Okinawa 沖縄 #2 Day 231 (28/12/22) 旧首里三箇 (2) Sakiyama Area 首里崎山町
旧首里三箇 首里崎山町 (さきやま、サチヤマ)
- ナゲーラ橋
- 大門坂 (ウフジョウビラ)
- 大門ヌ前 (ウフジョウヌメー)
- 大門端処 (ウフジョウバンタ)
- 建善寺跡 (キンジンジ)
- 善友名岩 (チュンナーシー)
- ボーンター積み石垣
- 馬追いの頭 (ウマウィヌカラジ)
- 王家御用の馬場 (ウマィー)、せせらぎ通り
- 末衛増御嶽 (シーマシウタキ)
- 御桟敷 (ウサンシチ)、崎山公民館 (倶楽部)
- 崎山村学校所跡 (サチヤマムラガクコウジュ)
- 瑞泉酒造
- 馬追ヌ尻 (ウマウィーヌチビ)
- 馬浴せ場跡 (ウマアミシー)
- 崎山遺跡
- 首里崎山公園
- 崎山御嶽 (サチヤマウタキ)
- 東姓拝所
- 崎山樋川 (サチヤマフィージャー)
- 空手古武術首里手発祥の地顕彰碑
- 雨乞御嶽 (アマグイウタキ)
- 未御嶽、午御嶽
- 御茶屋御殿石獅子
- 崎山御殿跡 (サチヤマヌウドゥン、延秀山荘)
- 御茶屋御殿 (ウチャヤウドゥン、東苑) 跡
- 御茶屋ヌ坂 (ウチャヤヌフィラ)
- 城南小学校 (御茶屋御殿菜園跡)
- 木門ヌ前 (キジョウヌメー)
- 雨乞ヌ坂 (アマグイヌフィラ)
- 儀間真常の墓
- 国吉の比屋の墓
- 比擬川坂 (ヒジガービラ)
- 端処 (ハナンダー)
- 比擬川橋 (ヒジガーバシ) と取付道路
旧首里三箇 首里崎山町 (さきやま、サチヤマ)
琉球王統時代から戦前まで、首里崎山町の中心は馬場跡がある首里城の南側、つまり首里崎山町の北側に集中している。民家が拡張していったのは1990年代からで、元の集落の南側に広がっている。現在でも、高台の麓は大学があるくらいで、民家ははほとんど見当たらない。
人口を見ると、民家の広がりがそれほど見られない事が反映されている。明治時代の人口は2,273人で、沖縄戦で人口は減少し、明治時代の人口に戻るのは1970年で、それ以降人口は増加し、1973年に2400人程になったが、これがピークで、それ以降は減少に転じ、現在でもその減少傾向が続き、現在では明治時代の人口の8割程度しかない。
2020年末の首里区内での人口は以下の通りで、首里崎山町はほぼ真ん中に位置する。とはいっても、首里区では首里石嶺町が総人口の38%も占めており、他のどの地域も人口は少ないといってよいだろう。
首里崎山町訪問ログ
ナゲーラ橋
大門坂 (ウフジョウビラ)
県道82号線を更に北に進むと、左側に急斜面の丘陵となっている。この丘陵の上が琉球王統時代の崎山になる。この丘陵へ登る平均斜度9度の道を大門坂 (ウフジョウビラ) と呼んでいた。この道は現在は県道82号線で分断されているのだが、下の方は首里赤田町の谷底にある下原橋 (シチャーラバシ) まで伸びており、知念や玉城方面への宿道とも伝わっている。大門坂の上の方にはまだ、僅かに石道の名残りの敷石が残っている。
大門ヌ前 (ウフジョウヌメー)
大門端処 (ウフジョウバンタ)
建善寺跡 (キンジンジ)
善友名岩 (チュンナーシー)
ボーンター積み石垣
大門ヌ前から首里先崎の中心地に向かう道は細く、昔ながらの石垣に囲まれた民家が幾つかあった。この辺りの敷地を囲む石垣は幅が厚く、上が丸みを帯びた造りになっていた。首里三箇之一つの首里先崎は酒造りの街で、酒の麹を寝かせる時に使う湿ったニクブク (蓆、筵) を乾す作業に便利なように工夫したもので泡盛酒造所独特の石積みになっていた。この石積みをボーンター積みと呼ばれている。
馬追いの頭 (ウマウィヌカラジ)
王家御用の馬場 (ウマィー)、せせらぎ通り
末衛増御嶽 (シーマシウタキ)
御桟敷 (ウサンシチ)、崎山公民館 (倶楽部)
崎山村学校所跡 (サチヤマムラガクコウジュ)
瑞泉酒造
馬追ヌ尻 (ウマウィーヌチビ)
馬浴せ場跡 (ウマアミシー)
崎山遺跡
首里崎山公園
昔、南風原間切の崎山村に崎山里主なる者がおり、常に釣や漁を好み、日々海や渚に行っていた。ある時、後ろから呼ぶ声があったため振り向いてみると無人であり、その辺にはただ異石があるだけであった。崎山里主はこの石から声が出たものと思い、そのため高所に安置した。祈って、「もし神霊であるのなら、私の今日の魚釣りは思い通りにさせて下さい」と言った。するとその日は大漁で、喜んで家に帰った。その後も祈ると度々霊験があった。ある夜、石のあたりに光があった。霊石だろうと思って、持ち帰って崇めた。時にこの国の諸神がこの石を奪おうとしたため、家にこの石を隠したが、害されることを恐れて、遂に石を抱いて村を出て北に去った。諸神は許さずこれを追ったが、さりとても崎山里主の志は堅く、その霊石を棄てず、遂に波上山に至った。たとえ死んだとしても他に行くべきではないと決意したが、ここに到って諸神は奪おうとすることを止めた。その時神託があって、「私は日本熊野権現である。お前は縁があるからこの地に社を建てなさい。そうすれば国家を守護するだろう」といった。これによって王家に奏上して社を建てた。ある日、鳧鐘(梵鐘)が波の上より浮んで来た。鐘を撞けば、その音は波上山(なんみんさん)といった。そのためこの鐘を崇めて神殿に安置した。
