Okinawa 沖縄 #2 Day 230 (25/12/22) 那覇四町 (6) Ohnoyama Area 奥武山町

那覇四町 奥武山町 (おうのやま)

  • 奥武山公園
  • 心海上人墓
  • 天尚子あまみざら人前 志司毛大主御世 宗元代うくり初め 御世
  • 護国神社
    • 特攻隊の戦没者顕彰碑
    • 恒久平和碑
    • 傷痍軍人夫妻像
    • 天帝子拝所
    • 改租記念碑
    • 奈良原繁銅像台座、寿幸宇天良長老堂 (龍宮金宮観音)
    • 天主大御神
    • 天祖子あまみ人前 天珥東大主御世
  • はいさい鉱山那覇R-1号井
  • 修景池
  • 世持神社 (せもち神社、ユームチ)
    • 大國大明神 天芳子乙女王 (てんぽうしおとめおうおんかみ)
  • みなと村役場跡
  • 沖宮 (おきのぐう)
    • 船越義珍顕彰碑
    • 拝殿、本殿
    • 住吉神社
    • 水神
    • 弁財天
    • 祈祷殿
    • 八坂神社
    • 天燈山
    • 天受久女龍宮王御神、底臣幸乙女王御神
    • 当間重陳記念碑


今日は午後から人と会う予定なので、時間のある午前中にその途中にある奥武山町を訪れる。ここには何度も来て、ざっと見ているのだが、資料を見ているとまだまだ沢山のスポットがある様だ。今日はもっと詳しく一つ一つを見ていく。

那覇四町 奥武山町 (おうのやま)

奥武山町についてまとまった資料は見つからず、その歴史や行政区変遷はわからなかったが、琉球王統時代から明治時代は離れ島で人の立ち入りが禁じられていた。その後、埋め立てられ小禄と陸続きとなり、明治橋で那覇と結ばれていた。

奥武山は昭和時代には通堂町に属していた。現在は奥武山町と表示されているが、独立行政区となっているのかどうかははっきりしない。


奥武山町人口についての情報も限られており、戦前の状況はデータがなかった。戦後は那覇港の港湾工事作業者を集め造られたみなと村の一区画となり、438人が住んでいたが、みなと村は三年で解消し、那覇で接収されていた地域も順次開放となり住民は帰還していった。その後、奥武山のほとんどは奥武山公園となり、明治橋近くに20世帯ほどが生活をしていた。人口データでは、2006年に人口が250名ほどに激増している。その背景は資料では加kれ邸内のだが、奥武山公園入口付近にはマンションが建てられているので、そこへの入居者がその理由ではないかと思われる。


奥武山町訪問ログ



奥武山公園

沖縄県初の運動公園として1959年 (昭和34年) に開設された。奥武山には昔から三つの山があり、それぞれは日護森 (ヒゴヌムイ)、銀森 (ナンジャムイ)、黄金森 (クガニムイ) と呼ばれ、琉球王統時代から戦前までに造られた神社や拝所となっている。公園内には陸上競技場、武道館、弓道場、水泳プール、野球場、サッカー場などのスポーツ施設や子供用の遊技場が造られている。

心海上人墓

護国神社への参道階段の手前に心海上人の墓がある。18世紀初頭に、奥武山はかつては離れ島で、限られた人物しか訪れることが出来ない特別な島だったと言われている。心海上人についてはほとんどわかっていないのだが、1700年代に護国寺の24代住職を勤め上げ奥武山に渡り、奥武山島内に龍洞寺を創建し隠居したとされる。この龍洞寺 (現存せず) は葛飾北斎の琉球八景の一つの龍洞松濤のモデルになったとされている。弁天の蓮池や浮御堂も造成されていた。
理由は不明だが、心海上人は1695年頃には多良間島に流刑となったという。最期は自分で墓に入りお経を唱えながら亡くなったと伝えられている。ここにある墓は沖宮と金武御殿 (キンウドゥン) が出資して1972年に整備されたもの。心海上人は第二尚氏五代尚元王の三男で金武御殿一世となった尚久 (金武王子朝公  1560-1620) の落胤とも伝わっている。これが事実とすれば、尚元王の四男の尚豊が八代国王なので、落胤とはいえ、それなりの扱いをされていたのだろう。

心海上人の墓の隣と奥にはそれぞれ古墓 (写真下) がある。金武殿内関連の墓だろうか?


