Okinawa 沖縄 #2 Day 222 (16/11/22) 久米村 (2) Kume Village 久米村

久米村  久米村 (くめむら、クニンダ)

  • 久米村大門 (クニンダウフジョー)、大門前 (ウフジョウメー)
  • 久米村毛小 (クニンダモーグヮ)
  • 久米大道 (クニンダウフミチ、久米大通り)
  • 上天妃宮跡 (ウィーヌティンピ)
  • 天満宮跡、善興寺跡、西照寺跡
  • 下天妃宮 (シムヌティンピ)、那覇里主所 (ナハサトヌシジョ)
  • 米国民政府跡、那覇尋常小学校跡 (上山中学校)
  • 上の芝居跡、下の芝居跡
  • 程順則生家跡
  • 西武門跡 (ニシンジョー)
  • 久米至聖廟 (孔子廟)
  • 明倫館
  • 福州園
  • 知事官舎跡
  • 久米嶽
  • 清泰寺跡 (せいたいじ、忠藎堂 蔡氏堂)
  • 東壽寺 (とうじゅじ) 跡、堂小屋敷跡
  • 東禅寺跡
  • 内兼久山跡 (ウチガネクヤマ)
  • 内金宮嶽跡 、内金宮跡
  • 財之神嶽
  • 孔子廟跡、大成至聖先師孔子造像


前回は松山町を訪れたが、この松山は元々は久米村の所管だった。今日はその親村だった久米村を訪れる。



久米村 久米村 (くめむら、クニンダ)

明国大祖皇帝の代 1372年に、三十六姓が移住してこの地に落着き、琉球国察度王の要請にこたえて、文化経済の発展のために活躍し、その子孫が大部分が沖縄に帰化した。当初は唐人町という事で唐営と呼ばれ、久米村は那覇四町の外に別格の地位を与えられ優遇された。この久米村は王府の政策で人為的に作られた寄留地ではなく、明から賜船の航員として派遣され、海港近く便宜上居住し、せしめたもので、妻子帯同者は、航海中には妻子が自活のために雑貨等の商売に従事したり、航路指南以外に外交文書の作製等に従事し、次第に永住するようになり、王府から屋敷を賜ったと考えられる。久米村の三十六姓は尚寧王の時代 (1589年 - 1620年) には五姓までは減り、現在は二十ニ姓あるそうだ。
久米村はクニンダと呼び、久米の二字が当てられた。内兼久山の近くは昔は入江になっていて久米島通いの船が出入 りしていたのでその名が付いたとも言われている。東海諸国記の地図には九面里とあり、苦念塔と書いたのもある。
近世琉球の王府版図内の各村の石高を記した高究帳 (1647年) には真和志間切那覇町のうち久米村町として記載され、清の徐葆光が1721年に著した琉球の地誌である中山伝信録では久米村は東門村、西門村、北門村、南門村 (大門) の四村に分けられていた。現在の久茂地付近には景泰年間 (1450~57) に尚泰久王により普門寺 (建立場所は不詳) が建立され、1667年にはその界隈に普門寺村 (大門村) が成立し、1735年に久茂地村と改称され久米村に属していた。

1914年 (大正3年) には久米町 (1丁目と2丁目) と天妃町 (1丁目と2丁目) に分割された。1971年 (昭和46年) には戦災復興区画整理事業で行政区画の変更が行われ、久米1丁目が辻町1丁目、天妃町1丁目と2丁目、上之蔵1丁目と2丁目、松山町1丁目の各一部となり、久米2丁目が久米町1丁目と2丁目、松山町1丁目、松下町1丁目の各一部で構成していた。

久米村の人口もデータが不足しているのだが、1880年 (明治13年) では6,038人と多くの人口だった。この当時の久米村は現在よりも広い範囲での松山や辻、久茂地も含んだ数字と思われる。現在の久米村に相当するのは昭和に入ってからで、沖縄戦で人口が激減、その後土地が米軍より解放されてから徐々に増えてはいるが、1927年レベルの人口に戻ったのは1970年となっている。人口のピークは沖縄本土復帰後の1973年で約4000人に達している。その後は人口は減少に転じ、ここ10年程は横ばい状態になっている。一方、世帯数は増加傾向で、世帯当たり数は減少し、2020年では1.8人で沖縄平均 (2.4人) を大きく下回っている。


久米村の文化風習は沖縄とは異なり、明の時代は生活様式は明と同じであったが、明が清に滅ぼされると、大陸からは弁髪など清様式を求められたが、久米村住民はそれを嫌い、髪型は沖縄のカタカシラと改め、生活様式も沖縄風に次第に変わっていった。ただ信仰については、以前から拝んでいた儒教と道教が根強く残っている。この儒教、道教に関連する生活様式も現在でも守られている。これは沖縄の中でも特殊な文化となっている。久米村で行われていた祭祀や行事は以下の通りだが、沖縄の他の集落で行われていた祭祀行事に加えて、孔子廟や天妃廟での祭祀が含まれている。


