練馬区 15 (20/04/23) 下石神井村 (1) 石神井町

下石神井村 石神井町

  • 馬頭観音 (71番) [未訪問 不明]
  • 八雲神社 (2023年7月15日 訪問)
  • 石神井神社
  • 石神井稲荷神社
  • ふじ大山道跡碑
  • 庚申塔 (108番)、一里塚跡
  • 石神井火車站之碑
  • 大鷲神社 (おおとりじんじゃ)
  • 庚申塔 (113番)、子育地蔵
  • 順正寺
  • 和田稲荷神社
  • 笠松墓地、庚申塔 (109番、110番)
  • 禅定院
    • 山門、六地蔵、延命地蔵
    • いぼ神地蔵
    • キリシタン灯籠
    • 板碑
    • 豊島小学校跡
  • 庚申塔 (114番)
  • 池淵遺跡公園
  • 庚申塔 (92番、112番、120-123、未登録x1)、馬頭観音 (58番、79-80番)、力石、道標
  • 内田家住宅
  • 稲荷諏訪合神社
  • ふるさと文化館


三原台に続いて石神井町の史跡を巡る。

下石神井村

石神井の地名は鎌倉時代、1282年 (弘安5年) に宇多重広が、娘の筥伊豆に石神井郷内の所領を譲った書付けに登場するのでこれ以前から石神井村があったと推測される。

上石神井村、下石神井村はもとは石神井村のひとつだった。小田原衆所領役帳には「太田新六郎知行十七貫五百文江戸石神井」とある。新六郎は太田資高の子で、母は北条氏綱の娘、当時江戸随一の在地土豪だった。1563年 (永禄6年) に、北条氏康に反抗し、安房に敗走している。この時に、この辺は戦場となり、田畑、屋敷は荒廃した。その後、徳川家康が江戸入りしたころ、高橋、尾崎、田中、桜井、本橋などという人たちが開墾し村を整えたとある。この人達がこの地域の豪農となって行く。この豪農の名は今回の石神井地域の訪問で史跡関連で見かけることになった。

江戸時代に石神井は上石神井、下石神井の二つの村に分かれ、ここは下石神井村のうち和田、北原、池淵と呼ばれていた。

下石神井村には伊保ケ谷戸(いぼがいと)、根川原 (ねがわら)、坂下、和田、北原、池淵、上久保、下久保の小名があった。

  • 伊保ケ谷戸は石神井川の南、下石神井5・6丁目にあたる。伊保は疱瘡のいぼと思われる。村境には小祠を建て疱瘡神を祀って、疫病神を防いだとされる。
  • 根川原は石神井川の北側の台地の下にあたり、川原の礫地だった。
  • 坂下は現在の坂下公園 (下石神) 辺りをいう。
  • 和田は石神井町1~4丁目の広範囲にあたる。ワダは川の曲流部を表し、石神井川に沿うところは和田前と呼ばれた。
  • 北原は富士街道の北側、石神井町7・8丁目付近。村の北に新しく開けた所。
  • 池淵は三宝寺池の周囲をいう。
  • 久保は下石神井1・2・4丁目一帯。久保は窪地のことで、上久保、下久保、久保台 (別名 向三谷 むけざんや)、遅野井 (おそのい)、久保 (別名 原久保、現上石神井南町)などにわかれていた。

石神井の名の由来は、この地で井戸を掘った折、石剣が出土したことから、「石神の井」で石神井となったといわれている。現在この石剣は、石神井神社に神体として祭られているそうだ。また石剣には三宝寺池から出土したという伝承もある。



石神井町

石神井町は練馬区の中央よりやや南西部に位置し、西部は石神井台、東大泉、東部は高野台、南部は石神井川を境に下石神井、南田中と上石神井、北部は三原台、谷原に接している。