天尚子あまみざら人前 志司毛大主御世 宗元代うくり初め 御世

護国神社の二の鳥居の脇に世持神社にも祀られている天尚子の拝所がある。詳細は不明。この隣には井戸跡があり、沖宮の月例祭で拝まれている四つの井泉の一つになる。

護国神社

日護森 (ヒゴヌムイ) には1936年 (昭和11年) に、日清日露戦争以降の戦没者を祀るために招魂社が建立され、1940年 (昭和15年) に沖縄県護国神社に改称されている。1945年 (昭和20年) の沖縄戦で社殿は焼失し、1959年 (昭和34年) に仮社殿を竣工し、1965年 (昭和40年) に現在の社殿が建てられている。この護国神社には沖縄県関係の戦死者だけでなく、第二次世界大戦の沖縄戦に殉じた本土出身者や犠牲となった一般市民も祀られている。全国にある護国神社は軍人戦没者を祀るのが一般的で沖縄護国神社は一般市民も祀られ、その数は約18万柱で護国神社では最多数となっている。
二の鳥居を入るとまずは神石 人命尊愛 (写真右下) がある。昭和49年に修養団奉誠会が恒久平和の祈願の為に建立している。碑文には
人名尊愛和石の建立を見る。まさに天の理と人の和の合掌の姿なり。人名尊愛は人の命を与えられし万人が活かされる大恩に感謝し、他自ともに助けあい、悠久なる平和の郷をこの地上に実現せんとするためなり。これ吾人の七十年の願望なり。沖縄はアジアの要にして東洋の平和の根元つるべき聖地なり。ここに人名尊愛の和石を通し広く万人に呼びかくるものなり。
と刻まれている。

特攻隊の戦没者顕彰碑

隣には手水舎 (右上) が置かれ、向かい側には特攻隊の戦没者顕彰碑 (左) が置かれている。「あゝ 特攻  私たちは決してあなたたちを忘れない」と書かれた碑で、その説明が記されている。
沖縄を護るため、航空機による空の特攻、戦艦や特殊潜航艇による海の特攻、爆雷を用いての陸の特攻で散華されたすべての特攻戦没者、並びに戦地に赴き特攻にて散華された沖縄県出身の戦没者を永久に顕彰する。

空の特攻 大東亜戦争末期、最後の手段として航空機による特攻が行われた。 特攻隊員の中には、昭和19年12月16日フィリピン・スミラフ島付近で海軍神風特攻隊 として散華した 我喜屋元太郎少尉 (伊計島出身) ら沖縄県出身者も存在する。 沖縄戦においては、昭和20年3月26日那覇南西洋上にて戦死した陸軍特攻隊の伊舎堂用久中佐 (石垣島出身) をはじめ、終戦まで沖縄を護るため海軍1,957名 (982機)、陸軍1,021名 (義烈空挺隊 含む891機) が特攻で散華した。

海の特攻 昭和20年4月7日 戦艦大和 を旗艦とする第二艦隊は、海上特攻隊として沖縄を死守すべく出撃したが、坊ノ岬沖にて米軍機の攻撃を受け、約三千名が散華した。その中には沖縄県出身者37名も含まれている。 また、沖縄守備隊として渡嘉敷、阿嘉、慶留間、座間味、北谷、読谷、与那原、那覇、具志頭、糸満、玉城に配備されていた陸軍海上挺進戦隊「マルレ」、金武、石垣、宮古、小浜に配備されていた海軍「震洋隊」、運天港に配備された特殊潜航艇「蛟竜」は、米軍の砲撃を受けつつも米軍艦艇に対し攻撃を行った。 他にも人間魚雷「回天」は伊号潜水艦に搭載され、昭和20年3月から沖縄近海に出撃し、多くが艦艇と共に散華した。

陸の特攻 
首里に司令部を置き、宜野湾、浦添以南に陣地を配備した沖縄守備隊第三十二軍は、昭和20年4月1日沖縄本島中部西海岸に上陸した米軍と壮絶な戦いを繰り広げた。その際、激戦地となった嘉数高地 (現在の宜野湾市嘉数高台公園) や安里52高地 (現在の那覇市おもろまち) での戦いでは、手作りの梱包爆雷を抱えた兵士による敵戦車への肉弾特攻が行われた。また、県内各地の戦場でも 鉄血勤皇隊 などの沖縄県出身学徒による肉弾特攻が行われ、壮絶な最期を遂げた。
平成30年4月23日 沖縄県護国神社(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会 日本人の心を伝える会

恒久平和碑

手水舎の隣には慰霊顕彰と恒久平和希求の切な祈念として、平和の象徴としての鳩を掲げた少女像が平成7年に沖縄県遺族連合会によって建立設置されている。恒久平和と書かれたプレート碑文には
大東亜戦争終結50周年にあたり、沖縄県護国神社に神鎮まる戦没者の御霊を末永く慰霊顕彰すると共に、恒久平和希求の切なる願いを込めて沖縄県内遺族の総意を結集し、この像を建立する。御英霊は、祖国防衛と民族の安泰を守るため、尊い生命を祖国に捧げられたのであり、私たち遺族は常に尊崇と感謝の念を持ち続けている。今日、わが国は、この半世紀に亘り、自由と平和の恩恵を享受している。これもひとえに諸霊の尊い犠牲によってもたらされいることを決して忘れてはならない。私たちは、命の貴さ、平和の尊さを常に肝に銘じ、二度と戦争の悲劇を繰り返してはならないことを後世に伝え、我が国唯一の地上戦が展開された激戦地沖縄が、恒久平和の発信地として「広げよう平和の輪、伝えよう沖縄の心」を内外に強く訴えるものである。二十一世紀に向け、私たちは世界の人々と手を携えて恒久平和の確立に邁進することを固く誓うものである。
とある。その両側にはそれぞれ和歌が刻まれている。慰霊顕彰には「いくとしゆひてん 忘しる間やねこみ 過ぎし日ぬ姿 朝ん夕さん」
共存友好には「今年今月ぬ 今日吉日に たげにはいするて ありし別ら」と詠まれている。

