Okinawa 沖縄 #2 Day 209 (07/09/22) 西原町 (11) Kohatsu Hamlet 小波津集落

西原町 小波津集落 (こはつ、クファチ)

  • 小波津川
  • 小波津集落センター、村屋 (ムラヤー)
  • 獅子屋 (シーシーヤー)
  • 村屋井 (ムラヤーガー)
  • 小波津 (クファチ) の根所 (ニードゥクル)、 (内原殿御願所 ウチマトゥンウガンジョ)
  • 後之嶽 (小波津巫火神)
  • ノロガー
  • 国元井 (クニムトゥガー)
  • 井戸跡
  • 馬場跡
  • 三本ガジュマル、酸素ボンベの鐘
  • 前ヌワリサターヤー跡
  • 下ヌ嶽 (シチャヌタキ)
  • 上ヌワリ、北ヌワリサーターヤー跡
  • 亭良佐井 (ティラサガー)
  • 県営西原団地
  • ユージガー
  • 印部土手石 (シルベドテイシ、原石 ハルイシ)
  • 上ヌ嶽 (イーヌタキ)
  • 中ヌ井 (ナカヌカー)
  • 外ヌ井 (フカヌカー)
  • 小波津慰霊碑
  • 龕屋跡 (戦後)
  • 龕屋跡 (戦前)、小波津児童公園
  • 小波津団地
  • 小波津陣地壕跡 [2020年6月2日 訪問]
  • 津記武多城 (チチンタグスク)
  • 先尚円長子嘉手苅按司前の墓
  • 津記武多按司墓 (タンパラ按司墓)
  • 津記武多井 (チチンタガー)

西原町 小波津集落 (こはつ、クファチ)

小波津 (クファチ) は、西原町のやや中央部、中城湾に注ぐ小波津川の中流域に位置し、北東側は呉屋に、北側は翁長に、西側は池田に、南側は安室に隣接している。小波津部落の起源はグスク時代にあり、17世紀中頃は古波津と表記されていた。小波津の地名由来については、クファ土 (固土) のチ (地) の意味で固い土に立地する集落からという説がある。古くは古波津と記されていた。小波津村の世立初は「玉城仲村渠村より来る古波津大主、在所は呉屋」とあり、地組始は「金満按司の四男喜屋武按司」と史書にある。
小波津は西原町内でも古代マキョ時代やグスク時代からの歴史ある集落で、西原平野を前面に控え、豊かな農村だった。言伝によると、小波津部落の創始者は小波津間 (クファチマー) だといわれ、小波津爾也 (クファチマー) が天女と夫婦になるという羽衣伝説が球陽や琉球国由来記に見られる。羽衣伝説は我謝の前川原の烏帽子井 (ユブシガー、エボシガー) に伝わるのだが、この地域は小波津間原 (クファチマーバル) とも呼ばれ、小波津との関係が窺える。地元の伝承では、小波津間が天女と別れたのち、後妻として与那原村の平良家の娘を迎え入れたといわれたが、子どもがいなかったので、越来間切の楊姓山内系統から跡継の養子を求めた。その末裔が内原門中だといわれる。
小波津集落は肥沃で広大な農耕地を有し稲作が盛んで、多くの豪農が輩出されている。首里王府が財政難の際h、江戸に慶賀使を派遣する費用の一部をこの地の豪農から献金や借金に頼ったとある。呉屋筑登之親雲上は、貧民などを援助した功績や、1790年の江戸上りに際し、銅銭一万貫文を貸付け、首里王府より爵位を賜った。また、前地頭代卦福親雲上は私費でもって幸地村の農耕地整備につとめ、首里王府からその功績で中布二反と爵位を賜ったという。ただ豪農の出現は、同時に農民の階層分化が一段と進み、貧農も増加していった。

廃藩置県後の1888年 (明治21年) には甘蔗作付制限が解除さ れ、稲作から甘蔗作への転換 (俗にタードーシという) が計られ、稲作は激減し甘蔗が主生産品に変わっていった。1903年 (明治36年) の小波津村の土地の 83% が畑、11% が宅地、3% が原野で、稲作の田は僅か1.5% になっていた。


