Okinawa 沖縄 #2 Day 249 (14/08/23) 旧首里西原村 (3) Ishimine Area 首里石嶺町 (1)

旧首里西原村 首里石嶺町 (イシンミ、いしみね)

  • 立川原 (タチジャーバル)
  • 城東小学校
  • 立川井戸 (タチジャーガー)
  • 渡嘉敷山 (トゥカシチヤマ)、140高地
  • アジガキ
  • Dick Left、Dick Center、Dick Right (150高地)、DickAble、Dick Baker
  • 赤森 (アカムイ)
  • 146高地、石嶺団地
  • 大石原
  • 米軍のクルンボー部隊跡、沖縄県総合福祉センター
  • 養老院孤児院、厚生園、石嶺児童園
  • 石嶺小学校
  • ユブシが丘トンネル
  • 福木山 (フクジヤマ)
  • 石嶺飛行場造成予定地跡 (旧日本陸軍秘密飛行場)
  • ハブー道
  • 一つ墓 (ティーチバカ)
  • トーモー、トーモーグムイ
  • 城北小学校 (首里第三小学校)
  • 西ヌ井戸 (イリヌカー)
  • 石嶺ヌ井 (イシンミヌカー) (消滅)


4月と7月に東京、埼玉県蓮田市、香川県小豆島を旅行した際の訪問記がやっと編集が終わった。夏場は暑く、毎年熱中症の軽い症状が出ている。7月に訪れた東京ではやはり熱中症の症状が出たので、今年の夏は暑さがおさまるまでは資料に目を通す事に集中しようと思っていたのだが、近場ならば大丈夫だろうと、沖縄の集落巡りを今日から再開する。今日は徒歩にて首里石嶺町を巡る。


旧首里西原村 首里石嶺町 (イシンミ、いしみね)

首里石嶺町は首里台地、弁ヶ岳 (ビンヌタキ) の北方の台地に位置している。 琉球国旧記によれば、石嶺は薩摩の琉球侵略後の慶長検地 (1611年~13年) の頃までは儀保 (ジーブ) 村と呼ばれていた。蔡温の元文検地以降に石嶺村と呼ばれるようになった。石嶺は、石嶺後原から浦添に続く石の尾根を指す石棟 (イシンニ) から、石嶺 (イシンミ) に変化した地名が由来と推測されている。

明治の中頃から職を失った旧首里士族が石嶺で畑を小作する人が増え始めた。明治時代の地図を見ても、民家は石嶺全土に散在しており、屋取集落の特徴を表している。この民家分布状態は戦前迄殆ど変わっていない。石嶺は1908年 (明治41年) に西原村の一字となったが、同年に区域整理が行われ、石嶺村の字久場川、前原、江志良次、弁ヶ岳各一部が首里区に編入された。これが石嶺の首里区への第一次編入で、第二次編入は1920年 (大正9年) に行われ、残りの部分も首里区に編入され、 首里市の字になっている。 沖縄戦の直前の1944年 (昭和19年) 頃から、東部の大石原の丘陵から浦添村前田にかけて日本軍の陣地が構築され、沖縄戦では大激戦地になり、多数の死傷者が出ている。1956年 (昭和31年) に首里石嶺町と名称を変更。現在では2003年 (平成15年) に開通したゆいレールが2019年 (平成31年) には首里駅から石嶺駅、てだこ浦西駅まで延長開業され、住宅、商業地、福祉施設があり賑わっている。

石嶺人口は上の民家分布図でも判るように明治時代は首里士族の屋取集落が点在していた。首里に近い事もあり、当時は1200人程で、首里区の中では決して少ない字では無かった。戦後1960年代後半から人口は増え始め、本土復帰前には既に首里区では最も人口の多い字になっていた。その後も住宅建設が続き、現在では首里区全体人口の36%も占める字となっている。

首里石嶺町 訪問ログ



立川原 (タチジャーバル)

首里駅から沖縄県道29号那覇北中城線を北東に中城村方面に進むと下り坂になる。この辺りは琉球王国時代は西原間切石嶺村の立川原と呼ばれた場所だった。城東小学校正門道向いに立川 (タチジャー) があった事から立川原 (タチジャーバル) と呼ばれている。

城東小学校

城東小学校は石嶺の人口が急増し城北小学校の過密校解消のために1971年 (昭和46年) に分離独立した小学校になる。


立川井戸 (タチジャーガー)

城東小学校の向かいには立川井戸が残っている。県道29号線が拡張されて、かつての様子と随分と変わってしまったのだが、昔は東側にはニービの小さな崖があって、崖の中ほどから一条の泉が瀧のように流れ落ちていたそうだ。この小さな崖壁泉が立川 (タチジャー) の由来で、立ったまま水が飲めたから立川と呼ばれたとか、瀧川が立川と変化したとも推測されている。
立川の瀧があった崖上には沖縄戦では日本軍陣地が置かれていた。米軍はHenと呼んでいた。

