Okinawa 沖縄 #2 Day 221 (13/11/22) 久米村 (1) Matsuyama Area 松山町
久米村 松山町 (マツヤマ)
- 松尾山 (マーチューヤマ)、松山公園
- 松山公園のガジュマル
- 沖縄病院跡
- 袋中上人行化碑、桂林寺跡
- 松山尋常小学校 (国民学校) 跡
- 東恩納寛量、宮城長順の顕彰碑
- 久米村発祥地、久米村600年記念碑
- 白梅学徒碑
- ユウナヌカー跡
- 大典寺
- 積穂高等女学校慰霊碑
- 島尻郡役所跡
- 若松公園 (三角公園)、松山・若松拝所
- 和魂の塔
- 伊辺嘉麻 (イビガマ、チンマーサー) 跡
今日は久しぶりの晴れ間が見えている。ただ、まだまだ天気は不安定なようなので、近場の那覇の松山町之文化財巡りとした。
久米村 松山町 (マツヤマ)
那覇の松山は、久米村と若狭町村の間にあったことから久米村松尾、若狭町松尾とも呼ばれていた。沖縄最大の歓楽街と言われ、多くの飲食店が軒をつらね、眠らない街として知られていた。
戦後、1952年 (昭和27年) に那覇市一帯の区画整理が始まった際は、松山がはじめて整理された地区の一つだった。1956年 (昭和31年) には若松通りができ、商業地区となり卸問屋が軒を連ねていた。1972年 (昭和47年) の沖縄本土復帰以降、企業もオフィスを構えて人々の往来も賑やかに発展していった。1990年 (平成2年)、西洲 (イリジマ) に沖縄卸商業団地協同組合ができ、松山の卸問屋の多く移転し、跡地にマンションやホテルが建ち始め、同時にキャバクラやスナックなどが増え始め、かつての商業地から夜の街に変わっていった。
現在の松山町には、明治になって区画整理から戦後の一時期まで松山町とは別に松下町が独立行政区として存在していた。松尾山高台の南から若狭町、久米町にかけての斜面が松 山町だった。当時は久米村に属していたので、この一帯の松林を久米村松原 (クニンダマチューバル)、久米村松毛 (クニンダマチューモー) とも呼ばれていた。松下町には今日訪問する大典寺、沖縄県立病院、連隊区司令部があった。
松山町の人口については1960年以降しか手元にはデータがないのだが、1972年の沖縄本土復帰直後には1960年に比べて2倍に増えている。推測では松山2丁目が埋め立てで開発されて若松問屋街ができ人が集まってきたのではないかと思える。戦前は松山一丁目が松山町之中心部だったが、戦後は二丁目が開発され、二丁目人口が一丁目を上回っている。1973年が人口ピークで、以降は人口減少が現在でも続いており、2020年の人口は1960年レベルまで減っている。他の那覇の中心地域と共通なのだが、世帯当たりの人数は1.7人迄減少しており、沖縄平均の2.4人を大きく下回っている。
松山町訪問ログ
松尾山 (マーチューヤマ)、松山公園
浮島と呼ばれた那覇の中核をなした丘陵が松尾山で松が生い茂る山林が広がっていた。琉球王統時代には、松尾山は久米村内だったが、1899年 (明治32年) から実施された土地整理事業により県有地となり、その前後から松尾山の開発が始まり、沖縄戦以前は、西側から中央部にかけて、那覇尋常高等小学校 (1888年開校)、那覇地方裁判所 (1893年移転開所)、知事官舎 (1916年開設)、 沖縄県立第二高等女学校 ( 1923年移 転開校)、松山尋常小学校 (1902年開校)、沖縄県立沖縄病院 (1901年移転開院) が置かれた。 中央部から北側にかけては、裁判所官舎、連隊区司令部及び官舎 (1910年設置) など公的施設が集中した。一方、東側の東郷松尾 (トーゴーマーチュー)、仲地小の丘 (ナカチグヮーヌウカ) 等と呼ばれた丘陵には、念仏者 (ニンプチャー) の屋敷や長寿宮があり、一帯は、戦前まで松尾山の面影を残していたという。
