Okinawa 沖縄 #2 Day 210 (10/09/22) 西原町 (12) Tobaru Hamlet 桃原集落

[産井 (ンブガー) 再訪 2022年9月16日]

西原町 桃原集落 (とうばる、トウバル)

  • 桃原土地改善センター、サーターヤー跡
  • 眞境名之殿 (マジキナヌトゥン)
  • 上ヌ毛 (イーヌモー) / 御神屋 (ウカミヤー)
  • 桃原御嶽 (トウバルウタキ、桃原火ヌ神) 
  • 地頭火神
  • 桃原の獅子屋 (シーシヤ)
  • マチンジャービラ
  • 御茶多理道 (ウチャタイミチ)
  • ウチューガー
  • マチンジャーヌカー (未訪問)
  • 桃原の石獅子
  • シブーガー (未訪問)
  • 古島、桃原シジ
  • 産井 (ンブガー) [2022年9月16日 訪問]
  • 湧井 (ワクガー)
  • 安谷屋井 (アダニヤガー 消滅)

台風11号が過ぎ去ったと思ったら、台風12号が近づいてきている。明日から天気が崩れるそうだ、二つの台風の合間の晴れ間は今日しかないので、今日は外出し集落訪問とした。台風の影響で雨が降るかもしれないので、今日も中城村江はなく、近場の西原の集落の再訪にする。前回壊れた自転車のサドルをビニールテープでぐるぐる巻きにして何とか腰を下ろすことができるようにした。どれほど持つかは分からないが、新しいサドルが届くまではまだ数日かかりそうデそれまでの我慢だ。まずは桃原集落を目指す。この桃原集落には2020年5月28日に来ているのだが、そのころは村の詳しい情報は見ておらず、西原町のホームページに紹介されているスポットだけを廻った。どちらかというと観光に近かったのだが、それでは村を理解できないので、もう少し詳しく調べ、見ていないスポットも含めての訪問にした。



西原町 桃原集落 (とうばる)

桃原は、運玉森北側麓の山ふところに抱かれ、町内でも数少ない自然を残す山紫水明な集落である。集落内にはいまでも竹垣で囲われた屋敷がみられ、かつての沖縄の農村集落風景を偲ぶことができる。
安室と桃原 は桃原シジを隔てて隣接している。北側は小波津に、西側は池田にそれぞれ隣接している。集落は上ヌ毛と呼ばれる森をクサティ (腰当て) に、その前の緩やかな斜面に民家が立ち並んでいる。集落の東側にある桃原シジ北側斜面付近に、かつて集落が立地していたといわれる。桃原は池田が一行政区として昭和初期に独立するまで、小字として桃原、湧原、通川原、池田、上池田、 具志神 田、陸門、字川志、恩玉原などを擁していたが、現在は集落のある小字 桃原と集落後方の湧原および運玉森にあ 沖縄カントリークラブゴルフ場の一部になっている恩玉原の三小字からなっている。
桃原集落の東側にある桃原シジという標高約40メー トルの高台に、かつて桃原の古島があったといわれる。 17世紀ごろ、 桃原シジ付近から現在の上ヌ毛周辺に 集落が移動したといわれる。一説によると、マキョ時代 「真境名之殿」付近にも小集落があったといわれる。
集落名のトウバルは「平坦な地」の意で、絵図郷村帳には「たばる村」となっている。別の説では、あるサムレー (士族) がここに住みつき、そのサ ムレーの出身地名に由来するという。首里の桃原かもしれないという。琉球千草之巻によれば、桃原村の世立初は「西原末吉より来る桃原大主在 所根屋」とあり、地組始は「幸地村より来る桃原子在所 座神」とある。
桃原には六つの主な門中があった。今帰仁の外間子からの分かれと伝わる根屋 (ニーヤー) の宮平門中、集落で最も古く護佐丸の末裔という喜屋武門中、宜保門中 (垣花へ転出)、 桃原門中 (村内法を犯し村八分にされ、その後他市町村へ転出)、今帰仁北山王からの分かれといわれる安谷屋門中、垣花から移住してきた上原門中になる。伝承によると、桃原の創始家は六家のうちの桃原家、 宜保家、宮平家、喜屋武家の四家だといわれる。桃原家と宜保家は早い時期に他地域に移り絶家したといわれる。 それらの宗家はかつて桃原古島に屋敷があった。
桃原の注目すべき特徴は寄留民 (池田屋取集落) との関係が良好だった事がある。殆どの村では、首里からの寄留民と地元の百姓平民である居住人との争い事が絶えなかった事からすると住みやすい村だった様だ。
戦時中、 桃原字民の多くは島尻方面に逃げたが、途中、多大な犠牲を被っっている。 桃原は西原町内でも戦没者率の高い部落である。辛うじて生き延びた字民らは、各地の収容施設に収容された。 一年ほどして、ようやく西原村我謝区への帰還が許され、各地区の収容先から字民らが帰ってきた。しかし、桃原部落はまだ立ち入り禁止区域だったので、我謝区で生活を余儀なくされた。昭和22年6月、元部落への移動許可が下り、字民らが戻ってきた。沖縄戦で、桃原を含めた運玉森一帯が最激戦地だったことを物語るかのように、民家一軒も残らず吹き飛ばされ、艦砲弾により部落のあちこちが大き窪地になっていた。 かつて、樹木が青々と繁茂してい 部落後方の上ヌ毛も地肌が露出し、大雨のたびに地盤が緩み地滑りが起こっていた。スクラップブームのおり、字民らは大量の砲弾片を拾い集めて売った。どこでも掘れば必ず鉄屑が採取できたという。スクラップブーム後、字民らの生活も安定していった。昭和40年に運玉森にゴルフ場に土地を供給し、条件として桃原住民を優先的に雇い入れるとし、そこに勤めるのも出てきて兼業農家が増えていった。