廃藩置県後の1880年 (明治13年) の小波津人口は793人 (147戸) で、西原間切の中では人口の比較的多いグループだった。 現在まで西原町に属している字では三番目だ。沖縄戦直前にはなぜか、明治時代よりも人口は減少して、西原村では人口は真ん中ぐらいに後退している。戦後一時期は持ち直したが、それ以降は伸び悩み、減少に転じ、現在では5番目に人口が多い字となっている。

ここ10年の人口データが西原町のホームページに掲載されている。それによれば人口は毎年僅かながら減少しており、その傾向は現在でも続いている。


琉球国由来記に記載されている小波津の拝所と村の拝井泉は、(太字は訪問した拝所)
  • 御嶽: 上之嶽 (神名: マネノセヂダカシヤカノ御イベ)、下之嶽 (神名: イチニヤハノ御イベ)
  • 殿:なし
  • 拝所: 小波津巫火神小波津根所
  • 拝井泉: 新井、中ヌ井外ヌ井ユージガー、上月井、村屋井など
新井と上月井は情報がなく、現存しているのか分からない。
昔は、毎年旧6月15日のウマチー綱と旧6月25日のウハチ綱の二回行われた。単に、綱引といえば旧六月二十五日 に行われるウハチ綱を指す。綱引の数日前になると、ニシ (北) は三本ガジュマルのところでウージナ (雄綱) を作り、 ミージマ (新島) は字公民館前広場でミージナ (雌綱) を作った。 夕方には、それぞれの綱にシタク (支度) を乗せ、三本ガジュマルの所のンマイー (馬場) まで綱を担ぎ行進した。綱引に先立ち、士気高揚のためハジリという棒術が披露された。旧7月にはエイサーが行われ、十五日の晩には青年らがエイサー歌を謡いながら各戸を回った。旧8月にはアシビという部落あげての豊年祝いが行わ れた。ムラシバイ (村芝居)ともいわれ、ニンセー踊、女踊、雑踊、組踊、狂言、獅子舞などが演じられていた。面白いのはそれぞれの出演者が年代で分けられている。子供組 (7~13歳)、棒術組 (14~24歳)、狂言組 (20~30歳)、獅子舞組 (30~34歳)、雑踊組 (35~40歳)、組踊組 (20~40歳) などに分かれ、2~3ヵ月前から練習に励んだそうだ。まさに村総出の祭だった。村アシビには莫大な費用を費やしたので、明治期末ごろから七年マール (毎)で挙行さ れるように変わった。

小波津で以前どのような祭祀が行われていたのか、現在はどの祭祀が受け継がれているのかは見当たらなかったが、琉球王統時代は、津記武多按司の配下にあった呉屋、津花波、小波津の三村を小波津ノロが祭祀も司っていた。


小波津集落訪問ログ



小波津川

与那城から小波津川沿いを走り、小波津集落に向かう。上流にある小波津集落へは川幅は広くないのだが中城湾に向かっての下流は随分と川幅が広がり、東崎マリンタウン付近で海に流れてこんでいる。西原町役場あたりでは、魚がうじゃうじゃ泳いでいた。

小波津集落センター (村屋 ムラヤー)

小波津集落に入ったすぐの所に小波津集落センターがあり、かつての村屋 (ムラヤー) はこの西側にあった。1983年 (昭和58年) に、現在の場所に小波津集落センターに建て替えられている。この小波津集落センターの広場はアシビナーで、火ヌ神とともに獅子が保存されている。小波津では6年おきの卯年と酉年に催される伝統行事 「七年まーる村遊び」があったが、長い間実施されていなかったが、2005年 (平成17年) に30年ぶりの復活し、棒術や獅子舞、組踊などが披露されている。


獅子屋 (シーシーヤー)

小波津集落センターの前の遊び庭 (アシビナー) だった広場の一角にコンクリート造りの獅子屋があり、そこに毎年8月の十五夜に行なわれる獅子舞用の獅子が保管されている。ガラス越しに獅子舞が見れるのは、うれしい。獅子屋には向かって左側に香炉が二つ、右側には火ヌ神の三つの石、入り口左側の棚にも香炉が置かれていた。この獅子屋の一帯は、集落の発祥の地で、背後 (西側) の丘陵頂部には腰当 (クサティ、聖域) の上嶽、東方にはノロ殿内などがある。