久米村訪問ログ



久米村大門 (クニンダウフジョー)、大門前 (ウフジョウメー)

泉崎交差点から北東に久米大通りが走っている。この久米大通りの入り口には、かつては久米村大門 (クニンダウフジョー) があった。南の東村との境になり久米の表口にあたる。現在では大門は残っていないのだが、読谷村高志保のむら咲むらに久米大門が復元されている (写真右下)  
久米大通りは波上宮の手前にある西武門 (ニシンジョー) まで伸びていた。この道は久米村の人たちにより、風水に基づいて造られたという。久米村大門は龍の頭、西武門は龍の尻尾とされる。大門跡の前の広場は大門前 (ウフジョウメー) でその中に二つの花壇があり、その中にそれぞれ石がある。この二つの石が龍の目とされる。その後方のも二つの花壇があり、それぞれには木が植っている。これは龍の角をあらわしているそうだ。歩道橋の上から見ると、なんとなくそのように見える。久米大通りをそのまま直接で久茂地川を渡り伸ばしていくと以前訪れた泉崎にある仲島の大石に突き当たる。久米村の人達はこの大石を龍の玉と考えていた。久米村は首里王府に、この大岩の所管を泉崎から久米村への変更を嘆願し認められて、仲島の大石は久米村の飛び地となった。遺老説伝に久米村の竜について説話が載っている。
久米村の南端にある大門の前の土地は竜の頭であり、街の大通りは竜身であり、仲島の大石は竜珠である。竜は神聖なものであるため、屍をもって大門を出入りしてはいけない、もし禁を冒せば、竜が怒り、大風を起こし、国の災いとなる。

久米村毛小 (クニンダモーグヮ)

久米村大門の道向、現在の東町4丁目34-35番地辺は以前は海で、この海の中に半円形の突出しがあって、樹が二本植っていた。この突出しを久米村毛小といい、龍頭に象ったものだったという。

久米大道 (クニンダウフミチ、久米大通り)

久米村内を南北に貫通する久米村大道に沿って村は二分されて、現在の一丁目が南区でかつての天妃町にあたり、二丁目が北区でかつての久米町だった。

まずはかつての天妃町から見ていく。久米大門から、久米大道に沿って巡る。


上天妃宮跡 (ウィーヌティンピ)

かつての久米村中心は天妃町界隈で、天妃町を昔は久米村といっていた。西村、東村、 若狭町村、久茂地村に囲まれて昔は那覇の中心地であり上之蔵と並んで小高い丘の上にある町だった。昔、この丘に久米の人たちが祖国中国から航海の神の天妃 (天后、媽姐神) を祀った上天妃宮と下天妃宮があった。15世紀初めの永楽年間に造られたと伝えられている。上天妃内には三重城にあった龍王堂が移設され置かれていた。上下天妃取払の際にその神像は天尊廟に移っている。琉球王統時代には宗門改が下天妃で行われていた。この界隈には天妃グスクがあったとされたいるが、正確にはその位置は不明。上天妃宮の跡が天妃グスクではないかという説がある。天妃グスクは薩摩が琉球に侵攻し首里城を攻めた際に謝名親方がこの天妃グスクに立てこもり薩摩軍と交戦した場所とも伝わっている。
明治維新後、天妃宮の跡に1880年 (明治13年) 沖縄師範学校が設けられたが、間もなく首里に移転し、一時期には沖縄県病院が假病棟にもなっていた。上下天妃宮は後に波之上の天尊廟に移転され、1899年 (明治32年) に天妃尋常高等小学校 (後に旧天妃国民学校、現在の天妃小学校) が新設された。戦後の一時期 (1953年-1965年) は現在の那覇市役所庁舎が出来るまで市役所として使われていた。現在では天妃宮の建物は無く、小学校の東南角に上天妃宮の石門だけが残っている。石門に続く石垣は、その積み方が御物城 (オモノグスク)や読谷村の座喜味城 (ザキミグスク) の石垣に似ており、布積みから相方積みが用いられるようになるころのものと考えられている。この一帯には善興寺があり寺の裏には坊王墓があったそうだ。

天満宮跡、善興寺跡、西照寺跡

現在の天妃小学校の場所にあった上天妃宮の南隣には天満宮があったが、現在は住宅地となっている。
その南側にあった善興寺跡も面影もなく住宅地と変わっている。
西側には西照寺があったが、現在は影も形も無い。善興寺の裏には坊王墓もあったそうだ。


