Okinawa 沖縄 #2 Day 138 (27/09/21) 旧小禄村 (7) Kanagusuku & Ashimine Hamlets 金城/安次嶺集落

旧小禄村 金城集落 (かなぐすく)

  • 金城会館
  • 金城公園
  • 金城御嶽 (カナグスクウタキ)
  • ともかぜ振興会館

旧小禄村 安次嶺集落 (あしみね、アシンミ)

  • 安次嶺御嶽
    • 安次嶺之殿 (アシミネヌトゥン)
    • 土帝君 (トゥーティークン)
    • 按司御墓 (アジウハカ)、美奇御泉 (ビズンウカー)、雨乞之御嶽 (アマグイヌウタキ)
    • 按司御墓 (アジウハカ)
    • 産御泉 (ウブガー)、知念御泉 (チニンウカー)、産御泉 (ウブガー)、ミテンサンテン
    • 安次嶺金満御嶽 (アシミネカニマンウタキ) 碑
    • 石獅子



旧小禄村 金城集落 (かなぐすく)

金城の由来は14世紀初頭の頃、島尻の島添大里按司の汪英紫長堂原の戦いで敗れ滅ぼされた大城グスク城主の大宗真武 (英祖王統四代 玉城王) の嫡子の真宗は母親の出身地の玉城村垣花に落ち延び、祖父の垣花按司に匿われ、さらに儀間金城の下田原へ逃れて落ち延びたと伝わる。山下町のがじゃんびら公園内にある住吉神社奥に真宗達が隠れていたと伝わる洞窟がある。金城の御嶽の南東側隣に屋敷があった国元 (クニムトゥ) の上江門中は大城按司の末裔とされている。(上江門中の墓からはそれを裏付ける様な黄金カンザシが発見されたそうだ)
金城集落は、1673年 (寛文12年 第二尚氏王朝第11代尚貞王) に、真和地志間切から小禄集落、儀間集落と共に分離し小禄間切の一部となった。1903年 (明治36年) には安次嶺に吸収合併されたが、戦後1951年 (昭和26年) には分離独立して字金城となる。
部落は西原・前原・金城原・伊武田原の四つの地域から成り、戦前までは殆どの家は砂糖キビを中心に農業を行なっていた。戦後は金城地区全土が米軍用地となり、住処を追われた住民は宇栄原、高良、田原へと転々と他部落に避難民として収容され、居住を強制され不自由な暮らしであったが、同じく土地を接収された他の四つの字と共同で新部落を建設し、そこに大部分が移り住んだ。他地域に移った金城住民も、郷友会型自治会の「かりゆし会」に加入している。村や門中の繋がりの強さが表れている。
1980~84年にかけては米軍用地が順次返還されている。
  • 1945年 (昭和20年) : 米軍により強制接収
  • 1965年 (昭和40年) : 48千㎡が返還 (接収されてから20年後)
  • 1973年 (昭和48年) ~ 1975年 (昭和50年) : 31千㎡が返還
  • 1976年 (昭和51年) : 197千㎡が返還
  • 1977年 (昭和52年) : 165千㎡が返還
  • 1978年 (昭和53年) ~ 1981年 (56年) : 955千㎡が返還
  • 1982年 (昭和57年) : 2,278千㎡が返還
  • 1983年 (昭和58年) ~1986年 (昭和61年) : 113千㎡が返還完了 (接収されてから41年後)
返還された土地は小禄金城土地区画整理事業として計画立案され、1983年 (昭和58年) に着手し、順次区画整理が行われ、24年かけて2007年 (平成19年) に完了し、新しい街が誕生した。総事業費は166億年にのぼった。対象となった字は金城の全域、赤嶺、田原、安次嶺の一部で、この字金城は幸運にも全地域が返還され開発された。