村屋井 (ムラヤーガー)

獅子屋 (シーシーヤー) と公民館の間には井戸跡があり、香炉替わりのブロックが芽に置かれている。資料にはこの井戸の紹介はされていないのだが、村の拝井泉として村屋井 (ムラヤーガー) の名が載っていた。かつての村屋にあるので、この井戸がそうだろう。


小波津 (クファチ) の根所 (ニードゥクル)、 (内原殿御願所 ウチマトゥンウガンジョ)

村屋跡の東側には石垣で囲まれた空き地がある。その中に立派な神屋が置かれている。ここは屋敷跡だったのだろう。内原殿御願所と書かれている。ここは集落の始祖といわれている小波津爾也 (クファチマー) という人が祀られており、位牌が置かれている。内原門中 (ウーチバラ、 小波津姓) 宗家の屋敷跡で、根所 (ニードゥクル、元屋) にあたる。内原ヌ殿 (ウーチバラヌトゥン) とも呼ばれている。 琉球国由来記に、稲二祭 (五月の稲穂祭と六月の稲大祭) のとき、小波津、呉屋、津花波の三つの村を管轄していた小波津ノロによって祭祀が執り行われたとある。 供物は小波津地頭と小波津村百姓らが負担した。

小波津部落の創始者は先に訪れた烏帽子井 (ユブシガー) 伝説にまつわる小波津爾也・小波津間 (クファチマー) といわれる。今から520年も前の人物で、第一尚氏第六代尚泰久王 (1415 - 1460年) の王女と夫婦となり子をもうけたという。その子孫が内原門中と伝わっている。一説によると、小波津爾也 (クファチマー) には子がなかったので、 越来の山内家から養子を迎え入れた。何代かのちに、宗家の娘と首里から村役人として派遣された呉我親雲上との間に生まれた子が小波津筑登之親雲上だといわれる。内原家の門中は西原町小波津を発祥の地として、 南部は南風原町津嘉山、那覇市、中部は浦添市安波茶、宜野湾市嘉数、北部は名護市屋我地、羽地、外国は南米ブラ ジル、アルゼンチン、ペルーやハワイなどのそれぞれの土地で繁盛している。


後之嶽 (小波津巫火神)

内間殿御願所の隣も空き地で、ここにはコンクリート造りの祠が建てられている。中には石が三つ置かれた拝所がある。琉球国由来記にある小波津巫火神と思われ、毎年旧3月と8月にはそこで四度御物参の祈願が行われ、旧5月の稲穂祭にも、小波津ノロによって祭祀が執り行われ、 祭祀の供物として米や酒などが小波津村地頭や呉屋村地頭をはじめ津花波大屋子、津花波村百姓、呉屋村百姓中などから供出されたとある。祠には後之嶽 (クシヌタキ) と書かれているが、琉球国由来記には小波津の御嶽として、この後之嶽 (クシヌタキ) は見当たらない。地元では小波津巫火神後之嶽と呼ぶようになったのだろう。御嶽、殿、拝所は元々は異なる性格の拝所なのだが、時代と共にその区別は曖昧になり、村を守ってくれる拝所を御嶽と呼ぶことが往々にしてある。


ノロガー

小波津巫火神 (後之嶽) の側に井壁を野面積みで積まれた長方形の堀込み井戸のノロガーがある。水はなく渇れているとあるが、水が溜まっていた。台風の雨水嘉?ノロガーはウマチーの際に御願が行なわれている。今日訪れたときには草が生えて井戸跡が少し見にくいので、二年前に訪れた際の写真も含めた。


国元井 (クニムトゥガー)

ノロガーのある道を丘陵方面に少し行ったところ、まだ敷地内だが、国元井 (クニムトゥガー) がある。国元 (クニムトゥ) は集落の村立ての内原門中 (ウーチバラ) の事なので、ここも内原門中の屋敷地だったのだろう。