戦前の松尾山周辺の施設は、おおまかには下の地図のようだった。
1944年 (昭和19年) の10・10空襲や、その後の地上戦により、 松尾山一帯の施設は焼失。戦後、1951年 (昭和26年) には小学校、病院跡地に那覇商業高等学校が開校した。その他の場所は、米国マニング社管理の外人住宅地となっていたが、1977年 (昭和52年) からは公園整備事業が開始され松山公園や福州園が整備されている。
公園内にトックリキワタの木があり、花が咲いていた。このトックリキワタは沖縄ではよく見かける木で、花が咲くとは知っていたが、今日初めてその花が咲いているのを見かけた。ずんぐりした木から想像していたより、可憐な花だった。隣にはモクセンナが黄色い花を咲かせている。二つとも沖縄ではポピュラーな木だが、本土では見かけない。
松山公園のガジュマル
公園内にはガジュマルの大木もあった。枝を大きく広げている。
沖縄病院跡
公園内に沖縄県立沖縄病院の跡地の案内板が置かれている。1879年 (明治12) の沖縄県設置 (琉球処分) 以前に那覇西村に置かれていた旧薩摩藩在番奉行所は、明治政府の外務省出張所、次いで内務省出張所となり、1876年に医局を設け、内務省官吏や一般住民に医療を施していた。県病院、県立病院と呼ばれ、当時では県内唯一の総合病院でだった。1878年に西村の個人宅を間借りし、改めて医局を置き、翌年の沖縄県設置により、沖縄県医局 (後に医院) と改称した。 1885年 (明治18年) に は、下の天妃宮跡に移転し、初めて病室を設け、入院患者を収容した。 1889年 (明治22年) に沖縄県病院と改称。その後、老朽化と狭隘化により、1901年 (明治34年)、この松尾山に移転し、1909年 (明治42年) に沖縄県立沖縄病院と改称された。病院の敷地は約3,226坪。 一部2階建ての瓦葺き木造平屋建てで、 南側に正門玄関、外科・内科などの他に、売店・食堂が入った棟があり、長い渡り廊下を 上って、東北病棟へ続いた。 北病棟の奥に遺体安置所があり、遺体の引き取りは、近くの裏門からなされたため、裏門は俗に「死に門」と呼ばれた。1944年 (昭和19年) 10月10日の空襲で、建物は焼失し、その後は宜野湾の出張診療所で診察を続けていた。1945年 (昭和20年) の沖縄戦により自然閉院となる。 跡地は、1953年 (昭和28年) に那覇商業高等学校の敷地の一部となったている。県立沖縄病院には、医生教習所 (1885年創設)、産婆養成所 (1890年創設) が併設され、他に付属施設として、伝染病隔離のための台瀬病院 (1896年 創設) や性病対策の若狭病院 (1900年創設) が設置されていた。
袋中上人行化碑、桂林寺跡
沖縄病院跡説明板の奥、那覇商業高校北側に袋中上人行化碑が建てられている。沖縄ではこの袋中上人に関わるスポットがいくつかあり、その内いくつかは見てきた。(小禄袋中寺) 袋中上人は江戸時代前期の浄土宗の学僧で明に渡る為に1603年 (慶長8年) に来琉して、滞在中に浄土宗を伝え、その事績を記したのが、1924年 (大正13年) に建立されたこの袋中上人行化碑だ。琉球尚寧王は上人に深く帰依、現在の松山公園の地に桂林寺を建立し、上人が住持していた事から、ここが桂林寺が石碑の設置場所に選ばれている。この桂林寺が建立されて、数年後の1609年 (慶長14年) に薩摩が琉球に侵攻し、琉球王統は降伏、薩摩藩の支配下に入った。薩摩藩も1659年 (万治2年) よりは薩摩藩の宗教政策が適用され、キリスト教の他にも浄土真宗が禁教の対象とされた事で、袋中がもたらした浄土宗も教勢は振るわなかったという。