明治13年には、 桃原村は戸数66戸、人口333人であったが、明治36年には、は廃藩置県の首里士族ら14戸人口100人が桃原村の池田屋取に寄留し、人口466人と急増している。昭和初期に池田屋取が独立行政区となり、その分だけ戦前の人口は減少している。沖縄戦で甚大な被害を蒙り、戦後部落の復興が立ち遅れ、戦後1988年 (昭和63年) までは、 世帯数も半減し30戸内外で推移してきたが、それ以降、那覇などからの転入者も増え、40戸ほどになり、それいくは少しづつ世帯数、人口ともに増加に転じている。2011年にようやく戦前のレベルに戻って入るが、ここ数年の人口は横ばい状態になっている。

他の地域と比較すると明治時代の桃原の人口は西原村の中では真ん中ぐらいだったが、池田が昭和初期に独立したため、人口の少ないグループに変わり、戦後から2010年までは最も人口の少ない地域で、現在は下から三番目となっている。人口増加率については、西原町では最も人口増加率が低い、マイナス成長の地域となっている。


琉球国由来記にある桃原の拝所は、
  • 御嶽: なし
  • 殿: 真境名之殿
  • 拝所: 桃原火神
  • 拝井泉: 産井 (ンブガー)ウチューガーワクガー、安谷屋ガー (消滅)

旧藩時代、桃原村は稲作中心の村落だったので、稲作に係わる年中行事が行われていた。廃 藩置県後、甘蔗作が主体になったが、他の集落と同様に年中行事は旧来のまま継承された。年中行事で最大のものは収穫を祝う旧八月アシビだった。八月アシビは13年マールで昭和初期ごろまで行われていたが、昭和初期ごろになると、多くの若者らが本土や海外に出て行ったため、獅子舞や八月アシビが挙行できなくなっ た。沖縄戦で獅子も焼失したが、戦後新たに獅子を仕立てた。そのころ獅子舞も一時復活したが、後継者不足で、その後は獅子の御願のみを行っていた。1993年 (平成5年) にこの獅子屋 (シーシヤ) を再建した折に、獅子舞保存会を発足し、獅子舞を再開している。
琉球王統時代には村祭祀は我謝ノロによって執り行われていた。


桃原集落訪問ログ




桃原土地改善センター、サーターヤー跡

桃原集落の北の少し高台には桃原土地改善センターがある。桃原集落の公民館にあたる。資料ではかつての村屋の場所は載っていないのだが、ここではない様な気がする。集落から少し外れている。通常、村屋は集落内に置かれていることがほとんどだ。
民俗地図では公民館の前の広場はサーターヤーだったとなっている。上ヌ割 (イーヌワリ)、下ヌ割 (シチャヌワリ) の二つのサーターヤーが置かれていたとある。この西原では組の事を割 (ワリ) という。広場の向こうには集落の聖域だった上ヌ毛 (イーヌモー) の林がある。

琉球王統時代、西原間切は首里王府の直轄地で、上納米の生産地であり、稲作が主な農産物だった。 17世紀以降から糖業が発展するようになった。急速にタードーシ (田か畑への転換) が行われ、1903年 (明治36年) ごろには、桃原村の民有地の内、56%が畑、24%は原野で、田は僅か5%に減少していた。(宅地: 3%、山林: 5%)  戦前は黒糖中心の自家製造であったが、 戦後はほとんど農家が収穫した甘蔗を製糖工場に売却していた。

