Okinawa 沖縄 #2 Day 203 (13/08/22) 旧中城間切 (01) Wauke Hamlet 和宇慶集落
旧中城間切 和宇慶集落 (わうけ、ヲーキ)
- 和宇慶公民館 (和宇慶構造改善センター)
- 氏神
- 二男前小波津小の拝所
- 産井 (ウブガー)
- 統合拝所
- ビジュル
- ビジュル御井 (ウカー)
- 安里御井 (アサトウカー)
- 中軸之御井 (チュウジキヌウカー)
- ムラ火の神
- 世利御井 (シリウカー)
- 外間御井 (ホカマウカー)
- 竜宮御神、東世御通
- 慰霊碑
- 御嶽 (ウタキ) [未訪問]
今日から、中城村の集落巡りを始める。宜野湾市の集落巡りが終わったあとに中城村の資料に目を通して下準備をした。中城村では全集落の歴史や文化財などを解説した資料が充実している。今まで巡った地域で行政が中心となって、資料編纂しているのは、南城市が最も積極的で、次々と色々な切り口の資料を発行している。ついで糸満市で、今年ようやく糸満市の全集落の史跡文化財の資料が完成している。糸満市担当者の努力がよくわかる。この二つの行政と同じように、全集落を網羅している資料を用意しているのが、この中城村と北谷町で、非常に助かる。ようやく下調べが終わり、いよいよ今日から中城村を訪れる。まずは自宅に近い集落の和宇慶から始める。
旧中城間切 和宇慶集落 (わうけ、ヲーキ)
現在の和宇慶は、伊集、南浜と共に中城村の最も南部に位置し、西側の丘陵斜面部から国道を挟んで、東側の平野部に広がる区域で、東は南浜と北浜北は津覇、西は南上原、南は伊集に接する。和宇慶は、上登原 (イーントバル)、松尾原 (マツオバル)、川崩原 (カーグイバル)、宇志真原 (ウジマバル)、検地原 (ケンチバル)、平良原 (テーラバル) の六つの小字から成り立っている。 現在の集落は検地原の一部と宇志真原の国道沿いから東側一帯に集中している。和宇慶集落の始まりは、年代は不明だが、上登原 (イーントバル) の斜面地一帯にあり、その後、検地原 (ケンチバル) に移転したと伝わる。廃藩置県後に、和宇慶の南浜原に、安里姓 (楽氏: 名乗り頭は昌) の人たちが屋取を形成し、安里屋取 (アサトゥヤードゥイ) または和宇慶の下 (ヲーキヌシチャ) と称されていた。
当時の南浜は、畑が少なく十分な作物を収穫することができなかった。台風などの時には、海水が畑に流れ込み作物が全滅するなど、住民は大変苦労した。この様な状況のため、 南浜にはウミンチュ (漁師) をして生計を立てる人もおり、戦前は5~6人のウミンチュ(漁師) がいたという。昭和初期頃、隣の仲松屋取と共に、「仲里」として独立したが、戦後、南浜原の安里屋取は南浜、検地原と和宇慶北浜原の仲松屋取は北浜として分離独立し、現在に至っている。上登原と松尾原には、墓地が多くみられる。 また、 川崩原と松尾原には戦時中、多くの住民が個人で避難壕を掘り避難していた。
人口データが限定的にしか見つからず、はっきりとは分からないが、沖縄戦後の人口の減少は大きい、戦前に南浜と北浜が分離した事と戦争が原因と思われる。戦後人口は明治期のレベルに戻るが、それ以降は減少に転じて、減少傾向は現在でも続いており、明治期の人口を下回っている。
明治時代の人口は中城村の中でも2番目に多い地域だったが、南浜、北浜が分離した後も人口は減少している。他の地域に比べても人口の減少が大きく、現在では中城村の中で人口は真ん中より下の地域となってしまった。
