Okinawa 沖縄 #2 Day 124 (16/08/21) 旧玉城村 (15) Kakihana Hamlet 垣花集落
旧玉城村 垣花集落 (かきはな、カチヌハナ)
- 上里森 (イーザトゥムイ)
- 垣花樋川 (カチヌハナヌヒージャ)
- タミ井泉 (ガ-)
- ハイ井泉 (カー) [未訪問]
- 垣花公民館
- 和栄泉 (貯水槽)
- 垣花グスク
- 主郭
- 垣花之嶽
- 二の郭
- 新屋 (ニーヤ) の神屋
- ノロ殿内 (ドゥンチ)
- 思納 (ウンナ) 門中の神屋
- イリジョーグラ
- 拝所
- エータイジョー
- 上間小 (イーマグヮ) の神屋
- 当 (アタイ) の神屋
- ソーカビ
- 稲堂 (ンチドー)
- 上間の殿 (イーマヌトゥン)
- 垣花農村公園
- 中森 (ナカムイ)
- 大森 (ウフンディ)
旧玉城村 垣花集落 (かきはな、カチヌハナ)
第二次大戦では多数の儀牲者を出し、また軍の駐屯地に接近しているため元の部落に帰るのが遅れた。戦争の終未期は避難民の収容所として千人を越える避難民が住んでいたが北部への移動を命せられ止むなく北部に移動した。また、相当数の残存家屋がありながら、作業員や一般民が全部取り壊し、跡形もなく荒れ果てていたが、昭和22 (1947) 年にようやく移動が許可され復旧に着手した。米軍が樋川の水を使用していたので、それから少し分けてもらって生活していたが、戦後、ポンプアップによる簡易水道が設され、部落設立以来の願望が叶った。しかし、耕地の表土は軍用地内に運び込まれ、また、よい土地は軍用地に接収されたため、軍用地跡のコンクリート張りや荒れ地を開望するのに大変な苦労があったという。
この部落には大きい門中が三つある。外当門中と恩納門中。これは「アアマミキョ」「ミントン」の後裔で、前平良門中は佐敷の小按司 (尚巴志) の子孫として繁栄している。
1880年 (明治13年) の人口は446名で旧玉城村では4番目に人口の多い集落だった。戦後、避難民の収容所として千人を越える避難民が住んでいた。帰郷が許可された後は次第に住民はもとの集落に戻り、一時期、垣花住民の7割はキャンプ知念 (現 琉球ゴルフ倶楽部) で働く軍雇用員で、そのため生活も除々に向上してきた。1960年の人口データでは416名とほぼ昔の姿に戻ったのだが、本土復帰後も人口は増えず、近年は人口減少が続いており、2020年末では352人と明治時代から100名も人口が減っている。この傾向は旧玉城村の南部の仲村渠、中山、新原に共通しており、不便な土地であることが大きな原因になっている。
人口データからも分かるように、民家は昔からの集落に集中し、その外側には拡張されず、農地のままとなっている。2013年に佐敷・玉城・知念の3地域の接点に住宅街を建設したが、人気がなく一時期はゴーストタウンとまで呼ばれていた。近年は人気が高まっているそうだ。3LDK一戸建てが2500万円ぐらいで購入できる。
集落内を巡ると、空き地が目立っていた。やはり過疎化が課題になっているのだ。ただ、多くの民家には昔の石垣やその石垣の上にコンクリート塀を継ぎ足したところが多く残っていた。昔ながらの沖縄集落の雰囲気が残っている集落だ。
玉城村前川誌に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: 垣花之嶽 (神名: アフイハナテルツカサノイベ)、大森 (神名: ナフシナデルハイノ御イベ)、中森 (神名: マシラゴノ御イベ)、上里森 (神名: オシアゲクダオシアゲマキウマイケガマイトクノ御イベ)
- 殿: 恩納之殿、上間之殿
垣花集落でも3班に分けて御願を分担しているが、便宜上なのか、かつての和名村、垣花村とぁかれていた時代の名残なのかは分からない。
垣花集落訪問ログ
8月13日に仲村渠集落を訪問を終えた後、時間に余裕があったので、垣花樋川を再訪した。
上里森 (イーザトゥムイ)
垣花樋川 (カチヌハナヌヒージャ)
タミ井泉 (ガ-)
ハイ井泉 (カー) [未訪問]
垣花公民館
和栄泉 (貯水槽)
垣花グスク
公民館から貯水槽のある丘の裏に別の丘があり、その頂上、標高120mに垣花グスクがある。公民館からは30mぐらいのところで、かなり近い場所なので、集落は垣花グスクの城下村だったのだろう。県道137号線 (佐敷知念線) までグスクは伸びており、そこに垣花城址跡碑が建っている。集落のどこからも垣花グスクは見え、集落の象徴の存在の様に思える。
垣花グスクは二の郭と主郭のニつの郭から成り、主郭の奥が御嶽が置かれた聖域になっている。かつては「和名グスク」とも呼ばれていた。垣花グスクの築城年代に関しての古文献は無く不明だが、石垣の積み方、規模等から14世紀頃にミントン按司の次男が築いたとか、英祖王の長男 (大成) から分かれた中城屋宜按司が、玉城グスクの東の防衛の為に築城したとの説がある。城跡には、サンゴ石灰岩を積み上げた野面積みの石垣が残っている。
グスクへの正式登城道は公民館側にある。無造作に置かれた岩や石で登城道が上に伸びる。そこを登ると、踊り場があった。ここが何に使われたかは書かれていないが、城内には垣花之御嶽があり申請名場所になり、ノロや神人 (カミンチュ) 以外は立ち入り禁止だったので、ここから遙拝したのかもしれない。そのような感じの場所だった。
この踊り場に出る道がもう一つあった。ノロ殿内の屋敷の前から道が登っていた。和名 (垣花?) ノロが祭祀に向かう道だったのだろうか?