現在の石神井町の地域は、江戸時代には武蔵国豊島郡下石神井村のうち、石神井川北側の小名和田、北原、池渕あたりに相当する。1889年 (明治22年)、町村制が施行され、上石神井村、下石神井村、関村、上土支田村が合併し東京府北豊島郡石神井村となり、ここは大字下石神井となった。現在の二丁目と四丁目は小字和田、五丁目は和田前と小中原、六丁目は池渕、七丁目と八丁目は北原にほぼ相当する。

明治時代からの民家の分布図を見ると、1915年 (大正4年) に石神井駅 (現在の石神井公園駅)が開業した後、駅周辺から民家が増加し、戦前まで認可が拡張している。1960年代には石神井町のほぼ全域に民家が広がっている。

1932年 (昭和7年)、板橋区成立で東京府東京市板橋区下石神井二丁目となり、1947年 (昭和22年) 板橋区より練馬区が分離独立後もそのままだったが、1970年 (昭和45年) の住居表示で下石神井二丁目は東京都練馬区石神井町一~八丁目となっている。この際に南田中町の一部(字上長光寺、下長光寺あたり、現一丁目)などが加えられた。

石神井町の人口は先に述べたように石神井駅開業後に増加を続け、高度成長期の終盤で続いていた。その後、人口は僅かに減少に変わり、2000年以降は微増になっているが、近年は横ばい状態になっている。


練馬区史 歴史編に記載されている石神井町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り

  • 仏教寺院: 順正寺、禅定院
  • 神社: 石神井神社、石神井稲荷神社、大鷲神社、和田稲荷神社、稲荷諏訪神社
  • 庚申塔: 11基  馬頭観音: 4+1基


石神井町訪問ログ



馬頭観音 (71番) [未訪問 不明]

三原台から町境になっている都道24号線を南に越え石神井町に入った所、石神井町4-19に馬頭観音 (71番) が資料に載っていたので探すが見つからず。インターネットでは昔の写真が掲載されていたが、街並みは一変している。撤去か移設されたのではと思う。下の写真は当時のもの。1884 (明治17年) 造立された駒形で、正面上部には馬の頭が浮き彫りされ、その下に馬頭観音と刻まれている。馬の頭の浮き彫りは珍しい物なので見たかったのだが。

八雲神社 (2023年7月15日 訪問)

都道444号線のすぐ東側に八雲神社がある。創建時期や由緒など詳細は不明だが、現地にあった案内板では、祭神を建速須佐之男命、相殿を櫛名田比売神、稲荷大明神として祀っており、地元では疾病除けに御利益があるとされている。。境内は狭いのだが、そこには末社の水神社が置かれて、水神の弥都波能売神 (みづはのめのかみ) を祀っている。


石神井神社

少彦名命を祭神として祀る石神井神社の創立年代等は不詳だが、古文書には「往昔井を穿ちし時、土中より長さ二尺二寸、周囲一尺四寸の石劔を掘出し、里人は井戸神、石神よと尊敬崇拝し、此処に一社を造営して石神神社と称し、郷の名を石神井と呼び今日に及ぶ」と神社と地名の由来が記されている。ここでの井戸を三宝寺池と記している古文書もある。又、この石剣 (石神) を掘り出したのは豊田某という家で通称「石神の家」と呼ばれ、神社の裏に現存するそうだ。石剣 (石神) は今でも本殿の奥に御神体として奉祀されている。ここは石神井発祥の地ということになる。明治維新までは和田、北原、根が原、池渕の4字であったが、その後、各字に鎮守が祀られるようになり、現在では北原のみの鎮守となっている。拝殿は明治16年再建され、昭和55年に、末社榛名神社を本殿に合祀している。