井戸跡

小波津巫火神 (後之嶽) の祠の横に草で覆われてはいるが、コンクリートの道があった。その先は草で覆われ、何も見えない。ただ道があるので拝所があるだろうと思い、持参している鎌で草を刈ったところ、拝所が顔を出した。後で調べると「小波津殿敷地内には名称不明の円形の石積みの井戸跡がある。ノロガーと共にウマチーの際に御願が行なわれている。」と資料にあった。掲載されている写真も石積みの形が同じだった。この井戸はウマチーの際にノロガ-と共に一緒に御願されている。

殿の奥は広場になっている。老人会用のミニゴルフ場になっていた。その中にもう一つ拝所がある。情報は無い。多分、井戸だったのではと思う。


馬場跡

獅子屋の東側には少し幅の広い一直線の村道がある。かつての馬場だ。毎年行われる綱引もここで挙行される。


三本ガジュマル、酸素ボンベの鐘

かつての馬場跡の北の端には小さな公園があり、三本のガジュマルが植わっている。ここに戦後連絡用に使われた酸素ボンベの鐘が残っている。

三本ガジュマルの道路には変わった形の石敢當があり、その向かいの空き地にも神屋が置かれていた。広い敷地なので、小波津集落の有力門中の屋敷跡かもしれない。小波津には六つの主な門中がある。先ほど訪れた内原門中 (ウーチバラ) とノロ殿内門中 (ヌンドゥンチ) の他、津記武多按司の後裔と伝わる上月門中 (イングッチ、与那嶺、糸数、呉屋姓)、幸地の仲門門中からの分かれの井ヌ前門中 (カーヌメ、呉屋姓)、隣の呉屋部落の井ヌ端門中 (カーヌハタ) からの分かれ西門門中 (イリジョー、呉屋姓)、そして小波津部落でも一、二を争うほ どの古い門中だといわれる新屋門中 (ニーヤ、呉屋姓) がある。


前ヌワリサターヤー跡

馬場跡の南側にはかつては前ヌワリサターヤーがあったという。ワリは「割」でつまり分けられた組の意味。戦前、小波津には組ごとに五つの砂糖屋 (サーターヤー) があり、ここには二つのサーターヤーが置かれていた。一部の農家は甘蔗の一部を製糖工場に売却していたが、大部分は自家製糖をしていた。沖縄戦ではサーターヤーなどの製糖施設は壊滅状態で、戦後は、2ヶ所のサーターヤーでの自家製造は行われたが、多くの農家は生産した甘蔗のすべてを大型製糖工場に売却するようになったそうだ。集落を調べる際にはこのサーターヤーの場所を確認する。サーターヤーは集落と畑の境にある場合が多く、集落内にあるところは少ない。この場所を確認すれば、大まかな以前の集落の広さが見えてくる。この馬場が集落の前道 (メーミチ) に相当していたと思われ、これより南側は畑だったことが判る。


下ヌ嶽 (シチャヌタキ)

国元井 (クニムトゥガー) から急な坂道を登った所に下ヌ嶽 (シチャヌタキ)がある。この辺りではグスク系土器が若干採集されていので、その時代から集落があった事が判る。

琉球国由来記にある二つの御嶽の内の一つで、神名はイチニヤハノ御イベ。この場所は小波津集落も北側になり、かつてはここにも古代集落があったといわれる。上月門中 (イングッチ) の宗家はその下にある。。御嶽はコンクリート造りの祠に改修されて、中には石製の香炉が3基安置されている。

祠の左後方にも、香炉が三基置かれた拝所がある。

祠の右側から後方に延びる参道があり、その先、丘の端には香炉が一基置かれた拝所があった。遙拝所ではないだろうか?

 

上ヌワリ、北ヌワリサーターヤー跡

下ヌ嶽 (シチャヌタキ) の前の道を北に進むと、上ヌワリのサーターヤーがあった場所 (写真左)、更に道を下った所には北ヌワリのサーターヤーがあった場所 (写真右)で、この辺りは民家はほとんどなく今でも畑のままになっている。


亭良佐井 (ティラサガー)

下ヌ山 (シチャヌヤマー) の麓、上ヌワリサーターヤー跡と北ヌワリサーターヤー跡の中間地点の東側に亭良佐井 (ティラサガー) がある。伝承によれば、津記武多按司の妃が髪を洗ったといわれる。亭良佐井 (ティラサガー) はどんな旱魃でも枯渇したことはなく、いまでも水をたたえている。この亭良佐井は隅丸長方形に掘り込まれ、井壁を布積みで積んだ小波津の産井 (ウブガー) で、正月の若水に使用されている。現在はコンクリート製の社殿型の囲いで整備されている。井戸の裏側には改修前には井戸の上に拝所として置かれていた数個の石が置かれている。以前は養鰻場や西原中学校の用水摂取所として使われていたそうだ。