下天妃宮 (シムヌティンピ)、那覇里主所 (ナハサトヌシジョ)

更にその南側、現在の東町には下天妃宮、那覇里主所などがあった。東町のこの辺りは昔は久米村の一部だった。下天妃宮は航海安全の守護神の天妃 (媽祖) を祀った廟で。上天妃宮より先の永楽年間 (1403年~1424年) の創建とされる。中国から渡来した閩人三十六姓の請来と考えられている。廃藩後の1880年には、隣接する那覇里主所敷地ともども沖縄小学師範学校 (後の沖縄県立師範学校) が設置され、廟内の神像はすべて上天妃宮に移された。1886年師範学校が首里に移って後、那覇郵便局となっていた。那覇里主所は琉球王国の対外窓口として機能した機関で、那覇四町 (ユマチ) の行政および薩摩藩在番奉行所との接渉、唐船、櫂船、旅役などの事務を管掌した首里王府の役所になる。長官は那覇里主、下役には那覇大筆者、脇筆者がいた。那覇里主は、古琉球期、親見世の長たる御物城職とともに王国の対外窓口たる那覇の港、町の管理にあたっていた。近世期においても基本的役割は変わらなかったが、任職者は首里の上級士族に限定され、王府中枢役人の出世コースの一職となった。現在は那覇郵便局となっておりその前には沖縄県電信電話発祥の地の石碑が置かれていた。沖縄県では、電信が明治29年10月、電話が明治43年2月に開始されている。

米国民政府跡、那覇尋常小学校跡 (上山中学校)

天妃小学校の隣は上山 (うえのやま) 中学校 (旧上山国民学校 、元那覇尋常小学校) で、この二校と郵政庁で天妃町の大部分を占め、これを中心に各種商社や民家が並んでいた。この上山中学校は、戦後の沖縄統治のための米国政府の出先機関であった米国民政府の庁舎が建てられていた。正式名称は、琉球列島米国民政府(United States Civil Administration Of The Ryukyu Islands) で、英語の頭文字をとって、ユースカー (USCAR)、または民政府などと呼ばれた。
  • 1945年(昭和20年) 3月26日、米軍の慶良間諸島上陸、4月1日の沖縄本島上陸により始まった沖縄戦では、米軍は軍政施行を宣言(二ミッツ布告) し、本島上陸後、読谷村字比謝に軍政府を設立した。軍政府は、戦闘期間中、避難民の収容、食料配布、収容所の管理・運営などを行っていた。
  • 1946年 (昭和21年) 10月、米軍政府は、具志川村栄野比に置かれ、玉城村親慶原へ移転。
  • 1946年 (昭和21年) 4月24日に石川市東恩納で発足した沖縄民政府も、軍政府移転に伴い、近接する佐敷村新里へ移転。
  • 1949年 (昭和24年) 7月25日、沖縄民政府は、戦災を免れた旧上山国民学校 (元那覇尋常小学校) に移転したが、すぐに隣接する旧天妃国民学校に移った。12月には米軍政府が旧上山国民学校に移転し、軍政府長官シーツ少将は、那覇市を沖縄の首都とすると発表。
  • 1950年 (昭和25年) 12月15日、軍政府が廃止され、替わって民政府が設立。軍政から民政への移行は、沖縄住民の協力を得て、沖縄の長期的統治を可能にするための処置といわれる。
  • 1953年 (昭和28年) に琉球政府ビル (現沖縄県庁所在地) が建設され、米国民政府、琉球政府 (1952年4月1日発足) が移転。米国民政府移転後、跡地に上山中学校が開校。

上の芝居跡、下の芝居跡

那覇尋常小学校跡の西側に上の芝居跡、下の芝居跡がある。沖縄芝居は廃藩置県後の1881年 (明治12年) 頃に、役者侍といわれた宮廷芸能家たちが職を失い、東町近くに露天の芝居小屋 (仲毛芝居小屋) を立てたのが始まりで、後に仲毛演芸場となる。この露天の芝居小屋ができた後の1886年 (明治19年) に本格的な芝居小屋として初めて公認されて那覇市波の上に本演芸場 (後に下の芝居、沖縄座)、新演芸場 (王申座、後の上の芝居、球陽座) ができている。この二つの芝居劇場は同じ通りにそれ程離れていなかった。それぞれが沖縄座、球陽座が芝居を上演し競い合っていた。この時期は芝居興行ブームで中の演芸場 (中の芝居、明治30年に廃止) や首里演芸場が次々と設けられていた。1919年 (大正8年) の大火災により、下の芝居、上の芝居、中の芝居は焼失してしまった。

