Okinawa 沖縄 #2 Day 230 (25/12/22) 那覇四町 (6) Ohnoyama Area 奥武山町
那覇四町 奥武山町 (おうのやま)
- 奥武山公園
- 心海上人墓
- 天尚子あまみざら人前 志司毛大主御世 宗元代うくり初め 御世
- 護国神社
- 特攻隊の戦没者顕彰碑
- 恒久平和碑
- 傷痍軍人夫妻像
- 天帝子拝所
- 改租記念碑
- 奈良原繁銅像台座、寿幸宇天良長老堂 (龍宮金宮観音)
- 天主大御神
- 天祖子あまみ人前 天珥東大主御世
- はいさい鉱山那覇R-1号井
- 修景池
- 世持神社 (せもち神社、ユームチ)
- 大國大明神 天芳子乙女王 (てんぽうしおとめおうおんかみ)
- みなと村役場跡
- 沖宮 (おきのぐう)
- 船越義珍顕彰碑
- 拝殿、本殿
- 住吉神社
- 水神
- 弁財天
- 祈祷殿
- 八坂神社
- 天燈山
- 天受久女龍宮王御神、底臣幸乙女王御神
- 当間重陳記念碑
那覇四町 奥武山町 (おうのやま)
奥武山町についてまとまった資料は見つからず、その歴史や行政区変遷はわからなかったが、琉球王統時代から明治時代は離れ島で人の立ち入りが禁じられていた。その後、埋め立てられ小禄と陸続きとなり、明治橋で那覇と結ばれていた。
奥武山は昭和時代には通堂町に属していた。現在は奥武山町と表示されているが、独立行政区となっているのかどうかははっきりしない。
奥武山町人口についての情報も限られており、戦前の状況はデータがなかった。戦後は那覇港の港湾工事作業者を集め造られたみなと村の一区画となり、438人が住んでいたが、みなと村は三年で解消し、那覇で接収されていた地域も順次開放となり住民は帰還していった。その後、奥武山のほとんどは奥武山公園となり、明治橋近くに20世帯ほどが生活をしていた。人口データでは、2006年に人口が250名ほどに激増している。その背景は資料では加kれ邸内のだが、奥武山公園入口付近にはマンションが建てられているので、そこへの入居者がその理由ではないかと思われる。
奥武山町訪問ログ
奥武山公園
心海上人墓
心海上人の墓の隣と奥にはそれぞれ古墓 (写真下) がある。金武殿内関連の墓だろうか?
天尚子あまみざら人前 志司毛大主御世 宗元代うくり初め 御世
護国神社
人名尊愛和石の建立を見る。まさに天の理と人の和の合掌の姿なり。人名尊愛は人の命を与えられし万人が活かされる大恩に感謝し、他自ともに助けあい、悠久なる平和の郷をこの地上に実現せんとするためなり。これ吾人の七十年の願望なり。沖縄はアジアの要にして東洋の平和の根元つるべき聖地なり。ここに人名尊愛の和石を通し広く万人に呼びかくるものなり。
特攻隊の戦没者顕彰碑
沖縄を護るため、航空機による空の特攻、戦艦や特殊潜航艇による海の特攻、爆雷を用いての陸の特攻で散華されたすべての特攻戦没者、並びに戦地に赴き特攻にて散華された沖縄県出身の戦没者を永久に顕彰する。
空の特攻 大東亜戦争末期、最後の手段として航空機による特攻が行われた。 特攻隊員の中には、昭和19年12月16日フィリピン・スミラフ島付近で海軍神風特攻隊 として散華した 我喜屋元太郎少尉 (伊計島出身) ら沖縄県出身者も存在する。 沖縄戦においては、昭和20年3月26日那覇南西洋上にて戦死した陸軍特攻隊の伊舎堂用久中佐 (石垣島出身) をはじめ、終戦まで沖縄を護るため海軍1,957名 (982機)、陸軍1,021名 (義烈空挺隊 含む891機) が特攻で散華した。
海の特攻 昭和20年4月7日 戦艦大和 を旗艦とする第二艦隊は、海上特攻隊として沖縄を死守すべく出撃したが、坊ノ岬沖にて米軍機の攻撃を受け、約三千名が散華した。その中には沖縄県出身者37名も含まれている。 また、沖縄守備隊として渡嘉敷、阿嘉、慶留間、座間味、北谷、読谷、与那原、那覇、具志頭、糸満、玉城に配備されていた陸軍海上挺進戦隊「マルレ」、金武、石垣、宮古、小浜に配備されていた海軍「震洋隊」、運天港に配備された特殊潜航艇「蛟竜」は、米軍の砲撃を受けつつも米軍艦艇に対し攻撃を行った。 他にも人間魚雷「回天」は伊号潜水艦に搭載され、昭和20年3月から沖縄近海に出撃し、多くが艦艇と共に散華した。