渡嘉敷山 (トゥカシチヤマ)、140高地

城東小学校から県道29号線を進むと石嶺二丁目交差点に出る。この北側に市営住宅の配水塔のある。この場所は渡嘉敷山 (トゥカシチヤマ) と呼ばれた。渡嘉敷という個人の持ち山だったと伝わっている。沖縄線では日本軍陣地が置かれ、140高地 (Flattop) と呼ばれ激戦地だった。石嶺高地の戦いについては後述する。

アジガキ

石嶺町四丁目の北端から西原町の幸地へ下る里道の一帯はアジガキと呼ばれていた。按司が腰をかけたことに由来するとの伝承もあるそうだ。この一帯はクチャ (第三紀層泥灰岩) の崖で、絶えず崩れ落ちていた。この事からアジ (潰れ、崩れ) ガキ (崖) と呼ばれたとの説のあり、こちらの方が信憑性が高い。また、別の説では、ここには王府時代向姓伊江家が開墾させた仕明地があり、按司地頭に収益の一定部分を役得として納付する按司掛の制度からアジガキとなったともいう。

Dick Left、Dick Center、Dick Right (150高地)、DickAble、Dick Baker

140高地の東側、県道29号線を挟んだ場所はいくつもの小山や丘がある。この地域を利用して沖縄戦では幾つもの日本軍陣地が置かれ首里の防衛線が築かれていた。Henの北から、県道155号線沿いに、Dick Left、Dick Center (写真上)、Dick Right (150高地 写真下)、
県道29号線沿いにはDickAble (写真中)、Dick Baker (写真下) と米軍から呼ばれていた。

赤森 (アカムイ)

150高地 (Dick Right)、Dick Centerと呼ばれた旧日本軍陣地が置かれた周辺は赤森 (アカムイ) と呼ばれた地域だった。赤い地肌のニービの丘だったが、現在は住宅地になっている。

146高地、石嶺団地

渡嘉敷山 (140高地) の先にも沖縄戦での日本軍陣地の146高地が見える。現在は跡地の一部には石嶺団地となっている。

大石原

146高地の東側は大石原 (ウフシバル) という地域で、1920年 (大正9年) まで石嶺村字大石だった。巨大な黒岩があったことから大石と呼ばれたそうだ。

米軍のクルンボー部隊跡、沖縄県総合福祉センター

大石原には、終戦直後、米国のクルンボー (黒人) 部隊が1947年頃まで駐屯していた。その後、1948年には蒋介石の中国国民党軍が、沖縄戦での重火器や物資調達のため駐留し、朝鮮戦争時の1950年頃にはフィリピン兵が駐留し、その都度、一帯の呼び方がクルンボー部隊、チャイナ部隊、フィリピン部隊と変わっていった。 クルンボー兵駐留時は、地域の婦女子から恐れられ、夜の出歩きはしないように厳重に注意されていた。米軍部隊駐留で地域住民には事件事故などの治安悪化への不安もあり、風紀粛正が求められた。

養老院孤児院、厚生園、石嶺児童園

米軍のクルンボー部隊跡 (沖縄県総合福祉センター) の北側には、沖縄戦終結後、戦争孤児や老人を保護したコンセット収容所が米軍により造られ養老院孤児院となっていた。その後、老人は首里厚生園へ、子どもは石嶺児童園へ分離収容された。子供達は石嶺町の城北小学校、汀良町の間得大君御殿跡の首里中学校などへ通学していた。この辺りは福祉村と呼ばれ、現在も老人福祉施設首里厚生園 (写真上/中) や石嶺児童園 (写真下)、福祉センター (前述) が置かれている。

石嶺小学校

沖縄県総合福祉センターの道路を挟んだ所には城北小学校が超過密校となり、1979年 (昭和54年) に分離独立した石嶺小学校が建てられている。戦前迄は津嘉山という個人の経営する津嘉山砂糖屋 (ツカジャンサーターヤー) ががあったという。

ユブシが丘トンネル

道を進むとユブシが丘トンネルになる。ここは首里石嶺町と浦添市前田との境界にあたり、2020年3月に開通している。

福木山 (フクジヤマ)

ユブシが丘トンネル手前の県道241号線を南に進むとゆいレールに交差する石嶺交差点に出る。この交差点からゆいレールの経塚駅へは福木山の切り通しの首里2号線 (市道鳥堀石嶺線) の上を走っている。
福木山は尚灝・尚育代の御典医だった渡嘉敷 (トゥカシチ) の持ち山だったことから、渡嘉敷(トゥカシチヤマ) とも呼ばれた。この山には見事な福木が密生していたのだが、沖縄戦の壕の枕木として伐採されてしまった。 戦前はユーリードゥクル (幽霊の出る所) として恐れられ、夕暮れからは誰も通ることもなかったそうだ。

石嶺飛行場造成予定地跡 (旧日本陸軍秘密飛行場)

