Okinawa 沖縄 #2 Day 136 (21/09/21) 旧小禄村 (4) New Hamlet 新部落
旧小禄村 新部落
- 新部落建設顕彰碑
- フチミンガー
- 大嶺地区 (おおみね、ウフンミ)
- 大嶺自治会館
- 大嶺御嶽
- 神屋
- サバニベンチ
- 仲添のティラ、七つの井戸拝所 (川ヌ端ノ井戸、浜ヌ端ノ井戸、チンジャー井戸、樋川、フカマヌ井戸、ジンサラシ井戸、南ヌ井戸)
- 三稲田の神、按司御井戸、後山大城世之神井戸
- 土帝君
- 大嶺御嶽原の神 (神名: マヂラタイヌ御威部)、竜宮神、火の神、前城前
- 祖先墓の拝所
- 火の神 (ヒヌカン)
- 遥拝所 (お通し ウトゥーシ)
- 当間地区 (とうま)
- 当間自治会館 (当間共同利用施設)
- 當間之嶽 (トウマヌタキ)
- 當間之嶽 (神名: ススカミノ御イベ)
- 地頭火ヌ神
- 泉水井、産御井、後ヌ御井、東ヌ御井
- 墓碑等
- 御嶽ヌ御井、火ヌ神、上ヌ御嶽 (當間色立始岳、金城前原御嶽跡)
- 金満御嶽、川王神、御天受久、仲間之殿、仲間御井
- 安次嶺地区 (あしみね、アシンミ)
- 安次嶺自治会館
- 井戸跡
- 鏡水地区 (かがみず、カガンジ)
- 鏡水自治会館
- 鏡水多目的広場 (旧自治会館跡)
- 長田ガー
- 御嶽公園 (鏡水拝所)
- 金城地区 (カネ グスク)
- さつき橋跡
- 仲門門中
旧小禄村 新部落
旧小禄村内に造られた新部落とは、沖縄戦後米軍基地として接収された土地に帰還がかなわなかった5つの村の住民が、組合を作り新しい居住地を作り出した地域の事で、現在も続いている。これには長い歴史がある。事の発端は戦前の昭和10年までさかのぼる。日本軍が火往生建設のために強制的に土地を収用したことに始まり、その後も、何回かに分けて収用地域が広がっていった。元から住んでいた住民の畑が主要な収用地域だった。生産地を奪われた住民の苦労が始まる。大きな影響を受けたのは大嶺、鏡水、當間地域だった。
戦後は、日本軍に替わり、米軍が更に広範囲の地域を基地として収用し、旧小禄村の83%にも及んだ。5つの字の住民は疎開地、捕虜収容地から帰還する村が無くなってしまった。影響を受けたのは大嶺、鏡水、當間、安次嶺、金城の5つの字で、住民は米軍が指定した場所に住み始めるが、諸問題で、5つの字の住民が新部落建設期成会を結成し、1958年 (昭和33年) に新部落が完成し、移住して始まる。
新部落参加世帯数が掲載されていたが、戦後どれだけの世帯が残っていたのかが分からず、1935年 (昭和10年) の総世帯数と比較してみた。戦争で全滅した世帯、親戚を頼り移動していった世帯もあるので比較対象となる総世帯数はもっと少ないと思える。この参加率の背景は色々あると思うが、調べ切れなかった。もう一つのグラフは、米軍基地に摂取され、その後那覇空港、自衛隊きちとなってはいるが、行政区域は昔のままだ。その行政区での人口を戦前と比較したもので、字大嶺には住民登録はゼロで、村が完全に焼失した形だ。字鏡水と字当間には住民登録が2020年ではそれぞれ523人と1183人となっており、帰還がかなったかの如く見えるが、データをよく見ると世帯数も523戸と1183戸となっている。推測では自衛隊の単身者住居と思われるので、鏡水と当間も完全に村を失った形だ。字安次嶺ほんの少しだけ返還がされ、民家がある。新部落に参加した5字の中で、字金城のみが昔の村の地域が戻ってきた。ほとんどかつての村の形は残っていなかったが、それゆえにスクラッチからの再建計画を立て、商業施設、教育施設、住宅街を造り復興がかなっている。