拝殿内に鮮やかな絵馬が奉納されている。これ以外にも明治初期以降の大絵馬十数枚が奉納され保存されているそうだ。

境内には境内末社の稲荷神社、神輿倉、大東亜戦争出征者への平和之碑が置かれている。

石神井稲荷神社、旧制東京商科大学

石神井ハイツ内に石神井稲荷神社が鎮座している。この石神井ハイツは、1923年 (大正12年) の頃は旧制東京商科大学 (現 一橋大学) の運動場だった。神田の一ツ橋の校舎が焼失し、ここに急遽仮校舎を新築し、翌1924年 (大正13年) から1933年 (昭和8年) に小平に移るまでの約9年間余り商大予科生が学んでいた。石神井稲荷神社はそれより古くからここにあり、村人から拝まれていた。境内の石鳥居は東京商科大学校舎竣工時、地主が寄進したもの。
社殿右手に予科校舎旧跡記念碑が置かれている。1978年 (昭和53年) に、神社名碑、赤鳥居と共に有志により建立された。神社は現在でも有志により維持されている。

ふじ大山道跡碑

石神井稲荷神社から南の西武池袋線の石神井公園駅付近を通る都道8号線にふじ大山道跡碑が置かれている。この道は江戸時代にはふじ大山道といわれた道で、阿夫利山ともいわれた大山へ、大山から富士山への道者が通った事から道者街道、富士街道とも呼ばれていた。この道は北町1丁目で川越街道から分かれて、石神井、田無を経て伊勢原に達しており、練馬の中央部をほぼ東から西南に横断して区内では約8kmに及んでいる。川越街道とふじ大山道の分岐点には、「従是大山道」と刻んだ道しるべが建てられていた。

庚申塔 (108番)、一里塚跡

ふじ大山道を少し東に進んだ所、石神井公園駅近くの歩道脇に庚申塔があった。1746年 (延享3年) 造立の唐破風笠付角柱型の庚申塔で月日青面金剛邪鬼三猿が浮き彫りされている。側面に武陽豊嶋郡下石神井邑、願主本橋惣右衛門、講衆四十三人とある。庚申塔の奥の板碑は一里塚改築記念碑 (写真左下) とある。ここはふじ大山道の一里塚があったのだ。大正14年に建てられている。この時に一里塚が削られ、庚申塔も含めて整備されたのだろう。庚申塔の土台も溶岩を使って整備されたのかも知れない。

石神井火車站之碑

石神井公園駅の南の広場には1915年 (大正4年) に開業した武蔵野鉄道石神井駅 (現西武鉄道池袋線石神井公園駅) を記念し、1920年 (大正9年) に記念碑が建てられている。石神井火車站之碑と刻まれている。当時は鉄道駅の事を火車站と呼んでいた。銘文は漢文、漢詩で書かれており、石神井の歴史や当時住民の開通の喜びが記されている。訳文があったので下に載せておく。
大正4年4月、武蔵野鉄道が完成した。その線路は、池袋を起点として飯能に至る、全長10里余り。石神井の宿場町はちょうどその経路に当たる。住民はみんなこの計画に協力して、5000坪余りの土地を寄付した。鉄道の駅を設けて、交通の便をよくし、産業を発展させようとしたのである。
振り返ってみると、治承4年 (1180年)、平家の流れを汲む権守の豊島清光が、源頼朝に従って戦い、この土地を手に入れた。その6代の孫泰景は、関東管領上杉氏の配下として、ここに城を築いて本拠地とした。文明9年 (1477年)、太田道灌が兵を率いてこの城を攻めた。勘解由左衛門尉であった豊島泰経は、弟の泰明と共に防戦したが、形勢は不利、とうとう落城してしまった。その城跡は、現在に至るまではっきりとわかるように残っている。
城の北には池があって、その名を三宝寺池という。周囲は530歩余り、清らかで冷たい水が鏡のように透き通っている。付近は冬は温かく夏は涼しく、ひっそりと落ち着いていて、行楽にはもってこい。町からは少ししか離れていない。また、東高野山長命密寺もある。慶安4年 (1651年) に慶算阿闍梨が開基した寺院で、静まりかえった境内に、参拝客があちこちから集まってくる。まして、東京からわずかな距離にあるとなれば、春秋のよい日和には、ぶらぶらやってきてのんびりする人々が、いつだって引きも切らないことだろう。古い城跡があり、気持ちのよい寺院もある。なのに交通の便が欠けていて、住民はそれをとても残念に思っていた。ところが、今や鉄道が直結して、足元を汚さないでもやって来ることができる。これはまったく、鉄道のおかげである。住民は感謝して、そこで石を買い求めてその由緒を彫って書き記し、子孫に示すことにした。
  三宝寺池、明漪底を絶ち
  長命密寺、飛観霞に啓ひらく
  鉄路は道を貫き、人は髀を労する靡し
  斯れ是れ祥禎、天、有礼を秩ず