県営西原団地

亭良佐井 (ティラサガー) の側には県営西原団地がある。集合団地になっている。1985年 (昭和60年) に160戸が建設されている。間取りは3DKで2万円から5万円と格安だ。昭和52年の行政区改編に伴い小波津から分離し、県営西原団地だけで一行政区として独立している。2021年12月末現在では155世帯、422人が住んでいる。2010年の人口は525人で、ここ10年は人口は20% 100人も減少している。ただ、この10年は160戸は常に満室状態なので、この人口減少は少子化の影響になる。近くにはこの住宅の給水塔が目立っていた。


ユージガー

亭良佐井 (ティラサガー) の東の民家の路地の突き当りにユージガーがある。掘り込みの共同井戸で、現在はコンクリート製の円形の筒で改修されている。


印部土手石 (シルベドテイシ、原石 ハルイシ)

上ヌ嶽 (イーヌタキ) への道沿いに印部土手石が残されている。小津波集落では印部土手石は二ヶ所見つかっている。そのうちの一つはこの上ヌ嶽の南東側斜面にある。以前はコンクリート製の祠の中に収められていたのだが、祠は壊れて印部土手石が剥き出しになっている。正面にはカタカナで「モ」、原名を「上の川原」 と彫りこまれている。 この「上の川原」の原名は小波津にはなく、我謝集落に同じ原名があることから、本来は我謝集落に設置されたものであったと推測されている。

もう一つが、元村屋であった屋敷内に放置されていたそうで、正面にカタカナで「キ」、原名を「田原」 と刻まれていた。現在は田原という地名は無いのだが、琉球国時代はそう呼ばれていたのだろう。


上ヌ嶽 (イーヌタキ)

上ヌ嶽 (神名:マネノセヂダカシヤカノ御イベ) は部落西側後方の上ヌ山 (イーヌヤマー) の標高50mの山頂付近にある。沖縄戦ではこの丘陵地に日本軍の陣地が置かれ、米軍と小波津集落を挟んで激戦が行われている。

緩やかな小道を上がっていくと広場があり、その西側奥に、東北向けに香炉が一基置かれている。この拝所が何なのかは書かれていなかった。広場の奥の少し高くなったところに祠がある。これが上ヌ嶽 (イーヌタキ) になる。この周辺では発掘調査が行われており、グスク時代の土器が発見されている。


中ヌ井 (ナカヌカー)

村屋 (ムラヤー) の南西に中ヌ井 (ナカヌカー) がある。民家の駐車場奥にある。半円形の掘り抜き井戸で、井壁は野面積みで積ま れている。現在でも水は湧いており、魚もいるそうだ。

9月10日にたまたまここを通った際には自動車が駐車されておらず、井戸が良く見えたので市阿新を撮り直した。


外ヌ井 (フカヌカー)

中ヌカーの直ぐ近くに外ヌ井 (フカヌカー) がある。長方形の掘り込みの共同井戸で、井壁は石積みが施されているそうだ。現在はトタン屋根で覆われている。水が沸いており、給水パイプが敷設されているので今でも使われているようだ。


小波津慰霊碑

小波津集落の外れに小波津集落住民の戦没者を弔う慰霊碑がある。この地は日本軍と米軍で激戦地となり、大きな被害を被っている。

沖縄戦では小波津集落でも多くの犠牲者が出ている。戦没者総数は344人で住民の54%にもなる。集落の20.8%の30世帯が一家全滅、更に生存者の18.4%の54人が戦争孤児で悲惨な結果となっている。戦後は1947年 (昭和22年) 6月に、ようやく元部落への帰還が許可されている。

小波津集落は沖縄戦では昭和20年4月25日から5月4日まで戦場となっている。

激戦に巻き込まれた集落の民家の塀に弾痕跡が残り、戦争遺構として保存されていた。


龕屋跡 (戦後)