金城地区の中心地にはゆいレールの小禄駅があり、駅前にはイオン那覇店 (前 ジャスコ) 、331号線沿いには、多くの商店が店を構えて便利な街になっている。区画整理地区内には小学校、中学校、高校があり、公園も4つもある。金城地区のほどんどは戸建て用住宅地ではあるが、多くのマンションが建っている。小禄駅の東側 (田原地区) には小禄市営住宅 (670戸 写真下)、赤嶺地区には県営赤嶺市街地住宅 (280戸) が建っている。那覇市でも人気エリアとなっている。

明治時代の金城には360人しか住んでおらず小禄村の中でも少ない字だった。グラフでもわかる通り、米軍に接収されていた期間は人口はゼロで、土地が返還され、小禄金城土地区画整理事業が進むにつれ、人口は激増している。2007年 (平成19年) に事業が完了した後も世帯数は増加を続けているが、人口は少子化の影響で微増から横ばいに変化している。


週刊レキオ 小禄金城お散歩マップがあったが、この地域には御嶽以外の文化財は残っていない。


金城・安次嶺集落訪問ログ


金城では戦前にあった御嶽、殿、井戸拝所を一か所に集め共同拝所となっており、かつての所在地には無い。訪問地は金城の御嶽だけになる。


金城会館

公園の東には字金城の自治会館にあたる金城会館が置かれている。新しい街に造られている。建物自体は近代的なのだが、やはり赤瓦で、敷地は石垣で囲まれている。

金城公園

1980~84年にかけて返還された土地は順次区画整理が行われ、その過程でこの金城公園が1990年に造られている。公園には幾つもの赤瓦の東屋、琉球石灰岩を使った石垣や石畳みなど、沖縄ならではの雰囲気が漂っている。


金城御嶽 (カナグスクウタキ)

沖縄戦後、金城御嶽を含めた場所はアメリカ軍に接収された。金城住民は御嶽の森が望める場所にウトゥーシ (お通し、遙拝所) を造り、御願していた。1980~84年にかけて接収された土地が字金城は全域が返還され、1990年には御嶽があった場所に小禄金城公園を造り、園内に御嶽を戻している。金城御嶽はアツメナノ御イベを祀り、儀間ノロにより神事が行われていた。公園の階段を御嶽を目指して登ると途中に拝所がある。何を祀っているのかは分からず。火の神だろうか?
坂道を登り切った所に新しくつくられた立派な祠がある。これが金城御嶽だ。
祠の前には六つの香炉が置かれている。左側から、小さな祠があり、多分火の神と思う。 隣には東赤嶺小屋敷 (アガリアカンミグヮーヤシキ) のアジシー、ついで井の神があり、集落内にあった全ての井戸の共同拝所だろう、大屋加那志 (ウフヤカナシー)、高良の裏山アジシー、赤嶺山アジシーとなっている。アジシーが多く祖先を祀っている。
祠の奥に通じる道があり、そこが金城御嶽のアツメナノ御イベが祀られている場所だ。そこには円筒形の井戸の形式保存されたものも置かれていたので、威部と合わせて、グサイカーも祀られているのだろうか?

ともかぜ振興会館

金城公園の西にともかぜ振興会館がある。これは金城集落関係ではなく、大嶺集落に関わる施設。2020年にオープンしたので、新しい。何故ここに大嶺集落の施設があるのか興味が湧いた。平成14年策定の沖縄振興計画にある「旧軍飛行場用地問題」の解決を目的として、特定地域特別振興事業補助金を活用して建設された。 昭和18年から19年にかけて、旧日本軍により那覇飛行場用地として接収され、その後、米軍基地、そして自衛隊基地となり、遂に返還が叶わなかった旧大嶺集落の歴史や伝統、文化などを次世代へ継承し平和を発信する目的も担っているそうなので、大嶺集落について色々と聞けるのではと思う。旧大嶺集落の拝所の幾つかが、自衛隊基地内にあり、見学できるそうなので、緊急事態宣言解除後に日を改めて基地内とここを訪問する予定。

この後、赤嶺地域も訪れたのだが、少し見落とした所があるので、後日再訪する。赤嶺地域についてのレポートはその訪問時とする。



この後、赤嶺御嶽を訪問 (レポートは別途) し、更にすぐ隣にある安次嶺御嶽を見学した。


旧小禄村 安次嶺集落 (あしみね、アシンミ)