傷痍軍人夫妻像

更に奥には傷痍軍人夫妻像がある。

去る第二次世界大戦において多くの若者が異国の戦場で散華し、又は、傷痍の身となった。特に、沖縄戦においては、民間人も 戦闘に協力し、尊い命を失い、又は負傷した。昭和29年1月沖縄傷痍軍人会を結成し、2630名の旧軍人及び戦傷病者が入会した。戦後、塗の苦しみを体験した私達は、世界の恒久平和を渇望し、その証として、この像を建立する。平成23年6月22日 財団法人 沖縄県傷痍軍人会 沖縄県傷痍軍人妻の会
昭和40年代初め頃までは、街中で足を失った傷痍軍人が白い着物を着て軍帽を被り、アコーディオンを演奏して寄付を求めていた姿が今でも思い出される。良く見かけた。まだ小さかったから、戦争で負傷した事は分かっていたが、戦争よりもその姿自体が恐ろしかった。当時はまだ戦後が終わっていない人は多くいた。この像を見て、傷痍軍人を支えたその奥さんや家族の存在があり、同じく辛い日々を送った事を認識した。
更にその奥には千本針の針供養の為なのか、針の碑 (左下) が建てられて毎年2月8日、または12月8日に供養祭行われているそうだ。
三の鳥居を潜ると正面に拝殿が見える。拝殿前の左右には狛犬が置かれている。やはり、本土の狛犬よりもシーサーに近い様に思える。正月の初詣の準備中で、広場には大きなテントが設けられている。この護国神社は初詣で沖縄では最も人出が多いそうだ。
拝殿前の広場には神楽殿 (写真上) がある。モニュメントとしては、三の鳥居近くにも沖縄戦での戦没者の慰霊顕彰及び平和の希求の悲歌の碑 (下) がある。昭和41年に日本民主同志会によって建立されたもの。
遺骨だにまだ見ぬ 人にたのまれて 泣き泣きひろう 沖縄の石

沖縄は太平洋戦争終焉の地として、日本国民にとって永遠に忘れ得ぬ土地であります。祖国の必勝を信じ祈りながら、軍官民一丸となり老幼婦女子、学園の健児や乙女に至るまで山野を血に染め、祖国防衛の防人として散りゆきし英霊の眠られるこの征地沖縄県護国神社の社頭に由緒深き京都霊山護国神社にある大鳥居を日本民主同志会の発起によって碑礎に留めん。有志の篤きご協賛により之を奉納し併せて表記の悲歌を碑となし、遺恨を千載に留めて硝煙の中に散りゆきし御霊に捧げ、英勲の安らかに眠られんことを祈ると共に世界平和を悲願といたします。
昭和41年4月19日 建立
 日本民主同志会中央執行委員長
 泉湧寺管長
反対側には平成天皇即位20周年、天皇皇后両陛下成婚50周年記念の碑 (中) がある。
御製: 弥勒世よ 願て 揃りたる人たちと 戦場の跡に 松よ植ゑたん [天皇皇后両陛下が、平成5年当県米須山城での第44回全国植樹祭に行幸啓の砌、沖縄県に贈った御製です。当神社企画の今上陛下ご即位20年奉祝記念事業として、広く大御心をお伝えするため歌碑を建てました。平和な世を願って集まった人々とともに戦場の跡に松をお植えになったことを詠まれた琉歌です。
御歌: 鹿子じもの ただ一人子を 捧げしと 護国神社に 語る 母はも [昭和49年、皇后陛下は、皇太子妃として三県にわたり護国神社にお参りになっており、そのいずれかの折にお詠みになった御歌です。「鹿子じもの・・」は「ただ一人の大切な子」を意味し、護国神社で会われた遺族への深いお気持ちが詠まれています。]
また、境内の横には大きな社務所がある。沖縄の神社仏閣では一番大きな社務所で大ホールや中ホールがある。沖縄の殆どの神社仏閣は氏子や檀家がないので貧相なのだが、この護国神社は別格の様だ。国が各県に一つの護国神社を指定し、戦没者の遺族会や戦友会が運営的・財政的に支えてきた。近年ではその数も減り、旧指定護国神社を中心に崇敬会・崇敬奉賛会を設立し財政を支援している。