慰霊碑の片隅に合龍格納庫と書かれた石碑が建っている。合龍とは何なのだろうとインターネットで調べたのだが、それらしきものはヒットしない。いろいろと想像してみると、一つ思い浮かんだのが、龕屋だ。沖縄のこの南部地方では死者を墓場に運ぶため、龕を使い。それを納めているところを龕屋と呼び、何箇所か龕屋跡を見てきた。龕の字は合と龍でできている。この地には戦後、戦争で消滅した龕屋を移設再建している。龕屋は現存していないのだが、建立記念碑だけが残されている。


龕屋跡 (戦前)、小波津児童公園

戦前、ガンヤーモー (現在の小波津児童公園の一角) に葬具の龕を保管するガンヤー (龕屋) があった。 その龕は近隣部落にも貸与された。戦災で消失した龕も、戦後逸速く仕立てられ、先程訪れた部落はずれのキビ畑の中、慰霊碑の場所、に建築された。ここで地元のおじいと話したのだが、ここに龕屋があった事は知らなかった。おじいといっても戦前を知っている人は90才以上の人だけで、70-80才のおじい、おばあは戦中、戦後生まれだ。戦争を語れる人は年々少なくなってきている。


小波津団地

小波津児童公園は小波津団地の中にある。かつてユッキーモーと呼ばれた山野で、おじいの話では、民家もなく、墓が多くあったそうだ。昭和50年から54年にかけて沖縄県住宅供給公社によって小波津団地が建設され、260戸が分譲された。小波津団地の入居者の殆どが西原町出身者以外の人々で那覇市や近隣市町村からのサラ リーマン世帯の転入者が多かった。昭和52年の行政区改編に伴い小波津から分離し、小波津団地だけで第一五区を構成し 一行政区として独立している。2021年12月末現在では303世帯、806人が住んでいる。小波津の人口が1607人なので、小波津の半分の規模だ。ここ10年は人口は減少している。住宅はセミデタッチ形式のものが多く、各家の正面の壁には大きくペンキで住所番号が書かれている。昔の住宅の雰囲気が残っている。


小波津陣地壕跡 [2020年6月2日 訪問]

小波津には独立歩兵第11大隊が駐留し、南下してくるアメリカ軍と戦った。その第11大隊を側面から援護するため、独立重砲兵隊第100大隊に所属する1個小隊がここに布陣。この壕は、89式15センチカノン砲を隠すために作られた壕と考えられている。


津記武多城 (チチンタグスク)

小波津は古い部落で、小波津団地西方の標高約60mのユツキーモーと呼ばれる丘上に津記武多按司の居城跡とされる津記武多城があった。この丘には沖縄戦で日本軍陣地が構築されていた。

石垣遺構は現存せず、伝承によると、グスクの石垣は首里城の築城の際、運び去られたといわれているが、調査では根石や中込め石などグスクの石垣遺構を確認できないので、もともと石垣のない、土の城であった可能性が強いと思われる。グスクはところどころに雛段状に削平された地形があり、とくに西側の池田部落に向かう斜面地に多くみられ、造られた防御のための曲輪と考えられている。