ここからは、眼下に桃原集落、その向こうに運玉森 (ウンタマムイ) が見える。集落は小さく、西と南は丘陵地に囲まれて北と東は畑地になっている。昔からの集落の形が残っている。

眞境名之殿 (マジキナヌトゥン)

桃原公民館の東隣は桃原児童公園になっている。この場所も少し高台になっており、眞境名毛 (マジキナヌモー) と呼ばれていた。一説によると、マキョ時代には この真境名之殿付近にも小集落があったといわれている。
公園の隅にの中に桃原殿ヌ毛 (トーバルトゥンヌモー) と刻まれた拝所がある。この拝所は琉球国由来記の眞境名之殿 (マジキナヌトゥン) にあたる。かつては、殿は大きな松の樹三本で覆われていたそうだ。 殿の名称の由来は、この地で村人らが祭祀を行う我謝ノロを待ちわびたので、ウマチドゥン (御待殿) → マジキナと呼ぶようになったといわれる。戦前までは、稲二祭の際には我謝ノロによって祭祀がとり行っていた。祠の側には石が置かれいる。どうも、これも拝所の様だ。

上ヌ毛 (イーヌモー) / 御神屋 (ウカミヤー)

公民館の西側は丘で林になっている。この丘は上ヌ毛 (イーヌモー) と呼ばれ、集落の聖域にあたる。地元では御神屋 (ウカミヤー) といわれている。

桃原御嶽 (トウバルウタキ、桃原火ヌ神) 

御神屋 (ウカミヤー) へは階段の道があり、その上に祠が見えている。祠には桃原御嶽と書かれてある。琉球国由来記に記載されている桃原火神が祀られている。地元では火ヌ神加那志 (ヒヌカンガナシ)、ウミチムなどと呼ばれている。東風平の謝花家 (謝花昇の生家) が寄進したといわれる祠の中には竈の鼎の石 (三つの石) が、神の依代として安置されている。

地頭火神

祠の側にも拝所がある。琉球国由来記に記載されている地頭火神が祀られている。

桃原の獅子屋 (シーシヤ)

上ヌ毛 (イーヌモー) の西側には獅子屋 (シーシヤ) があり、獅子が保存されている。
桃原では獅子舞が伝わっている。沖縄戦で獅子が焼失し、獅子舞は途絶えていたのだが、1960年 (昭和35年) に獅子を再現している。その時は、獅子舞の後継者不足で、舞は行われていなかったのだが、1993年 (平成5年) にこの獅子屋 (シーシヤ) を再建した折に、獅子舞保存会を発足し、獅子舞を再開している。

マチンジャービラ

広場の片隅に文化財説明板がある。御茶多理道 (ウチャタイミチ) と御茶多理真五郎の墓 (ウチャタイマグラーヌバカ) を紹介している。古い道だそうだ。前回 (2020年5月28日) にここを訪れ際は、この説明板に刺激され、これを見るとどうしても通って見たい衝動に駆られ、この道を自転車で通って見た。

公民館から上ヌ毛 (イーヌモー) の北を通り丘陵に登る坂がある。首里からの道で御茶多理道(ウチャタイミチ)といい、この坂は御茶多理坂(ウチャタイビラ)と名がつけられている。


御茶多理道 (ウチャタイミチ)

御茶多理道 (ウチャタイミチ) は中城の和宇慶から内間、呉屋、桃原を通り、豆腐小坂 (トーフグヮービラ) を上り首里弁が岳までの道になる。多くの部分は今でも残っている。桃原土地改善センターからから豆腐小坂までは登り坂になっており、ここを御茶多理坂 (ウチャタイビラ) と呼んでいる。中城の人々や、西原間切の海岸の集落の人々が、魚や野菜を首里に売りにいくに使われた古い道。内間御殿に住んでいた金丸 (後の尚円王) もこの道で首里に登城していたのだろう。琉球国王がこの道を通ってきた際には、桃原集落の人達や、内間御殿から来た人達が、この坂道で国王を出迎えたという。ペリー探検隊もここを通ったそうだ。それで桃原ではマチンジャービラと呼ばれている。先程訪れた眞境名毛 (マジキナヌモー) がウマチ (御待) から眞境名 (マジキナ) に変わったのと同じだ。御茶多理(ウチャタイ) は人の名前で、その由来については、別途、池田集落訪問時に記載する。