天帝子拝所

護国神社の脇には日護森 (ヒゴヌムイ) の上に登る道がある。その道の途中の岩の前に拝所がある。「天帝子しまみ人前 志珥幸大主御世 四國元代御長子代 武佰六拾四代御世」と書かれている。世持神社でもこの天帝子が祀られていたので、その関連の拝所だろう。

改租記念碑

更に道を上り日護森頂上に着くと、幾つもの碑が建てられている。その一つが改租記念碑で案内板が置かれている。1869年の明治維新、1871年の廃藩置県、1879年の沖縄県設置の後の土地租税制度改革は沖縄では本土に比べ遅れている。これは首里那覇の旧士族が失業し、その反発を恐れた日本政府が琉球王国時代の諸制度を引き継いで行政にあたる旧慣温存の方針をとったことによる。 国家財政の基盤となる税収入についても、王国時代の地割制度 (一定の周期で耕す土地を割り替えること) や宮古八重山地方の人頭税など旧来の土地・租税制度により物納されたが、土地の質入・売買など土地制度の変容や徴収方法の不統一、不公平により矛盾を抱えていった。 この問題を解決すべく、土地整理事業が1899 ~ 1903年に実施され、その完了を記念した碑がここに建てられている。土地整理事業では、官民有地の区別が明確になり、民有地での私的所有が認められ、土地の所在地や収穫量などを勘案して地価が設定され地租の課税基準が定められた。これにより、沖縄でも土地の個人所有及び土地所有者をもって金納による近代的な土地租税制度が確立した。
記念碑の石柵の中には何故か、不思議だが地頭火ヌ神の拝所がある。地頭火ヌ神は通常、集落の地頭、地頭代の屋敷にあった火ヌ神を祀っているので、ここに屋敷があったとは考えられず、記念碑設置後、個人が何らかのお告げがあったという理由で設置したのかもしれない。

奈良原繁銅像台座、寿幸宇天良長老堂 (龍宮金宮観音)

改租記念碑の隣には、翁か道士と見える銅像が立っている。〆縄で囲まれているので今でも拝まれているのだろう。この銅像は元々あったものではなく、隣の改租記念碑が建てられた時に、当時の沖縄県知事だった旧薩摩藩士の奈良原繁 (1892 ~ 1908年在任) の土地整理事業を推進した功績を讃えて奈良原繁の立像が建てられていた。像は第二次世界大戦時体制下に出された金属類回収令により供出され長く銅像台座のみが残されていたが、その台座の上に現在の像が建てられている。沖縄の龍神神話の天・地・底を守っている三人の長老様のうちの一人で、天を守る宇天良長老 (うてぃんちょうろう) の像に代わっている。宇天良長老は、全ての人の歴史や未来を記した巻物を持っていると言われる。安謝にある恵比寿神社には地を守る土地長老の像があったのを思い出した。
当時の写真が残っている。改租記念碑と奈良原繁像はプール増設時に現在の場所に移設されている。説明板では奈良原繁の功績となっているが、沖縄ではすこぶる評判が悪い人物で、「琉球王」の異名をほしいままにした独裁県知事で、社会運動家の謝名昇達は当時の首相の板垣退助に奈良原繁の更迭を直訴した事件もあった。当時謝名は「奈良原は公盗である。彼と彼の仲間は開墾政策といふ美名で沖縄の山林を荒廃させ、しかも肥沃した所はみんな自分等で取つてしまつた。人事行政といへば丁度植民地の総督でもあるかの様に自分の乾児ばかり要職に据えて、県人の進路は塞いでしまつてゐる。農民は塗炭の苦しみに陥つてゐるのに之を訴へるべきところがない。自分はこれからなお進んで民権運動を起こし、参政権を獲得して藩閥に対抗し、県民の輿論を反映させなければならない。」と述べている。この像は奈良原の任期最後の年に建てられているのだが、自分の銅像を建てさせたのが真相で、それほどの暴君だった事がわかる。当時の明治政府の沖縄に対する圧政を表している。

天主大御神

この頂上の広場は東京オリンピックの際に整備され、若人の森と呼ばれている。その石碑の近くに香炉が並べられた拝所がある。更にその奥にはもう一つ龍神伝説の拝所がある。天主大御神 (うてぃんうやがなしぃ) を祀っている。天主大御神は地上に太陽の光を照らし、万物の者を授ける光の神で、最初の世界と最初の人を創り、天と地を統一し琉球を創造した神とされている。宇天良長老の拝所と共に沖宮の月例祭で拝まれている。
日護森頂上へは道は2本あるようで、今度は別の道をで降りることにした。こちらの道は森の中の道で、その道沿いには幾つかの拝所が置かれていた。この場所も沖宮の月例祭で拝まれている。

