Okinawa 沖縄 #2 Day 201 (08/08/22) 旧宜野湾間切 (21) Futenma Hamlet 普天間集落
旧宜野湾間切 普天間集落 (ふてんま、フティマ)
- 普天満宮 (普天間宮)
- 普天満宮洞穴 (オミヤヌガマ)
- 普天満山神宮寺
- 村泉 (ムラガー)
- 天満通り
- 宮前通り
- 普天間合祀拝所
- 下ヌ泉 (シムガー)
- 慰霊塔
- 蘇鉄山の拝所 (スティチヤマヌウガミ)
- 村屋 (ムラヤー)、公民館
- 県立農事試験場 普天間試験地立種事場 (普天間高校)
- 平和祈念像原型復活プロジェクト
- 樋川泉 (ヒージャーガー)
- フォートバックナー
- 普天間橋 (フティマバシ、石平人道橋)
- 上の泉 (イーヌカー)
今日は宜野湾市の集落巡りの最終日となった。普天間集落と安仁屋集落を見ていく。これで旧宜野湾間切、宜野湾村にあった22の集落を巡ったことになる。
旧宜野湾間切 普天間集落 (ふてんま、フティマ)
普天間集落訪問ログ
普天満宮 (普天間宮)
古くから民間信仰の対象で、琉球王国時代には、国王が毎年旧暦9月9日に普天満宮を参詣する行事があった。首里から普天間街道を通って、参拝に来ていた。
- 隣村の野嵩に伝わっているのは 「大晦日に読谷の人が芋や野菜を売るために馬を引いて首里に行き、その帰り権現様と出会い、馬に乗せてくれと言われ、馬で送って行った。お宮の洞窟の前で、ここでおろしてくれと言って、権現洞の中に入って行った。権現様が、家に帰るまで明るく照らされていくのがいいか、それとも何か欲しいのがあったら言ってくれと聞く。読谷の人は、もう今晩は暗くてなんにも見えない、歩くこともできないから、明るくしてくれるのが一番いいと答えた。そうすると、この人が読谷に帰り着くまで明るくなっていた。その後、読谷の人は九月になったら、いつも空馬に鞍をおいて普天間まで拝みに来たという。更に、読谷の人は絶対に馬を殺して食べたりしなかった。
- 喜友名にも言い伝えがある。「薩摩の侍が、沖縄から国元へ船で帰ろうとしたとき、風向が向い風で出港出来ない。いくら待っても風向きは変わらず、権現さんの評判を聞き、普天間権現に拝みに来たそうだ。洞窟の中に入るとき、腰の刀を手洗い水の所に置いて、中に入って風まわりを追い風に変えて下さいと祈願をした。洞窟から出てきたら時には風向が変わっていた。刀をさすのを忘れて、そのまま馬を走らせて那覇に行き、船で薩摩に帰ってしまったそうだ。その後、忘れていった刀は人が見たら蛇になって逃げたりしていたらしいが、その薩摩の侍が後日、お礼参りにきたときまで刀はちゃんとあったそうだ。それからは、普天間権現は船旅の時に縁起がいい神様となり、拝むようになった。
普天満宮洞穴 (オミヤヌガマ)
かつては、この洞窟が本来の神殿だったのだが、本土の神社の構成に基づき神殿は拝殿の背後に造られたので、ここは奥宮となっている。洞内には石柱などの鍾乳石と、御神体や土着の神々が合祀されている。洞内はあちらこちらにしめ縄と紙垂があり、それぞれが拝所になっている。写真右下の石が御神体だそうだ。
普天満山神宮寺
境内には梵鐘があり、隣には大師堂、裏には納骨堂があり、沖縄では、珍しく立派な仏教寺院だ。
村泉 (ムラガー)
天満通り
宮前通り
普天間合祀拝所
下ヌ泉 (シムガー)
普天間樋川、村泉、上の泉 (ダキヌーウィヌミジナジガー) は米軍基地外赤基地の外からかつて場所が見えるので、訪れたが、旧集落北西、基地内にある下ヌ泉 (シムガー) は近くすらいけないのでここで、説明しておく。この下ヌ泉 (シムガー) は、下方ヌ屋取 (シチャーヌヤードゥイ) にあり、普天間川 (フティマガーラ) に向けておりていくと、途中から石畳道となりそこにあったそうだ。村泉 (ムラガー) で、普段は利用していなかったが、上ヌ泉と隔年で水撫で (ミジナディー) の行事で拝んでいた。 下方ヌ屋取の人達は湧き出た水では洗濯などをし、正月の若水 (ワカミジ) を汲んでいた。現在でもキャンプ瑞慶覧内に残っている。
合祀拝所の裏は小山になっており、平成6年にはふてんま公園として整備されている。多分普天間では一番の高台だろう。ここが昔はなにだったのかは書かれていなかったが、幾つが墓が残っていたので、墓群だったのではと思われる。頂上には展望台があり、そこで休憩。ここからは、普天間地区が見渡せる。