大鷲神社 (おおとりじんじゃ)

石神井公園駅前の賑やかな商店街の一画奥まった所に大鷲神社が鎮座している。第12代景行天皇の皇子、第14代仲哀天皇の父とされる日本武尊を祀っている。この神社の創建年代は不詳だが、日本武尊が東征の道中でこの地に立ち寄り、後に村人がその高徳を慕い奉祀したのが始まりともいわれている。この地一帯は古くから御鷹場だった事が名の由来ともいう。昭和の初めには当地の人が甲府方面で射止めたという大鷹の剥製神社の大鳥に因むものとして奉納しているそうだ。
昭和7年には、近隣にあった大宮の黒塚山から勧請し大国主命を祀る大黒天社を合祀している。境内には1936年 (昭和11年) の大鷲神社の社名碑 (右下) と1940年 (昭和15年) 造立の鳥居が残っている。
この神社は商売繁盛の神社として、毎年11月の酉の日には、酉の市も開催され、地元を中心に近郷から多くの崇敬者が参集する。

庚申塔 (113番)、子育地蔵

石神井公園駅からふじ大山道を西に少し移動すると広場があった。子育地蔵遊び場となっており、その隣に子育地蔵と庚申塔が置かれている。
地蔵尊の前左側には堂宇がある。堂宇中には庚申塔と聖観音像が並んでいる。庚申塔は1698年 (元禄11年) の造立で、高さ137cmと大きな駒型塔で正面には青面金剛像、邪鬼、三猿が浮き彫りされている。側面には願主の名前が刻まれている。右側の聖観音像は庚申塔造立から約100年後の1796年 (寛政8年) の造立されている。于堂前にはその2年後の1798年 (寛政10年) 造立の一対の燈籠が建てられ、それぞれは念仏講中と庚申講中の人々が寄進したもの。燈籠の横には力石と思われる丸石が置かれている。
この場所はふじ大山街道で旅人も多く通り、この場所は休憩所にもなっていたように思える。
子育地蔵は高さが2.3mもある非常に大きな地蔵で、背の高いもので見上げるようになる。造立は庚申塔造立後約40年後の1737年 (元文2年) に武刕豊嶋郡下石神井村の住民により造られている。

順正寺

石神井公園駅の商店街の西には民家がひしめき合っている住宅街になる。その路地にの奥に真宗大谷派寺院の順正寺があった。伝統的な立派な本堂ではなく、普通の民家を寺としている。順正寺は1958年 (昭和33年) に宗教法人として登記した比較的新しい寺で、当初は当初は檀徒は10戸位であったが、現在は増加、世田谷方面に多く信徒がおり、布教活動により千葉県五井、流山、神奈川県横須賀、東京都町田などに広がっているそうだ。

