Okinawa 沖縄 #2 Day 222 (16/11/22) 久米村 (2) Kume Village 久米村
久米村 久米村 (くめむら、クニンダ)
- 久米村大門 (クニンダウフジョー)、大門前 (ウフジョウメー)
- 久米村毛小 (クニンダモーグヮ)
- 久米大道 (クニンダウフミチ、久米大通り)
- 上天妃宮跡 (ウィーヌティンピ)
- 天満宮跡、善興寺跡、西照寺跡
- 下天妃宮 (シムヌティンピ)、那覇里主所 (ナハサトヌシジョ)
- 米国民政府跡、那覇尋常小学校跡 (上山中学校)
- 上の芝居跡、下の芝居跡
- 程順則生家跡
- 西武門跡 (ニシンジョー)
- 久米至聖廟 (孔子廟)
- 明倫館
- 福州園
- 知事官舎跡
- 久米嶽
- 清泰寺跡 (せいたいじ、忠藎堂 蔡氏堂)
- 東壽寺 (とうじゅじ) 跡、堂小屋敷跡
- 東禅寺跡
- 内兼久山跡 (ウチガネクヤマ)
- 内金宮嶽跡 、内金宮跡
- 財之神嶽
- 孔子廟跡、大成至聖先師孔子造像
前回は松山町を訪れたが、この松山は元々は久米村の所管だった。今日はその親村だった久米村を訪れる。
久米村 久米村 (くめむら、クニンダ)
1914年 (大正3年) には久米町 (1丁目と2丁目) と天妃町 (1丁目と2丁目) に分割された。1971年 (昭和46年) には戦災復興区画整理事業で行政区画の変更が行われ、久米1丁目が辻町1丁目、天妃町1丁目と2丁目、上之蔵1丁目と2丁目、松山町1丁目の各一部となり、久米2丁目が久米町1丁目と2丁目、松山町1丁目、松下町1丁目の各一部で構成していた。
久米村の文化風習は沖縄とは異なり、明の時代は生活様式は明と同じであったが、明が清に滅ぼされると、大陸からは弁髪など清様式を求められたが、久米村住民はそれを嫌い、髪型は沖縄のカタカシラと改め、生活様式も沖縄風に次第に変わっていった。ただ信仰については、以前から拝んでいた儒教と道教が根強く残っている。この儒教、道教に関連する生活様式も現在でも守られている。これは沖縄の中でも特殊な文化となっている。久米村で行われていた祭祀や行事は以下の通りだが、沖縄の他の集落で行われていた祭祀行事に加えて、孔子廟や天妃廟での祭祀が含まれている。
久米村訪問ログ
久米村大門 (クニンダウフジョー)、大門前 (ウフジョウメー)
久米村の南端にある大門の前の土地は竜の頭であり、街の大通りは竜身であり、仲島の大石は竜珠である。竜は神聖なものであるため、屍をもって大門を出入りしてはいけない、もし禁を冒せば、竜が怒り、大風を起こし、国の災いとなる。
久米村毛小 (クニンダモーグヮ)
久米大道 (クニンダウフミチ、久米大通り)
上天妃宮跡 (ウィーヌティンピ)
天満宮跡、善興寺跡、西照寺跡
下天妃宮 (シムヌティンピ)、那覇里主所 (ナハサトヌシジョ)
米国民政府跡、那覇尋常小学校跡 (上山中学校)
- 1945年(昭和20年) 3月26日、米軍の慶良間諸島上陸、4月1日の沖縄本島上陸により始まった沖縄戦では、米軍は軍政施行を宣言(二ミッツ布告) し、本島上陸後、読谷村字比謝に軍政府を設立した。軍政府は、戦闘期間中、避難民の収容、食料配布、収容所の管理・運営などを行っていた。
- 1946年 (昭和21年) 10月、米軍政府は、具志川村栄野比に置かれ、玉城村親慶原へ移転。
- 1946年 (昭和21年) 4月24日に石川市東恩納で発足した沖縄民政府も、軍政府移転に伴い、近接する佐敷村新里へ移転。
- 1949年 (昭和24年) 7月25日、沖縄民政府は、戦災を免れた旧上山国民学校 (元那覇尋常小学校) に移転したが、すぐに隣接する旧天妃国民学校に移った。12月には米軍政府が旧上山国民学校に移転し、軍政府長官シーツ少将は、那覇市を沖縄の首都とすると発表。
