Okinawa 沖縄 #2 Day 203 (13/08/22) 旧中城間切 (02) Minamihama Hamlet 南浜集落

旧中城間切 南浜集落 (みなみはま)

  • 南浜公民館 (南浜集落センター)
  • 和宇慶川 (ヲーキガーラ)
  • 安里井戸 (アサトゥガー)
  • 伊集川 (イジュガーラ)
  • 潮垣線 (スガチミチ)


和宇慶集落から、海岸方面にある南浜集落に向かう。

旧中城間切 南浜集落 (みなみはま)

南浜は中城村の南東に位置し、北側は北浜、南側は西原町小那覇、西側は和宇慶が隣接し、東側は中城湾に面している。 地形は海岸 低地域で、集落内を南北に村道潮垣線が縦断している。戦前からダイコンの名産地として知られ、島ダイコンは沖縄県内にその名を広めている。南浜集落は小字 南浜原のみで構成され、字 和宇慶に属していた。行政区として独立したのは昭和12年 (1937年) に行政区として独立をしている。地籍の変更は終戦後に行われた。南浜という名称がいつ頃から使用され たのかは不明だが、小字名の南浜原にちなんでいるといわれている。
南浜は屋取集落で1879年の廃藩置県後に首里から安里門中 (楽氏) が移住してきたと伝わっている。 集落が和宇慶のはずれにあったことから、和宇慶ヌ下 (ヲーキヌシチャ) と呼ばれたり、戦前は安里姓が多かったことから、安里屋取 (アサトゥヤードゥイ) と呼ばれていた。 1935年 (昭和10年) 頃には隣接する仲松屋取 (字北浜) と共に、仲松屋取の「仲」と安里屋取の 「里」をとって「仲里」という集落をつくったが、 数年後に再び分かれた。 その後、 1937年 (昭和12年) に北浜とともに和宇慶から独立し行政区となった。戦前の南浜の集落は現在の村道の潮垣線沿いや、集落内を東西に横断する和宇慶川 (ヲーキガーラ) 沿いに立地していた。 潮垣線沿いにあたる集落西側は上屋取 (ウィーヤードゥイ )、 ヲーキガーラ沿いにあたる集落東側は海人が多く住み、下屋取 (シチャヤードゥイ) と呼ばれていた。 
南浜の人口は、1919年 (大正8年) のデータがありそれでは418人となっている。当時は和宇慶に属しており、和宇慶集落の人口は1,015人となっているので、既にこの時期には和宇慶人口と比較しても、かなり多くなっていることが判る。1937年 (昭和12年) に分離独立し行政区となったのだが、その時期戦後までのデータがなく、どのような人口推移があったのかは分からない。戦後、集落があった土地は米軍に接収され、帰還がかなわず、和宇慶や北浜などの周辺に住んでいたこともあるのだろう、1946年 (昭和21年) には79人と登録されている住民は激減している。その後、その後、飛行場となっていた土地は返還されたが、南浜の住民はもとの字に戻ることはなく、跡地は畑として利用している。
現在は数世帯しか南浜にはないが、南浜自治会には南浜周辺に住む安里門中の人たちなどが加入している。
集落の民家分布を見ても2005年までは、まとまった集落は見当たらない。

この期間、人口は256人まで増えたのだが、それをピークに減少が続き現在では僅か176人にまで減っており、減少傾向は続いている。

南浜地区は中城村の中では行政区となってからの人口増加率は最低で、マイナス58%と大正8年人口の半分以下になっており、中城村では最も人口の少ない字になっている。

南浜は明治以降にできた屋取集落なので、村としての御嶽や殿は存在しない。

中城村が発行している「中城村の屋取」に屋取集落について詳しく解説している。沖縄での屋取集落から中城村の各地域に屋取の比較がある。下のグラフは明治期の各地域の士族の人口と割合をあらわしている。首里や那覇は元々士族が住んでいた地域なので、士族の割合は高くて当然だが、それについで中頭が士族の割合が多い。これは那覇、首里の士族が帰農し屋取集落を形成したものと考えられる。中頭の中でも、中城間切は士族割合が17%と多くはないが、これは北中城村も含んでおり、中城村だけであれば26%と比較的多い地域となっている。
中城村の中で、移住してきた士族門中集団を表したのが下の図になる。この中で、屋取集落として分離独立したのが、南浜、北浜、浜、南上原、北上原、登又になる。