程順則生家跡

琉球王国を代表する文人である程順則の生家が久米大道添いにあった。生家跡として案内板が置かれている。程順則は1663年に久米村に首里士家の虞氏外間筑登之實房 (ぐううじほかまチクドゥンじつぼう) 程泰祚(ていたいそ) の次男として生まれ、字は寵文 (ちょうぶん)。中国語の才能を買われ、22才の時、王府の命により、久米村に入籍し、長く途絶えていた程家の跡を継いでいる。(当時は久米村三十六姓出身で無くても中国語に堪能なものは久米村籍に入ったそうだ。) 1683年20才の時、勤学として初めて清に留学し、4年間滞在。その後も三度渡唐しているが、1706年には、正議大夫 (進貢副使) として北京へ赴いている。1719年には、紫金大夫 (親方位) に昇進、久米村総役 (クニンダスーヤク、久米村の最高役職) に就く。この間、十七史 (じゅうしちし) 全1,592巻や中国の教訓書の六諭衍義 (りくゆえんぎ) 等を持ち帰った。六諭衍義は薩摩藩を経て、八代将軍徳川吉宗に献上され、その後、庶民教科書として全国に普及した。1718年には孔子廟境内に、琉球で最初の学校の明倫堂を創設し、久米村子弟の教育にあたった。順則は、漢詩集の雪堂雑爼 (せつどうざっそ 1696年)、雪堂燕遊草 (せつどうえんゆうそう 1698年) や中国渡航の際の航海指南書である指南広義 (しなんこうぎ 1708年) などを著し、1719年に来琉した冊封副使徐葆行に、中山第一の文人と賞された。1728年、66歳の時に名護間切の総地頭となり、名護親方と称し、高徳の人として後に名護聖人と称された。1734年死去、享年72。墓は辻原にあったが、沖縄戦後の区画整理により、識名霊園内に移転されている。

西武門跡 (ニシンジョー)

久米村の入り口の大門から久米村大通りが走り、琉球王統時代、北の入り口には西武門 (ニシンジョー) が設置されていた。西とは言うもののこれは北門で、古くは北門と表記されていた。沖縄では北の事を「にし」と呼ぶので、後にこの「西」の漢字が充てられた。この西武門で久米大通りと上之蔵通りが交差する。戦後にはこの上之蔵通り沿いは久米村の一部だった上之蔵町があった。西武門の北は辻町になり、琉球王統時代から遊郭が置かれ、辻遊郭にはここを通って行った。辻遊郭の遊女とそこへ通う侍 (サムレー) を歌った沖縄の古い民謡「西武門節」でこの西武門が歌われている。
  男 イチュンドヤー カナシ
                 もういくよ 愛しい人
  女 マチミソーリー サトゥメー
     お待ちください あなた様
        ニシンジョウ ヌ エーダーヤ
                  西武門までの間は
         ウトズムサビラ
     お伴しましょう


これで久米村の北の端まで来たので、次は久米大道 (久米大通り) の東側、久米二丁目 (旧久米町) の文化財を北側から泉崎方面に見ていく。



久米至聖廟 (孔子廟)

17世紀初頭より、久米村では久米三十六姓の人々によって儒教の祭典が行われていた。1676年 (尚貞王) になって、現在の那覇泉崎のに孔子とその弟子を祀るため孔子廟が建立された。那覇の人はチーシンビュー、チーシンブーと呼んでいた。孔子の生誕を祝う釋奠祭禮 (せきてんさいれい)はこの年から始まり、戦争前まで旧暦2月と8月の最初の丁 (ひのと) の日の年2回行われてきた。この釋奠祭禮は地元ではクーシウマチーと呼んでいる。孔子廟の祭礼には、中国伝来通りに、ブタを屠殺して廟に捧げていた。 
1945年の沖縄戦で焼失し、元の場所は軍道1号線 (国道58号) の拡張工事で敷地が削られ再建が不可能となった。1975年になってようやく、波上の天尊廟跡地に、天尊廟とともに再建された。元の場所には台湾から贈られた孔子像が置かれている。久米村の人たちが、孔子廟を元々久米村があった場所ン戻したいという願いから、2013年 (平成26年) に現在地 (久米郵便局跡地) 松山公園内に至聖廟門、大成殿、明倫館が再建されている。孔子廟の至聖廟門には扉が三つあり、中央は孔子が入るための扉で、孔子を迎えるために年に一度だけ釋奠 (せきてん) の日に開かれる。
至聖廟門を入った正面に至聖廟 (孔子廟) の本殿の大成殿が孔子廟共通の南向きに建てられており、孔子とその弟子四配の顔子、曾子、子思子、孟子を祀っている。
大成殿の階段には、孔子を迎えるためという石龍陛がはめ込まれている。
大成殿正面には、孔子の生地の曲阜の大成殿を模した龍柱が屋根を支え、殿内正面に孔子像が置かれた孔子を祀る祭壇 (写真上) が置かれている。その上の扁額には永遠に人々の模範を示す師 (孔子) を意味した萬世師表と書かれている。その両脇にに四配 (顔子、曾子、子思子、孟子) の神位が二つづつ置かれてる。向かって左側祭壇 (左下) には、孔聖の道を尊び崇めて、万国の調和と万事の処置が適切で順調な発展を願うとした「聖協時中」の扁額の下に「亞聖孟子神位」と「宗聖曽子神位」の位牌が置かれ、孟子と曽子を祀る。右の祭壇 (右下) には、人は生まれながらにして、善人と悪人の種類があるのではなく、教育によって善人にも悪人にもなるという意味の「有教無類」の扁額が掲げられ、「復聖顔子神位」と「述聖子思子神位」の位牌が置かれ、顔子と子思子が祀られている。また大成殿の奥に別室 (中右) があり、そこには孔子の父・叔梁紇 (しょくりょうこつ) と四配の祖先を祀る啓聖祠 (けいせいし) を祀っている。