安次嶺村の村立てについてははっきりとは分からないのだが、言い伝えでは、安次嶺へ最初にきた人は、根屋という人と安里という人であったとされている。それに内間という人が加わって、安次嶺の村立てをしたと云われている。また、第二尚氏初代王 尚円が王位につかない前、金丸と呼ばれていた時に西原村内間の屋号糸数の娘との間に産れた子が、後に知念村字知名の知名親雲上となり、その子が具志堅親雲上となり、更にその子の具志清牛 (当時の知念按司) が、年老いてから安次嶺村にやって来て、瀬長接司の娘を妻に迎え、二人の間に六男として生まれた子が安次嶺の祖だとも伝わっている。

安次嶺は肥沃な土地で、戦前までは全家庭が農業を中心として生活していた。キャベツと人参はここの特産品で大量に那覇の市場で売られ、本土にも出荷していた。

安次嶺集落は1903年 (明治36年) に、その北側地域の一部を新しくつくられた字の鏡水に移し、金城と赤嶺が安次嶺に合流となる。これが、1956年 (昭和26年) まで続き、合流していた赤嶺と金城が再び独立行政区となった。

戦後は、字全域が米軍用地として接収された事で、住民は宇栄原を中心として芋を作って生活をしていたが、新部落が出来きた後は、殆どの人がそこへ移り住んだ。米軍用地が順次返還されたが、安次嶺の地域で返還されたのはかつての集落の西側の僅かな土地だけだった。返還された土地の中には安次嶺御嶽のあった上ノ毛が含まれ、御嶽をこの地に戻している。かつての集落の地域は今なお自衛隊基地のままで、新部落での生活が続き、自治会館も新部落にある。

安次嶺集落は明治時代でも人口700人を超え、戦前の昭和36年には約1600人で倍に増え、旧小禄村の中では中堅の字だった。戦後は、米軍用地に接収されたため、この字安次嶺には住民はゼロだった。人口は用地一部が返還され、小禄金城土地区画整理事業により住宅、商業地域にはなったが、事業対象地域が限定されているため、現在は300人程が暮らすのみだ。

人口データでグラフを作ってはみたが、不可解な人口推移で、その背景については書かれているものは見当たらなかった。1976年から1980年にかけて20人程が住民登録されている。そのほとんどが単身者なので、小禄金城土地区画整理事業関係者ではないかと思われる。事業が完了した後、1992年以降、住民数が増えている。2001年まで増加は続き約700人程まで増えてはいるのだが、2002年には200人に一気に減っている。この背景も分からなかった。行政区の変更か、那覇市のデータのミスか、不可解な動きだ。


安次嶺御嶽

赤嶺御嶽のある赤嶺緑地の中の遊歩道を北に進んだ所に安次嶺嶽がある。神名をアウキラノ御イベといい、赤嶺ノロによって神事が行われていた。戦前までは集落の南の端にあった上ヌ毛の丘 (赤嶺緑地) の上にあった。沖縄戦後、字安次嶺全域が米軍用地に接収され、住民達は宇栄原、高良ですみ始め、同じ様に村を接収された他の四字と共同で新部落を建設し、そこに住まいを移した。集落の聖域であった安次嶺御嶽やその他集落内にあった拝所も、1952年に宇栄原に移設し拝んでいた。その時の拝所の写真が残っている。

安次嶺ヌ御嶽は米軍によって一度壊されかけたが、ブルドーザーが横転し、 作業員が怪我をしたり、 腹痛を起こしたりした為、工事がストップしたと言う話が伝わっている。1980年 (昭和55年) にこの安次嶺御嶽の場所が返還された際には、昔の形を保っていたという。 1983年から始まった小禄金城地区土地区画整理事業では 御嶽のある上ヌ毛を削り平地として宅地に変える計画になっていた。これには元住民から反対運動が起こり、要望書を提出して、上ヌ毛の消失が免れた。御嶽の聖域については、色々な考え方がある。御嶽は常には神はおらず、祭祀の際にイベを目印に降臨するというものや、御嶽自体は神の宿る場所で、立ち入りが禁じられ、木の伐採なども禁じられていた。その集落民以外の役所の人達は、移設については簡単に考えているのだが、ある集落にとっては大事件なのだ。
要望書が認められた結果、安次嶺ヌ御嶽は元あった上ヌ毛に戻ることになる。1997年 (平成9年) に、祠などは新しく建てられたが、それぞれの拝所の並びなどは、昔とほぼ同じようになっている。