沖縄の伝統芸能のエイサー、袋中上人が民衆への布教の為に始めた念仏踊りがもとになっているとされ「エイサーの祖」といわれている。
松山尋常小学校 (国民学校) 跡
袋中上人行化碑から那覇商業高校沿いに公園内を進んだところに松山尋常小学校跡の石碑が置かれている。ここに1902年に松山尋常小学校が開校し、その後、国民学校となっている。当時那覇には尋常小学校は8校あった内の一つ。終戦後、1951年(昭和26) には小学校と病院跡地に那覇商業高等学校が開校している。
東恩納寛量、宮城長順の顕彰碑
公園の北側には東恩納寛量、宮城長順の顕彰碑がある。琉球空手の那覇手を起こしたのが東恩納寛量 (1853-1917) で、20歳にして、久米村 (クニンダ) と関係の深い中国福建省福州に渡り、南派少林拳術白鳥拳を15年間修業し、白鳥拳をベースに1889年那覇に唐手道場を開いている。これは唐手道場としては最も古いもの。東恩納寛量が始めた那覇手の系統は剛柔流開祖の宮城長順へと受け継がれている。
久米村発祥地、久米村600年記念碑
松山公園の西側入り口に久米村発祥地、久米村600年記念碑が置かれている。久米村 (クニンダ) は、約600年前に中国の福建から後に閩人三十六姓と呼ばれる人々が渡来し、この地に居を定め久米村 (唐栄) を築いたといわれる。 中山国、琉球王統時代を通じて、久米村の人々は、琉球王統の外交文書の作成などを通じ、国際交流、交易を促進し、中国の文化文物を導入して、沖縄の政治、経済、文化の発展に大きく寄与している。道路を挟んだところには中国福建省福州市と那覇市の友好都市締結10周年と、那覇市市制70周年を記念して1992年に建てられた福州園がある。(久米村訪問レポート)
白梅学徒碑
公園入り口の広場には白梅学徒碑があり、学徒像が建っている。白梅学徒はこの地にあった沖縄県立第二高等女学校の女学生によって組織された学徒隊だった。1905年 (明治38年) に女子講習会 (同年、私立那覇女子技芸学校となる) として開校され、その後変遷を経て、1928年 (昭和3年) に沖縄県立第二高等女学校になっている。ここに置かれた説明板に白梅学徒隊の沖縄戦での彷徨が記されている。
- 1944年 (昭和19年)10月10日の沖縄大空襲 (十・十空襲) によって校舎が焼失し、仮校舎で勉学に励み、
- 1945年 (昭和20年) 2月から四年生の看護教育が始まる。
- 3月6日、56名の四年生が従軍補助看護婦として、東風平国民学校に本部を置く第24師団衛生看護教育隊に入隊。(25日に3名、27日に9名が除隊となり、46名の生徒が入隊)
- 3月24日、米軍の攻撃が激化し、看護教育は打ち切られ、生徒たちは東風平村富盛の八重瀬岳に置かれていた第24師団第一野戦病院に配属された。この野戦病院で生徒達は負傷兵の看護や手術の手伝い、水汲み、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬などを行なっていた。
- その後、5名の生徒が具志頭村新城の自然洞窟のヌヌマチガマの第32軍第24師団 (山部隊) 第一野戦病院 新城分院に配置されたが、米軍が迫ってきたため、6月3日にはこの分院は閉鎖されている。
- 6月4日、八重瀬岳の野戦病院では病院長から野戦病院の解散命令が下され、生徒たちはそれぞれ数名ずつ班をつくって南部へと向かった。
- 6月9日、一部の生徒は糸満の国吉に到着。18日に国吉一帯で米軍による猛攻撃が始まり、辺りは一大殺戮場と化し、21日と22日に真栄里にあった壕が馬乗り攻撃を受け、多数の死傷者が出ている。この地にも白梅の塔の慰霊碑が建てられている。
- 国吉に行かなかった生徒たちは、砲弾が炸裂する中で死の彷徨を続け、ほとんどの生徒が6月下旬に米軍に収容されている。