御先尚円長子嘉手苅按司前の墓

更に道を登って行くと幾つもの墓がある場所に出る。その中に嘉手苅按司前の墓とかかれた古墓があった。尚円王の長男の墓だそうだ。真偽は不明。定説では後妻か側室であった宇喜也嘉 (オギヤカ) の息子が長子となっている。宇喜也嘉 (オギヤカ) が尚円の側室になったのは20才で金丸が50才の時だ。金丸 (尚円王) は61才で没している。資料では宇喜也嘉 (オギヤカ) 以外に3人の側室がおりそれぞれに男子がいた。君清らの按司加那志の子は内間大親、 まむた親部の妹内間ノロの子は章氏安谷屋若松、平安山ノロの子は楊氏山内昌信となっている。 そのうちの一人なのか?
城主の津記武多按司については諸説ある。
  1. 北山世主今帰仁按司の子といわれ、彼の妃と棚原按司の妃とは姉妹だったと伝わる。津記武多グスクは今帰仁グスクの支城ともいわれ、津記武多按司がこの地ににグスクを構えたのは、北山王攀安知が中山に滅ぼされる1416年以前としている。球陽外巻の遺老説伝に、津記武多按司は幸地の熱田子に滅ぼされたとが記述されている。その子孫が西原間切内間村の安谷屋、糸数だといわれる。
  2. 今帰仁城主が北山王の怕尼芝 (はにじ) に滅ぼされた時、滅ぼされた世の主の四男がこの地に逃げ延びて住み着き、津喜武多御嶽を守護神として、グスクを築いて津喜武多按司と名乗ったといわれている。
  3. これ以外にも諸説ある。今帰仁按司の子でなく婿であったという説。
  4. 津堅島から来た喜舎場子の子という説。
  5. 伊波按司の二男が築城したとも言われている。
上の1番の説の根拠となった球陽外巻 遺老説伝 (第94話) は、津記武多グスクの城主の津記武多按司は、幸地グスクの城主熱田子 (あったし、アッタヌシー) に滅ぼされたという。その昔話が以下の通り。
むかしむかし、西原の幸地城 (こうちぐすく) の主であった豪族の熱田子 (あったし) は、大変に知略に秀でた武勇の達人で、その時代は誰しもが恐れをなしました。 南側の隣村、小波津 (こはつ) の津喜武多按司 (ちきんたあんじ) と親交を結んで、仲がよい間柄になりましたが、熱田子の真の目的は、按司の奥方の美貌に惚れ込み横恋慕していたためともいわれています。 ある日のこと、熱田子が魚釣りの帰り、その奥方が亭良佐川 (てらさかわ、ティラサガー) で艶やかな黒髪を洗っているのを見て、こっそり奥方の後に回って泥土を投げていたずらしました。 奥方は非常に立腹し、そのことを夫の按司に報告したところ、それを聞いた按司は怒り心頭したものの、何しろ相手は侮り難い力をもっています。その場は取り敢えずは兵を動かすことなく、機会を待つことにしました。 その一方で、そのことを早くも耳にしていた熱田子は、先んずれば人を制すと、腕が立つ腹心の部下、数人を密かに呼んでいうことには、 「今こそ此の機会を利用して、早目に手を打ち、災いを取り除いてしまおう。」と。 そして充分に練った策を部下に伝えると、熱田子は部下達と共に按司を訪問し、今回のことは行き違いによるものだと上手く説明して、謝ったのでした。按司は、相手の丁重な謝罪を受け入れ、直ぐさま仲直りのための酒宴を催し、歓待することになりました。 宴もたけなわになった頃、熱田子が按司に向かって言うことには、「按司どのは、なんでも世に優れた宝剣をお持ちと、お聞きしております。以前から、是非とも一目、拝見させて頂きたいと思っておりました。」と申し出たところ、それが許されました。 按司が宝剣を熱田子に手渡すと、その宝剣を手にするやいなやその瞬間に、熱田子は按司を一刀両断に斬り捨てました。続いて一族はじめ、その場にいた者達を片っ端から皆殺しにしました。 そして、思いを寄せてきた美しい奥方を、熱田子は色々と説き伏せようと、あれこれ試みましたが、貞節な妻は、夫殺しの熱田子を憎みながら井戸に身を投げ、自ら果てました。 さて、遠縁の上に按司と仲が良かった今帰仁按司は、このことを伝え聞くなり大変に激怒し、自ら討伐するため、大軍を率いて、直ぐさま出陣したのでした。 衆寡敵せずと見てとった熱田子は、この戦は、策略で勝る外、万が一にも勝ち目はないと考えました。 そこで、城門を開け放ち、今帰仁勢を待ちました。そして敵の軍が到着するなり、熱田子は自分自ら今帰仁按司を出迎え、平身低頭して自分の罪を認めて謝り、今帰仁の大軍を、自分の城に入城させたのでした。そして熱田子は、大々的に酒の席を設け、遙々やってきた遠征をねぎらいました。全く戦わずして勝った今帰仁の軍は、勝ち戦と有頂天になり、夜が更けるのも忘れ、思う存分に酒を飲み、御馳走をたらふく食べました。 奸智にたけた熱田子は、事前に自分の軍兵を、城の近くの翁長村の北山に伏せさせ、待機させていました。合図によって、熱田子の軍が城に攻め寄せた時、今帰仁勢は殆ど応戦することも出来ずに、難なく攻め滅ぼされてしまったのでした。そして今帰仁按司もまた、討ち死にしました。後世の人はその死を悼んで、翁長村の北山を「今帰仁山」と言うようになりました。 なお今帰仁按司には、四人の息子達がいました。その四人は堅く仇討ちを誓いました。熱田子を倒すべく兵馬の訓練を積み、後に、不意をついて熱田子を急襲。流石に戦国の世に名をはせた武将も、遂に討ち亡ぼされ、四人の息子は熱田子を倒して、津喜多按司と父親の仇を討ちました。 なお熱田子の墓は石嶺御嶽の東にあり、また子孫が翁長村に多く、今でもたびたび香華が手向けられ、乱世の戦国の英雄として面影が偲ばれるほど、未だに人気があるとのことです。

