Okinawa 沖縄 #2 Day 135 (18/09/21) 旧小禄村 (3) Uebaru Hamlet 宇栄原集落

旧小禄村 宇栄原集落 (うえばる)

  • 外間根屋 (ホカマニーヤ)
  • 後之井泉 (クシヌカー)
  • 梵字碑
  • ホーグモーガー
  • 西之遊び庭 (イリヌアシビナー、ミージマ)
  • 神井泉 (カミガ-、ミージマカー)
  • アシンニガー
  • 中道 (ナカミチ)
  • 東之遊び庭 (アガリヌアシビナー)
  • 東之遊び庭之井泉 (アガリヌアシビヌカー)
  • 那覇道 (ナファミチ)
  • 東之井泉 (アガリヌカー)
  • 前道 (メーミチ)
  • 川跡 (カーラワイ)
  • 製糖場跡 (サーターヤー)
  • 目取真子 (メドリマシ―) 墓
  • 外間子 (フカマシー) 墓
  • 村屋跡 (ムラヤー)、綱引き場
  • 宇栄原公民館
  • 上ヌ御嶽 (ウィーヌウタキ)
  • 高前原公園
  • 宇栄原下又御嶽 (シチャヌウタキ)
  • 下又御嶽 (シチャヌウタキ) 火之神 (ヒヌカン) 
  • 地頭火ヌ神 (ジトゥ―ヒヌカン)
  • 津真田カー
  • 松川小井泉 (マチガグヮーカー)
  • 門中ノ御嶽
  • 松川馬場 (マチガ-ウマィー)
  • 宇栄原公園
  • 越地御川 (コエチウッカー)
  • 松川之井泉 (マチガーヌカー)
  • 松川ヌ拝所/アシビナー
  • 井戸跡
  • 新開地新辻町 (New Tsuji)

旧小禄村 宇栄原集落 (うえばる)

宇栄原は「琉球国由来記」に「上原村」と「松川村」にわけて記録がなされているので、元々は二つの集落があり、いつしか一緒になり宇栄原村となったのだろう。(はっきりと書かれている資料は見つからず)
宇栄原の祖は、島尻の兼城村字兼城の屋号 幸地と伝えられ、天保がそこの次男、幸地が三男、アタイ (当) が四男で、天保から小禄の新地に分かれ、後に新地の六男が天保の養子となる。その子が大添の祖となったと伝わっている。宇栄原集落の主要門中は21あるが、その内、天保門中、幸地門中、アタイ(当)金城門中など10の門中は兼城村兼城の屋号 幸地の子孫だそうだ。また外間門中の祖にあたる外間子 (ホカマシー) が、国元の元祖となっているとの言い伝えもある。

栄原集落は農業を主とし、肥沃な土地でサトウキビ栽培が盛んだった。昭和元年に安次嶺に県立農業試験場が設置された以降は県外出荷用の蔬菜類栽培も盛んになった。昭和8年には宇栄原園芸組合が発足し、キャベツやトウガンも多く出荷されていた。

戦後、旧小禄村の大嶺、安次嶺、当間、赤嶺が軍用地となり、帰郷出来ない人たちが宇栄原に住み始め新部落を形成すると、畑は宅地に変わり、産業構造も変化して行く。米人向け賃貸住宅も多く建設され、昭和40年代には宇栄原団地ができ、昭和49年までには1,000戸の住宅地として発展した。昭和47年の本土復帰後は団地周辺の宅地造成が急速に進み、以前の農村地帯から様相が一変し発展していった。大正時代から昭和の戦前までも人口は1.8倍になってはいたが、戦後は更に急速に人口が増えている。1935年 (昭和10年) には1,775人だったのが、1961年には2.5倍の4,486人、現在は7.3倍の12,977人にも膨れ上がっている。最近の傾向は世帯数はコンスタントに伸びているが、人口は低い率ながら減少傾向が続いている。

明治時代は地域の殆どが農地だった。これは戦前まで続く。様子が一変するのは戦後、そして本土復帰後で、現在は農地を見つけるのが難しい程、住宅地となっている。

参考にしたのは会報 ガジャンビラ 第11号 (2009 うるくの歴史と文化を語る会) で紹介されていた宇栄原の地図。道筋などは現在と変わっている地域もあったが、なんとかすべての文化財を見つけることができた。