天祖子あまみ人前 天珥東大主御世

更に道を降ると、もう一つ拝所がある。古墓の様にも見えるのだが、「天祖子あまみ人前 天珥東大主御世 國軸元代御長子代 武佰六拾六代御世の初」と書かれている。世持神社で祀られている天祖子の拝所にあたる。

はいさい鉱山那覇R-1号井

日護森 (ヒゴヌムイ) の下、陸上競技場の脇にはいさい鉱山那覇R-1号井がある。天然ガスの試作井戸で2013年に開坑している。南城市当間集落を訪れた際にナンジィ鉱山大里R-1号井を見ているので興味があった。沖縄の水溶性天然ガス事業はまだまだ試作堀で事業計画の段階の様だ。Co2排出削減のため色々な検討がされているが、1960年に調査が始まってから60年も経ている。いまだ本格導入には至っていない。近年の状況も公式な報告は掲載されておらず、順調には進んでいないのだろうか? ここは宮古、那覇奥武山、大里で3本の試作堀井の一つで、順調に進めば、奥武山公園内の各施設の電気需要をまかなう予定という。いつ実現するのだろう?

修景池

護国神社の前には修景池が造られている。琉球王統時代をモチーフにしているようで、シーサーや琉球、石橋がある。ここには琉球王統時代には龍洞寺があり、弁天の蓮池や浮御堂も造成されていたとあるので、その蓮池をイメージして造られているのかも知れない。

世持神社 (せもち神社、ユームチ)

護国神社から修景池を越えた高台が銀森 (ナンジャムイ) でここには世持神社が建てられていた。この世持神社は沖縄の伝統的な御嶽ではなく、昭和12年に建立された比較的新しい神社になる。この神社では野国総管、儀間親方真常、蔡温具志頭親方文若を祭神として祀っている。元々は沖縄の農民がサトウキビ代金の一部を積立資金として1605年の甘藷を中国から導入した野国総管の顕彰碑を建て、その後、野国総管を祀る神社の建立計画から始まった。この計画は芋の普及や製糖技術を導入した儀間村の地頭職だった儀間眞常 (1557~1644) の関係者も参加し、沖縄県の糖業者や農業団体にも広がり、野国総管と儀間眞常を祀る神社の申請を行った。祭神の身分が低いという理由で政府からは却下され、苦肉の策で、三司官を務めた蔡温を祭神に加え、再申請で許可を得て昭和12年に建立となった。沖縄戦で焼失し、戦後は米軍に接収され、その後は武山周辺には那覇軍港の港湾荷役作業関係者が集められた「みなと町」がつくられ、この地一帯は埋立られ、かつての史跡や建造物などは消え去っている。1950年代後半には世持神社の再興の声があがったが、10・10空襲で行方不明になっていた世持神社の御神体が保管されていることが判明し、個人宅で祀られていた。この事で再建を断念された。その後、御神体を保管していた家族に不幸が続き、結局、御神体は波上宮に預けられ、波上宮境内の一隅に祠が造られ祀られている。昭和60年からは、毎年11月10日に波上宮から御神体を奥武山の世持神社境内に運び、祭礼が行われている。
鳥居から石段を登ると広場がある、そこには産業恩人記念碑が置かれている。沖縄の産業界に貢献した野国総管、儀間親方真常、蔡温・具志頭親方文若の三人の功績を称え建立されたもので、この三人が世持神社の祭神となっている。広場には拝所も置かれているが、詳細は不明。世持神社とは関係はないだろう。沖縄ではこの様な神社や御嶽の周りには、勝手に造られた拝所を見かける。ユタや霊能者、宗教団体が啓示を受け拝所を造ったという。
参道には雌雄のシーサーが鎮座し奥に社殿がある。
社殿は二つあり、向かって右側 (写真中) には、恵比寿神と大黒神を祀っている。左側 (左下) の社殿には琉球の開闢神話に関連する天帝子、天孫子などが祀られている。「子辰申 天孫子御世 寅午戌 天存子御世 丑巳酉 天帯子御世 卯未亥 天正子」「子辰申 天祖子御世 寅午戌 天尚子御世 丑巳酉 天帝子御世 卯未亥 天武子」と書かれた前に香炉が置かれている。公園内にそれぞれの拝所が設けられているのだが、これらの拝所についての記事は見当たらなかった。また、七福神の掛け軸やその他の位牌も幾つか置かれている。
社殿右手奥には、「恵比須大明神、混比羅大明神、大國大明神」の祠も置かれている。不思議なのは祭神のはずの野国総管、儀間親方真常、蔡温・具志頭親方文若の文字はどこにも無い。インターネットでの記事では、この社殿は世持神社ではなく、誰かが旧世持神社敷地に勝手に建てたもので御祭神がある波宮が正式なものだとの書き込みもあった。また、那覇市が戦後ここに世持神社再建を決めていたともあるが、市が再建する筈は無いのでこの情報は怪しい。拝殿の前には「世持神社は沖宮がご奉仕している」とある。この書き方は少し微妙な感じもする。祭神がここに戻っていない事や元々の祭神ではなく別の神を祀っている事から、記事にあったこの拝殿は個人が何らかの啓示を受けたとして、建てたものでは無いだろうか? ここに世持神社があった事から例祭はここで行われており、ここにある祭殿に御神体を運び拝んでいる様に思える。

