Okinawa 沖縄 #2 Day 138 (27/09/21) 旧小禄村 (7) Kanagusuku & Ashimine Hamlets 金城/安次嶺集落
旧小禄村 金城集落 (かなぐすく)
- 金城会館
- 金城公園
- 金城御嶽 (カナグスクウタキ)
- ともかぜ振興会館
旧小禄村 安次嶺集落 (あしみね、アシンミ)
- 安次嶺御嶽
- 安次嶺之殿 (アシミネヌトゥン)
- 土帝君 (トゥーティークン)
- 按司御墓 (アジウハカ)、美奇御泉 (ビズンウカー)、雨乞之御嶽 (アマグイヌウタキ)
- 按司御墓 (アジウハカ)
- 産御泉 (ウブガー)、知念御泉 (チニンウカー)、産御泉 (ウブガー)、ミテンサンテン
- 安次嶺金満御嶽 (アシミネカニマンウタキ) 碑
- 石獅子
旧小禄村 金城集落 (かなぐすく)
- 1945年 (昭和20年) : 米軍により強制接収
- 1965年 (昭和40年) : 48千㎡が返還 (接収されてから20年後)
- 1973年 (昭和48年) ~ 1975年 (昭和50年) : 31千㎡が返還
- 1976年 (昭和51年) : 197千㎡が返還
- 1977年 (昭和52年) : 165千㎡が返還
- 1978年 (昭和53年) ~ 1981年 (56年) : 955千㎡が返還
- 1982年 (昭和57年) : 2,278千㎡が返還
- 1983年 (昭和58年) ~1986年 (昭和61年) : 113千㎡が返還完了 (接収されてから41年後)
金城地区の中心地にはゆいレールの小禄駅があり、駅前にはイオン那覇店 (前 ジャスコ) 、331号線沿いには、多くの商店が店を構えて便利な街になっている。区画整理地区内には小学校、中学校、高校があり、公園も4つもある。金城地区のほどんどは戸建て用住宅地ではあるが、多くのマンションが建っている。小禄駅の東側 (田原地区) には小禄市営住宅 (670戸 写真下)、赤嶺地区には県営赤嶺市街地住宅 (280戸) が建っている。那覇市でも人気エリアとなっている。
明治時代の金城には360人しか住んでおらず小禄村の中でも少ない字だった。グラフでもわかる通り、米軍に接収されていた期間は人口はゼロで、土地が返還され、小禄金城土地区画整理事業が進むにつれ、人口は激増している。2007年 (平成19年) に事業が完了した後も世帯数は増加を続けているが、人口は少子化の影響で微増から横ばいに変化している。
週刊レキオ 小禄金城お散歩マップがあったが、この地域には御嶽以外の文化財は残っていない。
金城・安次嶺集落訪問ログ
金城では戦前にあった御嶽、殿、井戸拝所を一か所に集め共同拝所となっており、かつての所在地には無い。訪問地は金城の御嶽だけになる。
金城会館
金城公園
金城御嶽 (カナグスクウタキ)
ともかぜ振興会館
旧小禄村 安次嶺集落 (あしみね、アシンミ)
安次嶺村の村立てについてははっきりとは分からないのだが、言い伝えでは、安次嶺へ最初にきた人は、根屋という人と安里という人であったとされている。それに内間という人が加わって、安次嶺の村立てをしたと云われている。また、第二尚氏初代王 尚円が王位につかない前、金丸と呼ばれていた時に西原村内間の屋号糸数の娘との間に産れた子が、後に知念村字知名の知名親雲上となり、その子が具志堅親雲上となり、更にその子の具志清牛 (当時の知念按司) が、年老いてから安次嶺村にやって来て、瀬長接司の娘を妻に迎え、二人の間に六男として生まれた子が安次嶺の祖だとも伝わっている。
安次嶺は肥沃な土地で、戦前までは全家庭が農業を中心として生活していた。キャベツと人参はここの特産品で大量に那覇の市場で売られ、本土にも出荷していた。
安次嶺集落は1903年 (明治36年) に、その北側地域の一部を新しくつくられた字の鏡水に移し、金城と赤嶺が安次嶺に合流となる。これが、1956年 (昭和26年) まで続き、合流していた赤嶺と金城が再び独立行政区となった。
戦後は、字全域が米軍用地として接収された事で、住民は宇栄原を中心として芋を作って生活をしていたが、新部落が出来きた後は、殆どの人がそこへ移り住んだ。米軍用地が順次返還されたが、安次嶺の地域で返還されたのはかつての集落の西側の僅かな土地だけだった。返還された土地の中には安次嶺御嶽のあった上ノ毛が含まれ、御嶽をこの地に戻している。かつての集落の地域は今なお自衛隊基地のままで、新部落での生活が続き、自治会館も新部落にある。
