Okinawa 沖縄 #2 Day 232 (01/01/23) 旧首里三個 (3) Akata Area 赤田町
首里赤田町
- 赤田交番所跡
- 赤田の湯風呂屋 (アカタヌユーフルヤー) 跡
- 寺小ヌ前 (テラグヮーヌメー)、西来禅院達磨寺 (臥雲軒跡)
- 大石川家 (ウフイシチャー) 跡
- ワーフール (豚小屋兼便所) 跡
- 赤田寒水川井戸 (アカタスンガーガー)
- 首里城継世門 (赤田御門 アカタウジョー)
- 撓田森 (シナダームイ)
- 撓田 (シナダ)
- 赤田村学校所跡
- 識名酒造
- 首里殿内 (スンドゥンチ) 跡
- 道絡り (ミチグヤー)
- メーチンジャガー
- ハルガー
- 待口の前 (マツグチヌメー)
- 石平等 (イシンダ)
- 赤田市場 (アカタマチ) 跡
- 下原 (シチャーラ)
- 下原橋 (シチャーラバシ)
首里赤田町
赤田は泡盛製造業が盛んな地域で、大正年間が最盛期だった。 当時は12軒の酒造所が存在していた。 現在では、1918年 (大正7年) に創業した識名酒造だけが営業をつづけている。首里王府時代、この一帯はには地名の由来になった赤土の田が広がっていたといわれる。首里城の城壁付近の田を耕すと、 西流する湧水が濁り、 城内の寒水川の水を汚染したので糸芭蕉畑に変わっていった。この地域は水が豊富な地域で、赤田を巡ると、多くの民家の庭や入り口近くに井戸がある。
首里城に近いこともあり、文化財もは丘陵上の一丁目に多くある。
明治時代から民家の分布変遷を見ると、民家は赤田の北半分、首里城に近い側、一丁目と二丁目に集中している。三丁目の下原は谷合になり、谷底にあった集落が少し拡張している程度になる。
2020年末の首里区内での人口は以下の通り、首里赤田町は19町の中で下から5番目と人口は少ない地区となっている。
首里赤田町訪問ログ
赤田交番所跡
赤田の湯風呂屋 (アカタヌユーフルヤー) 跡
寺小ヌ前 (テラグヮーヌメー)、西来禅院達磨寺 (臥雲軒跡)
また、この西来禅院達磨寺は首里十二干支詣りの戌と亥の守護神の阿弥陀如来を安置し、更に万松院から、移管された卯の文殊菩薩も安置している。
大石川家 (ウフイシチャー) 跡
ワーフール (豚小屋兼便所) 跡
赤田寒水川井戸 (アカタスンガーガー)
首里城継世門 (赤田御門 アカタウジョー)
撓田森 (シナダームイ)
撓田 (シナダ)
赤田村学校所跡
識名酒造
首里殿内 (スンドゥンチ) 跡
この辺りは前田 (メェーンター) と呼ばれていた。前田 (メェーンター) は「前の田」を表す方音で、大石川の居館だった寿礼結致の館の前という事が地名の起こりであると考えられる。
道絡り (ミチグヤー)
メーチンジャガー
ハルガー
待口ヌ前 (マツグチヌメー)
石平等 (イシンダ)
赤田市場 (アカタマチ) 跡
下原 (シチャーラ)
県道82号線から下側の谷間は赤田三丁目になりう下原 (シチャーラ) と呼ばれていた。その底を流れる安里川が南風原町と首里赤田町との境界となっている。1906年 (明治39年) に、南風原間切新川村から当時は伊武志川原 (インシチャーラ) と呼ばれていた下原が首里に編入されている。明治時代の地図では安里川沿いに集落が見られるが、赤田町中心部からは飛び地になっている。 沖縄方言で「イヌ」にあたるのが「イン」で、小さい、狭いを意味している。伊武志川原 (インシチャーラ) は「狭い下原」で、現在の下原に変化したと考えられている。
下原橋 (シチャーラバシ)
参考文献
- 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
- 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
- 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)
- 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
- 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
- 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
- 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
- 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)
0コメント