- 1950年 (昭和25年) 12月15日、軍政府が廃止され、替わって民政府が設立。軍政から民政への移行は、沖縄住民の協力を得て、沖縄の長期的統治を可能にするための処置といわれる。
- 1953年 (昭和28年) に琉球政府ビル (現沖縄県庁所在地) が建設され、米国民政府、琉球政府 (1952年4月1日発足) が移転。米国民政府移転後、跡地に上山中学校が開校。
上の芝居跡、下の芝居跡
程順則生家跡
西武門跡 (ニシンジョー)
男 イチュンドヤー カナシ
もういくよ 愛しい人
女 マチミソーリー サトゥメー
お待ちください あなた様
ニシンジョウ ヌ エーダーヤ
西武門までの間は
ウトズムサビラ
お伴しましょう
これで久米村の北の端まで来たので、次は久米大道 (久米大通り) の東側、久米二丁目 (旧久米町) の文化財を北側から泉崎方面に見ていく。
久米至聖廟 (孔子廟)
明倫館
福州園
知事官舎跡
久米嶽
忠藎堂 (蔡氏一門宗祠蔡氏堂)、清泰寺跡
二世蔡譲 (1399-1463) が1439年に、慶賀通事となって、 長史楽永保に随って明に行く途中台風に遭遇して舟は転覆し、多くの人々が溺れ死んだ。国書を抱いて海浪をただよっていると一大亀が現われて、譲を背負い、また鱶が左右から護ってこれを扶けた。譲は、国書を抱き、亀の背におぶさって乱雲で天は昏く、風は猛怒する中を二昼夜走り、万死に一生を得て、陸地にたどりついた。譲が岸に登ってみると南京の境内の地であった。譲が、亀と鱶に深く謝して言うに「汝が我を救けてくれたその恩を深く感謝する。 我若し命を全うしてすることができたら我が子孫に汝らの肉を子々孫々まで食べてはいけないと云い聞かすことを誓う」と。亀と鱶はこれを聞いて尾を振りながらおよぎ去って行った。
譲は国書を挿して礼部に伝達し、かつ慶賀のことおよび途中で舟が転覆して亀とに助けられたことを報告した。 慶賀の公事がすべておわってし帰国し復命した。中に亀と鱶の肉を食べないようにと 門中の各家が亀と鱶の肉を食べないのはこの時から始まっている。
東壽寺 (とうじゅじ) 跡、堂小屋敷跡
順治年間主なる者あり、僧たるや質資敏捷にして絶倫なり。 巳に扶桑に飛法の旨を授く両部の深を極め兼ねて道の書籍を学び、頗る義理の精徴を知る。既にして本国に帰来するや即ち東寿寺に住して法を説き、道を講じて以て諸教。 時に尚質王頼をして書をせむして唐栄より禁城に至る道路に遠くして来甚だ労す。是れによって、首里金城色に、この寺院を創建して東山 (原号東林) 大日寺とよぶ。 又明院と号す。 大日如来の像を奉安して崇信をなす。
東禅寺跡
内兼久山跡 (ウチガネクヤマ)
内金宮嶽跡、内金宮跡、東龍寺跡
万暦年間(1573-1619)頃、山城の国から来た重温という人物がそこにお参りし数日も立たないうちに、道端で出会った女性から数銭で炉を購入した。家に帰ってその炉を良く見てみると金で出来ており、驚いた重温があわててもとの持ち主に返そうとしたところ、その女性があらわれ弁財天を名乗り重温の心根を褒め、金の炉を褒美にあげようといったという。そこで重温はその森の東に宮を建てて、内金宮と名づけた。
財之神嶽
孔子廟跡、大成至聖先師孔子造像
琉球は14世紀以降、中国との朝貢関係になっていたが、一般社会では儒教の受容は遅い。 孔子祭祀は久米村の蔡堅 (喜友名親方、1585 ~1674年) が 1610年 (万暦38年) に進貢使として中国に派遣されたとき三東省曲阜の聖廟を参拝した際に車服や礼器をみて渇仰し、孔子ならびに四配 (顔子、曾子、子思子、孟子) の絵像を持ち帰り、 郷里の士丈夫の家を輪番で奉安して祭祀をおこなったのが始まりとされる。