琉球国由来記に記載のある拝所は
- 御嶽: 伊集ノ嶽 (神名、和宇慶ウラソデバナノセジ御イベ)、シキマタノ嶽 (神名、シキ森ノセジ御イベ)
- 殿: 里主所之殿、外間之殿、ノコニヤ崎之殿、上金城之殿、フナグラノ殿 (稲二祭之時、花米五合完、五水沸二合完、 神酒半完、シロマシ一器 (里主所之殿・外間之殿・同地頭)花米五合 完、五水三合完、神酒壹完(ノコニヤ之殿・上金城之殿・フナグラノ殿二、同村百姓中)供之。伊集巫ニテ祭祀也。)
- 拝所: 相應富根所 (毎年六月、爲米初、神酒二完、菓子二器 (同村百姓中) 供之。伊集巫ニテ祭祀也。)
村で行われていた祭祀は以下の通りで、現在でも継続している祭祀は5つだけとなっている。
琉球王統時代から明治期にかけては、伊集ノロによって祭祀が執り行われていた。
和宇慶集落訪問ログ
与那原バイパス
中城村へは、今年3月に開通した与那原バイパスを通って行くことにした。2年前に南風原の与那覇グスクを訪れた際に、グスクを削り工事中だった。この工事が与那原バイパスを造っていたのだ。ようやく開通して、中城村へは少しショートカットになる。以前は国道329号線でしかいけなかったのだが、この与那原バイパスだと、与那原と西原町の境まで迂回することなく行ける。
削られた与那覇グスク (写真左上) からバイパスに入ると、広い歩道がある。誰も通っておらず貸切状態。緩やかな坂道を登ると前に切り通し (写真右上) がある。登りはこの切り通しまでで、後は一気に下り坂となる。人も通っていないので、スピードを上げて下る。与那原の町が目の前に広がっている。
高台で景色は抜群だ。与那原から南城市の知念半島先端まで見通せる。微かだが、久高島までも見えている。
まずは公民館に向かう。
和宇慶公民館 (和宇慶構造改善センター)
和宇慶の公民館は元々は統合拝所近くにあった村屋を戦後この場所に移している。戦前の村屋は倶楽部と呼ばれていた。和宇慶の倶楽部は昭和初期には茅葺の建物で、その後木造瓦葺に建て替えられていた。敷地内には、マーイシーと呼ばれた力石が置かれ、青年達は畑仕事が終ると毎日、倶楽部に集まり力石を差して競い合っていたそうだ。
和宇慶には18世紀の中頃に伝わったといわれる和宇慶獅子舞があり、獅子は、普段は公民館に「神獅子」として安置され、和宇慶だけで演じられている。沖縄戦で獅子は失われたが、1956年、区民の協力で復元され、その後40年間使用された。引退した神獅子、今では「遊び獅子」として県内の様々なイベントで和宇慶の獅子舞を披露する際に活躍している。十五夜祭では、幕開けに神獅子が「烏の舞」、遊び獅子が舞台の最後を飾り「犬の舞」を演じている。
氏神 (ウジガミ)
和宇慶構造改善センター (公民館) の敷地内に祠があり、氏神と呼ばれている。 戦前は、村屋 (倶楽部) 敷地内の中道 (ナカミチ) 寄りの北側に祠が建てられ、現在の氏神よりも大きく、海岸向けに建てられていた。現在、祀られている霊石は、戦前からのもので、戦後、旧集落跡から発見されたものをここに移し祀っている。
氏神を囲んでいる塀が、内側に食い込んでいる。何のためにこのようになっているのだろうか? よくみると、丸く後でコンクリートで埋めた様になっている。横にはブロックが置かれている。なんだろう?井戸跡を埋めたのだろうか?横のあるブロックは香炉の代わりだろうか?