ウチューガー

今回の訪問では、資料にマチンジャービラの途中に二つ井戸跡あると書かれていたのでそれを探す事だけにした。井戸は道脇ではなく、山の中にあるので、地図では目印がなく探すのは大変だ。このあたりにあるはずだ。
たまたま、ここにおじいがいた。二つの井戸跡を尋ねると、このおじいはこの土地の地主さんだが、名前までは知らないが井戸は一つはあるが、もう一つは聞いた事がないという。おじいに教えられた場所には立派な井戸があった。西原町で改修たそうだ。ちゃんとウチューガーと書いている。地元の人に資料にある井戸の名前を伝えても、殆どの場合は名前は知らない。名前はあまり気にしていない様で、井戸とだけ聞いた方が混乱しない様だ。ウチューガーは集落六門中の一つの宜保門中 (垣花へ転出している) ゆかりの掘り抜き井戸である。「昔、宜保という強力者が一日で掘った井戸」だといわれている。その人は ジーブヌクティーワンとも呼ばれ、暴走して来た牛を素手でくい止め、倒すほどの猛者であった。今でも、クティワンの末裔らがそこに参拝にみえる。桃原村では、ハチウビー、ウマチーの際に御願が行なわれている。

マチンジャーヌカー (未訪問)

もう一つの井戸は資料ではマチンジャーヌカーというのだが、資料の地図によれば、この作業場の裏となっているが、道もなく、樹々が生い茂っており、とても中には入っていけない。おじいも知らないと言っていたので、探せないだろうと思い断念。
前回 (2020年5月28日) には、この井戸跡がある事は知らず、素通りして、まだまだ続く登り坂を進み、目の前に広がる丘陵を越えなくてはならなかった。沖縄では、それ程高い山はないので、苦しくなったら自転車を降りて押せば良いと言い聞かせ、登ることにした。
この御茶多理坂 (ウチャタイビラ) が通る丘陵は御茶多理毛 (ウチャタイモー) と呼ばれ、その頂上付近に御茶多理真五郎の墓 (ウチャタイマグラーヌバカ) があるという。西原町が出しているGoogle マップのスポットを目指して、それらしき道を行くことにする。この道は降っている、ということはまた頂上付近まで登らなければならないということだ。頂上に向かってとんでもない急坂に出会す。ここを登ればあるかもしれない。立派な山登り。いくつか墓があったが御茶多理真五郎の墓は見つからなかった。
球陽外巻の遺老説伝には、「昔、西原間切嘉手苅村に、 一人有り、名を五郎と叫ぶ。其の勇力人に過ぎ、常に歌舷及び相撲をくす。......」 とある。言い伝えによると、 御茶多理真五郎 (ウチャタイマグラー) は金丸 (尚円王) が内間村に隠棲中に仕えていたが、金丸が王位に就き、首里に上るとき真五郎 (マグラー) は随行せず、西原に留どまり一生を終えた。臨終において、「国王の行列が拝見できるように、 墓口は閉ざすな」と、家人らに遺言して亡くなったといわれる。
また、五郎の霊は成仏せず、夜な夜な亡霊がでて相撲の喊声や歌、三線の音が聞こえた。 それから五郎を御茶多理五郎と呼ぶようになった。人々は日が暮れると敢えてその墓地付近を通らなかった。その後、祭祀の供物が腐敗するようになったので、人々はこれらはマグラーの霊が盗み喰いしたものと思い、御茶多理街道を通って首里へ行く部落では、ムーチーを一日早め(旧12月7日)にやるようになったという。
場所を確認する為に、今度は先程の案内板の写真を見るとGoogle マップのスポットと異なっている。隣の丘陵のほうだ。ここはもう隣の字の池田に入っている。池田集落訪問の際に再度、探すことにする。


桃原集落に戻り、公民館から下に広がる集落側の文化財を見ていく。



桃原の石獅子

公民館から桃原集落に降りる。集落内の文化財は資料ではあまり記載がない。桃原集落の南の端に石獅子が残っている。この石獅子は、1996年 (平成8年) に、この場所から少し南側の高台にあった桃原古島付近での宅地造成中に地中から見つかり、100年余ぶりに掘り出されたものだ。動物園の様に檻の中に石獅子がいる。これには理由がある。言い伝えによると、かつて桃原で天然痘やイリガサー (はしか) が流行したので、フーチゲーシ (流行病除け) として石獅子を仕立てたそうだ。呉屋部落方面に向けて石獅子を安置していたが、たびたび夜中に呉屋部落の青年らが来て、この石獅子の向きを変えたりしたので、よそに持っていかれるのを恐れ、この石獅子ニ基を地中に埋めたという。掘り出された二基とも珊瑚石灰岩で造られ、全体に朱に塗られた跡がある。掘り出された後も、盗難防止のため、錠をかけ檻の中で飼っている。

