Okinawa 沖縄 #2 Day 138 (27/09/21) 旧小禄村 (6) Gushi Hamlet 具志集落

旧小禄村 具志集落 (ぐし)

  • うたき公園
  • 具志御嶽
  • 具志の合祀拝所
  • 井戸拝所
  • くらさ (久良佐) 拝所
  • 大井 (ウッカー)
  • 前道 (メーミチ)
  • 梵字碑 (?)
  • 井戸跡
  • ヌールガー
  • 旧村屋跡 (ムラヤー)
  • 具志自治会館
  • くし原 (ミーヤモー) の印部石「ふ」
  • 具志宮城西公園
  • 具志宮城東公園
  • 具志宮城南公園
  • 具志火立所跡 (グシフィータティジョ)
  • 桃原泉 (トウバルガー)

今日は先日訪れた宮城集落の南に位置する具志集落を訪れる。ここの文化財の一部は先日、宮城集落の後に巡ったので、今日は残りの文化財等を訪れる。



旧小禄村 具志集落 (ぐし)

具志集落の村立てについて伝わっているのは、瀬長島 (アジシナ) のアンジナ城の城主だった瀬長按司が戦い (いつの事か不明) に破れ、その子孫が具志に逃げのびて村を起こしたとされる。別の説では、舜天王統3代目義本王 (在位 1249 ~ 1259年) の三男と七男とある。現在でも、三男が大里門中の祖として、七男は蔵佐門中の祖として祀られている。具志集落は旧小禄村の南に位置し、肥沃な土地で、旧小禄村では生産量が一番多いキビ作が主の農業が中心だった。キビ以外にはスイカとカボチャが特産品で、那覇へ大量に出荷していた。沖縄戦後は地域の4分の3以上が軍用地にとられ、農地が失われ、従来の農業中心の産業構造から大きく変化した。

具志の人口データを見ると、明治時代から戦前までは人口は増えておらず、戦後も大きな増加は無かった。人口増加のきっかけが二つあるが、初めの増加の理由は分からなかった、二番目の増加は具志宮城土地区画整理事業が完了し、住宅が建設されたことによる。近年は他の旧小禄村の字と同様に世帯数は増加を続けているが、人口は横ばいとなっている。

1995年に返還された尻川原、自城原、波佐間原、宇地座原、桃原、南佐原、赤辻原、赤崎原の約8万5千坪の広範囲の土地の具志宮城区画整理事業が1994年 (平成6年) に完成し、近代的な街に生まれ変わっている。


今回、新部落訪問時に参考にした地図 (歴史散歩マップ 具志・宇栄原まーい、具志お散歩マップ)

具志集落訪問ログ


うたき公園

集落の北側の標高約22メートルの小高い丘の上に1995年に整備されたうたき公園がある。ここも綺麗に芝生が刈り込まれている。うたき公園の一画に、かつて村内にあった井戸の拝所の幾つかをここに合祀されている。
ここでは戦前は旧暦6月25日に具志綱引き祭りが盛大に行われていた。現在は具志集落内の前道 (メーミチ) で行われている。

具志御嶽

うたき公園内には具志御嶽がある。具志御願 (ウグヮン) ともいう。琉球国由来記の具志嶽の殿 (グシタキノトゥン) と考えられている。具志グスク (フィリグスク) とも呼ばれていたが、城郭としてではなく、聖域としての グスクと思われる。ここも赤瓦葺の祠がある。どうも、行政指導で公共施設の外観を赤瓦葺を推奨しているそうだ。この御嶽は返還された土地に1993年に建てられた。祠の中にいくつかの香炉が祀られている。祠内正面には具志集落の旗頭の和合躍進の「和」が掲げられている。 (写真左下) 5月と6月のウマチーや旧暦6月25日の豊年祭に拝まれている。
御嶽の祠のやや手前左には古い砂岩を積み重ねた火ヌ神(ヒヌカン)があり、香炉が置かれている。(写真右中) 
火ヌ神 (ヒヌカン 写真左中) の向かいに石と香炉が置かれている。この拝所はお通し (ウトゥーシ) で、かつてあった赤森山 (アカムヤー) という丘へのに向けられているとされているが、何を遥拝しているのかは書かれていなかった。戦前は北山、中山、南山と三つの遙拝所があったので、それを拝んでいるのだろう。
ここは高台にあり、南側斜面から麓にかけてに集落があった。現在はかつての集落がどのあたりまでなのかガわからないぐらい民家がぎっしりと建っている。