沖縄戦での旧小禄村の戦没者は以下の通りで、旧小禄村全体では32%の住民が犠牲になった。一家全滅や家を存続できない状態の世帯も多くあったと推測される。
今回、新部落訪問時に参考にした地図 (歴史散歩マップ 新部落まーい)
新部落訪問ログ
新部落建設顕彰碑
米軍からは土地の借地料の支払いもなく、次第に高良と宇栄原の土地所有者 (借地人) から借地料を請求される様になり、追い出される住民も出て来て、地元字民からは「よそもの」として扱われ、多くのトラブルが起こっていた。これだけを聞くと地元住民が冷淡との印象を持つが、実態は、高良の住民が収容所や疎開地から帰郷すると、元の住居跡には、既に米軍により割り与えられた住民が住んでおり、別の場所に住まいを求めるしかなかった。双方が被害者であった。
顕彰碑の周りには5つの石柱が建っており、それぞれが各字の失われた故郷を謡った和歌が架かれている。それを1つづつ読むと故郷への想いが伝わってくる。
- 大嶺:白浜前なす大嶺や 男女 嘉利吉 (かりゆし) 肝合す 海山豊かに栄えゆく
- 当間:巡り廻や当間村 手墨学問 道広く 花ん遊びん 程々に
- 安次嶺:遊び美らしゃぬ 安次嶺や 神に奉献る真心に 子孫牛馬ん道広く
- 鏡水:大根豊作す鏡水や 日々の励みたゆみなく 行く末広く頼もしや
- 金城:言葉甘さや 金城 老も若衆も 打ち揃りて 譲り結びぬ 肝美らしや
フチミンガー
大嶺地区 (おおみね、ウフンミ)
大嶺自治会館
大嶺御嶽
神屋
サバニベンチ
仲添のティラ、七つの井戸拝所 (川ヌ端ノ井戸、浜ヌ端ノ井戸、チンジャー井戸、樋川、フカマヌ井戸、ジンサラシ井戸、南ヌ井戸)
三稲田の神、按司御井戸、後山大城世之神井戸
土帝君
大嶺御嶽原の神 (神名: マヂラタイヌ御威部)、竜宮神、火の神、前城前
祖先墓の拝所
火の神 (ヒヌカン)
遥拝所 (お通し ウトゥーシ)
当間地区 (とうま)
当間自治会館 (当間共同利用施設)
當間之嶽 (トウマヌタキ)
當間之嶽 (神名: ススカミノ御イベ)
地頭火ヌ神
泉水井、産御井、後ヌ御井、東ヌ御井
墓碑等
御嶽ヌ御井、火ヌ神、上ヌ御嶽 (當間色立始岳、金城前原御嶽跡)
金満御嶽、川王神、御天受久、仲間之殿、仲間御井
安次嶺地区 (あしみね、アシンミ)
安次嶺自治会館
井戸跡
鏡水地区 (かがみず、カガンジ)
鏡水自治会館
鏡水多目的広場 (旧自治会館跡)
長田ガー
御嶽公園 (鏡水拝所)
金城地区 (カネ グスク)
その後、昭和55年に旧金城村に造られていた旧那覇空軍海軍補助施設地が返還された。これは新部落に参加した他の4字とは異なり、幸運だった。昭和56年に基本計画が策定され造成工事が着手され完成。金城村にあった御嶽など拝所があった場所も返還され、御嶽は元あった場所に再建されている。(後日訪問予定)
さつき橋跡
仲門門中
参考文献
- 小禄村誌 (1992 小禄村誌発刊委員会)
- 歴史散歩マップ 新部落まーい (1991 那覇市教育委員会文化課)
- 沖縄県那覇市の住民組織について-自治会 研究ノート その 1 (1994 総合都市研究第53号)
- 大嶺の今昔 (2008 字大嶺向上会)
- 鏡水八十周年記念誌 (1983 鏡水自治会)
- 字鏡水創立百周年記念誌 (2005 鏡水郷友会)
- 戦後の沖縄集落の住民によっ て継承された民俗空間及び集落空間秩序の研究 (2007 日本建築学会計画系論文集 第618号)
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