明倫館

孔子廟の敷地内には明倫館が再建されている。明倫館は孔子廟と同じく泉崎に1676年 (延宝4年) に創建され、久米村の子弟のための教育機関で、琉球における公立学校の始まりとされている。元の明倫館は沖縄戦で焼失し、1975年に波上の天尊廟跡地に再建され、2013年 (平成26年) に久米村中心だったこの地に再建されている。
この施設は閩人三十六姓の子孫の久米崇聖会の管理となっている。この土地は公有地で那覇市が久米崇徳会に無償貸与され、このことが訴訟に発展した。この場所は旧久米郵便局跡地で当初は松山公園として国から無償貸与条件で子供たちの広場になる予定だった。それが突如、国有地を購入し孔子廟建設の為に久米崇聖会に無償貸与と変わってしまった。市民団体は、当時は若狭の波上の天尊廟に置かれていたので、那覇市が多額の資金負担をして孔子廟を移転させる必要はないということで訴訟になった。当時の県知事の仲井眞弘多は閩人三十六姓の子孫で久米崇聖会のメンバーであったことも疑惑を生み、この特定の団体の宗教施設建設の為に那覇市が那覇市議会で議論されることもなく、公有地を無償貸与した事は政教分離原則上違法だという意見と宗教施設以上に文化財であるから問題無いという主張がぶつかって住民訴訟に至り、裁判所は違憲とし、原告住民の勝訴判決となった。沖縄の殆どの文化財は地盤信仰に起因しており、行政の文化財保全の関わり方は難しい所だ。ここでの問題は、那覇市が国有地を購入、有償借地の上、特定の団体の信仰施設建設に便宜をはかったという事と議会、市民との十分な事前協議がなく、当時の有力者が決めてしまった事が問題だったのだろう。久米村は沖縄の歴史の中で重要な部分で、この施設はその歴史を後世に伝えるには意味がある文化財なので、その決定プロセスに問題があった事は残念だ。人によっては、沖縄の行政はまだ琉球王統時代から続いている有力者の利権によって左右されている事を露呈しているとも言っている。個人的な感想ではおそらく公にできないことがあったと思える。(これはここに限った事ではなく、日本全土で横行しており、行政もそれにかかわっているようだ) 市民団体は今でも孔子廟と龍柱の撤去署名運動を続けている。



福州園

戦前に沖縄県立第二高等女学校があった跡地には、1992年に那覇市の市制70周年および福州市との友好都市締結10周年の記念事業して建設された中国式庭園の福州園がある。設計から施工まで福州市の職人により、福州市の資材を使用して建設されたている。 史跡では無いのだが、園内には三山 (千山、烏山、屏山)、二塔 (白塔、烏塔)、一流 (ミン江) など、福州を代表する風景を模したものが多くある。この福州園には2019年8月に訪れたのだが、その後2021年4月から改修工事のために休園していたが、2022年7月8日に再開園している。どう変わったのか興味があるので再訪する事にした。訪問レポートは別途。

知事官舎跡

松山公園の孔子廟の東には福州園がある。その外壁には沖縄知事官舎跡の案内板が置かれている。この地には大正から戦前期まで沖縄県の知事官舎が置かれていた。1879年 (明治12年) の琉球処分で琉球王統は廃止となり、沖縄県が始まった。沖縄県庁は、西村にあった旧薩摩藩在番奉行所に置かれ、初代県令には元肥前鹿島藩主の鍋島直彬が就任している。当初の知事官舎の場所は不明だが、1892年 (明治25年) 当時は久茂地に置かれていた。1908年 (明治41年) からは、通堂 (とんどう) が使用された。1916年 (大正5年) に、松尾山の西端の福木山と呼ばれたこの地に、知事官舎が新築されたが、1944年 (昭和19年) 10月10日の10・10空襲で焼失している。終戦後、跡地は米人向けの外人住宅地となっていたが、後に開放され、1992年 (平成4年) に開園した中国式庭園の福州園の敷地の一部となっている。

