Okinawa 沖縄 #2 Day 201 (08/08/22) 旧宜野湾間切 (22) Aniya Hamlet 安仁屋集落

旧宜野湾間切 安仁屋集落 (あにや、アンナ)

  • 石川 (イシジャー)
  • 殿山 (トゥンヤマ)
  • 御神墓 (ウカミバカ)
  • 前原ヌ井 (メーバルガー)
  • イシグムンモーの拝所
  • 御神屋 (ウカミヤー) 
  • 産井 (ウブガー)
  • 中森御嶽 (ナカムイウタキ)
  • 新城毛ヌ井 (アラグスクモーヌカー)
  • ビンジュルガマ


普天間集落訪問で宜野湾市内の集落巡りは終了したのだが、戦前まで存在していた集落がもう一つある。安仁屋集落で、戦後、区域全体が普天間飛行場として接収されてしまった。しばらくは普天間や野嵩に移り住み、安仁屋区は書類上は存在していたが、1964年 (昭和39年) に完全に消滅してしまった。旧住民の結束は強く、郷友会をつくり伝統を守っている。文化財は全て普天間飛行場内にあるので、訪問はできないが、フェンス外からだいたいの場所がわかるところもある。普天間集落からの帰り道に眺める事にした。


旧宜野湾間切 安仁屋集落 (あにや、アンナ)

現在、宜野湾市に安仁屋という行政区は存在しておらず、キャンプ瑞慶覧内に安仁屋の地籍が残るのみ。 住宅、耕作地、公共施設、道路など生活基盤のすべて集落全域がキャンプ瑞慶覧に接収された。 その中には、井泉の前原井 (メーバルガー) や、殿山 (トゥンヤマ) の拝所などは破壊をまぬがれ、現在も基地内に残っている。

安仁屋集落は、宜野湾村の北部、北谷村と接する低地にあり、1671年 (康熙10年) の宜野湾間切創設の際に北谷間切から編入された。 集落の移動の伝説があり、その昔、安仁屋と新城の集落は近かったが、その間に あった岩が 「アンナグワー クンケーラシ、アラグスクグワー クンタバリ (安仁屋を ひっくり返せ、 新城をしばりつけろ)」 と叫んだため、 安仁屋は下 (北側) に下がり、新城は現在の普天間飛行場のあたりに移動した”と伝わっている。旧集落は安仁屋原 (アンナバル) にあり、そのほかに、前原 (メーバル)、東原 (アガリバルー) の小字があった。安仁屋は農業が主で、稲作やサトウキビ栽培を行っていた。 集落の前方 (南西方向) に恵氏や向名嘉真の一族の前屋取 (メーヤードゥイ)、東側に當一族の屋取小 (ヤードゥイグゥー) などの屋取集落があった。 宜野湾村内で最も戸数が少ない集落だった。


沖縄戦が始まる以前には、安仁屋集落には日本軍の第62師団の一個中隊が、瓦屋根 (カーラヤー) の家を選び駐屯していた。 住民は食糧を供出させられ、老人と女性は陣地構築のため徴用された。 1010空襲の際には、ビンジュルガマに避難 していたが、その後。 チョンチョンガー周辺 や村山 (ソンヤマ) あたりに避難壕を掘った。 米軍が上陸すると、チョンチョンガーあたりの避難壕、ソンヤマあたりの避難壕や墓、前ヌ原 (メーヌハル) などに避難していた。 県外への学童疎開や今帰仁村への疎開はなかった。米軍は上陸して早いうちに安仁屋まで来ており、1945年 (昭和20年) 4月 23日には住民は米軍の捕虜になった。米軍上陸前の1944年 (昭和19年) の安仁屋の人口は240人、死者行方不明者は58人とされる。( 沖縄県平和の礎調査では、防衛隊、県外での死者を含めた犠牲者は126人とされる。)
沖縄戦後は、集落すべてを米軍基地として接収され、米軍の捕虜となった安仁屋の人々は、県内のいくつかの民間人収容所を転々としたのち、 野嵩収容所に集められた。戦後すぐの頃までは、安仁屋の集落内の建物や井戸などは残っていたが、安仁屋では帰還許可が下りず、帰ることができなかった。 野嵩や普天間などに分散して居住せざるを得なかった。現在の野嵩三区のあたりに安仁屋区の事務所を建設し、旧安仁屋の人々は野嵩三区に多く住んでいたが、ほかの地域にも分散していたので宜野湾村内に住む安仁屋出身の人々を安仁屋区民として扱っていた。 安仁屋住民は野嵩や普天間に住んでいたが、住民登録は旧集落の安仁屋で行われ、居住地域の登録住民と実際に住んでいる人口とは乖離があり、地域自治に支障があった。1951年に普天間二区、野嵩三区を新設された際に、この区に住んでいる住民はその区への住民登録が義務付けられ、 同時に新城区、安仁屋区は旧部落民のみで構成される暫定的な特別区として位置付けられた。