二の郭
踊り場を更に登ると二の郭への入り口の門がある。
二の郭は縄張り図では広い敷地になっているが、現在はほとんどが木々で覆われて、主郭への道付近が開けているだけで、道の先に主郭への門が見える。もともとは兵士が集まれるような広場だっただろう。
二の郭の入り口門から石垣の上に沿って武者走りの様な道がある。昔からこの道があったのかは分からないが、防備の為に石垣に沿って兵士が待機できる場所があってもおかしくはない。ここからは南東の方角に海岸が望める。
この道に沿って行くと主郭に入るところに拝所がある。この場所が何なのかは書かれていないのだが、グスク内には按司墓や若按司墓があると書かれていたので、その何れかだろう。思納門中が拝んでいるそうだ。
主郭
主郭は広場にななっている。ここに垣花按司の住居があったのだろう。周りには石垣跡が残っている。
垣花之嶽
主郭の奥は一段高くなっており、聖域で御嶽があった場所。琉球国由来記には「垣花之嶽 (神名: アフイハナテルツカサノイベ)」と記されている。垣花ノロが祭祀を行っていた。御嶽のイビの近くには「奉寄進 嘉慶二十?年」と刻字された灯籠がある。垣花グスクは、6月25日のアミシヌ御願の村落祭祀で拝まれている。
垣花之嶽がある場所石垣の下の城外に拝所があった。ここにはグスクからではなく集落の方から道が通じている。ここの石垣は立派で、グスクの現存している石垣では一番高く積まれている。ここも、按司墓や若按司墓の何れかだろう。
垣花グスクを居城とした垣花按司については諸説あり、確かなことは判っていない。小説尚巴志では、下の図のような関係となる。小さな地方按司である事から、近隣の按司達との政略婚姻で関係を保っていた。垣花按司は糸数按司の義弟で、島添大里按司だった汪英紫に滅ぼされた大城按司真武の義父とも伝わっている。(妹が嫁いでいたとの説もある)大城按司真武と汪英紫の長堂原の戦いでは佐敷按司 (尚思紹) と共に参戦している。三山時代には東方同盟の有力按司 (糸数、玉城、知念、垣花) の一人で、後に頭角を現してくる佐敷按司の尚思紹・尚巴志親子との関係を深めている。尚巴志が南山国を滅ぼし三山統一の際も最後まで尚巴志に抵抗した糸数按司や玉城按司とは異なり、尚巴志側として行動したようだ。
糸満市の真壁集落を訪れた際に調べた資料では、真壁按司と垣花按司は兄弟だったとあり、真壁按司が飼っていた白馬をめぐって国頭按司と戦いになり、ともに討ち死にしたと伝わっている。これは三山時代の初めかグスク時代の事だろう。
新屋 (ニーヤ) の神屋
ノロ殿内 (ドゥンチ)
新屋 (ニーヤ) の神屋と垣花グスクの間にノロ殿内 (ドゥンチ) の屋敷跡がある。ここも空き地となり、人は住んでいない。敷地内は草木が生え茂り、奥にコンクリート製の神屋が建っている。垣花ノロ火ヌ神が紀られている。神屋内には、向かって右には5つの香炉が置かれた祭壇、左に霊石ー基と3つの香炉が置かれた火ヌ神が祀られている。祭神については不明。このノロ殿内は、正月の初ウビー、6月25日のアミシヌ御願、10月1日の生子御願 (ショウシイワイ) で拝まれている。琉球国由来記の「垣花巫火神」にあたり、毎年、正月の御祈願と9月麦初種子、米種子に王府より供物が供えられ、王府からの使いが来て祭祀を行なっていた。垣花ノロ火ヌ神は王府祭祀の場として玉城アマチジ (雨粒天次)、玉城ノロ火ヌ神 (赤嶺の神屋) と同様に、重要な祭祀所であった。
思納 (ウンナ) 門中の神屋
垣花グスクの外側、ノロ殿内 (ドゥンチ) から通りを隔てた所に思納門中の神屋があるのだが、ここは民家で人が住んでいる。塀に囲まれているので中には入れない。資料の「南城市の御嶽」によれば、神屋の手前に、薩摩侵入と関わる伝説「イリガン御用」にちなんだ井戸跡が残っている。神屋の祭壇は2つに仕切られ、向かって右側に思納門中神人の3つの香炉、左側に大按司等を祀る4つの香炉がある。祭壇左は火ヌ神で、三つ石と「寄進金城仁屋」等と刻字された2つの香炉が置かれていると書かれていた。(資料にあった祭壇の写真は右のもの) 思納 (ウンナ) 門中はアマミキヨ族が定住したミントンの子孫と伝わっている。思納 (ウンナ) 門中の神屋は、正月の初ウビー、6月25日のアミシヌ御願、10月1日の生子御願 (ショウシイワイ) で拝まれている。琉球国由来記にある「思納之殿」に比定されている。
イリジョーグラ
拝所
エータイジョー
上間小 (イーマグヮ) の神屋
当 (アタイ) の神屋
ソーカビ
稲堂 (ンチドー)
上間の殿 (イーマヌトゥン)
垣花農村公園
中森 (ナカムイ)
大森 (ウフンディ)
参考文献
- 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
- 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
- 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
- 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
- 沖縄県戦争遺跡詳細分布調査 I 南部編 (2001 沖縄埋蔵文化財センター)
- 王城村グスクとカー (湧水・泉) (1997 玉城村投場企画財政室)
- 玉城村誌 (1977 玉城村役場)
0コメント