和田稲荷神社

西武池袋線石神井公園駅から石神井池に向かう道沿いに和田稲荷神社がある。江戸期には旧和田地区の鎮守として和田稲荷神社に宇迦之御魂大神が祀られ、伝五郎稲荷、和田堀稲荷と呼ばれていた。創立年代などは不詳だが、1932年 (昭和7年) 建立の神社名碑には「渡辺伝五郎翁が伏見の里 (京都伏見稲荷) から遷し祀りしと伝う」となっているが、渡辺伝五郎は江戸時代末期から明治時代の人物。1674年 (延宝2年) に村が村内、田畑・山林の地積・収穫石数・水利・道程・社寺持等の詳細を個条書としての届出には「御除地、稲荷宮半左衛門持」とある。この渡辺伝五郎は半左衛門の子孫ともある。神社由来には少々混乱がある様だが、1674年 (延宝2年) 以前から存在していた事は確かだろう。明治以後は石神井台氷川神社の祠掌するところとなっていた。入口の鳥居 (大正8年) は台輪鳥居と呼ばれる形式で、この形で現存するものは比較的数が少ない(練馬区内では3基のみ)。参道脇にhw1900年 (明治33年) に奉納された神使の狐像が置かれて、その奥に拝殿、本殿がある。
境内には焔宝珠紋の手水舎、境内入口付近には地元の戦没者約55柱を祀った大東亜戦争戦没者慰霊碑、御遷宮記念碑、百度石などが建立され、敷地内のぼ中心部には御神木の練馬区内最大の白樫がある。
境内社として、本殿の左手奥北側の塚に朱い鳥居があり荷田春満を祀ったとされる「荷田神社」がある。

笠松墓地、庚申塔 (109番、110番)

和田稲荷神社の南、すぐ近くに笠松墓地がある。墓地の中に6つの石像、板碑などを集めた場所がある。この中に2つの庚申塔が保存されている。
左から
  • 石仏 - 摩滅の進んだ石仏があるが、何なのかは不明。
  • 庚申塔 (110番) - 1882年 (明治15年) 造立の小さな駒型文字型の庚申塔
  • 庚申塔 (109番) - 背の高い唐破風笠付角柱型の庚申塔で、正面には日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂、足元に二鶏、邪鬼、三猿が彫りされている。側面に1694年 (元禄7年) 造立年とある。
  • 地蔵菩薩立像 - 1708年 (宝永5年) 造立で、舟形光背に錫杖宝珠を持った地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。基壇には武州豊島郡下石神井村 講中二拾七人、榎町講中、世話人個人名が刻まれている。
  • 百ヶ所観音供養塔 - 1708年 (宝永5年) 造立で、角柱型の石塔の正面に日月雲の下に阿弥陀三尊種子、その下に。「奉納西國秩父坂東百ヶ所也」と刻まれている。
  • 観音菩薩阿弥陀如来供養塔 - 1963年 (昭和38年) に造られて、正面に「觀世音菩薩 阿弥陀如来」と刻まれている。

禅定院

道を南に進み石神井公園の南端に真言宗智山派の禅定院がある。正式には照光山無量寺とで、本尊として阿弥陀如来を祀っている。文政年間 (1818-30年) の火災で全焼し、記録も失われ、創建年代等は不明だが、約600年前に願行上人 (1295年没) が三宝寺寺の末寺として不動を祀り草創したと伝わっている。御府内八十八ヶ所霊場70番札所、豊島八十八ヶ所霊場70番札所にもなっている。
山門は文政年間 (1818-30年) の火災での焼失後、1836年 (天保7年) に再建され、戦後は鉄筋コンクリート製となっている。常時は閉じているが、お正月の時期のみ開門するそうだ。この山門に前には下石神井むらの光明真言講中によって寄進された六地蔵が置かれている。左から法性地蔵、法印地蔵、鷄龜地蔵、寶性地蔵、陀羅尼地蔵、地持地蔵で中央の背の高い地蔵が延命地蔵。
参道の通用門から境内に入ると本殿が置かれている。文政年間 (1818-30年) の火災での焼失後、1833年 (天保4年) に再建、更に1978年 (昭和53年) にコンクリート造りで再建されている。鐘楼は1836年 (天保7年) に再建され、珍しい茅葺の造りになっている。