その後、しばらくは開放地で自由に出入りできたためかろうじて安仁屋の地域的なつながりは保てていたのだが、1955年に隣り合う伊佐浜が強制接収されると安仁屋にも立ち入りができなくなる。このように旧集落のアイデンティティは特別区として保たれたのだが、安仁屋の開放は一向に実現せず、1964年 (昭和39年)、新行政区の施行とともに行政区としての安仁屋は姿を消していった。暫くは安仁屋として区行政が続いていたが、1964年 (昭和39年) の行政区再編によって、 行政区としても安仁屋は消滅している。 安仁屋の行政区がなくなるということで、 1963年 (昭和38年)、安仁屋郷友会が結成された。旧安仁屋の人々は郷友会を中心に、祭祀行事を行っている。根屋 (ニーヤー) は美地一族の屋号 美地で、現在でも祭祀行事の中心となっている。現在も、旧安仁屋の土地すべてが、キャンプ瑞慶覧内となっており、故郷に帰れない日々が続いている。

琉球王統時代、安仁屋は野ノロの管轄に置かれていた。 年中行事には、旧暦1月1日に行われた初願い (ハチウビー )、旧暦6月15日の綱引き (チナヒチ)、 旧暦7月の盆とエイサーなどが行われていた。拝所は、殿山 (トゥンヤマ) やビンジュルガマなどがあったが、 安仁屋全域が米軍に接収されキャンプ瑞慶覧となったため、1968年 (昭和43年) 頃に安仁屋の拝所を集め、 殿山に合祀所を建立した。 現在でも郷友会で、旧暦1月2日の初詣、旧暦2月2日のクスウキー、旧暦3月の清明祭、旧暦6月15日のウマチー、新9月15日の敬老会、旧暦10月15日の苗取、 旧暦12月のフトチウガンを行っている。墓は石川 (イシジャー) の谷間や、安仁屋川 (アンナガーラ)、シールビラなどのほか、普天間の山林にあった。


安仁屋集落訪問ログ



石川 (イシジャー)

返還された米軍西普天間住宅地は、現在、開発工事中で外からしか見る事が出来ない。工事中の場所の向こうは丘陵地が横たわっている。丘陵の手前の方100~200mほどの範囲は村山 (ソンヤマ、写真左) と呼ばれ、その丘陵を縦断する谷が伸びており、その谷底の平坦地に石川 (イシジャー、写真右 資料から借用) が流れていた。新城から安仁屋集落前に流れてきた川だった。 普段は水がなかったので、川を渡って喜友名を通り、宜野湾村の役所へ通うことが多かった。 雨が降ると水が流れる川。 この石川流域の山林には安仁屋の人の墓が多数あった。

殿山 (トゥンヤマ)

村山 (ソンヤマ) の丘陵は北に伸びて、石川山 (イシジャーヤマ) に続く。この場所は安仁屋 の小字の東原 (アガリバルー) で、安仁屋集落からは遠く、普天間の人の所有地が多かった。更に北に伸びる丘陵は殿山 (トゥンヤマ) と呼ばれた山になる。この殿山の北側麓は、大昔には、安仁屋の集落があったと伝わっており、古屋敷原 (フルヤシチバル) と呼ばれていた。殿山は古屋敷集落から見る小高くなっており、旧安仁屋集落の聖域の腰当 (クサティー) だった。
ここにあった拝所 (写真左) は、この地が米軍基地に接収された戦後に、殿山 (トゥンヤマ) に合祀されている。殿山には、石の祠 (写真右) が建てられて祀っている。この祠以外には、この殿山に御嶽があったと言われているが所在地については不明だそうだ。殿山の祠に合祀され、天御嶽 (アマチヂウタキ) と書かれている。また、殿山一帯には東への遥拝所、火ヌ神、井戸、竜宮神など15の拝所がある。郷友会はこれまで年中行事に合わせて年3~4回訪れ、手を合わせてきたが、殿山も未だにキャンプ瑞慶覧内にあるので、立ち入りには米軍の許可がいる。旧安仁屋の郷友会では、許可なくお参りにいけるように市役所と米軍に交渉していたが、その後どうなったのだろう?