具志の合祀拝所

具志御嶽の後方のブサチヌメーと呼ばれた場所には、具志の合祀拝所がある。すぐ後にあるのだが、同一敷地内では無く、住宅内を迂回して行く。祠には4基の拝所が合祀されている。門中の拝所だそうだ。四つの香炉はうふや毛の神様、(下の方の) ひるぐしくの神様、(上の方の) ひるぐしくの神様、うたきの神様を祀っている。

井戸拝所

御嶽のある丘から南にある集落方面に下る細い道の脇に井戸跡があり、拝所となっている。名前は書かれていなかった。

くらさ (久良佐) 拝所

井戸拝所の道を更に下ると、別の拝所があった。くらさ拝所とあり、敷地内には二つの神屋が建っている。集落の祖先を祀っている。
舜天王統3代目義本王 (在位 1249 ~ 1259年) の三男を祖とする大里門中と七男を祖とする蔵佐門中の神屋。赤瓦の神屋の中の左側の祭壇は「具志殿」、右側祭壇には「久良佐按司世 (ウツ川原高アジシー)」、「久良佐元当世 (仲川森)」、「(南山持ち降り) 大里按司之子 (瀬長ぐさい)」、「うふや大城世 大屋森ぐさい」が祀られている。

大井 (ウッカー)

更に坂道を下ると大井 (ウッカー) がある。洗濯や生活用水として使われていた。

前道 (メーミチ)

大井 (ウッカー) から東側に坂道を下ると前道にぶつかる。前道は通常、村の前方の境界線に位置しているので、村立てしてから戦前までは、北側の御嶽のある丘陵の斜面に集落を構えていたと思われる。この前道で現在は綱引きが行われており、三叉路で西組と東組が相対するそうだ。前道と並行して川が流れており、この川が集落の南端だったのだろう。

梵字碑 (?)

道が交わる場所に古そうな石柱がある。コンクリートでまわりを補修している。何かいわれのありそうな感じだ。交差点の行き止まりに建っているので石敢当か梵字碑では無いだろうか?保存している様なので梵字碑と思う。

井戸跡

前道 (メーミチ) を越えてヌールガーに向かう途中に井戸があった。拝所では無い。多分ここに建っていた民家の中にあった個人宅井戸だろう。給水ポンプが設置されているので現在も使用している様だ。

ヌールガー

道を進み具志集落の村ガー (共同井戸) であったヌールガーに到着。具志ノロが祭祀で神事を行う際に身を清めていた井戸。具志ノロはここ具志だけでなく、宇栄原、松川、高良、宮城の神事も担当していた。井戸の横には手押しポンプが設置されている。今でも使っている様だ。小さい頃住んでいた家にも手押し井戸ポンプがあったのを懐かしく思えた。

旧村屋跡 (ムラヤー)

ヌールガーから西に坂道を登ると第一あそび場と書かれた小さな公園がある。ここは村屋があった場所と思われるが、ここは元々の集落から南に外れているので、多分戦後に村屋が置かれたと思う。その後、現在の自治会館が建設され公園となった。「あそび場」とあるので、村屋に併設されていたアシビナー (遊び庭) だったのだろう。公園内の一画に拝所がある。村屋にあった古村屋 (フルムラヤ) の井戸の拝所だ。