6月21日から22日にかけてのに国吉、真栄里での米軍の猛攻によって46名の生徒のうち22名が犠牲になっている。
ユウナヌカー跡
公園広場の奥には、ここの住民の共同井戸の村井戸 (ガー) 跡がある。元々は沖縄県立第二高等女学校の運動場の一角にあったが1986年(昭和61年) に松山公園の池として整備されている。近くにゆうなの木があったことからユウナヌカーと呼ばれていた。この辺りは海岸に近く、殆どの井戸は塩分を含んでおり飲料水には適しておらず、住民は那覇港南岸の落平 (ウティンダ) の水が、那覇市中や入港する船舶向けに販売されていた。 その中でユウナヌカーは真水だったので周辺住民が飲み水や産湯などに使われる貴重な井戸になっていた。那覇市では人口が増加し、水問題が一層深刻となり、1933年 (昭和8年) に水道が敷かれ、水道が普及していった。それに伴い、ユウナヌカーは使われなくなったが、その後現在でも拝所として周辺住民から拝まれている。
大典寺
松山公園の前の松山通りを久茂地交差点方向に進んだ所に大典寺がある。この大典寺は比較的新しく建立された寺院で、薩摩藩の琉球侵攻以降に禁教となっていた浄土真宗が1879年 (明治12年) に禁教令は正式に撤廃された後、1910年 (明治43年) に布教所として出発したのが大典寺の前身になる。1912年 (明治45年) には、布教所内に沖縄感化院を設置し非行少年の教化を図った。1918年 (大正7年) に現在地に移転し、大典寺に改称。この年に沖縄家政女学校(積徳高等女学校) が、大典寺の庫裏を教室として開校している。1945年 (昭和20年) の沖縄戦で壊滅的打撃を受け、積徳高等女学校も廃校になっている。戦後活動を停止していた大典寺には沖縄民政府工務部の事務所が置かれ、大典寺民政府と呼ばれていた。その後、ようやく1960年に大典寺が再建され、浄土真宗本願寺派の沖縄開教事務所が置かれている。
積穂高等女学校慰霊碑
大典寺の境内に積穂高等女学校慰霊碑が作られている。積穂高等女学校の前身の沖縄家政実科女学校は1918 (大正7年) に大典寺内 西本願寺南陽佛教婦人会を中心に大典寺住職により創立された。大典寺の本堂と庫裏を教室として職員10名 生徒 22名 で開校している。 1926年 (大正15年) に大典寺隣域に校舎新築し、1930年 (昭和5年) に私立沖縄家政高等女学校に改称。1932年 (昭和7年) に美栄橋に校舎 (写真中) 新築移転 している。1941年 (昭和16年)、寄宿舎である花園寮を大典寺境内に設置。1943年 (昭和18年) に積徳高等女学校に改称している。当時は生徒数480名だった。この後沖縄戦で廃校となっていくのだが、この学校からは白梅学徒隊が従軍し、多くの犠牲者が出ている。
島尻郡役所跡
松山公園の北側の街の中に島尻郡の行政を管轄した役所跡があり、案内板が置かれている。島尻役所は1879年 (明治12年) の沖縄県設置の翌年、島尻地方15間切の行政事務を監督のため東風平間切番所内に置かれていた。その後、島尻役所は1886年 (明治19年) に那覇東町の那覇区役所内に併設され、1896年 (明治29年) に施行された2区5郡制 (那覇、首里区、島尻、中頭、国頭、宮古、八重山郡) により島尻郡役所と改称し、15間切の他に久米島、伊平屋諸島など本島周辺離島をも管轄となっていた。1912年 (明治45年) に郡役所をこの地 (当時は若狭町) に新築移転し、行政事務や郡道工事等の他に、島尻郡内で徴兵された青年達の合同団結式を行うなど、那覇での拠点となった。 1926年 (大正15年) に郡制廃止にともない、島尻郡役所は廃され、庁舎も解体撤去された。1934年 (昭和9年) 島尻郡役所跡に開洋会館が建てられ、海外移民の渡航 相談や宿泊所となっていたが、1944年 (昭和19年) の10・10空襲で焼失している。