宇栄原集落訪問ログ


今日は旧小禄村の三番目の集落の宇栄原を訪れる。前回、田原集落を訪れてから (9/11) 一週間経ってしまった。訪問記が三つも滞り、そのレポートを仕上げる為に、更に調べるので、それに時間を費やした。訪問前にある程度、調べ頭に入れているが、実際に訪問すると、色々と更なる興味や疑問点が出てくる。それを調べるのに時間がかかる。現在は図書館が臨時閉館中で、参考にできるソースが限られているので、答えを見つけるのに苦慮する。

まずは先日、田原集落を訪れた際に見落とした文化財を見てから、隣接する宇栄原集落の北側から訪れる。


外間根屋 (ホカマニーヤ)

集落の北側に宇栄原集落の根屋 (ニーヤ) にあたる神屋がある。民家の敷地内にある。そこに住われている方が、庭で作業をされていたので、声をかけると詳しくこの根屋について説明していただいた。庭の奥には赤瓦の神屋が建っている。
家の前には拝所があった。ここには井戸があったそうで、拝所として拝んでいるそうだ。上の写真に写っている庭にも井戸があり、そこにも香炉が置かれていた。
神屋の隣には祠がある。その中に4つの石碑が置かれ、御願されている。これは宇栄原公民館を建てる際に、その建設予定地にあった石碑をこの家の住民が、廃棄される寸前にここに移設したと教えていただいた。向かって右から、三つは刻字されている。刻字がはっきりしているので、後に造り直されてものだろう。「土帝君 (トゥティークン) 洪武7年 (1374年) 豊見城親方 (外間子 ホカマシー)」、「豊見城間切宇栄原村 松川村御立初之大嶽 宇栄原御立初之大嶽 大徳貳年 (1298年) 豊見城親方 宇栄原大屋子 宇栄原仁屋」、「豊見城間切宇栄原村 小御嶽生水 宣徳14年 (1440年 宣徳年間は10年で終わるのだが…) 豊見城大掟」
1298年は英祖王統の時代、1374年は察度王統時代、1440年は第一尚氏時代にあたる。この時代にはすでにこの宇栄原村があった事がわかる。「琉球国由来記」「南島風土記」には上原村と記載されている。この上原が宇栄原なのだが、薩摩の琉球侵攻以後、1624年に「大和めきたる名字の禁止」の通達が出されて、日本風の姓 (前田、上原、船越) は当て字を換えて三字姓 (眞栄田、宇栄原、富名腰) などに変えられたとあるので、この石碑は宇栄原に変更された後に造られた物だろう。もう一つ分かることは、この宇栄原は以前は豊見城間切に属しており、1673年 (寛文12年 第二尚氏王朝第11代尚貞王) に小禄間切に移された。
家の中には外間子 (ホカマシー) の位牌が祀られた祭壇があった。この外間子は養子としてこの根屋の家を継いだそうで、宇栄原集落の国元 (クニムトゥ) の元祖といわれている。
宮里さんとは1時間程話し、お礼を言って別れ際には、冷えたさんぴん茶をいただいた。

後之井泉 (クシヌカー)

根屋の北側に後之井泉 (クシヌカー) がある。後之井泉 (クシヌカー) とあるので集落の後側、つまり北の端にある井泉だ。この井戸は先ほど訪れた根屋の外間子が造ったとされているのでかなり古くからある井戸だ。宇栄原集落では、多くの民家はその敷地内に井戸を掘り生活用水としていたが、夏になると井戸 の水が漏れ、近所の井戸から水を分けてもらい、そこも涸れると、 西之遊び庭之井泉 (イリヌ アシビナカー) から汲み、そこも枯渇すると、この後之井泉 (クシヌカー) に来て、 順番待ちで水汲みをし たという。旱魃時にはこの井戸が最後の砦ということで宇栄原集落では最も神聖な井泉と考えられている。

梵字碑

後之井泉 (クシヌカー) の後方に幾つもの石碑が建っている。その幾つかには刻まれた梵字 (パン) が見える。梵字はサンスクリット語で、おそらく本土からの僧侶がもたらしたと思われる。この内、一基は金剛 界大日如来を意味しており、もう一基は 「光明真言葉」だそうだ。先程話した宮里さんが定期的に草刈りをしている。確かに梵字碑の周りは草が綺麗に刈られている。宮里さんは一年前に本土から実家の根屋に戻り、琉球の古い文化財について調べており、文化財が放置されて荒れてしまうことに、心を痛め清掃活動や、南城市の玉城グスクで訪問者に案内などを行なっているそうだ。この梵字碑は昔からこの地にあり、全部で12基建っている。12神とされ、天・地・海・火・水・金・銀・松・岩・石・父・母を表していると説明してくれた。