シブーガー (未訪問)

桃原の石獅子の前の道沿いにシブーガーがあると資料にはあった。探すが見つからなかった。その前の広場に一つ井戸があるのだが、資料の写真とは随分と異なるのでこれではないだろう。

古島、桃原シジ

シブーガーの前の広場から丘の上に向かう路がある。集落を南に突っ切った所から運玉森方向への坂道だ。その上部には林があり、その中に広場がある。この林に前には広い平場がある。東側隣集落の安室とを隔てている場所。かつてはこの周辺にに集落が立地していたという。これが桃原集落の古島で、桃原シジとも呼ばれている。この古島からは遺物として硬質のグスク系土器片や輸入陶磁器片などが採集されているた。グスク時代より新しい遺跡と考えられている。この古島には各家々が西向き建っていたそうで、フンシ (風水) が悪いとし、現在の地に集落を移動したといわれる。
桃原集落の様々な祭祀は、この古島から始められるそうで、桃原シジには拝所が置かれていた。

産井 (ンブガー) 

資料によれば、桃原集落と古島との境界付近に桃原の産井 (ンブガー) があるという。正月の若水はここから汲んだといわれる。井戸は渇しているが、簡素な石積みが三角形状に積まれ、井戸口はコンクリート製の筒が置かれているそうだ。ハチクビー、ウマチーの際に御願が行なわれているのであるはずだ。資料にある写真を頼りに周辺を探すが、同じ様な井戸は見当たらなかった。集落の境に井戸と拝所があった。これが産井なのかは分からない。
このブログを見た幻日さんが親切にこの井戸の場所を投稿してくれた。過去二回も井戸跡の所在地を教えてくれている。ありがたい。早速、再訪とした。前回訪れた白い祠の後に土手を上る道がありその上部にウブガーと書かれた井戸が残っていた。前回は祠の前の道で土手を上がったので、見つからなかったのだ。あの白い祠はこの近所に住んでいる人の祖先を祀っているのだろう。

湧井 (ワクガー)

今日は桃原集落へは、集落の南側の運玉森の中腹にある沖縄カントリークラブから集落へ降りていく農道を下って行った。農道の先に民家がみえている。
農道を降りていくと畑の脇に掘り抜き井戸の湧井 (ワクガー) があった。草で覆われて全容は見えないのだが、井壁は野面積みで、現在は石灰岩の切り石で屋根が造られ、屋根の一部がみえている。この地域は小字名の湧原 (ワクバル) なので、こう名付けられている。ウマチー、ハチウビーの際に御願が行なわれるそうだ。

安谷屋井 (アダニヤガー 消滅) 

湧井 (ワクガー) から集落に入った所にかつては安谷屋井 (アダニヤガー 消滅) という井戸がさざなみ保育園の側にあったようだが、戦時中に戦車で破壊され、戦後探したがみあたらなかったという。このさざなみ保育園の駐車場にも別の井戸があり、給水ポンプが設置されて、今でも使われている様だ。


桃原集落訪問を終え、次は隣村の安室集落へ移動する。



参考資料

  • 西原町史 第1巻 通史 1 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第1巻 通史 2 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第2巻 西原の文献資料 資料編 1 (1984 西原町史編纂委員会 )
  • 西原町史 第4巻 西原の民俗 (1990 西原町役場)
  • 西原町史 第5巻 西原の考古 (1966 西原町役場)
  • 西原町 歴史文化基本構想

4コメント

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  • Kazu Saeki

    2022.09.16 09:28

    今日、ンブガーを見てきました。ちゃんとありました。ありがとうございます。前回は別の登り口をいったので見つからなかったようでした。
  • 幻日

    2022.09.15 16:12

    土手の上といいますか、斜面を登り切る手前ぐらいのところにありました。木々が生い茂っている中に人が一人通れるぐらいの空間しかなかったので、草刈りの状況によっては厳しいかもしれません。ミーガー、無事訪問できたようでよかったです。
  • Kazu Saeki

    2022.09.15 11:49

    いつもいつもアドバイスしていただきありがとうございます。前回アドバイスいただいたミーガーにはいって見ました。助かりました。土手の上まではいってみたのですが、何故か見落としてしまったようです。次回に立ち寄ってみます。