若松公園 (三角公園)、松山・若松拝所
島尻郡役所跡の直ぐ東に若松公園 (通称 三角公園) には、松山・若松拝所の祠が置かれている。いつ頃から存在していたのかは不明だが、昔から地域の拝所として拝まれてきた。拝所の横には形式保存された井戸拝所もあり、別の場所にあって井戸を移転し祀っている。この辺りは戦後埋め立てられて若松卸問屋街が設置されていた。
和魂の塔
松山公園の南の那覇商業高校グランドの一角に和魂の塔の慰霊碑がある。沖縄に米軍が上陸する直前の1945年 (昭和20年) 3月末、旧制中学生に対し学徒隊として動員令が下った。那覇商業高校の前身の那覇市商工学校の生徒は12校で組織された鉄血勤皇隊と通信隊に参加し、前者は第62師団歩兵64旅団独立歩兵第22大隊に、後者は無線、暗号、情報の教育を受け第32軍司令部と独立混成第44旅団の通信隊に配属された。通信隊は、米軍の妨害無線によって日本軍無線が使えなくなり、伝令となり砲弾の飛び交う中を部隊間の連絡を行なっていた。これが多くの犠牲者を出す結果となってしまった。学徒隊員として学業半ばにして犠牲となった那覇市立商工の生徒や職員の動員者数は不明だが、所属したすべての部隊は玉砕しているので従軍した学生達もそれに巻き込まれて、学徒隊114名、教職員他関係者他51名の計165名 (資料により戦死者数は異なっている) が犠牲になっている。
鉄血勤皇隊は12校で組織され1780名の学生が動員されている。当時17才以上の学生となっていたものを14才以上に変更し、志願制であったが、事実上は強制だった。14才から16才の学生で構成された少年兵の鉄血勤皇隊の半数の生徒が犠牲になり、ここの那覇市商工学校の従軍生徒は99人中72人 (73%) が犠牲になっている。当時日本陸軍は沖縄を本土決戦を遅らせる為の捨て駒としていたが、その目的で未来のある少年まで捨て駒として使った事は残酷だ。
戦火で焼失した校舎は戦後に再建され、1958年に沖縄商工学徒隊戦没者慰霊碑として、この和魂の塔が建立されて、現在でも沖縄商業高等学校同窓会が慰霊祭を行っている。
伊辺嘉麻 (イビガマ、チンマーサー) 跡
国道58号線から北側に少し入り、今では存在しないのだが、琉球王統時代に美栄橋からの道沿いあたりに伊辺嘉麻 (イビガマ、チンマーサー) が存在していたと推測されている。この伊辺嘉麻 (イビガマ、チンマーサー) が長虹堤の那覇側起点になり美栄橋で久茂地川をわたり、宗元寺まで続いていた。伊辺嘉麻 (イビガマ) はチンマーサーだったともいわれ、住民が集う広場があったようだ。現在ではその名残はなく、正確にどこに伊辺嘉麻 (イビガマ) があったのかは不明のままで、資料によって、その場所はまちまちだった。
別の資料ではアパホテルの駐車場入り口辺りとしている。
今日は珍しく雨に降られることもなく無事、松山集落巡りを終えることができた。沖縄はまだまだ、暑さが続いている。
参考文献
- 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
- 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
- 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)
若狭1丁目自治会50周年記念誌 50年のあゆみ (2014 若狭1丁目自治会)
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