小豆島八十八ヶ所遍路 01 (22/04/23) 小豆島町 福田村 (1) /吉田村
旧福田村
- 大山津見神社 (山の神さま)
- 福田西谷丁場 (2023年10月30日訪問)
- いづみ公園
- 大師堂
- 歯神神社
- 仏の峠 石地蔵
- 大師像
旧吉田村
- 吉田ダム
- 荒魂神社
- 小豆島霊場第82番 吉田庵
- 恵比寿神社
- 蟹為菩提の碑 (蟹の供養塔)
旧福田村
- 小豆島霊場第83番 福田庵
初日の今日は小豆島町 (旧内海町) の福田に属している吉田村を訪れる。バスではなく今でも残っている旧道の山道を通り向かう、昭和初期まで吉田へはバスは通っておらず、この山道が唯一の道だった。吉田へ向かう途中にある福田村内の史跡も見ていく。
今日訪れた小豆島八十八ケ所霊場
第82番 吉田庵
- 本尊: 薬師如来
- 真言: オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ
第83番 福田庵
- 本尊: 薬師如来
- 真言: オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ
移動ログ
昨日は東京羽田から高松まで飛行機で、高松港から小豆島土庄港までフェリーで移動して夕方に到着した。小豆島里帰りは三年ぶりになる。高齢の母親が兄と住んでいるのだが、コロナ蔓延期間は帰省を控えていた。今回は少し長く滞在を予定している。この機会に島の色々な場所を訪問してみる。切り口は小豆島八十八ケ所霊場で島全体に札所がある。その札所を訪れながら、それぞれの集落を見ていきたい。
福田集落
福田集落には兄と母が住んでおり、ここを拠点に島巡りをする。初日の今日は隣村の吉田集落から集落巡りを始める。
大山津見神社 (山の神さま)
小豆島の各集落には山の神さまと呼ばれる神社が置かれている。正式には大山祗神社、または大山津見神社という。小豆島は古事記に登場する伊邪那岐 (イザナギ)、伊邪那美 (イザナミ) が産み落とした島とされる。大山津見神社はこの二神の御子とされる大山津見神 (オオヤマツミノカミ) を祀っている。大山津見神
は山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集め、福田の大山祗神社では、この地域では石工と石船で栄えていた事から、毎年1月9日に技術の習得と安全を祈願する「山の神祭り」が地元で行われている。大山祗神社は大坂城築城時の藤堂高虎の丁場とされる福田地区の西谷丁場の近くにある。地元の人に場所を尋ね、集落を抜けた山の麓にあった。
大山津見神社に着くと前庭に猪が二匹横たわっていた。駆除のための罠にかかり、ここで役場に引き渡すそうだ。駆除代として一匹1万円もらえるそうだ。少し猪がかわいそうに思えて写真は撮らなかった。役場の人が来て車に積んでいった。そのあと、この神社を見学。拝殿の後方には巨石 (写真中右) がありこの神社の御神体で磐座 (いわくら) という。
福田西谷丁場 (2023年10月30日訪問)
福田地区は江戸期の大坂城築城期の御用石場として知られ、藤堂和泉守高次の管理する西谷丁場、 東谷丁場、 栃面地丁場、鯛網代丁場、 と播州商人 (与兵衛) による管理の荒浜丁場の5箇所が存在していた。大山津見神社の西側は谷間になっておりそれに沿って西谷丁場になっていた。資料でははっきりとした場所が示されていないのだが、この付近には幾つもに巨石がある。その中に石を割った際の楔跡が残っている石が幾つかあったので、丁場跡と思われる。
いづみ公園