石嶺交差点からゆいレールが走る首里2号線 (市道鳥堀石嶺線) を少し南に進んだ所は1944年夏頃から日本陸軍により小型特攻機用の発進基地として建設が始まったが沖縄戦に突入し未完のまま沖縄戦を迎えた石嶺飛行場造成予定地だった。陸軍首里秘密飛行場とも呼ばれていた。米軍が撮影した空中写真では石嶺にはほとんど滑走路らしきものを確認す出来ず、石嶺飛行場が米軍が使用した記録もない事から、工事は初期段階で止まっていたと思われる。戦後は、予定地跡地は米軍により接収されたが、住民が所有権を申請し返還されている。今では一面住宅地になっており、当時の面影は残っていない。

首里石嶺町に置かれた旧日本軍の陣地を辿ったので、ここで沖縄戦での石嶺での戦いをまとめてみる。

4月1日に北谷海岸に上陸した米軍は日本陸軍本営が置かれている首里城を目指し南下、北上原の161.8高地南上原・和宇慶142高地我如古・西原高地嘉数高地伊祖高地城間宮城・仲西前田高地小波津、幸地を落とし、首里までは僅かな距離にまで進軍してきた。米軍の圧倒的な戦力差により日本軍各部隊の戦力は低下し、新たな陣地で米軍を迎え撃つ。石嶺高地一帯に布陣し、首里防衛を行った。この後に石嶺にて1945年5月11日から5月末まで激しい戦闘が行われている。


ハブー道

石嶺飛行場造成予定地跡から先程訪れた厚生園までの道は、戦前は幾つか曲がりくねった道で、ハブが這うのに似ていたことからハブー道と呼ばれていた。現在は住宅地になっており、どの道がそれだったのか、消滅してしまったのかは分からなかった。

一つ墓 (ティーチバカ)

首里2号線 (市道鳥堀石嶺線) の西側、石嶺飛行場造成予定地となっていた所には琉球王国時代には自了 (城間清豊 唐名 欽可聖1614 ~ 1644年) の墓があった。城間清豊は聾唖者だったが独学で画技を身につけ、国王尚豊から自了の雅号を下賜された。 琉球絵画史の偉人で、作画では李白観瀑図、白澤之図が有名。
この場所に1,000坪もあった自了だけの墓があった。墓は沖縄戦前の日本軍石嶺飛行場建設で壊され、恩納村の欽氏門中墓に移されている。現在では住宅地に変わっている。

トーモー、トーモーグムイ

一つ墓 (ティーチバカ) の西側はトーモーと呼ばれた場所で、小さな丘の頂上部が平坦であったことからトーモー (平らかな毛) と呼ばれた。トーモーの下には稍々広い淀がありトーモーグムイと呼ばれたが、現在ではコンクリートブロック擁壁の溝に変わり、昔の姿は失われている。

城北小学校 (首里第三小学校)

安謝川に沿って西に進み首里平良町と接する首里石嶺町の西の端に着く。ここには城北小学校が建っている。この小学校の前身は首里大名町にあった嶺吉尋常小学校 (現在の若夏学院の場所) として始まっている。1923年 (大正22年) に平良町、石嶺町、久場川町、大名町、末吉町、赤平町を校区とする首里第三尋常小学校と改称された。沖縄戦で沖縄戦で破壊され、戦後、その後継として1946年 (昭和21年) に沖縄師範学校体育館の残骸と米軍の艦砲爆撃の艦砲穴との間の隙間を利用して城北初等学校が創設された。創立当初は、米軍払下げの野戦用のテントに土間に机と椅子を置き、ベニヤ板を黒板代用にした教室だった。昭和22年に学校は現在のここ城北小学校に移転している。当時、首里石嶺町の児童はこの跡地が昭和29年に児童自立支援施設の沖縄県立実務学園となっている。

西の井戸 (イリヌカー)

城北小学校体育館の東に井戸がある。西の井戸 (イリヌカー) と呼ばれ、水質が良く、豆腐の製造にはこの井戸水を使用したという。

石嶺ヌ井 (イシンミヌカー) (消滅)

この城北小学校がある場所には現在は消滅してしまったのだが、城北小学校の校舎が整備される戦前までは石嶺ヌ井 (イシンミヌカー) が存在していた。カーヌナー (井戸の前庭) のある石積みの小さ井戸だった。昔はウシクマヌカー (内の隅にある井戸の意味と考えられている) と呼ばれていた。女官御双紙には「毎年稲の両御祭の日、早朝、首里大あむしられ、根神あむしられ相列、於崎山樋川、石嶺井の水取寄くわく候て、一同に手水をつかわれ、――」 とあるので、王府の祭祀用として使用されていたとも考えられている。


ようやく予定していたスポットの半分が終わった。この辺りが戦前迄は石嶺の中心地で、昔からの史跡はこの地に集中しているのだが、すでに4時を過ぎている。沖縄は本土に比べて気温はそれ程ではないのだが、今年は例年に比べて暑い。途中で何回か気分が悪くなり休憩を取ったのだが、脚もつり始めた。熱中症の症状だ。悪い事に足も挫いてしまい、今日はこれでギブアップ。これから、家までは6kmあるので、ゆっくりと休憩をとりながら、日も暮れた7:30に住まいにたどり着いた。挫いた足も痛みが増しているので、暫くは外出は控える事になるだろう。



参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
  • 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
  • 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
  • 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
  • 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)

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