練馬区 15 (20/04/23) 下石神井村 (1) 石神井町
下石神井村 石神井町
- 馬頭観音 (71番) [未訪問 不明]
- 八雲神社 (2023年7月15日 訪問)
- 石神井神社
- 石神井稲荷神社
- ふじ大山道跡碑
- 庚申塔 (108番)、一里塚跡
- 石神井火車站之碑
- 大鷲神社 (おおとりじんじゃ)
- 庚申塔 (113番)、子育地蔵
- 順正寺
- 和田稲荷神社
- 笠松墓地、庚申塔 (109番、110番)
- 禅定院
- 山門、六地蔵、延命地蔵
- いぼ神地蔵
- キリシタン灯籠
- 板碑
- 豊島小学校跡
- 庚申塔 (114番)
- 池淵遺跡公園
- 庚申塔 (92番、112番、120-123、未登録x1)、馬頭観音 (58番、79-80番)、力石、道標
- 内田家住宅
- 稲荷諏訪合神社
- ふるさと文化館
下石神井村
石神井の地名は鎌倉時代、1282年 (弘安5年) に宇多重広が、娘の筥伊豆に石神井郷内の所領を譲った書付けに登場するのでこれ以前から石神井村があったと推測される。
上石神井村、下石神井村はもとは石神井村のひとつだった。小田原衆所領役帳には「太田新六郎知行十七貫五百文江戸石神井」とある。新六郎は太田資高の子で、母は北条氏綱の娘、当時江戸随一の在地土豪だった。1563年 (永禄6年) に、北条氏康に反抗し、安房に敗走している。この時に、この辺は戦場となり、田畑、屋敷は荒廃した。その後、徳川家康が江戸入りしたころ、高橋、尾崎、田中、桜井、本橋などという人たちが開墾し村を整えたとある。この人達がこの地域の豪農となって行く。この豪農の名は今回の石神井地域の訪問で史跡関連で見かけることになった。
江戸時代に石神井は上石神井、下石神井の二つの村に分かれ、ここは下石神井村のうち和田、北原、池淵と呼ばれていた。
下石神井村には伊保ケ谷戸(いぼがいと)、根川原 (ねがわら)、坂下、和田、北原、池淵、上久保、下久保の小名があった。
- 伊保ケ谷戸は石神井川の南、下石神井5・6丁目にあたる。伊保は疱瘡のいぼと思われる。村境には小祠を建て疱瘡神を祀って、疫病神を防いだとされる。
- 根川原は石神井川の北側の台地の下にあたり、川原の礫地だった。
- 坂下は現在の坂下公園 (下石神) 辺りをいう。
- 和田は石神井町1~4丁目の広範囲にあたる。ワダは川の曲流部を表し、石神井川に沿うところは和田前と呼ばれた。
- 北原は富士街道の北側、石神井町7・8丁目付近。村の北に新しく開けた所。
- 池淵は三宝寺池の周囲をいう。
- 久保は下石神井1・2・4丁目一帯。久保は窪地のことで、上久保、下久保、久保台 (別名 向三谷 むけざんや)、遅野井 (おそのい)、久保 (別名 原久保、現上石神井南町)などにわかれていた。
石神井の名の由来は、この地で井戸を掘った折、石剣が出土したことから、「石神の井」で石神井となったといわれている。現在この石剣は、石神井神社に神体として祭られているそうだ。また石剣には三宝寺池から出土したという伝承もある。
石神井町
石神井町は練馬区の中央よりやや南西部に位置し、西部は石神井台、東大泉、東部は高野台、南部は石神井川を境に下石神井、南田中と上石神井、北部は三原台、谷原に接している。
現在の石神井町の地域は、江戸時代には武蔵国豊島郡下石神井村のうち、石神井川北側の小名和田、北原、池渕あたりに相当する。1889年 (明治22年)、町村制が施行され、上石神井村、下石神井村、関村、上土支田村が合併し東京府北豊島郡石神井村となり、ここは大字下石神井となった。現在の二丁目と四丁目は小字和田、五丁目は和田前と小中原、六丁目は池渕、七丁目と八丁目は北原にほぼ相当する。
明治時代からの民家の分布図を見ると、1915年 (大正4年) に石神井駅 (現在の石神井公園駅)が開業した後、駅周辺から民家が増加し、戦前まで認可が拡張している。1960年代には石神井町のほぼ全域に民家が広がっている。
1932年 (昭和7年)、板橋区成立で東京府東京市板橋区下石神井二丁目となり、1947年 (昭和22年) 板橋区より練馬区が分離独立後もそのままだったが、1970年 (昭和45年) の住居表示で下石神井二丁目は東京都練馬区石神井町一~八丁目となっている。この際に南田中町の一部(字上長光寺、下長光寺あたり、現一丁目)などが加えられた。