大國大明神 天芳子乙女王 (てんぽうしおとめおうおんかみ)

世持神社の裏の銀森 (ナンジャムイ) を登っていくと、「大国大明神 天芳子乙女王 天下リポオンシタリ国 軸大国主うみの母天津神」と書かれた拝所があった。この拝所の詳細は見つからなかったのだが、沖宮の祭神の一人で、沖宮の相殿右として祀られている。詳細は不明なのだが、龍神伝説の神のひとりの様だ。沖宮の祭礼の際にここも拝まれている。

みなと村役場跡

世持神社の鳥居の脇に案内板があり、それには神社跡は、戦後、特別行政区みなと村の役場が置かれていたとある。護国神社あたりには初等学校 (写真右下) も置かれていた。
沖縄戦の後、米軍に接収された那覇港での米軍需物資や民間の食料品等の荷役作業は、当初は日本軍捕虜によって行われていたが、捕虜が解放、本土への引き上げにより、この荷役作業の為、沖縄県の各地から約2千人を動員して那覇港湾作業来年が組織された。
この作業隊及びその家族を含めて約1万人の生活・労務管理等を円滑に行うため、1947年 (昭和22年) に、当時の沖縄民政府により「みなと村」が設置された。みなと村の行政区域は、広大でこの奥武山を中心に山下町、楚辺、松尾、坪川など約23万坪にも及んでいた。初代村長には港湾作業隊の指揮を執っていた国場幸太郎が就任している。国場は戦前の1931年に国場組を創業、その実績が買われたのだろう。役場庁舎にはこの世持神社の建物が使用されていた。米軍のテントカバーで作られた規格住宅が1世帯に1棟ずつ割り当てられ、奥武山など区域内には規格住宅が立ち並んでいた。みなと村は1950年 (昭和25年) に、港湾作業が民間の業者による請負制になったため、同年に那覇市に合併し解消されている。このみなと村は戦後、困窮していた住民に仕事と住まいを提供していたという事から、その後に那覇復興に大きな影響を与えていると思う。下のグラフはみなと村の区ごとの人口を表している。総人口7,638人も登録されている。もう一つのグラフはこのみなと村に集まってきた人達の出身地で、この近郊だけでなく、沖縄各地から移ってきている。久米島、具志川、粟国、国頭などからも多くの人が仕事を求めて移ってきている。

沖宮 (おきのぐう)

奥武山公園にある三つの丘の最後の黄金森 (クガニムイ) には琉球八社の一つの沖宮 (おきのぐう) がある。沖宮の創建は詳かでないが、文献では源為朝の時代とある。1713年 (正徳3年) の琉球国由来記には「大昔、那覇港の海中から光が絶えず射していたので、調べてみると霊木であった。これを熊野権現の霊木とし、社寺を建てこの木を祀った。」とある。 国家安穏、五穀豊穣、陸海交通安全の神船玉神として歴代琉球王を始め諸民に尊崇されていた。元々は那覇港から三重城へ向かう堤の半ば程にあった。現在は通堂町の那覇港の波止場の一画に祠が造られている。明治の神仏分離までは沖山三所権現 (臨海寺、沖の寺) と称し、阿弥陀如来、薬師如来、十一面観音を祭っていたが、1908年 (明治41年) に那覇港築港の為に神社は安里八幡宮の隣地に遷座され、寺は那覇市住吉町に移転した。1938年 (昭和13年) には国宝に指定されるが第二次大戦で焼失した。戦後、沖宮創始の御祭神と伝わる霊木の根が奥武山天燈山御嶽との神示を受けたと言うことで、1961年 (昭和36年) に通堂町に仮遷座され、昭和50年に現在地に遷座されている。祭神として天照大御神と同一視されている天受久女龍宮王御神 (てんじゅくめりゅうぐうおうおんかみ)、天龍大御神 (てんりゅうおおおんかみ)、天久臣乙女王御神 (あめくしんおとめおうおんかみ) の龍神神話の神と熊野三神の伊弉冉尊 (いざなみのみこと)、速玉男尊 (はやたまをのみこと)、事解男尊 (ことさかをのみこと) が祀られている。これ以外にも天照大御神の天智門女龍宮王御神 (あまちじょうめりゅうぐうおうおんかみ)、天受賀女龍宮王御神 (てんじゅかめりゅうぐうおうおんかみ) も末社に祀られている。更に龍神の天芳子乙女王御神 (てんぽうしおとめおうおんかみ)、天仁子乙女王御神 (てんじんしおとめおうおんかみ)、天来子乙女王御神 (てんらいしおとめおうおんかみ) も祀られている。