ホーグモーガー

後之井泉 (クシヌカー) の近く、西の住宅街の道端にホーグモーガーがある。名前からするとこの辺りにはホーグモー (毛) という野原だったのだろう。井戸についての詳細は不明。


西之遊び庭 (イリヌアシビナー、ミージマ)

この辺りは西村渠 (イリンダカリ) という地域だった。その地域の住民が集う広場の遊び庭 (アシビ ナー) がちょっとした公園になっている。綱引きの際に、 西の道行列 (ミチズネイ) はここから出発していた。


神井泉 (カミガ-、ミージマカー)

西之遊び庭 (イリヌアシビナー、ミージマ) の側にも井戸跡がある。神井泉 (カミガ-) またはミージマカー、西之遊び庭之井泉 (イリヌ アシビナカー) と呼ばれ、かつては神事に使用していた。かつては各家庭の井戸が涸れた際は、まずはここにきて水を汲んだ場所。


足稲井泉 (アシンニガー)

ホーグモーガー、神井泉 (カミガ-) の道を西に進むと、中道 (ナカミチ) に合流する。

中道沿いにもアシンニガーと呼ばれる井戸跡が残っている。この場所は何か建設するのか、広い敷地が更地として整地され、その一角にあるこの井戸はコンクリートブロックで囲まれ、どうも保存して残されるように思える。この井戸跡についての詳細は不明。


中道 (ナカミチ)

アシンニガーの前の道路が中道 (ナカミチ)、かつてはもっと狭い道だっただろう。

この道はまだ西に続くのだが、ここからは中道を東側に進む。集落の中心地に近づくと中道の道幅は広くなる。この辺りには、宇栄原集落の有力門中の元屋 (ムトヤー 門中の本家) が並んで建っていた場所。


東之遊び庭 (アガリヌアシビナー)

中道を更に東に進むと、東村渠 (アガリンダカり) という地区になる。ここにも広場があり、東之遊び庭 (アガリヌアシビナー) と呼ばれている。綱引きの時、東の道行列 (ミチズネイ) の出発地だった場所だ。先ほど訪れた西之遊び庭 (イリヌアシビナー) が西の組の集発点だった。西と東の組が行列を汲んで集落を周り綱引きに向かう。 この綱引きの際には空手演舞、巻棒が披露され、各班の旗頭が舞う、女達が踊るガーエー、カチャシーで大いに盛り上がていたそうだ。 


東之遊び庭之井泉 (アガリヌアシビヌカー)

東之遊び庭 (アガリヌアシビナー) の中にも井戸跡があった。東之遊び庭之井泉 (アガリヌアシビヌカー) と呼ばれている。


那覇道 (ナファミチ)

中道 (ナカミチ) は東之遊び庭 (アガリヌアシビナー) のすぐ東を南北に走る62号線に合流して終わる。ここが集落の東端だった。62号線は那覇道 (ナファミチ) と呼ばれ、那覇へ向かう幹線道路だった。つぎは、ここから北側にある文化財を巡る。


東之井泉 (アガリヌカー)

那覇道 (ナファミチ) を渡った東側に東之井泉 (アガリヌカー) がある。集落の東端の井戸。


前道 (メーミチ)

東之井泉 (アガリヌカー) から西側に伸びる道が前道 (メーミチ) で中道に並行して、その北側を走り、先ほど訪れた後之井泉 (クシヌカー) に通じている。この宇栄原集落では前道が集落の北側にある。集落はその南西に向けて広がり南西は高台になっている。ほとんどの集落は南向きで、集落の南の端に前道があるのだが、丘陵が南側にあるので、逆になっている。


川跡 (カーラワイ)

前道 (メーミチ) の北側に、並行して道路が走っているが、かつてはここはカーラワイと呼ばれる川が流れていたところで、その川筋が埋め立てられて道路になっている。


製糖場跡 (サーターヤー)

カーラワイに沿ってその北側は広大なサトウキビ畑で、4つの製糖場跡 (サーターヤー) が置かれていた。今は畑もなくなり、住宅街に変わっている。


目取真子 (メドリマシ―) 墓

かつてのカーラワイ沿いに、和氏目取真筑登親雲上景正之墓がある。昭和32年に宇栄原区民一同により建てられた。 元々はカーラワイの反対側製糖場跡 (サーターヤー) の南にあった前ヌ毛 (メーヌモー) 二あったが、昭和30年ごろに整地されたときに、 現在の場所に移された。その後、2009年に改修されたものが今の墓だ。