この話を題材にした組踊が創作されている。父母の無念を晴す息子の仇討ちの物語の「矢蔵之比屋」。幸地村の矢蔵之比屋 (熱田子) は、自分よりも身分の高い棚原と津堅田 (津記武多) の按司をだまし打ちにしたが、棚原の妻、乙樽と虎千代を逃がしてしまう。見つけ出して捉えたが、美しい乙樽を見た矢蔵之比屋は息子虎千代を助けるという条件で、乙樽を妻にした。金武の寺に預けられた虎千代が殺される夢を見た乙樽は、城を抜け出し寺に向かうが、途中泊めてもらった兼箇段大主前の宿で山賊に襲われ殺されてしまう。兼箇段大主前から母の最期を聞いた虎千代が、父棚原按司の臣下と山賊と矢蔵之比屋を成敗し、親の敵を討つという話になっている。


津記武多グスクへの登り口はもう一つある南側から登る道で、その麓にも古墓があった。


津記武多按司墓 (タンパラ按司墓)

タンパラ按司墓と石柱が立っている。地元の人の話では、このタンパラ按司墓が幸地熱田子の謀略によって殺害され 津記武多按司墓だそうだ。この墓は神墓とも呼ばれ、今帰仁の分かれの屋号 東下庫理(アガリシチャグィ) 一門で拝んでいる。 小波津の上月 (イングッチ) 門中も 津記武多按司の後裔といわれ、以前はこの按司墓を拝んでいた。内間の糸数門中も津記武多按司と姻戚関係にあり戦後までその按司墓に参拝し、他に棚原の上門門中、嘉手苅の外間門中などの人々が参拝にみえるそうだ。この按司墓がなぜタンパラ墓と呼ばれているのかについては不明とのことだが、東下庫理では先代からそう呼んいたという。

津記武多井 (チチンタガー)

津記武多ガーは、津記武多グスクの麓、小波津川山田橋の近くにある。津記武多グスクで使用されていたといわれる円形の掘り込み井戸で、井壁は石積みが施される。深さ約六〇センチ程と小さく、 現在は渇している。個人的に御願が行なわれているようである。

津記武多グスクの北側、津記武多井 (チチンタガー) がある斜面にはいくつもの古墓が造られていた。



今日は、アクシデントがあった。自転車のサドルが割れてしまった。皮革製の良いBrooksのサドルなので、残念だ。少しひび割れがあったので、時間の問題かなと思っていたが、急ブレーキで負荷がサドルにかかった際に真っ二つに割れてしまった。帰りはゆっくりとだましだましの走行となった。帰宅後、安物サドルを発注した。東京にもう一つ同じBrooksの革製サドルがあるので、10月の東京行きの時までは、安物で我慢となる。


参考資料

  • 西原町史 第1巻 通史 1 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第1巻 通史 2 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第2巻 西原の文献資料 資料編 1 (1984 西原町史編纂委員会 )
  • 西原町史 第4巻 西原の民俗 (1990 西原町役場)
  • 西原町史 第5巻 西原の考古 (1966 西原町役場)
  • 西原町 歴史文化基本構想
  • 琉球王国の真実 (2013 伊敷賢)
  • 沖縄県文化財調査報告書 53: ぐすく 沖縄本島及び周辺離島1 (1983 沖縄県教育委員会)

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