今日は福田と隣村の吉田にある札所を見ることにした。この二つの札所を結ぶ遍路路があるのだが、場所が分からず、まずは吉田に向かう事にした。隣村なのだがこの二つの村の間には山がある。この山越え道が遍路道になっており、この道を探しに吉田を目指す。福田集落のはずれ水晶山の麓から水晶山への県道福田港神懸線沿いにいづみ公園がある。この公園は1972年 (昭和47年) に、庭石販売業を営んでいる泉告氏が持ち山を中心にして純日本式の石庭公園を、地元の石材会社や住民の協力を得て10年かけて完成させ、地元民や観光客に無料で開放している。
大師堂
いづみ公園の入り口には大師堂が置かれている。小豆島は弘法大師とも関係が深く、大師信仰は根強い。いづみ公園も「大師の里 いづみ公園」と呼称している。
ここから水晶山が見えている。まずはあの山まで登る
歯神神社
泉公園の遊歩道を登り裏門をでた県道福田港神懸線沿いに歯神神社という小さな祠がある。歯痛治癒に御利益があるとされ、地元では歯神さんと呼ばれている。〆縄の石が歯神さんの御神体だそうだが、小祠が1980年 (昭和55年) が建造された時に霊を祠に移したという。
仏の峠 石地蔵
県道福田港神懸線を登り、吉田方面への道への分岐道になる。その道を少し進んだ所に山の中への古道がある。中にに入り登っていくと道が上へと下へと分かれている。ここは仏の峠 (たお) と呼ばれており、石地蔵が置かれている。1822年 (文政5年) と刻まれている。
大師像
仏の峠から下への道は吉田に通じるのだが、まずは上への道を登って行く。登り切った所、大慈山には大きな石の大師像があった。これは史跡ではなく、1984年 (昭和59年) にいづみ公園の泉告氏が施主となり、京都の高松清氏が、ここにあった巨石を彫って作られたmlに。この様に小豆島には多くの仏像や地蔵などが、今でも作られている。
ここからは福田の港と集落が一望できる。
旧吉田村
大師像から仏の峠 石地蔵まで戻り、吉田に降りる道を進む。
吉田ダム
仏の峠から下への道を通り吉田に向かう。この道も古くから使われていたのだろう。
古道を降りると標高816mの星ヶ城山を源泉とする吉田川に出る。川沿いに吉田集落に向かう県道が走っている。吉田ダムの吉田川の上流地域で、ダム建設後に整備された緑地公園 (写真下) が設けられている。
道を降ると吉田ダムが見えて来た。小豆島を含む瀬戸内地方は全国平均に比較して、年間の降雨量が少なく日照時間が長いい事から、 古くから塩田による製塩業が発達していたが、農業用水がほとんど溜池に依存し、昔から水に不自由をしてきた。戦後、電気洗濯機や水洗トイレの普及などによる生活様式の変化で各家庭での水道水使用量が増加し、更に映画「二十四の瞳」以来の観光客の急増で旅館・ホテルなど宿泊施設の増加・大型化で水の需要が急激に高まっていった。1968年 (昭和43年) に水不足解消のため吉田川水系の平間ダム (後日訪問) より導水施設を完成させたが、梅雨時の雨の少ない夏場や、台風が接近しない年の冬にはしばしば渇水になった。その後、安田大川水系に栗地ダムができたが、なお水不足は解消されず、渇水期には島外からタンカーで水を運んできたりした。この様な状況で、吉田川水系のダム建設計画が浮上し、1985年 (昭和60年) に森庄川に分水堰を設けて森庄川から吉田ダムまで分水トンネルで繋ぎ、吉田川にダムを建設し、森庄川と吉田川両河川の洪水調節と利水を計るという吉田川総合事業計画が発表され、同年に地質検査が開始している。1988年 (昭和63年) にダム建設が始まり、1996年 (平成9年) に完成している。吉田ダムから導水路を通り小豆島全域に水が送られている。それでも、今年は土庄は水不足で、農家は田植えができるか心配していた。
ここからは吉田集落が見える。
吉田ダムには幾つかのモニュメントが置かれ、ダムの上を渡った崖の上には展望台が設けられている。堰堤北側には「恵の像 (写真右)」、 南側管理事務所前の広場には吉田ダム完成記念碑と石の球体が回転し生命の源である水をモチーフにした「うるおい」が設置されている。