龍神伝説の神をまとめた図に沖宮で祀られている龍神をプロットすると、すべての龍神が祀られており、それ以外の龍神も含まれていた。沖宮はいわゆる龍神の総本山に匹敵しているようだ。


船越義珍顕彰碑

沖宮の一の鳥居の入り口に沖縄唐手の松濤館流の開祖の船越義珍の顕彰碑が建てられている。元々は奥武山公園入口に建立されていたが、2015年にこの場所に移設された。ここに移設したことで沖宮は空手の聖地としてPRしている。船越義珍は沖縄の三流派の泊手に関係していたが正式にどの流派に属していた事は無く、資料では指導を受けていた首里手系とされている。船越義珍は本土に渡り沖縄唐手を空手として本土での普及に貢献した第一人者だった。唐手は型が基本だったので、組手や試合を志向する本土の風土との狭間で苦労した。その中で、様々な工夫を行い空手普及を推し進め、現在の空手四大流派の一つの松濤館流となった。(他の三つは剛柔流、糸州流、和道流)

拝殿、本殿

鳥居から参道階段を登ると拝殿がある。狭い敷地に窮屈そうに建っている。狭い敷地の中でお守りなどや土産物を売店が幅をきかせている。驚くほどの多くの種類のお守りが売られていた。拝殿の前にはクリスマスツリーと雪だるま。ここは神道神社なのだが、「祈りはひとつ」と書かれており、あまり教義の違いは問題にしていない様だ。沖縄の宗教感はおおらかで、歴史的にも祖先崇拝、自然崇拝、道教、仏教、琉球神話、日本神道、風水などが融合している。キリスト教もすんなりと受け入れているのだろう。この奥にある本殿では祭神は龍神伝説で天照大御神にあたるそれぞれの御先、中代、今代の 天受久女龍宮王 (てんじゅくめりゅうぐうおうおんかみ)、 天智門女龍宮王 (あまちじょうめりゅうぐうおうおんかみ)、 天受賀女竜宮王 (てんじゅかめりゅうぐうおうおんかみ)、相殿左には、 天龍大御神 (てんりゅうおおおんかみ 主父御神)、 天久臣乙女王神 (あめくしんおとめおおおんかみ 母御神)、 相殿右には 天芳子乙女王御神 (てんぽうしおとめおうおんかみ)、 天仁子乙女王御神 (てんじんしおとめおうおんかみ)、 天来子乙女王御神 (てんらいしおとめおうおんかみ) がまつられ、更に熊野三神の 伊弉冉尊 (いざなみのみこと)、 速玉男尊 (はやたまおのみこと)、 事解男尊 (ことさかおのみこと) が祀られている。

住吉神社

次は沖宮の末社を見ていく。拝殿の脇の細い通路の奥に住吉神社があり、社殿の前には恵比寿大明神、混比羅大明神、大國大明神と書かれている。この三神を祀っている。その他、様々な神も祀り、龍神の神世十二子の子、丑、寅の神も含まれ、神代二代の6つの神の夫婦神の子の神 天風龍大神 (あまふうりゅうおおかみ、表筒王 [うわつつのおのみこ])、丑の神 天火龍大神 (あまひりゅうおおかみ、中筒王 [なかつつのおのみこと])、更に夫婦神の表臣幸乙女大御神 (うはしんこうおとめおおおんかみ) と中臣幸乙女大御神、寅の神の天水龍大神 (あますいりゅうおおかみ、底筒王 [そこつつのおのみこと]) と底臣幸乙女王御神 (そこしんこうおとめおおおんかみ) が祀られている。

水神

住吉神社から下に降りる階段があり、下には水神が祀られている。沖宮で祭祀に使用される神水はこの井戸から汲んでいる。

権現堂

その隣には権現堂があり七福神とここで神世十二支が祀られている。

弁財天

更に奥には弁財天があり、ここには下の鳥居からも参拝ができる。この弁財天では神世十二子の三代にあたる辰の神の木龍宇具志久乙姫王 (もくりゅうぐしおとひめおおお、辨天負百津姫神 [べんてんよもつひめかみ]) が祀られている。
権現堂から弁財天への通路には沖の茶屋という喫茶店まである。バルコニーまであった。

祈祷殿

拝殿まで戻り、拝殿脇の反対側の細い通路を進むと、祈祷殿がある。猿田彦命を祀っている。

八坂神社

その奥には祭神を素盞嗚尊として神世十二子の卯、巳、午、未、酉、戌、亥の神を祀る八坂神社がある。厄除、病気平癒、縁切りにご利益があると言う。あまりも狭い空間に社殿を建てているので、全体を写真に収めるスペースが無い。なんとも落ち着かない造りとなっている。