石神井町の人口は先に述べたように石神井駅開業後に増加を続け、高度成長期の終盤で続いていた。その後、人口は僅かに減少に変わり、2000年以降は微増になっているが、近年は横ばい状態になっている。
練馬区史 歴史編に記載されている石神井町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
- 仏教寺院: 順正寺、禅定院
- 神社: 石神井神社、石神井稲荷神社、大鷲神社、和田稲荷神社、稲荷諏訪神社
- 庚申塔: 11基 馬頭観音: 4+1基
石神井町訪問ログ
馬頭観音 (71番) [未訪問 不明]
八雲神社 (2023年7月15日 訪問)
石神井神社
少彦名命を祭神として祀る石神井神社の創立年代等は不詳だが、古文書には「往昔井を穿ちし時、土中より長さ二尺二寸、周囲一尺四寸の石劔を掘出し、里人は井戸神、石神よと尊敬崇拝し、此処に一社を造営して石神神社と称し、郷の名を石神井と呼び今日に及ぶ」と神社と地名の由来が記されている。ここでの井戸を三宝寺池と記している古文書もある。又、この石剣 (石神) を掘り出したのは豊田某という家で通称「石神の家」と呼ばれ、神社の裏に現存するそうだ。石剣 (石神) は今でも本殿の奥に御神体として奉祀されている。ここは石神井発祥の地ということになる。明治維新までは和田、北原、根が原、池渕の4字であったが、その後、各字に鎮守が祀られるようになり、現在では北原のみの鎮守となっている。拝殿は明治16年再建され、昭和55年に、末社榛名神社を本殿に合祀している。
拝殿内に鮮やかな絵馬が奉納されている。これ以外にも明治初期以降の大絵馬十数枚が奉納され保存されているそうだ。
石神井稲荷神社、旧制東京商科大学
ふじ大山道跡碑
庚申塔 (108番)、一里塚跡
石神井火車站之碑
大正4年4月、武蔵野鉄道が完成した。その線路は、池袋を起点として飯能に至る、全長10里余り。石神井の宿場町はちょうどその経路に当たる。住民はみんなこの計画に協力して、5000坪余りの土地を寄付した。鉄道の駅を設けて、交通の便をよくし、産業を発展させようとしたのである。振り返ってみると、治承4年 (1180年)、平家の流れを汲む権守の豊島清光が、源頼朝に従って戦い、この土地を手に入れた。その6代の孫泰景は、関東管領上杉氏の配下として、ここに城を築いて本拠地とした。文明9年 (1477年)、太田道灌が兵を率いてこの城を攻めた。勘解由左衛門尉であった豊島泰経は、弟の泰明と共に防戦したが、形勢は不利、とうとう落城してしまった。その城跡は、現在に至るまではっきりとわかるように残っている。城の北には池があって、その名を三宝寺池という。周囲は530歩余り、清らかで冷たい水が鏡のように透き通っている。付近は冬は温かく夏は涼しく、ひっそりと落ち着いていて、行楽にはもってこい。町からは少ししか離れていない。また、東高野山長命密寺もある。慶安4年 (1651年) に慶算阿闍梨が開基した寺院で、静まりかえった境内に、参拝客があちこちから集まってくる。まして、東京からわずかな距離にあるとなれば、春秋のよい日和には、ぶらぶらやってきてのんびりする人々が、いつだって引きも切らないことだろう。古い城跡があり、気持ちのよい寺院もある。なのに交通の便が欠けていて、住民はそれをとても残念に思っていた。ところが、今や鉄道が直結して、足元を汚さないでもやって来ることができる。これはまったく、鉄道のおかげである。住民は感謝して、そこで石を買い求めてその由緒を彫って書き記し、子孫に示すことにした。
三宝寺池、明漪底を絶ち長命密寺、飛観霞に啓ひらく
鉄路は道を貫き、人は髀を労する靡し
斯れ是れ祥禎、天、有礼を秩ず
大鷲神社 (おおとりじんじゃ)
庚申塔 (113番)、子育地蔵
順正寺
和田稲荷神社
笠松墓地、庚申塔 (109番、110番)
- 石仏 - 摩滅の進んだ石仏があるが、何なのかは不明。
- 庚申塔 (110番) - 1882年 (明治15年) 造立の小さな駒型文字型の庚申塔
- 庚申塔 (109番) - 背の高い唐破風笠付角柱型の庚申塔で、正面には日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂、足元に二鶏、邪鬼、三猿が彫りされている。側面に1694年 (元禄7年) 造立年とある。
- 地蔵菩薩立像 - 1708年 (宝永5年) 造立で、舟形光背に錫杖宝珠を持った地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。基壇には武州豊島郡下石神井村 講中二拾七人、榎町講中、世話人個人名が刻まれている。