崎山御嶽 (サチヤマウタキ)
東姓拝所
崎山樋川 (サチヤマフィージャー)
首里王府時代、この崎山樋川も崎山御嶽とともに首里大阿母志良礼が祭祀を行い、その年の恵方が巳(南南東)であった正月には国王に若水を献上していた。この事から巳ヌ方ヌ御井 (ミーヌファーヌウカー) とも呼ばれていた。
空手古武術首里手発祥の地顕彰碑
雨乞御嶽 (アマグイウタキ)
未御嶽、午御嶽
崎山御殿跡 (サチヤマヌウドゥン、延秀山荘)
御茶屋御殿 (ウチャヤウドゥン、東苑) 跡
教会の礼拝堂の裏の端に御殿山の拝所が置かれていた。
御茶屋ヌ坂 (ウチャヤヌフィラ)
城南小学校 (御茶屋御殿菜園跡)
木門ヌ前 (キジョウヌメー)
雨乞ヌ坂 (アマグイヌフィラ)
儀間真常の墓
国吉の比屋の墓
沖縄本島の南部一帯の主の高嶺の按司は仕事をせず、遊興三昧に暮らしていたため、部下の国吉の比屋から忠告されます。しかし、それを聞き入れることはせず、なんと国吉を辞めさせてしまいます。民衆の心は高嶺の按司から離れ、彼はとうとう首里の鮫川の按司に滅ぼされてしまいました。落城の際、高嶺の按司の子どもである若按司とおめなりは逃げ延びて、高良村の村頭、崎本の子のもとに隠れます。国吉は、人形売りに姿を変えて若按司とおめなりの行方を探し歩き、崎本の子のもとにいた2人と再会を果たしました。その後、主君の敵討ちをしようと旧臣たちに呼びかけるものの、鮫川を恐れて協力する者はいませんでした。しびれを切らした国吉は、鮫川の城に火攻めを仕掛けますが、捕らえられてしまいます。しかし、主君を思う国吉の気持ちに心を打たれた鮫川の按司は、「敵は子に及ばず」と言い、若按司には父、高嶺の領地を継がせて、高嶺の家を再興させることを約束しました。
比擬川坂 (ヒジガービラ
端処 (ハナンダー)
比擬川坂 (ヒジガービラ) が通る丘陵の東側は端処 (ハナンダー) と呼ばれる場所。ハナンダーとは、ハナ (鼻・端) とダー (処) の複合語で、雨乞ヌ坂を下り、比擬川坂 (ヒジガービラ) に続く辺りで、段丘の「先端の処」から命名されたそうだ。
そこには崎山村、赤田村の墓地になっており、さまざまな形式の墓がある。岩陰墓、掘込墓、破風墓などで、特に亀甲墓が多くある。
比擬川橋 (ヒジガーバシ) と取付道路
比擬川坂 (ヒジガービラ) の階段を降り切ると金城ダムに出る。ここがちょうど、首里崎山町と繁多川との境界線になる。宿道のシンカヌチャー道はここを走る道路で分断されてしまったのだが、道路を渡ったところから、宿道が残っている。金城ダムに注ぎ込んでいる金城川 (カナグスクガーラ) に架けられたアーチ型石橋の比擬川橋 (ヒジガーバシ) と小石を敷き詰めた取付道路が宿道になる。ここは繁多川になり、2021年6月5日に繁多川集落を巡った際のレポートに含めている。
比擬川坂 (ヒジガービラ) を降りて、道路を渡った所の取り付け道路の写真。
ウォーキングでの首里崎山町の史跡巡りは終了。約20㎞のウォーキングで、アップダウンが多く、少々疲れた。史跡を巡っている時はさほど疲れた感じはしなかったのだが、帰りは少し足が疲れ気味なのを感じた。
参考文献
- 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
- 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
- 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)
- 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
- 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
- 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
- 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
- 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)
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