具志自治会館

新しい村屋の具志自治会館が旧村屋から北に坂道を下ったところにある。前庭には村の旗頭の一つの「結」と、その歌が刻まれている。「ふるさとの 花と実となれ いちまでん 結は尊し人の道なり」

くし原 (ミーヤモー) の印部石「ふ」

1737-50年の乾隆検地の際、土地測量の為に設置された印部石 (シルビイシ、原石) で表面に「ふ、くし 原」と刻まれている。この印部石は移設ではなく設置されてから270年もの間、ここにある。資料にも印部石の写真が出ていたが、それに比較して石が欠けている。

具志宮城西公園

公園内の東屋の隣り、記念碑があった。これは具志宮城土地区画整理事業の記念碑。碑の周りには字具志にある五つの地区の碑が置かれている。
昭和50年代入って米軍軍用地の一部が返還された。この具志宮城では、1976年 (昭和51年)、1986年 (昭和61年) に返還され、その土地の大部分が雑木林や荒地などの未利用地で、住宅地建設の運びになった。1988年 (昭和63年) に着工、1994年 (平成6年) に完成となった。
331号線沿いには高層マンションや商店が多く、道路内側に入ると戸建て住宅街だが、多くのマンションがあった。
この具志宮城西公園はこの区画整理地内に造られた四つの公園の一つで、北公園は宮城に南公園と、東公園は具志地区の整理地にある。公園内には門中墓が一つあった。


具志宮城東公園

ついでなので、残りの二つの公園も訪れてみた。少し高台にある住宅地の中に具志宮城東公園があり、そこには大きな恐竜の遊具が置かれている。

公園の前には具志集落にある25の門中のうちの幾つかの門中墓があった。沢岻門中墓、当利門中墓、仲村渠門中と仲村渠門中先神祖 (波座間祖、赤崎左祖、赤崎右祖)、山城門中墓。宮城集落の門中の一つの大上門中墓もあった。

具志宮城南公園

三つ目の公園の具志宮城南公園は331号線 小禄バイパスから少し内側に入ったところにある。
ここにも三つ門中墓があった。高良門中墓、朝食門中、真境名門中で、いずれも具志集落の門中だ。


具志火立所跡 (グシフィータティジョ)

琉球王朝時代に船舶の帰航・来航を首里城に伝える烽火台跡。首里の標高170mの所に火立毛を以前に訪れていたので、てっきり、かなりの高台にあると思っていたら、ここは海岸線の平坦地にあった。しかし、かつては小高い丘にあったことから、火立毛 (ヒータティモー) ともよばれていたそうだ。

桃原泉 (トウバルガー)

具志集落には戦前から神聖ば場所として崇められていたウッカー、ヌールガ ー、 トウバルガーの三湧泉があった。戦後その内の一つの、ここ桃原泉 (トウバルガー) は米軍により接収されたところにあり、米軍により埋められてしまった。基地返還後に、調査を行い、コンクリート路面の下から、かつての桃原泉が発掘され、平成3年に当時のままに復元された。現在も自衛隊基地内にあり、見学には許可がいる。今日は柵の外側から写真を撮った。
大嶺、鏡水、当間の拝所も基地内に幾つも点在しているので、緊急事態宣言解除後にまとめて見学を予定している。この井戸は戦前までは主に生活用水として利用されていた。当時は近くには製糖工場があり、製糖工場で働いた馬の体を洗ったり、子供たちの水遊び場としても利用していたそうだ。下の写真は自衛隊が公開している案内書から拝借。

具志集落を見終わった後、別の集落も訪れた。その訪問記は別レポートにする。


参考文献

  • 小禄村誌 (1992年 小禄村誌発刊委員会)
  • 歴史散歩マップ 具志・宇栄原まーい (1991 那覇市教育委員会文化課)
  • 週刊レキオ 2011/6/23 Vol.1369
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)

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