目取真子 (メドリマシ―) は大里間切目取真村出身で舞踊の達人と知られ、 宇栄原東村渠 (アガリンダカリ) に組踊 「雪払」、舞踊 「四ツ竹」、 西村渠 (イリンダカイ) には組踊り 「久志の若按司」、舞踊 「クシヌ万歳」を教えたと伝えられている。


外間子 (フカマシー) 墓

目取真子 (メドリマシ―) 墓の北西の岡の斜面に外間子 (フカマシー) の古墓がある。先に訪れた後之井泉 (クシヌカー) を造ったのがここに葬られ、祀られている外間子 (フカマシー) だ。根屋を守っている宮里さんの祖先にあたる。墓に供えられているシバ (ヒサカキ) はまだ新し。きっと宮里さんがお参りを欠かしていないのだろう。


次は集落中心に戻って、南側の文化財をまわる。


村屋跡 (ムラヤー)、綱引き場

中道 (ナカミチ) の南側に並行に走る道にかつての村屋 (ムラヤー) があった。今はその面影はなくなって、公民館はこの南側の丘陵の高台に移っている。村屋跡 (ムラヤー) の前の道では宇栄原大網が行われていたが1915年頃に途絶えてしまった。戦前までは、細々とワラビチナ (子供綱) 引きがここで行われていた。

2003年に宇栄原大網が 90年ぶりに復活している。現在は移転した公民館の前の高前原公園で行われている。


宇栄原公民館

村屋跡 (ムラヤー) から南方向に坂道を登った所に新しい宇栄原公民館がある。この場所は現在の宇栄原集落の南に位置し、南北に伸びる丘陵地の上部にあたる。このあたりは御嶽や拝所があった。御嶽は部落住民にとっては神聖な場所で、そこにある木々を切ることも禁じられていた。新公民館建設には、反対運動もあったが、行政が押し切り、拝所の幾つかは高前原公園に移設されている。先に訪れた根屋にあった4基の石碑も公民館建設の際に宮里さんのお父さんが移設した。


上ヌ御嶽 (ウィーヌウタキ)

宇栄原公明館の隣には上ヌ御嶽 (ウィーヌウタキ) がある。琉球国由来記に記載されている「上原の殿」と考えられている。殿が時代と共に御嶽と呼ばれるようになったのだろう。この上ヌ御嶽 (ウィーヌウタキ) は元々ここにあったようだ。


高前原公園

宇栄原公民館の前に高前原公園がある。この公園は行政区では高良区になるのだが、宇栄原集落の拝所が幾つかある。元々ここにあったのでは無く、この地域にあった御嶽の森も含め一帯を開発して公民館建設時に移設されたものだ。公民館の西側斜面が高前原公園となっている。公園にはグラウンド、児童遊具、遊歩道があり、綺麗に整備はされている。グラウンドでは中学生がサッカーやバスケットボールで遊んでいた。ここで宇栄原の綱引きが行われている。


宇栄原下又御嶽 (シチャヌウタキ)

高前原公園の中に立派なアシャゲが建てられ、そこに宇栄原下又御嶽 (シチャヌウタキ) が移設されている。もともとは公園の西側にある住宅地、松川小井泉 (松川ヌ殿) 近くにあった。新公民館館建設や区画整理で上ヌ御嶽の場所に移され、その後、公園内のここに移されている。琉球国由来記に記載されているトノモトノ嶽 (神名: シマノ根ノ御イベ) と考えられいる。集落の各門中は初起し、 5月ウマチー (稲穂祭)、6月ウマチー (稲収穫祭) で御願している。この辺りは松川 (マチガー) と呼ばれ、戦後復興はここから始まり、多くの人がここに住み始めた。


下又御嶽 (シチャヌウタキ) 

宇栄原下又御嶽 (シチャヌウタキ) の隣には火の神が祀られている。


地頭火ヌ神 (ジトゥ―ヒヌカン)

高前原公園のグラウンドの上には地頭火ヌ神 (ジトゥ―ヒヌカン) の祠があり、火の神が祀られている。


津真田カー

公園内にある津真田井泉の拝所。


松川小井泉 (マチガグヮーカー)

