハ 石神井」と道標も兼ねている。地蔵堂は2008年に建て替えられたもの。道の中にはそれぞれの地蔵尊の横に布で作ったかわいい地蔵が置かれている。地蔵堂の側には南光幼稚園なので、その園児達の作品だろう。

庚申塔 (97番)

千川通りの少し北側の住宅地の中に1730年 (k享保15年) に造られた舟形の庚申塔がある。青面金剛が邪鬼を踏みつけ、上には二鳥、下には三猿が浮き彫りされている。

庚申塔 (95番) [未訪問] 富士見台1-19

庚申塔 (97番)のすぐ近くに95番庚申塔があると資料にあったが、正確な場所までは記載されておらず、表示された番地一帯を何度も探すが見つからなかった。この庚申塔は1776年 (安永5年) に造られ、方形笠付型で青面金剛が浮き彫りにされ、道しるべにもなっていたそうだ。




参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
  • 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
  • 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)

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