安次嶺集落は明治時代でも人口700人を超え、戦前の昭和36年には約1600人で倍に増え、旧小禄村の中では中堅の字だった。戦後は、米軍用地に接収されたため、この字安次嶺には住民はゼロだった。人口は用地一部が返還され、小禄金城土地区画整理事業により住宅、商業地域にはなったが、事業対象地域が限定されているため、現在は300人程が暮らすのみだ。
人口データでグラフを作ってはみたが、不可解な人口推移で、その背景については書かれているものは見当たらなかった。1976年から1980年にかけて20人程が住民登録されている。そのほとんどが単身者なので、小禄金城土地区画整理事業関係者ではないかと思われる。事業が完了した後、1992年以降、住民数が増えている。2001年まで増加は続き約700人程まで増えてはいるのだが、2002年には200人に一気に減っている。この背景も分からなかった。行政区の変更か、那覇市のデータのミスか、不可解な動きだ。
安次嶺御嶽
赤嶺御嶽のある赤嶺緑地の中の遊歩道を北に進んだ所に安次嶺嶽がある。神名をアウキラノ御イベといい、赤嶺ノロによって神事が行われていた。戦前までは集落の南の端にあった上ヌ毛の丘 (赤嶺緑地) の上にあった。沖縄戦後、字安次嶺全域が米軍用地に接収され、住民達は宇栄原、高良ですみ始め、同じ様に村を接収された他の四字と共同で新部落を建設し、そこに住まいを移した。集落の聖域であった安次嶺御嶽やその他集落内にあった拝所も、1952年に宇栄原に移設し拝んでいた。その時の拝所の写真が残っている。
安次嶺ヌ御嶽は新しい立派な祠が建てられ、二つの御嶽火の神が祀られている。御神体であるはずの威部のアウキラノ御イベがどれに相当するのかは書かれていなかった。
安次嶺之殿 (アシミネヌトゥン)
祠の前は広場になっており、北の反対側には安次嶺之殿の拝所がある。以前あった御嶽の間取り図にはこの殿は見当たらなかったので、新たにここに祀っているのかもしれない。
土帝君 (トゥーティークン)
安次嶺之殿の隣には土帝君 (トゥーティークン) が置かれている。写真右はここに移設する前の新部落の自治会館にあった時のもの。
按司御墓 (アジウハカ)、美奇御泉 (ビズンウカー)、雨乞之御嶽 (アマグイヌウタキ)
安次嶺ヌ御嶽之向かって右側の数々の拝所が並んでいる。左側から按司御墓 (アジウハカ)、美奇御泉 (ビズンウカー)、雨乞之御嶽 (アマグイヌウタキ) が置かれている。以前の按司御墓 (アジウハカ) は二つの御嶽火の神の間にあり、主役の様だったが、今回は脇役となっている。
按司御墓 (アジウハカ)
その右側には三つの按司墓がある。これも以前と同じだ。三つともただ按司墓とだけ書かれている。多分、誰のものかはっきりとははしないが、村にとって敬うべき祖先と伝えられていたのだろう。
産御泉 (ウブガー)、知念御泉 (チニンウカー)、産御泉 (ウブガー)、ミテンサンテン
その隣には三つの井戸の拝所とミテンサンテンという拝所がある。最後のミテンサンテンは何なのかは調べられなかった。
安次嶺金満御嶽 (アシミネカニマンウタキ) 碑
その隣に安次嶺金満御嶽と書かれた石が置かれている。1951年 (昭和26年) 7月11日創立とあるので創立記念碑のようにも思える。1951年 (昭和26年) は既に米軍用地となっており、住民は宇栄原や高良に移っていたころで、まだ新部落は存在していない時期。どこで、何がありこれが造られたのかに興味が沸いた。この期間は混乱期で何があったのだろう?香炉などは置かれていないので、これが拝所とは思えないのだが、安次嶺金満御嶽は安次嶺之御嶽の事なのか、別の御嶽なのか、部外者にとっては少々混乱する。
石獅子
安次嶺之御嶽之前の広場の脇に石獅子が置かれている。もともとも御嶽内に置かれていたそうだ。旧小禄村を巡ってきたが、初めての石獅子。もともと旧小禄村には石獅子はあまりなかったのだろうか?それとも戦争で消失してしまい、かろうじてこの石獅子のみが残ったのだろうか?隣の豊見城市や糸満市の多くの集落で石獅子を目にしたので、この旧小禄村ではこれ一体だけとは、ちょっと解せない。この石獅子の特徴は、後ろから見たときに長い尻尾があることだ。尻尾のある石獅子は珍しい。
参考文献
- 小禄村誌 (1992年 小禄村誌発刊委員会)
- 小禄金城土地区画整理事業概要書 (1984 那覇市建設部区画整理課)
- 週刊レキオ 小禄金城お散歩マップ
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