今でも旧安仁屋集落住民が拝んでいる拝所がある。多くは既に殿山 (トゥンヤマ) に合祀されている。写真も無いのだが、この安仁屋集落を少しでも知っておくため、資料からまとめたものが以下。


御神墓 (ウカミバカ)

殿山 (トゥンヤマ) の丘陵南側には安仁屋集落の門中墓があり、集落住民に拝まれていたが、現在は旧安仁屋集落住民が多く住んでいる野嵩三区の墓地に移し、郷友会が、晴明祭 (シーミー) での拝んでいる。

前原ヌ井 (メーバルガー)

戦前の安仁屋集落の前方南側、古屋敷原 (フルヤシチバル) には前原ヌ井 (メーバルガー) があった。 現在はキャンプ瑞慶覧内となり、殿山の合祀所に移されている。

イシグムンモーの拝所

前原ヌ井 (メーバルガー) の北側が戦前の安仁屋集落だったのだが、その集落の北にイシグンモーがあり、そこに拝所があった。現在は香炉を移し殿山の拝所に合祀され、集落の北の守り神の子ヌ方嶽 (ニヌファダキ) として祀られている。

御神屋 (ウカミヤー) 

戦前の安仁屋集落中央よりやや東側に根屋と言われる屋号 美地の屋敷内にあった神屋が特に御神屋 (ウカミヤー) と呼ばれていた。現在は基地外に移動した美地の敷地内に置かれて、安仁屋郷友会の役員に拝まれている。

産井 (ウブガー)

戦前集落東側、 屋号 ウサー富真の西側に産井 (ウブガー) があり、正月の若水 (ワカミジ) や、子どもが生まれた際の産水 (ウブミジ) に使われていた。 ここには真石 (マーイサー) が置かれていたそうだ。大小2つありお、小さい石が60斤 (36kg)、 大きい石が100斤 (60kg) で、農作業を 終えて手足を洗いに来た青年たちが、石を持 ち上げて遊んでいた。本土では力石というのだが、沖縄では地域によって呼ばれ方がまちまちだ。この安仁屋ではマーイサーというが、その他、チチイシ、サシイシ (差石)、マーイシ (真石) と呼ばれている。今まで巡った集落では、サシイシ (差石) と呼んでいるところが多かった。

中森御嶽 (ナカムイウタキ) 

場所ははっきりとは分かっていないそうだが、かつて集落東側にあった森という。当時は、特に名前もなく、拝まれてはいなかったが、いつの間にか拝所となり、中森御嶽 (ナカムイウタキ) と名前がつけられた。現在は殿山 (トゥンヤマ) の合祀所に祀られている。

新城毛ヌ井 (アラグスクモーヌカー)

戦前安仁屋集落から東に外れたところ、新城区の地番内になるのだが、新城毛ヌ井 (アラグスクモーヌカー) があり、昔、安仁屋の人が何に利用していた。由来はわからないが、拝んでいたそうだ。現在はキャンプ瑞慶覧内となっているが、現在でも拝まれているそうだ。

ビンジュルガマ

集落北東方向のビンジュルガマには拝所があったそうだ。現在はキャンプ瑞慶覧内となっているので、殿山 (トゥンヤマ) に造られた合祀所に移されている。沖縄戦時中は安仁屋集落住民がこのガマに避難していた。





これで宜野湾間切 (宜野湾村) にあった22の集落巡りは終了。次回からは北谷町か中城村か待ったのだが、北谷だとこれまでの宜野湾への同じルートを走ることになり、少し違った道を走りたいので、中城村を訪問することにする。下調べとデータ収集と加工で準備ができ次第再開予定。


参考文献

  • 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
  • ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
  • 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
  • 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
  • ぎのわんの地名 (2012 宜野湾市教育委員会文化課)

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