久米嶽

知事官舎跡のすぐ側に久米嶽の石碑が建っている。この御嶽の情報は見つからなかった。久米村の民俗地図ではこの辺りには昔は金剛寺があったとなっているが、この寺院の情報も見当たらなかった。

忠藎堂 (蔡氏一門宗祠蔡氏堂)、清泰寺跡

久米嶽の前の道路を挟んだところに本尊を観音菩薩とする清泰寺というた臨済宗寺院があったそうだ。廃寺になっているのだが、久米三十六姓の蔡氏が門中の菩提寺で、一族の宗廟の忠藎堂があった。
蔡氏は福建省泉州府南安県の出身で、その六世の孫が閩人三十六 姓の一員として明初に来琉球している。蔡氏は琉球王統に勤務していたようで、1439年には琉球での二世の蔡譲が琉球王府の慶賀通事として明に渡っている。蔡譲の娘 亜佳度が1472年に久米村の北西部に土地を購い、蔡家祖先の神を奉祀する祠堂を創建したのが忠盡堂になる。それ以降、蔡氏門中の男子の位牌はこの堂内に祀られていた。父親が明に渡った際に遭難したが、無事に帰還したのは観音菩薩のご庇護と信じ、忠盡堂内に観音菩薩を祀り、清泰寺と称した。忠盡堂と清泰寺は、蔡氏門中が輪番で堂守となり管理していたが九世紫金大夫蔡堅喜友名親方の時に堂守が居なくなると懸念して、その堂守を円覚寺に依頼してその末寺となっている。その後、1732年に、志多伯親方ら門中代表七名が氏門中の者が輪番で堂守となり円覚寺の末寺から除去され、再び家廟 (忠藎堂) に改められている。この忠藎堂を中心にした屋敷敷地内には蔡氏門中の生活困窮者にその子弟が仕官するまでの期間に住居を提供していた。この忠藎堂は沖縄戦で焼失している。
蔡門中では鱶と亀との肉を食べないことになっているそうだ。先に述べた二世蔡譲の遭難に関わっている。内容は沖縄に広く伝承がある浦添伝説、亀報恩譚の一つだ。
二世蔡譲 (1399-1463) が1439年に、慶賀通事となって、 長史楽永保に随って明に行く途中台風に遭遇して舟は転覆し、多くの人々が溺れ死んだ。国書を抱いて海浪をただよっていると一大亀が現われて、譲を背負い、また鱶が左右から護ってこれを扶けた。譲は、国書を抱き、亀の背におぶさって乱雲で天は昏く、風は猛怒する中を二昼夜走り、万死に一生を得て、陸地にたどりついた。譲が岸に登ってみると南京の境内の地であった。譲が、亀と鱶に深く謝して言うに「汝が我を救けてくれたその恩を深く感謝する。 我若し命を全うしてすることができたら我が子孫に汝らの肉を子々孫々まで食べてはいけないと云い聞かすことを誓う」と。亀と鱶はこれを聞いて尾を振りながらおよぎ去って行った。
譲は国書を挿して礼部に伝達し、かつ慶賀のことおよび途中で舟が転覆して亀とに助けられたことを報告した。 慶賀の公事がすべておわってし帰国し復命した。中に亀と鱶の肉を食べないようにと 門中の各家が亀と鱶の肉を食べないのはこの時から始まっている。

東壽寺 (とうじゅじ) 跡、堂小屋敷跡

福州園のすぐ近くに小さな寺跡がある。波之上の護国寺の末寺だった東寿寺があったそうだ。堂小 (ドウグヮ) と呼ばれていたことから、寺の側にあった屋敷を堂小屋敷 (ドウグヮヤシチ) と呼んでいた。堂小屋敷は久米村に住んでいた人々を経済的苦境から救済するための施設であったとされている。久米村の貧困階級の人々はこの付近に暮らし、男は蛙取り (アタピースグヤー) 、鯉取り (ターイユトウヤー) 、女は草履造 (サバツクヤー)、帽子編 (ボーシクマー) などで生計を立てていたそうだ。
この跡地には東寿寺 (堂小) が再建されている。祠の前の広場には上之井、中之井、下之井の三つの井戸が移設形式保存されて拝井となっている。この三つの井戸がどこにあったのかは不明だった。
球陽巻一の尚質代には以下の記載がある。
順治年間主なる者あり、僧たるや質資敏捷にして絶倫なり。 巳に扶桑に飛法の旨を授く両部の深を極め兼ねて道の書籍を学び、頗る義理の精徴を知る。既にして本国に帰来するや即ち東寿寺に住して法を説き、道を講じて以て諸教。 時に尚質王頼をして書をせむして唐栄より禁城に至る道路に遠くして来甚だ労す。是れによって、首里金城色に、この寺院を創建して東山 (原号東林) 大日寺とよぶ。 又明院と号す。 大日如来の像を奉安して崇信をなす。