ケンドー (県道)
公民館の前の道は戦前からあった道でケンドー (県道) と呼ばれた幹線道路だった。
井戸跡
ケンドーを少し北に行った駐車場の中に井戸跡がある。現在は使われていないようだが、駐車場の中に残している事から推測するに、大切な井戸だったのだろう。村の拝所には含まれていないので、この和宇慶にあるいずれかの門中の井戸なのかもしれない。
二男前小波津小の拝所
公民館からケンドーを南に進んだ道沿いの屋号 二男前小波津小の角にコンクリート造りの祠がある。特に名前は付いていない。戦前は、遠方に出かける時や、出征する時に拝んだ。戦争が勃発した頃には、出征兵士のいる家は、武運長久を願い、毎月1日と15日は集落内 のウガンジュ (拝所) を全部拝んで、その後、普天間神宮を拝むため登又を通り、歩いて行ったという。
産井 (ウブガー)
二男前小波津小の拝所の近く西側、屋号 比嘉の後方の畑の中にコンクリートの塀で囲まれた産井 (ウブガー) がある。和宇慶で最初に掘られたカー (井戸) と伝えられている。和宇慶の村井 (ムラガー) でもあった。また、ウブガーの左側にある香炉は、伊集集落にある御嶽 (ウタキ) へのウトゥーシ (遥拝所) として拝まれている。和宇慶からは少し距離があるので、ここから拝んでいたのだろう。
統合拝所
ケンドーを更に少し南に行った畑の中に拝所がある。1983年に行われた土地改良事業の際に、この場所に統合拝所を設け、旧集落跡地に埋もれている拝所や井戸を集めて移設合祀している。元々集落があった場所は、戦後米軍の飛行場として接収され整地された。その際に多くに拝所が破壊され消滅してしまったのだ。この辺りは、戦前まで和宇慶の集落があり、統合拝所となっている場所は、屋号小波津の屋敷跡になる。現在、この周辺一帯は、農地となっている。北隣には倶楽部 (公民館) があるなど、戦前は集落の中心となっていた場所だ。統合拝所内に移設された拝所は以下の通り。
ビジュル
統合拝所を入って左側にいくつもの祠や形式保存された井戸が祀られている。端から見ていくと、まずはビジュルの祠がある。戦前は、屋号 小波津 (クファチ) の屋敷内にビジュル石があり香炉も置かれていたものをここに移設している。祠の中に霊石 (ビジュル) がある。
ビジュル御井 (ウカー)
ビジュルの祠の隣には、このクサイ (鎖、対) になるビジュル御井 (ウカー) がある。ビジュルと同じく、戦前、小波津 (クファチ) の屋敷内にあった井戸を型式保存して祀っている。
安里御井 (アサトウカー)
戦前は、屋号 南風小 (フェーグヮー) の側にあり、山城門中の祖先が利用していた井戸ということで同門中が拝んでいたという。
中軸之御井 (チュウジキヌウカー)
戦前は、倶楽部敷地内の庭の真ん中にあり、 水を湛えていた。この井戸は多くの人から拝まれていたそうだ。
ムラ火の神
かつては、村屋 (倶楽部) の中の土間に、三つの石が置かれた窯があり、火の神が祀られていた。 倶楽部で行事が行われる時には、この窯でお茶を沸かしたりしていたという。現在ではムラ火の神として祀っている。
世利御井 (シリウカー)、外間御井 (ホカマウカー)
統合拝所敷地内の反対側には二つの井泉の拝所が置かれている。世利御井 (シリウカー) と外間御井 (ホカマウカー) だ。世利御井 (シリウカー) は、戦前には屋号 登同呉屋 (トゥドゥグヤ) と小波津 (クファチ) の間の道にあり、水を湛えていたという。外間御井 (ホカマウカー) は、戦前にはナカミチ (中道) 沿いの屋号 仲元 (ナカムトゥ) と屋号 新前小波津 (ミーメークファチ) の間にあり、 儀間門中が拝んでいたという。
竜宮御神、東世御通
世利御井 (シリウカー)、外間御井 (ホカマウカー) の奥の方にもう一つ拝所がある。竜宮御神、東世御通と書かれている。戦前は、集落後方のサーターヤー敷地にあったウマアミシグムイの縁にガジュマルが植えてあり、そこに祀られていたそうだ。
慰霊碑