展望台からは吉田の港が臨める。
荒魂神社
吉田ダムから吉田集落に降りる。吉田川沿い南側山林には福田の葺田八幡宮の境外末社の一つの荒魂神社がある。
荒魂神社の祭神は大物主命、荒魂五名神で本殿に祀られている。
本殿後方には稲荷、金比羅、玉姫、伊勢、大山祇、その他三神を祀る小宮八社が設けられている。
拝殿前方に1859年 (安政6年) 再建の農村歌舞伎の舞台小屋があったが、1962年 (昭和37年) に豊中市服部緑地の日本民家集落博物館に移管保存されている。その時の謝金を基金に、1966年 (昭和41年) に現社殿を修築している。小豆島には、かつて歌舞伎を演ずる舞台が24あり、刈り入れや田植えなどを祝って、村人たちが自分達で歌舞伎を演じ奉納していた。吉田部落の舞台は、小規模なもので、舞台の前には観覧席が設けられ、最上段には社殿、舞台下手袖には花道、上手には楽人の座る台がつくられていた。
小豆島霊場第82番 吉田庵
荒魂神社から吉田川対岸下流側に小豆島霊場第82番の吉田庵がある。御真言はオン コロコロ センダリマトウギ ソワカ。吉田庵は宗祖弘法大師の開創と伝えられ、本尊薬師如来は古くから里人達に尊信されている。「本尊を信仰して奇特の利益を受けたるもの多く殊に眼病に罹れる者の瑠璃光に接したるもの多し」とあり、眼病に御利益があるとされている。
境内には鐘楼などが置かれている。
恵比寿神社
吉田川を浜辺まで進んだ所に恵比寿神社がある。階段の下の石灯籠は相当古いものだろうか、一つは摩滅がはげしく、もう一つは壊れてしまっている。階段の上には小さな祠があり、この中に御神体の石があるそうで、農業や漁業の神の蛭子大神 (ひるこのおおかみ) が祀られている。昔は社殿があったのだが、白蟻で朽ちてしまい、現在の小さな祠が建てられている。もう一つ石の祠があるが、この神社の詳細は見つから無かった。
吉田集落の共同墓地
恵比寿神社から吉田川の対岸に移動した所、吉田ビーチへの入り口には吉田集落の共同墓地がある。
蟹為菩提の碑 (蟹の供養塔)
吉田ビーチの中に蟹為菩提の碑が立っている。この碑は、明治初年にこの地の開墾を行った際に、相生屋と中ノ島屋が吉田川尻の砂洲内側にあった湿地帯の埋立を行い、ここにおびだしく生息していた蟹を殺すことになったため、その供養として建立したそうだ。
遍路道
八十二番札所の吉田庵には八十一番の恵門ノ瀧からと八十三番の福田庵へは遍路道が残っている。いずれも急峻な山越え道になっている。今日は福田庵への遍路道を通ることにした。この道は吉田道と呼ばれていた。遍路道は吉田庵から吉田川を上流方面に進み、山道へと変わる。急な石がゴロゴロとした道を登り吉田ダム北側の県道に出る。
県道から更に急な山道が続く。
途中、天神大神の祠があり、更に登っていく。
やっと峠に到着。ここにも地蔵尊が置かれていた。
ここからは下り道になる。暫く歩くと福田集落が見えて来た。まだまだ距離はありそうだ。
下り坂を時間をかけて、ようやく麓に到着。
来た道を振り返ると越えてきた山が見える。昔は福田と吉田を結ぶ道はここだけだったそうだ。
旧福田村
遍路道の吉田道を通り福田に帰ってきた。遍路道で山を下りたところに福田庵がある。
小豆島霊場第83番 福田庵
山越えの後、福田庵は直ぐ近くにある。お遍路さんは山越えの疲れをここで癒していた。福田庵の本尊は恵心僧都の作と伝えられる薬師如来で諸病平癒の霊験があると言う。福田の村人や巡拝者に親しまれている。
これで小豆島の遍路道集落巡りの1日目が終了。初日としては山越えで少々きつかった。
参考文献
- 福田村誌 葺田の里 (2005 福田地区自治連合会)
- 小豆島お遍路道案内図
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