いぼ神地蔵

鐘楼の横、墓地入口には、いぼなど皮膚病の治癒に霊験のあると言われる「いぼ神地蔵」があり、1762年 (宝暦12年) に寄進されている。

キリシタン灯籠

本堂前には戦国時代から桃山時代の武将にして茶人の古田織部正重然が考案したといわれる織部灯籠が、1673年 (寛文13年) に作られている。燈籠の上部が十字架をになっているので、別名キリシタン灯籠 (写真上) ともいわれている。境内にはその他、1899年 (明治32年) 寄進の弘法大師像 (右下)、光明真言講中による造立の大宝篋印塔 (左下)、1724年 (享保9年) に造られた六地蔵菩薩六面石幢 (中下) があった。

板碑

境内には応安 (1368 - 1375年)、至徳 (1384年 - 1387年) 年号の板碑があり、創建はそれ以前と考えられる。

豊島小学校跡

1874年 (明治7年) には、この地に練馬区内では最初の公立小学校である豊島小学校 (現 石神井小学校) が開校し、以来30余年にわたり地域の子弟の教育の場となっていた。

庚申塔 (114番)

禅定院前の道は石神井公園の南を通って行く。史跡公園東路の傍らにも庚申塔があった。1691年 (元禄4年) と古い時代に造られているのだが、保存状態は良い。宝珠唐破風笠付角柱型の石塔で、正面には日月雲、合掌六臂の青面金剛立像、下部には三猿が浮き彫りされている。

池淵遺跡公園

石神井公園にある池淵遺跡公園を訪れる。ここは南側の石神井川と北側の三宝寺池の谷にはさまれて、東西に長く延びる台地上にあたり、この台地全体に旧石器時代、縄文時代、中世の住居が広がり、池淵遺跡として発見、1972~1973年 (昭和47~48年) に発掘調査が行われた。現在では遺跡地のほとんどが、石神井公園や区立石神井プ-ルとなっているが、発見された縄文時代中期の16軒の竪穴式住居跡の一部が池淵史跡公園で保存公開されている。

庚申塔 (92番、112番、120-123、未登録x1)、馬頭観音 (58番、79-80番)、力石、道標

池淵遺跡公園内には石神井町に散在していた庚申塔、馬頭観音、力石、道標が移設展示されている。
  • 馬頭観音塔 (79番)  - 1813年 (文化10年) 造立の角柱型石塔で、正面には上部に梵字「サ」、その下に「南無馬頭觀世音菩薩」と刻まれている。基壇は道しるべになっており、東 ぞうしがや道、ほうやと印されている。
  • 庚申塔 (122番 右) - 1765年 (明和2年) 造立、駒型石塔の正面に日月雲、シュケラを踏みつけた六臂青面金剛立像、 三猿、二鶏が浮き彫りされている。
  • 庚申塔 (120番 中) - 1818年 (文政元年) 造立、駒型文字塔。正面上部に梵字「ウン」、その下に「奉造立青面金剛心願成就祈所」と刻まれている。
  • 庚申塔 (112番 左) - 1727年 (享保12年) 造立、唐破風笠付角柱型で正面上部左右に日月雲、舟形の窪みの中にシュケラを踏みつけた合掌型六臂青面金剛立像、その下に三猿が浮き彫りされ、その左右に二鶏が線刻されている。
  • 庚申塔 (121番 上) - 1703年 (元禄16年) 造立、駒型の塔で、正面には日月雲、合掌型八臂青面金剛立像、三猿が浮き彫りされている。道しるべも兼ねており、「右方とく丸道、左方はやセ道」とあり、どこに置かれていたのだろうか?
  • 道標 (下) - 造立年不明、角柱型の石塔の正面に「従是石神井弁才天」、左側面には三宝寺 四町と刻まれている。
  • 馬頭観音 (58番 左) - 1803年 (享和3年) 造立、角柱型文字型で建てられ、正面上部に梵字「カン」、その下に「馬頭觀世音」と刻まれている。これは田柄4-35から移設されたもの。
  • 庚申塔 (92番 右) - 1720年 (享保5年) 造立、舟形光背型でに正面上部に梵字「ウン」、その下に日月雲 合掌型六臂青面金剛立像が浮き彫りされている。これも田柄4-35から移設されたもの。
  • 庚申塔 (94番 上) - 1696年 (元禄9年) 造立、唐破風笠付角柱型で、正面上部左右に日月雲、舟形の窪みの中にシュケラを踏みつけた合掌型六臂青面金剛立像が浮き彫りされている。この庚申塔は旭町2-9 に置かれていたのが近年にこの公園内に移設されている。
  • 馬頭観音 (80番 下) - 1850年 (嘉永3年) 造立、角柱型文字型の馬頭観で道しるべを兼ねて、側面に「右 所沢道」「左 田なし大山道」と刻まれている。
庚申塔 (123番) - 1841年 (天保12年) 造立、駒型文字型の塔で、正面上部に日月雲が浮き彫りされて、下に「庚申塔」と刻まれている。
  • 力石 - 三種類の力石で四拾八貫 (180kg)、五拾貫 (187.5kg)、もう一つは摩耗して読めなかった。米一俵が60kgで当時はこれが最低ラインだった。ここに置かれているのは米三俵相当で、とんでもない重さと思うのだが、江戸時代の力自慢はこれも持ち上げていたのだろうか?