陸の特攻
首里に司令部を置き、宜野湾、浦添以南に陣地を配備した沖縄守備隊第三十二軍は、昭和20年4月1日沖縄本島中部西海岸に上陸した米軍と壮絶な戦いを繰り広げた。その際、激戦地となった嘉数高地 (現在の宜野湾市嘉数高台公園) や安里52高地 (現在の那覇市おもろまち) での戦いでは、手作りの梱包爆雷を抱えた兵士による敵戦車への肉弾特攻が行われた。また、県内各地の戦場でも 鉄血勤皇隊 などの沖縄県出身学徒による肉弾特攻が行われ、壮絶な最期を遂げた。
平成30年4月23日 沖縄県護国神社(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会 日本人の心を伝える会
恒久平和碑
大東亜戦争終結50周年にあたり、沖縄県護国神社に神鎮まる戦没者の御霊を末永く慰霊顕彰すると共に、恒久平和希求の切なる願いを込めて沖縄県内遺族の総意を結集し、この像を建立する。御英霊は、祖国防衛と民族の安泰を守るため、尊い生命を祖国に捧げられたのであり、私たち遺族は常に尊崇と感謝の念を持ち続けている。今日、わが国は、この半世紀に亘り、自由と平和の恩恵を享受している。これもひとえに諸霊の尊い犠牲によってもたらされいることを決して忘れてはならない。私たちは、命の貴さ、平和の尊さを常に肝に銘じ、二度と戦争の悲劇を繰り返してはならないことを後世に伝え、我が国唯一の地上戦が展開された激戦地沖縄が、恒久平和の発信地として「広げよう平和の輪、伝えよう沖縄の心」を内外に強く訴えるものである。二十一世紀に向け、私たちは世界の人々と手を携えて恒久平和の確立に邁進することを固く誓うものである。
傷痍軍人夫妻像
更に奥には傷痍軍人夫妻像がある。
去る第二次世界大戦において多くの若者が異国の戦場で散華し、又は、傷痍の身となった。特に、沖縄戦においては、民間人も 戦闘に協力し、尊い命を失い、又は負傷した。昭和29年1月沖縄傷痍軍人会を結成し、2630名の旧軍人及び戦傷病者が入会した。戦後、塗の苦しみを体験した私達は、世界の恒久平和を渇望し、その証として、この像を建立する。平成23年6月22日 財団法人 沖縄県傷痍軍人会 沖縄県傷痍軍人妻の会
遺骨だにまだ見ぬ 人にたのまれて 泣き泣きひろう 沖縄の石
沖縄は太平洋戦争終焉の地として、日本国民にとって永遠に忘れ得ぬ土地であります。祖国の必勝を信じ祈りながら、軍官民一丸となり老幼婦女子、学園の健児や乙女に至るまで山野を血に染め、祖国防衛の防人として散りゆきし英霊の眠られるこの征地沖縄県護国神社の社頭に由緒深き京都霊山護国神社にある大鳥居を日本民主同志会の発起によって碑礎に留めん。有志の篤きご協賛により之を奉納し併せて表記の悲歌を碑となし、遺恨を千載に留めて硝煙の中に散りゆきし御霊に捧げ、英勲の安らかに眠られんことを祈ると共に世界平和を悲願といたします。
昭和41年4月19日 建立
日本民主同志会中央執行委員長
泉湧寺管長
御製: 弥勒世よ 願て 揃りたる人たちと 戦場の跡に 松よ植ゑたん [天皇皇后両陛下が、平成5年当県米須山城での第44回全国植樹祭に行幸啓の砌、沖縄県に贈った御製です。当神社企画の今上陛下ご即位20年奉祝記念事業として、広く大御心をお伝えするため歌碑を建てました。平和な世を願って集まった人々とともに戦場の跡に松をお植えになったことを詠まれた琉歌です。
御歌: 鹿子じもの ただ一人子を 捧げしと 護国神社に 語る 母はも [昭和49年、皇后陛下は、皇太子妃として三県にわたり護国神社にお参りになっており、そのいずれかの折にお詠みになった御歌です。「鹿子じもの・・」は「ただ一人の大切な子」を意味し、護国神社で会われた遺族への深いお気持ちが詠まれています。]
天帝子拝所
改租記念碑
奈良原繁銅像台座、寿幸宇天良長老堂 (龍宮金宮観音)
天主大御神
天祖子あまみ人前 天珥東大主御世
はいさい鉱山那覇R-1号井
修景池
世持神社 (せもち神社、ユームチ)
大國大明神 天芳子乙女王 (てんぽうしおとめおうおんかみ)
みなと村役場跡
沖宮 (おきのぐう)