1671年 (康熙10年) に総理唐栄司の金正春 (城間親方、1618~1674年) が久米村に孔子廟建立 (写真左) の件を議し、摂政向象賢 (羽地王子朝秀)、三司官毛泰永 (伊野波親方盛紀)、毛国棟 (具志頭親方安統)、毛国珍 (池城親方安憲) に請い、尚王に啓奏して許可を受けた。1672 年には廟地をこの泉崎橋頭の久米村に選定し、都通事金正華 (赤嶺親雲上) が督工官に任じられ着工、1674年に竣工した。翌年5月には正義大夫蔡国器 (大宜見親雲上) を督工官に任じ、 孔子および四配の聖像の塑像製作が中国に渡り五色玉や焼物の薬掛けを習得して帰国した宿藍田 (平田親雲上典通) に、壁画並びに廟内の装飾が絵師査秉徳 (仲宗根親雲上) に命じ工事に着手し、1676年1月に完成している。 この年から毎年春秋2回、釈奠がおこなわれている。 正門には至聖廟の扁額が掲着されていたことから、孔子廟は「チーシンビュー」と呼ばれていた。昭和19年 (1944年)、 先の大戦の10・10空襲で那覇市の90%が被害にあった際に、孔子廟は聖像、蔵書、備品と共に全て灰燼に帰している。
明倫堂 (写真右) は1717年 (康熙56年) に、程順則 (名護親方、1663 ~ 1734年) の学堂建立の建議が許可され、翌年孔子廟に隣接する敷地に高等教育機関として設立された。明倫堂建立以前は上天妃宮に久米村の子弟を集めて教育していたが、建立後は上天妃宮では7才以上の子弟を対象に官話や三字経、小学などの初等を、明倫堂では官話のほかに漢学指導、詩文や表文、奏文、咨文、執照、符文などの外交文書の作成などの高等教育を教授した。 講解師 (講談師匠)、訓詁師 (読書師匠) などが設置され、久米村士族の子弟の教育を担当した。 また総理唐栄司 (久米村総役) が司教となり、毎月 3/6/9の日 (月9回) に受講子弟の勤情の状況を厳しく監督して人材基盤の確立につとめた。また啓聖祠を奉安する祭壇をもうけて、 孔子の父叔梁 (啓聖公) 及び四従 (顔子の父 顔無繇、曾子の父 曾[黒へんに谷]、子思子の父 孔鯉、孟子の父 孟孫氏) の神位を置き、紫金大夫が小牢をもって啓聖祠を祭っている。明倫堂は儒教の総本山的性格をもち、正門には「儒学」の扁額、堂内正面に は「啓聖祠」の扁額を掲げて久米村が儒学文教の府たることを示していた。 久米村士族は若秀才、秀才、通事、都通事、中議大夫、正義大夫、紫金大夫と昇進する。 総理唐栄司はその行政機関の長で、紫金大夫の中から選出した。その下僚に長史がいて総理唐栄司を補佐し、その属僚に久米村大筆者、通書役、文組主取、系正などがいた。 1769年 (乾隆34年) 以後、明倫堂はその役所にあてられていた。明倫堂はその一部に孔子の父叔梁総および四従の神位が奉祠されているので「啓聖祠」または「崇聖祠」とも称されている。
元々の場所は随分と狭くなってしまったのだが、久米至聖廟が昭和50年若狭の地に戦後復興されるのに合わせ、台北市政府から久米祟聖会へ贈られた孔子像が建っている。この地には孔子廟の他、1718年には程順則名護親方によって琉球初の学校である明倫堂が設立され、優秀な人材を多く輩出していた。
久米村には史跡ではないのだが、観光施設として福州園が建てられている。今日は時間がなく訪問できなかったので、次回の訪問とする。
参考文献
- 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
- 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
- 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)
- 久米村の民俗 (2009 国吉有慶)
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