慰霊塔
故郷に戻ることのできなかった普天間の住民 は、現在の普天間一区や新城区に多く居住している。 その後、普天間には基地労働者や米兵、労務者相手のサービス業に従事する寄留人が増えていった。また、1953年 (昭和28年) には、軍用道路5号線 (現在の国道330号) の西側が開放され、地主会主体の普天間都市計画委員会による区画整理を行い、米軍相手のバーなどの飲食店が立ち、飲食店街が形成された。1951年 (昭和26年) 5月1日に普天間小学校南側の地区が普天間二区として独立した。また。1964年 (昭和39年) 7月1日には、区画整理された地区に普天間三区が発足し、宜野湾市の行政の中心地となっている。 しかし、普天間の住民たちは現在でも、故郷の地を踏むことができていない。
蘇鉄山の拝所 (スティチヤマヌウガミ)
村屋 (ムラヤー)、公民館
県立農事試験場 普天間試験地立種事場 (普天間高校)
平和祈念像原型復活プロジェクト
普天間高校の敷地の外に「平和祈念像原型復活プロジェクトでクラウドファンディング募集の案内があった。真志喜の森之川 (ムイヌカー) の公園内にあった天女のレリーフや糸満の平和祈念公園の平和祈念像の作者で普天間二住んでいた山田真山のアトリエがこの付近にあった。サイトを見ると早くも目標を達成して募集は終了していた。完成後50年近く経ち、修復が必要で、一般公開に向けて総額5億円の資金が必要との事で宜野湾市がふるさと納税のクラウドファンディングで資金の一部の募集をしているもの。今回で三回目だそうだ。
樋川泉 (ヒージャーガー)
フォートバックナー
普天間橋 (フティマバシ、石平人道橋)
普天間集落の北東側、北中城村との境界に普天間川 (フティマガーラ) が流れている。
この川には普天間橋 (フティマバシ) のアーチ型石橋がかけられていた。石平橋とも呼ばれていた。首里の石大工によって架けられたと歌った琉歌が残っている。橋のすぐ下流には馬に水浴びをさせる場所があり、橋のすぐ上流は、子どもたちが泳ぐ場所だった。 現在の石平人道橋あたりに架かっていた。この橋は、1902年 (明治35年) に中部地方の農産物を首里、那覇へ運ぶ普天間街道が整備されてから、間切時代の宿道 (東海道) に変わる主要な道路の一部となり、普天間参詣などでも賑わっていた。 1922年 (大正11年) に那覇~嘉手納間に沖縄県営鉄道が開通すると人の往来も減少していった。
戦時色が強まるにつれ、各地から戦勝祈願のための普天間参詣が活発になり、再び人びとの往来で賑わい、整備された石橋や街道は、米軍の進攻を容易にするものと考えられ、米軍の進攻を防ぐため日本軍により普天間橋は爆破された。1945年 (昭和20年) 4月1日に北谷に上陸した米軍は、西海岸沿いを走る県道と普天間街道 (中頭街道) を南北に分断し進攻。本土復帰 (1972年) 後も普天間、 安谷屋住民の生活道路として、また、悲惨な戦争の証として現場保存が望まれたが、老朽化が著しく危険との理由で、1981年 (昭和56年) に河川改修工事の際に宜野湾市教育委員会の記録保存調査後撤去され、 鉄骨の橋に架けかえられた。現在では石平人道橋と呼ばれている。
上の泉 (イーヌカー)
これで普天間集落巡りは終了し、帰路に着く。もう一つの最後の安仁屋集落は集落全体がキャンプ瑞慶覧内に接収されてしまい、村だけでなく行政区としても消滅している。キャンプ瑞慶覧のフェンス外からかつての集落を眺めるだけになる。その様子は別レポートに記載する。
参考文献
- 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
- ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
- 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
- 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
- ぎのわんの地名 (2012 宜野湾市教育委員会文化課)
- 普天間 三十周年記念誌 (1994 普天間一区自治会)
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