龍神伝説の神をまとめた図に沖宮で祀られている龍神をプロットすると、すべての龍神が祀られており、それ以外の龍神も含まれていた。沖宮はいわゆる龍神の総本山に匹敵しているようだ。
船越義珍顕彰碑
拝殿、本殿
住吉神社
水神
権現堂
弁財天
祈祷殿
八坂神社
天燈山
天受久女龍宮王御神、底臣幸乙女王御神
頂上には祭壇が置かれて、龍神神話の神世一代の天受久女龍宮王御神 (てんじゅくめりゅうぐうおうおんかみ = 天照大御神 御先)、神世二代の底臣幸乙女王御神 (そこしんこうおとめおおおんかみ = 恵比須大明神) が祀られている。この二つの神の間に新たに天受久男龍大御神 (てんじゅくをのりゅうおおおんかみ = 須佐之男) の拝所も置かれている。ここが沖宮の奥院にあたり最も重要な拝所で、パワースポットとされていおり、天照大御神の天孫降臨の場所で、この後、日本本土に移ったともいう。
この後、来天皇久能知火神もあるのだが、これで龍神伝説の主要な20の龍神も17を巡り終えたことになり、あと三つとなった。
天照皇大神、春日大神、八幡大神の拝所。どんどんと拝所が造設されているようだ。
当間重陳記念碑
これは沖宮とは関係がないのだが、奥武山にあった当間重陳の墓が国体開催工事の為に移すことになり、伊地知太郎右衛門重陳の子孫たちがこの地に記念碑を造っている。伊地知太郎右衛門重陳(後に当間に改名、琉球名平啓祥 1591- 1676))は桓武平氏秩父氏の流れの大隅国国分の住人で元薩摩藩士で、薩摩藩の琉球侵攻 (1609年) の翌年ごろ琉球に渡り、その後1628年に、大和横目に任ぜられ、交易船などの監視に当たった。 1634年には豊見城間切当間地頭職となっている。1658年に薩州から無用の加治木銭を賜り、翌年より鳩目銭を鋳作し広め、この鳩目銭は当間銭とも呼ばれていた。また、黒糖と欝金 (ウコン) の専売制を発案したとされる。
鳩目銭とは、1636年に江戸幕府が寛永通宝を鋳造し唯一の銭貨とし、当時、薩摩による対明貿易の決済手段として考案され、天正年間 (1582) ~寛永13年 (1636) までの約50年間、鋳造していた加治木銭が使用できなくなり、加治木銭の鐚銭 (びたせん) が多量に残った。そこで、当間重陳は薩摩の鐚銭を改鋳して鳩目銭を作った。鳩目銭は貧弱な銭貨のため価値が低く、通常は400枚~1000枚を紐通しして使用していた。その形が鳩の目に似ていたので鳩目銭と、呼ばれていた。(写真左) 結び目に封をした形状であったので「封印銭」とも呼ばれた。本土では貨幣は寛永通宝で統一されていたが、当時、琉球は中国に対して、薩摩藩の関係を秘密にしていたので、中国から冊封使が訪れると、寛永通宝は目に触れないように回収され、代わりにこの鳩目銭が使用されていた。
当間重陳の当間家からは、1921年(大正10年) に初代那覇市長となった当間重慎 (人物写真左)、その息子で沖縄民政府時代に那覇市長 (1949年) を務めた重民当間重民 (人物写真中)、反米派の那覇市長だった瀬長亀次郎をアメリカ軍により琉球政府行政主席に任命された当間重剛 (重民の兄、人物写真右) が強制的に排除し那覇市長となっている。
この記念碑の上の斜面に古い記念碑があるのだが、誰かに壊されて放置されていた。沖縄のアンチ薩摩の仕業なのだろうか?
斜面にはまだまだいくつもの拝所や井戸跡があったが、これらの詳細は分からなかった。
丘の麓には整備された井泉がある。これは遺跡ではなく、公園整備の際に造られたものと思う。その隣には古い筒状の井戸跡がある。こちらの井戸は沖宮の月例祭で拝まれているもの。
奥武山町のスポット巡りを終わり、待ち合わせのおもろまちに向かう。
参考文献
- 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
- 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
- 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)
- みなと村のあゆみ (1982 盛根良一)
0コメント