Okinawa 沖縄 #2 Day 137 (24/09/21) 旧小禄村 (5) Takara & Miyagusuku Hamlets 高良/宮城集落

旧小禄村 高良集落 (たから) / 旧小禄村 宮城集落 (みやぐすく)

  • 高良集落
    • 小禄南公民館 (小禄村役場跡)
    • 高良自治会館 (共同利用施設)
    • 高良公園
    • 高良之殿、井戸拝所、平和記念碑
    • 上内間神屋
    • 足稲井泉 (アシンニガー)
  • 宮城集落
    • 宮城自治会館
    • 宮城御嶽 (祖神堂)
    • 大主 (ウフヌシ) 様
    • 大屋門中宗家
    • 具志宮城北公園
    • 宮城の前ヌ井 (メーヌカー)

旧小禄村 高良集落 (たから)

高良村 (多加良村) の村立ては屋号 上内間が玉城間切から移り住み、後に新垣、浦崎、名嘉、勢頭、拝の前の五家がきたと伝わる。上内間は国元 (クニムトゥ) と云われ、村の祭事では最初に拝むならわしになっている。村立てがいつ頃であったかははっきりとはしないが、1635年の琉球国高究帳に、豊見城間切多加良村の田畑の生産高が記されていることから、村はそれよりもずっと以前に成立していたことがわかる。1673年 (延宝元年、尚貞5年) に豊見城間切から分離し小禄間切高良村となる。1903年 (明治36年) には高良村と宮城村が合併して高宮城となるが、1951年 (昭和26年) には高宮城が分離し元の字高良と字宮城に戻っている。何故分離したのか? その理由は書かれていないが、大体は経済的要因で合併はするが、運用は従来のまま、以前の村単位で行われていたと思われる。村や門中意識が強く、お互いに張り合い融合出来なかったのだろう?村が合併してうまく行っている所は少ない。高良村には高良御嶽、高良里主所之殿、新高良之殿、宇栄高良之殿、内聞之殿、火の神殿があり、具志ノロが祭祀を管轄していた。主な祭祀は旧暦正月2日の初拝、5月15日の稲穂祭 (5月ウマチー)、6月15日の稲大祭 (6月ウマチー)、6月25日の綱引き、9月吉日の真壁ムスメー、10月にコームイがあった。

字高良は津真田原、仲添屋、池田原からなり、王府時代から戦前まで主産業は農業であった。砂糖の生産が主で、製糖場も4カ所もあった。農地面積もキビと主食のイモ畑が大半を占めていた。

高良の人口については、1880年では旧小禄村では二番目に人口の少ない村であったが、沖縄戦後、帰還できなかった他の村の住民を受け入れたことで、一時的に人口は増加している。1985年に人口が50%増となっている。この理由については書かれてはいないが、同じ年に宇栄原の人口がほぼ同数減少しているので、字内の地区のやりくりがあったと思われる。1990年代以降、世帯数はコンスタントに増加しているが、人口は小康状態にある。

沖縄戦後、高良は津真田原を残して地内の60%が接収されたが、ほとんどは畑や荒地が対象で、集落がある場所は接収を免れている。村全域を接収された他字 (大嶺、鏡水、金城、当間、安次嶺) の住民がここに住み始め人口が集中し人口は増加。この事で、小禄村の行政機関の村役場、小中学校、警部補派出所、食程配給所、診療所、郵便局、野外劇場等も高良地域に出来て小禄村の中心地として賑わっていた。その後、各部落への帰還や新部落の建設によって、高良地域の混雑も次第に緩和されていったが、高良地域に定住した者も多く、地域は次第に都市化していき、産業構造も戦前の主な農業から、戦後は軍作業に変わり、更に公務員や各種企業のサラリーマンとなった。


高良集落及び宮城集落訪問ログ



小禄南公民館 (小禄村役場跡)

戦後、他集落の多くの人が高良に住み始めた事により、高良は旧小禄村の中心地となり、ここに村役場が置かれ、那覇市との合併まで機能していた。合併後は小禄南公民館と小禄南図書館になっている。元々の小禄間切番所は小禄集落内にあったが、1912年 (大正元年) に安次嶺へ移転、沖縄戦後はここ高良に新築され、1953年 (昭和28年) に那覇市との合併で、那覇市小禄支所庁舎となり、小禄南公民館へと変わってきている。公民館の中には広場があり、スタンドで囲まれ、ここで催し物などが行われていたのだろうが、かなり老朽化が進んでいるようで、スタンドには上がれない様になっていた。