天燈山

八坂神社を抜けると鳥居があり、ここから天燈山へ登る階段になる。階段の脇から本殿の屋根が見える。


天受久女龍宮王御神、底臣幸乙女王御神

頂上には祭壇が置かれて、龍神神話の神世一代の天受久女龍宮王御神 (てんじゅくめりゅうぐうおうおんかみ = 天照大御神 御先)、神世二代の底臣幸乙女王御神 (そこしんこうおとめおおおんかみ = 恵比須大明神) が祀られている。この二つの神の間に新たに天受久男龍大御神 (てんじゅくをのりゅうおおおんかみ = 須佐之男) の拝所も置かれている。ここが沖宮の奥院にあたり最も重要な拝所で、パワースポットとされていおり、天照大御神の天孫降臨の場所で、この後、日本本土に移ったともいう。

この後、来天皇久能知火神もあるのだが、これで龍神伝説の主要な20の龍神も17を巡り終えたことになり、あと三つとなった。

祭壇がある場所から一台下がった所にはうるま世界平和と書かれた祭壇もあった。ここでは平和祈願祭が行われている。
祭壇の左側には「筆の碑」がある。神社によくある筆の供養塔だろうか? その脇にも拝所がある。
筆の碑から下に降りる道があり、その道沿いには阿母東繁座那志と書かれた拝所が置かれている。
更に道を降ると龍神伝説の神世三代で戌の来天皇久能知火神の拝所があった。沖宮にある三つの龍神の最後になる。
井戸拝所もある。
沖宮がある黄金森の丘の斜面には幾つもの拝所があるが、それぞれの情報は見つからず。石碑のあるものはなんとなく分かった気がするが殆どは何なのかは分からない。
包丁司と書かれた拝所。包丁の供養塔か?

天照皇大神、春日大神、八幡大神の拝所。どんどんと拝所が造設されているようだ。


当間重陳記念碑

これは沖宮とは関係がないのだが、奥武山にあった当間重陳の墓が国体開催工事の為に移すことになり、伊地知太郎右衛門重陳の子孫たちがこの地に記念碑を造っている。伊地知太郎右衛門重陳(後に当間に改名、琉球名平啓祥 1591- 1676))は桓武平氏秩父氏の流れの大隅国国分の住人で元薩摩藩士で、薩摩藩の琉球侵攻 (1609年) の翌年ごろ琉球に渡り、その後1628年に、大和横目に任ぜられ、交易船などの監視に当たった。 1634年には豊見城間切当間地頭職となっている。1658年に薩州から無用の加治木銭を賜り、翌年より鳩目銭を鋳作し広め、この鳩目銭は当間銭とも呼ばれていた。また、黒糖と欝金 (ウコン) の専売制を発案したとされる。

鳩目銭とは、1636年に江戸幕府が寛永通宝を鋳造し唯一の銭貨とし、当時、薩摩による対明貿易の決済手段として考案され、天正年間 (1582) ~寛永13年 (1636) までの約50年間、鋳造していた加治木銭が使用できなくなり、加治木銭の鐚銭 (びたせん) が多量に残った。そこで、当間重陳は薩摩の鐚銭を改鋳して鳩目銭を作った。鳩目銭は貧弱な銭貨のため価値が低く、通常は400枚~1000枚を紐通しして使用していた。その形が鳩の目に似ていたので鳩目銭と、呼ばれていた。(写真左) 結び目に封をした形状であったので「封印銭」とも呼ばれた。本土では貨幣は寛永通宝で統一されていたが、当時、琉球は中国に対して、薩摩藩の関係を秘密にしていたので、中国から冊封使が訪れると、寛永通宝は目に触れないように回収され、代わりにこの鳩目銭が使用されていた。

当間重陳の当間家からは、1921年(大正10年) に初代那覇市長となった当間重慎 (人物写真左)、その息子で沖縄民政府時代に那覇市長 (1949年) を務めた重民当間重民 (人物写真中)、反米派の那覇市長だった瀬長亀次郎をアメリカ軍により琉球政府行政主席に任命された当間重剛 (重民の兄、人物写真右) が強制的に排除し那覇市長となっている。

この記念碑の上の斜面に古い記念碑があるのだが、誰かに壊されて放置されていた。沖縄のアンチ薩摩の仕業なのだろうか?

斜面にはまだまだいくつもの拝所や井戸跡があったが、これらの詳細は分からなかった。

丘の麓には整備された井泉がある。これは遺跡ではなく、公園整備の際に造られたものと思う。その隣には古い筒状の井戸跡がある。こちらの井戸は沖宮の月例祭で拝まれているもの。


奥武山町のスポット巡りを終わり、待ち合わせのおもろまちに向かう。



参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)
  • みなと村のあゆみ (1982 盛根良一)

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