統合拝所の中に、沖縄戦で亡くなった和宇慶出身の戦没者の氏名を刻銘した慰霊碑が建立されている。慰霊碑は平成6年に、和宇慶集落住民によって、恒久平和の願いで建立され、戦没者400余名の名前を刻み弔っている。
沖縄戦が始まる前の1944年 (昭和19年) 頃から、中城村内には日本軍が駐屯し、住民を巻き込んで陣地構築を行った。和宇慶には、歩兵11大隊の恩田中隊が大きな瓦家などに駐屯していた。 中でも特に大きい瓦家だった屋号久場井口は、恩田幹雄大尉をはじめ3人の幹部が入り、司令部として利用されていた。その時、家主家族は気の毒にも台所に追いやられて生活していた。 その他、屋号小波津、西門、後小波津、三男前仲元、西新屋小にも駐屯し、また倶楽部 (公民館) には一般兵が入っていた。 住民は芋などの食糧を軍へ供出しなければならず、また、女性は小波津に集まり、 兵隊用の一日三度の食事の炊き出しを行う日々だった。
沖縄戦が始まる 1944 (昭和19) 年4月頃、 日本軍によって西原村小那覇の東側に飛行場建設が着手された。それに伴い、和宇慶の一部も滑走路として利用するため、 農地の整地が行われた。 日本軍がサトウキビをすべて伐採し土地を整地していた。 農地は接収されたが、検地原に集中している民家は残っていた。その後、十・十空襲で、米軍によってこの飛行場建設現場も攻撃を受け、日本軍は作業を途中で中断し、放置された。 終戦後、同飛行場は米軍によって、敷地がさらに拡張され、訓練用の飛行場としてアスファルトが敷かれ整備された。和宇慶の旧集落地 (小字検地原一帯) と南浜も軍用地として強制的に接収され、立ち入り禁止区域となった。
沖縄戦では、この地域一帯でスカイラインリッジンの戦闘と呼ばれた激戦が行われている。和宇慶集落はその戦争の真っただ中にあった。
ここからは、沖縄戦で激戦地となった155高地方面が見えている。米軍は、丘陵地と平野部を与那原方面に向けて侵攻してきた。この周辺では至る所で戦闘が行われていた。
和宇慶住民は、各収容所から地元に戻ることができず、 大半の住民が津覇など近隣集落に身を寄せていた。 その後、立ち入り禁止区域外の集落北側の宇志真原を字が買い上げ、それを各世帯に割り当てて集落を再構築し、これが現在の和宇慶集落となっている。西原飛行場となっていた元の土地が返還されたのは、1959年 (昭和34年) だった。住民はアスファルトの飛行場跡地を徐々に開墾していき、畑地として利用した。 1983年 (昭和58年)、土地改良事業として、軍用地跡にはビニールハウスによる野菜栽培が導入され、現在に至っている。
御嶽 (ウタキ)
和宇慶集落の西にある上登原の伊集との境界付近に御嶽 (ウタキ) がある。ウガンとも呼ばれている。この一帯は、和宇慶集落の発祥地と伝えられている。 戦前は、すぐ隣に伊集のウタキ (ウガン) もあり、合わせて伊集ノ嶽 (神名、和宇慶ウラソデバナノセジ御イベ) と推測される。和宇慶の御嶽 (ウタキ、ウガン) から伊集のウガンへ行く道もあったが、戦後、地滑りが起き和宇慶のウガンが100mほど下方にズレてしまい、 現在地になっている。今日はここには行かず、伊集集落訪問時に見学する事にする。
和宇慶集落に続いて、この東側に位置する南浜に移動する。南花の訪問レポートは別途。
参考文献
- 中城村史 第1巻 通史編 (1994 中城村史編集委員会)
- 中城村の文化財 第5集 中城村の拝所 (2004 中城村教育委員会)
- 中城村地域散策 (中城村教育委員会)
- 戦前の中城 (2022 中城村教育委員会生涯学習課)
- 中城村 戦前の集落 シリーズ 6 和宇慶 (2016 中城村教育委員会)
- ガイドブック 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課)
- 百年の軌跡 (2009 中城村役場企画課)
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