安次嶺ヌ御嶽は新しい立派な祠が建てられ、二つの御嶽火の神が祀られている。御神体であるはずの威部のアウキラノ御イベがどれに相当するのかは書かれていなかった。


安次嶺之殿 (アシミネヌトゥン)

祠の前は広場になっており、北の反対側には安次嶺之殿の拝所がある。以前あった御嶽の間取り図にはこの殿は見当たらなかったので、新たにここに祀っているのかもしれない。


土帝君 (トゥーティークン)

安次嶺之殿の隣には土帝君 (トゥーティークン) が置かれている。写真右はここに移設する前の新部落の自治会館にあった時のもの。


按司御墓 (アジウハカ)、美奇御泉 (ビズンウカー)、雨乞之御嶽 (アマグイヌウタキ)

安次嶺ヌ御嶽之向かって右側の数々の拝所が並んでいる。左側から按司御墓 (アジウハカ)、美奇御泉 (ビズンウカー)、雨乞之御嶽 (アマグイヌウタキ) が置かれている。以前の按司御墓 (アジウハカ) は二つの御嶽火の神の間にあり、主役の様だったが、今回は脇役となっている。


按司御墓 (アジウハカ)

その右側には三つの按司墓がある。これも以前と同じだ。三つともただ按司墓とだけ書かれている。多分、誰のものかはっきりとははしないが、村にとって敬うべき祖先と伝えられていたのだろう。


産御泉 (ウブガー)、知念御泉 (チニンウカー)、産御泉 (ウブガー)、ミテンサンテン

その隣には三つの井戸の拝所とミテンサンテンという拝所がある。最後のミテンサンテンは何なのかは調べられなかった。


安次嶺金満御嶽 (アシミネカニマンウタキ) 碑

その隣に安次嶺金満御嶽と書かれた石が置かれている。1951年 (昭和26年) 7月11日創立とあるので創立記念碑のようにも思える。1951年 (昭和26年) は既に米軍用地となっており、住民は宇栄原や高良に移っていたころで、まだ新部落は存在していない時期。どこで、何がありこれが造られたのかに興味が沸いた。この期間は混乱期で何があったのだろう?香炉などは置かれていないので、これが拝所とは思えないのだが、安次嶺金満御嶽は安次嶺之御嶽の事なのか、別の御嶽なのか、部外者にとっては少々混乱する。


石獅子

安次嶺之御嶽之前の広場の脇に石獅子が置かれている。もともとも御嶽内に置かれていたそうだ。旧小禄村を巡ってきたが、初めての石獅子。もともと旧小禄村には石獅子はあまりなかったのだろうか?それとも戦争で消失してしまい、かろうじてこの石獅子のみが残ったのだろうか?隣の豊見城市や糸満市の多くの集落で石獅子を目にしたので、この旧小禄村ではこれ一体だけとは、ちょっと解せない。この石獅子の特徴は、後ろから見たときに長い尻尾があることだ。尻尾のある石獅子は珍しい。


小禄金城土地区画整理事業により復活した金城、赤嶺、安次嶺と三つの地域を巡ったが、それぞれが返還された割合も異なり、その事情で新しい村造りには違いがある。沖縄ではまだ戦後が続いている様に思える。


参考文献

  • 小禄村誌 (1992年 小禄村誌発刊委員会)
  • 小禄金城土地区画整理事業概要書 (1984 那覇市建設部区画整理課)
  • 週刊レキオ 小禄金城お散歩マップ

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