高前原公園を西側に下った公園の入り口付近に祠が建っている。表示板には「松川カー」と書かれているが、資料には松川小井泉 (マチガグヮーカー) となっている。この場所は松川嶽之殿 (マチガータキヌトゥン) があった場所で、別の資料ではここを松川嶽之殿 (マチガータキヌトゥン) 、松川御嶽 (マチガーヌウタキ) ともなっている。

松川小井泉 (マチガグヮーカー) の西側が昔、下ヌ御嶽(シチャヌウタキ) があった場所で、昔は、字栄原の腕っぷしの強い男たち (武士) が集まって、毎晩ここで空手の練習をしていたと伝わる。



門中ノ御嶽

公民館、上ヌ御嶽 (ウィーヌウタキ) の前の道を南に進んだところに、門中ノ御嶽という拝所がある。この拝所についての詳細は不明。門中の御嶽とあるので門中と何らかの関係があると思うが、情報は無く少し気になる。


松川馬場 (マチガ-ウマィー)

更に道を進むとかつての松川馬場 (マチガ-ウマィー) 跡になる。


宇栄原公園

松川馬場 (マチガ-ウマィー) の東は丘陵の東斜面で、そこは宇栄原公園になっている。この道は丘陵の尾根に当たる。公園に高台には門中墓 (三戸門中之墓) が造られている。この地もかつては墓群ではなかったかと思われる。


越地御川 (コエチウッカー)

宇栄原公園から東斜面を下ると、先ほどの那覇道 (ナファミチ) に出る。 那覇道沿いに井戸跡が幾つかあった。南側には越地御川 (コエチウッカー) と呼ばれ、拝所になっている井戸跡がある。この井戸跡についての詳細は不明。


松川之井泉 (マチガーヌカー)

越地御川 (コエチウッカー) から那覇道 (ナファミチ) を北に進むと松川之井泉 (マチガーヌカー) がある。先ほど高前原公園では「松川井泉 (マチガーカー)」があった。少し紛らわしい。井戸は金網で塞がれているのだが、その金網に自民党のポスターが張られている。今までに沖縄の100以上の集落を見てきたが、文化財に回ったが文化財、ましてや拝所にこのような政治宣伝ポスターが貼られているのを目にしたのは初めてだ。一人は那覇市議会議員、もう一人は衆議院議員だ。本人達の指示ではなく、事務所の行いと思うので、本人達はこの事を知らないだろう。ただ、この二人の品性を蔑める事にもなるので、文化財にこのようなポスターを張るのはいただけない。


松川ヌ拝所/アシビナー

松川之井泉 (マチガーヌカー) の上は遊び庭 (アシビナー) だったところで、そこは2014年に造られた松川ヌ拝所になっており、火の神も祀られている。昔からあった拝所なのか、新しく造られたのかは分からない。情報は見つからなかった。


井戸跡

松川之井泉 (マチガーヌカー) の北側にある公園内にも井戸跡があった。


新開地新辻町 (New Tsuji)

旧小禄村の北半部分は広大な敷地の米軍基地となり、住民と米軍人の摩擦や事件がしばしば起きていた。これが原因となり、米兵による強姦事件や民家の不法侵入など、犯罪の多発防止を目的に1952年に「新開地新辻町 (New Tsuji)」が誕生した。これだけが理由ではなく、米軍からもダンスホール設置を依頼され、「米兵の慰安所」であることをほのめかされていた。要するに米兵の為の特飲街 (歓楽街、はっきり言うと赤線街) だ。最盛期には70軒余りの店があったそうだ。この特飲街には米軍の「人種別指定制度」が導入され、この新辻町は白人専門で、黒人は別地域でペリー区 (山下町) と呼ばれた場所にあり、テリトリー分けがされていた。米国での人種問題が、沖縄にも持ち込まれていたということだ。新開地新辻町は現在は新町と名を変え、字宇栄原の西の端にあたる。当時の賑わいはなく、バー、キャバクラ、カラオケなどがちらほら残っているのみだった。


これで、旧小禄村の小禄集落、田原集落、宇栄原集落の三つを巡り終えたが、この三つの地域にまたがってある地域があり、そこの文化財は次回訪問予定としている。それは新部落と呼ばれている。少々複雑な歴史のある地域なので別途訪問することにした。


参考文献

  • 小禄村誌 (1992 小禄村誌発刊委員会)
  • 歴史散歩マップ 具志・宇栄原 (1991 那覇市教育委員会文化課)
  • 週刊レキオ 201/11/24.Vol.1391
  • 会報 ガジャンビラ 第11号 (2009 うるくの歴史と文化を語る会)

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