高良自治会館 (共同利用施設)

1981年に1億円をかけて建てられ、200人収容可能なホールまであるそうだ。

高良公園

自治会館の道を挟んで場所には高良公園がある。ここ高良集落では一番の高台で聖域であった御嶽があった場所。今ではゲートボール場や子供の遊具を備えた広場もある。公園全体は芝生が敷き詰められ、綺麗に刈り込まれている。

高良之殿、井戸拝所、平和記念碑

高良公園の高台にアシャゲが建っている。高良之殿で、殿以外に中之御嶽と火ヌ神が祀られていた。集落内には、高良御嶽、高良里主所之殿、新高良之殿、宇栄高良之殿、内聞之殿、火の神殿があったとされているが、ここに合祀されているのだろうか? 殿に向かって左側にはかつて集落内にあった八つの井戸を合祀している拝所がある。八つの井戸とは東之井 (アガリヌカー)、前之井 (メーヌカー)、足稲井 (アシンニガー)、御様前之井 (?)、産生井 (ウブガー)、中之井 (ナカヌカー)、西之井 (イリヌカー)、後之井 (クシヌカー) で、この内、足稲井 (アシンニガー) は宇栄原集落を巡った際に見学をしたが、その他の井戸の所在地等の情報はなかった。住宅街に変貌を遂げる際に消滅してしまったのだろうか? 殿の右には戦争での犠牲者の慰霊碑が置かれていた。

上内間神屋

高良公園の前の道を東に少し行った所に高良集落の国元にあたる上内間門中の神屋がある。神屋の中は左右二つの祭壇があり、向かって右側が上内間家、左側が御願ヌ前家の香炉が並べられていた。

足稲井泉 (アシンニガー)

この井戸跡には9月18日に宇栄原集落を巡った際に訪れている。上内間神屋の北、宇栄原集落の中道沿いにある井戸。この場所は何か建設するのか、広い敷地が更地として整地され、その一角にあるこの井戸はコンクリートブロックで囲まれ、どうも保存して残されるように思える。この井戸跡についての詳細は不明。


旧小禄村 宮城集落 (みやぐすく)

この部落の先祖がいつ頃、この地に住みついたのか不明だが、身重の一人の女 (今帰仁村出身) が、ここに来て男の子を産み、その子が宮城の祖先に当たると言う。この男の子の父親は護佐丸ともいわれ、この宮城集落の人達は護佐丸の子孫であるとつたわる。国元 (クニムトゥ) と嶽元 (タキムトゥ) の大屋門中では毎年の拝みや、6月ウマチ一には、中城の字泊の屋号 大屋に赴き拝み、護佐丸の墓にも参詣する。宮城はその昔「グシナーグスク」と呼ばれていた。宮城集落は豊見城間切に属していたが、高良集落とともに、1673年 (延宝元年、尚貞5年) に豊見城間切から分離し小禄間切ぐし宮城村となる。1903年 (明治36年) には高良村と宮城村が合併して高宮城となるが、1951年 (昭和26年) には高宮城が分離し元の字高良と字宮城に戻る。戦前まではキビ作り中心の農業が主産業で、製糖場 (サーターヤー) が東 (尻川原) にニカ所、西 (田畑原 )に三カ所もあり、他部落にくらべ盛んで、発動機まで導入されていた。戦後は農地すべてが米軍に接収されたことで、農業ができなくなり、他の職業への変更を余儀なくされ、産業構造が一変した。
那覇市がホームページに2000年以降の人口データを形成しているのだが、データミスが多い。各字のデータの合計は総合計と一致しない年が幾つかあり、特にこの宮城のデータは不備が多いように思われる。特筆すべき点は1995年に具志宮城区画整理事業が完了し、住宅地ガ供給されるまでは人口の伸びはそれほどなく、明治時代と変わっていない。この具志宮城区画整理事業で人口は増加、更に地域内南部の宅地が開発され2017年に増加している。
昭和21年初め頃から国頭方面や、日本本土外地の疎開先から帰って来た字民は旧部落に帰ることができず、高良、宇栄原一帯の米軍が残したテント小屋や、共同で建てた茅葺小屋に押し込まれるように住むことになった。昭和22年8月頃、旧宮城の一部の具志尻川原も解放されたが、昭和28年に米軍のガソリンタンク建設の為立退き命令が出て、一度解放された宅地、農耕地が再接収され、再び高良、宇栄原方面へ移転した。農耕地の殆どと宅地の3分の2以上が軍用地に取られたため、字民の大多数が他字や他市町村に居住地に移動していた2006年現在で、宮城自治会に加入している世帯の25%が宮城地区に住んでいるが、その他は宮城地区外にいる。