- 百ヶ所観音供養塔 - 1708年 (宝永5年) 造立で、角柱型の石塔の正面に日月雲の下に阿弥陀三尊種子、その下に。「奉納西國秩父坂東百ヶ所也」と刻まれている。
- 観音菩薩阿弥陀如来供養塔 - 1963年 (昭和38年) に造られて、正面に「觀世音菩薩 阿弥陀如来」と刻まれている。
禅定院
いぼ神地蔵
キリシタン灯籠
板碑
豊島小学校跡
庚申塔 (114番)
池淵遺跡公園
庚申塔 (92番、112番、120-123、未登録x1)、馬頭観音 (58番、79-80番)、力石、道標
- 馬頭観音塔 (79番) - 1813年 (文化10年) 造立の角柱型石塔で、正面には上部に梵字「サ」、その下に「南無馬頭觀世音菩薩」と刻まれている。基壇は道しるべになっており、東 ぞうしがや道、ほうやと印されている。
- 庚申塔 (122番 右) - 1765年 (明和2年) 造立、駒型石塔の正面に日月雲、シュケラを踏みつけた六臂青面金剛立像、 三猿、二鶏が浮き彫りされている。
- 庚申塔 (120番 中) - 1818年 (文政元年) 造立、駒型文字塔。正面上部に梵字「ウン」、その下に「奉造立青面金剛心願成就祈所」と刻まれている。
- 庚申塔 (112番 左) - 1727年 (享保12年) 造立、唐破風笠付角柱型で正面上部左右に日月雲、舟形の窪みの中にシュケラを踏みつけた合掌型六臂青面金剛立像、その下に三猿が浮き彫りされ、その左右に二鶏が線刻されている。
- 庚申塔 (121番 上) - 1703年 (元禄16年) 造立、駒型の塔で、正面には日月雲、合掌型八臂青面金剛立像、三猿が浮き彫りされている。道しるべも兼ねており、「右方とく丸道、左方はやセ道」とあり、どこに置かれていたのだろうか?
- 道標 (下) - 造立年不明、角柱型の石塔の正面に「従是石神井弁才天」、左側面には三宝寺 四町と刻まれている。
- 馬頭観音 (58番 左) - 1803年 (享和3年) 造立、角柱型文字型で建てられ、正面上部に梵字「カン」、その下に「馬頭觀世音」と刻まれている。これは田柄4-35から移設されたもの。
- 庚申塔 (92番 右) - 1720年 (享保5年) 造立、舟形光背型でに正面上部に梵字「ウン」、その下に日月雲 合掌型六臂青面金剛立像が浮き彫りされている。これも田柄4-35から移設されたもの。
- 庚申塔 (94番 上) - 1696年 (元禄9年) 造立、唐破風笠付角柱型で、正面上部左右に日月雲、舟形の窪みの中にシュケラを踏みつけた合掌型六臂青面金剛立像が浮き彫りされている。この庚申塔は旭町2-9 に置かれていたのが近年にこの公園内に移設されている。
- 馬頭観音 (80番 下) - 1850年 (嘉永3年) 造立、角柱型文字型の馬頭観で道しるべを兼ねて、側面に「右 所沢道」「左 田なし大山道」と刻まれている。
- 力石 - 三種類の力石で四拾八貫 (180kg)、五拾貫 (187.5kg)、もう一つは摩耗して読めなかった。米一俵が60kgで当時はこれが最低ラインだった。ここに置かれているのは米三俵相当で、とんでもない重さと思うのだが、江戸時代の力自慢はこれも持ち上げていたのだろうか?
内田家住宅
稲荷諏訪合神社
ふるさと文化館
参考文献
- 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
- 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
- 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
- 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
- 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
- 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
- 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)
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