東禅寺跡

東壽寺 (堂小) のすぐ側にも円覚寺の末寺だった東禅寺という寺院があり聖観世音を祀っていたそうだ。長門の寺とも呼ばれていた。既に廃寺となっており、駐車場となっている。
1686年に薩摩の琉球在奉行に任ぜられて来琉した新納忠興はこの寺内に葬られていた。

内兼久山跡 (ウチガネクヤマ)

東寿寺跡の直ぐ南、現在の久米公園あたりには小丘が存在し、内兼久山 (ウチガネクヤマ) または寄上森 (ヨリアゲムイ) と呼ばれていた。内兼久山は、松尾山(マーチューヤマ) から南西に続く丘陵の一部で、久米村の風水に係る丘だった。孔子廟の後方から北に内兼久山が延び、山の西側斜面に沿って久茂地川の支流が流れ込み、大正初期頃までは、小舟が航行していたという。この川の河口辺りは港小 (ンナントグヮー) という地名が残り、浮島だったの那覇に久米村が形成された頃には、この地が港であったといわれる。港であったことから、砂地を表す 「カニク」の名称になったと推測される。また内浜の山ともいわれていた。
1879年 (明治12年) の琉球処分以降は、山の南側に、那覇キリスト教会や沖縄県の官舎が建てられていた。1940年 (昭和15年) に沖縄県立沖縄図書館 (明治43年に開設) が新築移転してきている。琉球王統時代には図書館に相当するものとして首里国学や那覇明倫堂に書籍借覧所があったが、尚泰の遺志により図書館創立が実現したもの。内兼久山一帯は、1953年(昭和28)から始まった区画整理事業により、山は削られ、公園ができ、住宅が立ち並んでいる。

内金宮嶽跡、内金宮跡、東龍寺跡

以前にあった内兼久山の中央付近には、内金宮嶽 (ウチガネクダキ)、東側には、アーチ型の石門があり石灯が建てられ、香炉がおかれた内金宮 (ウチガネクグウ) の2つの拝所があった。久茂地川の支流がこの内兼久山に沿って村の中を流れて、久米村の風水となっていた。旧泉崎橋近くの久茂地川に沿った泉崎村の船の家がこの所の神女だった。内金宮は、万暦年間 (1573~ 1619年)、日本から渡来した重温が、弁財天を祀るため宮を建てたと伝わる。1687年に宮殿の改修が行われ、弁財天女像が祀られた。また、1708年には、内金宮建立の由来が記された「寄上森内金宮碑文」が建立された。内金宮の起こりについて球陽に伝承がある。
万暦年間(1573-1619)頃、山城の国から来た重温という人物がそこにお参りし数日も立たないうちに、道端で出会った女性から数銭で炉を購入した。家に帰ってその炉を良く見てみると金で出来ており、驚いた重温があわててもとの持ち主に返そうとしたところ、その女性があらわれ弁財天を名乗り重温の心根を褒め、金の炉を褒美にあげようといったという。そこで重温はその森の東に宮を建てて、内金宮と名づけた。
またこの内金宮に隣接して円覚寺の末寺だった東龍寺が存在していたそうだ。内金宮も東龍寺も現存しておらず、オフィス街や民家となっている。

財之神嶽

大門前から久茂地通りを行くと孔子廟の東隣りに石垣をさかいにして道に面した細長い地所があった。この土地は内兼久山から久茂地通りに出る坂道まで、この辺りを才ノ神と称し孔子廟との隣り合せの地だった。この地所は久米崇聖会の所有で、数軒の店が借地して各自営業していた。その中ほどに仲里という履物店があり、その屋敷内に石造りの小さな祠の才ノ神 (財之神嶽) が安置され、香も焚かれ供物も供されていた。 琉球国由来記 (1713年) には「財之神獄、在聖廟東、御石作、以設其門」とある。いつの時代からこの拝所を崇めていたのかは判らないとされているが、かなり古くからあったと思われる。今はビルの一角に小さな祠が置かれている。