1995年に返還された土地の具志宮城区画整理事業が完了し、多くの住宅地が用意されたことで、これ以降人口は増加している。


宮城自治会館

終戦直後は村屋を米軍から貰い受けたトタン葺で建てて業務を開始した。その後、コンクリート建と増改築を繰り返し、昭和55年に運輸省、那覇市当局、他関係者の援助と字民の協力により現在の自治会館が完成した。

宮城御嶽 (祖神堂)

自治会館から北に一ブロックの所に公園がある。昭和50年に宮城御嶽が整備されて公園と生まれ変わった。ここも綺麗に芝生が刈り込まれている。ここに、以前の御嶽が祖神堂と呼ばれる神殿が建立され、そこに祀られている。祖神堂には、6つの御香炉が置かれているそうだが、扉は施錠されて隙間から中を覗くが、全部は見えなかった。置かれている香炉は、大城代之神、玉城代之神、今帰仁代之神、村根神、首里/瀬長代之神、御火之神だそうだ。

大主 (ウフヌシ) 様

公園の奥にも祠がある。大主 (ウフヌシ) 様と呼ばれている拝所。また、バンクの拝所とも呼ばれている。バンクとは野外で芝居をする場所の事で、明治の頃までは村遊びが盛んで、 組み踊りも村で演じられていた。 かつてはそのバンクがこの拝所の後方の丘の上 (前レーダー基地) にあった。演目は村の西の組が 「雪払い」、「姉妹敵討ち」 、「本部」等で、東組が 「村原」 (大川敵討ち) だったそうだ。組踊への出演は青年たちのあこがれの的で、競い合って、配役を選んだと言う。 しかし、 熱中し過ぎて、 田畑は荒れ放題になり、組踊りは途絶えてしまった。唯一「大川敵討ち」の 「長刀踊り」 だけは伝承されているそうだ。
バンクがあったレーダー基地は現在では近代的なマンション街に変わっていた。

大屋門中宗家

この部落の先祖がいつ頃、この地に住みついたのか不明だが、身重の一人の女 (今帰仁村出身) が、ここに来て男の子を産み、その子が宮城の祖先に当たると言う。この男の子の父親は護佐丸ともいわれ、この宮城集落の人達は護佐丸の子孫であるとつたわる。その子孫の国元 (クニムトゥ) と嶽元 (タキムトゥ) の大屋門中宗家の屋敷跡と神屋が御嶽公園の前にある。毎年の拝みや、6月ウマチ一には、中城の字泊の屋号 大屋に赴き拝み、護佐丸の墓にも参詣する。

具志宮城北公園

自治会館の南に具志宮城北公園がある。ここも比較的綺麗に整備されている。

宮城の前ヌ井 (メーヌカー)

この井戸は、1650年頃に掘られた井戸で、集落民の貴重な飲料水であった。正月の若水 (ワカミジ) や、古くは産湯の水としても使われていた。戦後も水道が普及するまで飲料水として大切にされていた。
前ヌ井 (メーヌカー)  の東後方には東の製糖工場と、その前には溜め池 (馬浴クムイ) があったそうだ。
公園内の東屋の隣り、前ヌ井 (メーヌカー) の前に石碑があった。「雄飛 竣工記念碑」とある。雄飛は「勇ましく青空に羽ばたく」との願いを込めた言葉で宮城集落の二つある旗頭の一つ。
これは具志宮城土地区画整理事業の事で、昭和50年代入って米軍軍用地の一部が返還された。この具志宮城では、1976年 (昭和51年)、1986年 (昭和61年) に返還され、その土地の大部分が雑木林や荒地などの未利用地で、住宅地建設の運びになった。1988年 (昭和63年) に着工、1994年 (平成6年) に完成となった。この具志宮城北公園はこの区画整理地内に造られた四つの公園の一つで、南、西、東の公園は具志地区にある。

参考文献
  • 小禄村誌 (1992 小禄村誌発刊委員会)
  • 宮城誌 (2006 字宮城自治会)
  • 高良の字誌 (2008 高良宝友会)
  • 会報 ガジャンビラ 第8号 (2006 うるくの歴史と文化を語る会)
  • 会報 ガジャンビラ 第15号 (2013 うるくの歴史と文化を語る会)


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