沖縄戦当時、中城村の海岸沿いには、米軍の攻撃を想定して200m間隔で陣地やトーチカが造られていた。 南浜では和宇慶川 (ヲーキガーラ) の側に、海に向かって銃が向けられるように穴のあいた陣地が造られていたという。また、集落内の敷地の広い家は日本兵の宿舎として使われた。南浜の人々も西原飛行場 (陸軍沖縄東飛行場) の建設のため強制的に徴用され、1日中土運び等をさせられたという。 その後十・十空襲で建設作業は中断。 放置状態の中、終戦を迎え、米軍により滑走路の拡張整備が行われて、南浜は立ち入り禁止区域となった。元住民は南浜に戻ることができず、周辺の字や村外での暮らしを余儀なくされた。1959年 (昭和34年) に飛行場土地が住民へ返還され南浜の人々はやっと故郷へ戻れることとなった。 南浜は米軍により集落は消滅して土地が敷きならされ何も無い状態だったが、戦前から各家庭の屋敷内にあった井戸を掘り起こし。それを目安にして区画割を行い、村を再建して行った。沖縄戦では南浜住民169人が犠牲になっている。この時の南浜の人口データが見当たらず、どれだけの割合の人が無くなってしまったのかは分からない。推測するに、400-500人程の人口だったとすると30%~45%ぐらいになるのではないだろうか。比較的多い戦没者を出したと思われる。


南浜集落訪問ログ



南浜公民館 (南浜集落センター)

かつての上屋取 (ウィーヤードゥイ) があった場所に公民館がある。
昔 (1944年) の航空写真を見るとこの辺りは上屋取 (ウィーヤードゥイ) 集落として民家が集中していたのだが、現在は民家はぽつりぽつりあるだけで殆ど畑となっている。

和宇慶川 (ヲーキガーラ)

公民館の前に水路が通っている。和宇慶川 (ヲーキガーラ) で和宇慶集落から南浜集落の上屋取 (写真左付近) と下屋取 (写真右付近) を通って海へと流れていた川になる。下屋取では、家の天井と川の水位が同じくらいであったことから、ティンジョーガーラ (天井川) とも呼ばれた。川が氾濫すると、ヲーキガーラよりも低い位置にあった下屋取の家に水が流れ込んできたという。川幅は約2mで、深さは脛ほどで、タナガー (手長エビ) が住むほど水が綺麗で、子どもたちが水遊びをする場所でもあったそうだ。当時は川の両岸に高い堤があり、その南側、水面より低い場所に下屋取があった。土地改良事業で、当時とは随分と地形が変わっている。

安里井戸 (アサトゥガー)

南浜公民館 (南浜集落センター) のすぐ近くの畑の中に井戸が残っている。屋号 大内が南浜に移住した際に利用していた井戸だと伝えられており、香炉も置かれて、戦前から集落で拝まれているそうだ。 戦前は屋号 浜與儀の西側の畑の中にあったが、土地改良により、村道潮垣線沿いのこの場所に移設している。南浜で紹介されていた拝所はこの安里井だけだ。

伊集川  (イジュガーラ)

この辺りには、何本も水路がある。農地なので、農業用に造られたのだろうか?その一つが、伊集集落から南浜集落の南側を通り、海へと流れる排水路の伊集川 (イジュガーラ) がある。 仲伊保 (現西原町小那覇) との境界になっていた。 普段は、水の流れはなく、子どもたちの通学路となっていたというが、大雨が降ると伊集から水が流れてきて川のようになったそうだ。細い水路で、暗渠になっている様だ。水路沿いを進むと海岸に水が流れ込んでいた。
海岸からは沖縄市、勝連方面が見渡せる。

潮垣道 (スガチミチ)

次の訪問地の北浜集落へは潮垣道 (スガチミチ) で向かう。戦前はこの道はトロッコ軌道になっており、収穫したサトウキビを西原まで運んでいた。今でも道の両脇はサトウキビ畑で、当時とはあまり変わっていないのだろう。

潮垣線を進んで、北浜集落に向かう。


参考文献

  • 中城村史 第1巻 通史編 (1994 中城村史編集委員会)
  • 中城村の文化財 第5集 中城村の拝所 (2004 中城村教育委員会)
  • 中城村の文化財 第7集 中城村の屋取 (2004 中城村教育委員会)
  • 中城村地域散策 (中城村教育委員会)
  • 戦前の中城 (2022 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 中城村 戦前の集落 シリーズ 16 浜 北浜 南浜 (2016 中城村教育委員会)
  • ガイドブック 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 百年の軌跡 (2009 中城村役場企画課)

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