孔子廟跡、大成至聖先師孔子造像

今日前半で松山公園の孔子廟を訪れたが、元々の孔子廟は国道58号線沿いのこの場所にあった。尚貞王の時代、1676年に建てられたのだが沖縄戦で焼失、戦後、廟の地は軍道1号線拡張工事で削り取られ再建が不可能となり、別の場所に再建されている。戦前の様子が分かる彩色した写真があった。想像以上に、再建されているものよりも立派な廟だった。

琉球は14世紀以降、中国との朝貢関係になっていたが、一般社会では儒教の受容は遅い。 孔子祭祀は久米村の蔡堅 (喜友名親方、1585 ~1674年) が 1610年 (万暦38年) に進貢使として中国に派遣されたとき三東省曲阜の聖廟を参拝した際に車服や礼器をみて渇仰し、孔子ならびに四配 (顔子、曾子、子思子、孟子) の絵像を持ち帰り、 郷里の士丈夫の家を輪番で奉安して祭祀をおこなったのが始まりとされる。1671年 (康熙10年) に総理唐栄司の金正春 (城間親方、1618~1674年) が久米村に孔子廟建立 (写真左) の件を議し、摂政向象賢 (羽地王子朝秀)、三司官毛泰永 (伊野波親方盛紀)、毛国棟 (具志頭親方安統)、毛国珍 (池城親方安憲) に請い、尚王に啓奏して許可を受けた。1672 年には廟地をこの泉崎橋頭の久米村に選定し、都通事金正華 (赤嶺親雲上) が督工官に任じられ着工、1674年に竣工した。翌年5月には正義大夫蔡国器 (大宜見親雲上) を督工官に任じ、 孔子および四配の聖像の塑像製作が中国に渡り五色玉や焼物の薬掛けを習得して帰国した宿藍田 (平田親雲上典通) に、壁画並びに廟内の装飾が絵師査秉徳 (仲宗根親雲上) に命じ工事に着手し、1676年1月に完成している。 この年から毎年春秋2回、釈奠がおこなわれている。 正門には至聖廟の扁額が掲着されていたことから、孔子廟は「チーシンビュー」と呼ばれていた。昭和19年 (1944年)、 先の大戦の10・10空襲で那覇市の90%が被害にあった際に、孔子廟は聖像、蔵書、備品と共に全て灰燼に帰している。

明倫堂 (写真右) は1717年 (康熙56年) に、程順則 (名護親方、1663 ~ 1734年) の学堂建立の建議が許可され、翌年孔子廟に隣接する敷地に高等教育機関として設立された。明倫堂建立以前は上天妃宮に久米村の子弟を集めて教育していたが、建立後は上天妃宮では7才以上の子弟を対象に官話や三字経、小学などの初等を、明倫堂では官話のほかに漢学指導、詩文や表文、奏文、咨文、執照、符文などの外交文書の作成などの高等教育を教授した。 講解師 (講談師匠)、訓詁師 (読書師匠) などが設置され、久米村士族の子弟の教育を担当した。 また総理唐栄司 (久米村総役) が司教となり、毎月 3/6/9の日 (月9回) に受講子弟の勤情の状況を厳しく監督して人材基盤の確立につとめた。また啓聖祠を奉安する祭壇をもうけて、 孔子の父叔梁 (啓聖公) 及び四従 (顔子の父 顔無繇、曾子の父 曾[黒へんに谷]、子思子の父 孔鯉、孟子の父 孟孫氏) の神位を置き、紫金大夫が小牢をもって啓聖祠を祭っている。明倫堂は儒教の総本山的性格をもち、正門には「儒学」の扁額、堂内正面に は「啓聖祠」の扁額を掲げて久米村が儒学文教の府たることを示していた。 久米村士族は若秀才、秀才、通事、都通事、中議大夫、正義大夫、紫金大夫と昇進する。 総理唐栄司はその行政機関の長で、紫金大夫の中から選出した。その下僚に長史がいて総理唐栄司を補佐し、その属僚に久米村大筆者、通書役、文組主取、系正などがいた。 1769年 (乾隆34年) 以後、明倫堂はその役所にあてられていた。明倫堂はその一部に孔子の父叔梁総および四従の神位が奉祠されているので「啓聖祠」または「崇聖祠」とも称されている。


元々の場所は随分と狭くなってしまったのだが、久米至聖廟が昭和50年若狭の地に戦後復興されるのに合わせ、台北市政府から久米祟聖会へ贈られた孔子像が建っている。この地には孔子廟の他、1718年には程順則名護親方によって琉球初の学校である明倫堂が設立され、優秀な人材を多く輩出していた。


久米村には史跡ではないのだが、観光施設として福州園が建てられている。今日は時間がなく訪問できなかったので、次回の訪問とする。


参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)
  • 久米村の民俗 (2009 国吉有慶)

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