内田家住宅

この池淵遺跡公園内には中村橋にあった旧家の内田家住宅を公開している。明治20年代初めの建築と推定されている茅葺き屋根の民家で、2020年 (平成22年) にここに移築されている。特に目についたのは、欄間の透彫や、障子の綺麗なデザインの組子だった。

稲荷諏訪合神社

池淵遺跡公園の西、石神井池の辺りに神社がある。稲荷諏訪合神社という名で合神社とは何か由縁がありそうだ。創立年代不詳だが、新編武蔵風土記稿に「諏訪社、禅定院持」と記載されている。伝わっている話では、昔の道場寺が鬼門除けのため建立したという。1674年 (延宝2年) の地積明細・収穫石数・水利・道程・社寺持地所の詳細等を明記した武蔵国豊島郡下石神井村村方明細帖には稲荷社、道場寺持と記載があるので、この時代以前からあったと推測されている。明治維新後、社地は上地され官有地となったが、その後、この東南付近の諏訪社を合祀して、稲荷諏訪合神社と神社名を改めている。
それで祭神は稲倉魂命と建御名方命を祀っている。昭和54年の火災で大正11年の鳥居等を除き社殿は焼失し、翌年にコンクリート造に再建されている。
境内には大正11年造の燈籠や手水舎、社殿改築記念碑 (昭和32年)、玉垣工事寄付者御芳名碑 (昭和39年)、社殿改築記念碑 (昭和55年)、社務所新築記念碑 (昭和58年) があり、境内末社の根ヶ原諏訪神社も置かれて建御名方命を祀っている。

ふるさと文化館

池淵遺跡公園の隣は石神井の歴史を展示しているふるさと文化館がある。2010年 (平成22年) に開館している。石神井で見つかった土器などの出土品や工芸品、練馬大根の資料など、練馬区の歴史や人々の生活の様子が紹介されている。展示物や解説は訪問記の中に関連する項目で参照している。

これで、今回の東京滞在は4日間で練馬区史跡巡りは終了。明日は羽田空港から高松空港に飛び、船にて小豆島に向かう。


参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)
  • 練馬の寺院 三訂版 [郷土史シリーズ 3-4] (2004 練馬区教育委員会)
  • 練馬の神社 三訂版 [郷土史シリーズ 5] (2006 練馬区教育委員会生涯学習部)

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