Okinawa 沖縄 #2 Day 200 (05/08/22) 旧宜野湾間切 (20) Nodake Hamlet 野嵩集落
旧宜野湾間切 野嵩集落 (のだけ、ヌダキ)
- 村屋跡、野嵩一区公民館
- トゥニムートゥ
- 根屋 (ニーヤ) の拝所
- ヌン殿内 (ヌンドゥンチ)
- 上門 (イージョー) 屋敷南の拝所
- 野嵩あしびな公園
- 西門ガジュマル
- 野嵩慰霊之塔
- 新井 (ミーガー)
- 西門坂 (イリジョウビラ)
- 上ヌ嶽 (イーヌタキ)
- 地頭火ヌ神 (ジトーヒヌカン)
- 中道 (ナカミチ)
- タキジョーガマ
- 後ヌ井 (クシヌカー)
- 野嵩後ヌ井 (クシヌカー)
- 野嵩収容所
- ハウスナンバー32
- 収容所事務所跡
- 収容所入口跡
- 洗濯班の詰所跡
- MP事務所跡配給所跡
- 警察跡
- 配給所跡
- 診療所跡
- 郵便局跡
- 上門毛 (イリジョーモ―)
- ナカジョーグーフ、製糖屋 (サーターヤー) 跡
- 御願 (ウガン) ヌカタ
- 樋川井 (ヒージャーガー)
- 野嵩石畳道
- 野嵩上後原古墓群
- 前ヌ井 (メーヌカー)
- ターバルガマ
- 拝所 (川神)
- ビンジリ拝所
- 普天間米軍基地野嵩ゲート
- ソニー坊や像
- 宜野湾市役所、市民会館
- ウフグティ
- 真玉馬場 (マダマーンマイー、まつのおか公園)
- 古牛庭(ウシナー、闘牛場)
- 野嵩タマタ原遺跡
今日は旧宜野湾間切 (宜野湾市) の最終日で野嵩集落の残りと普天間集落を訪れる。この二つの集落の前に、前回、休館でみれなかった上原集落にある佐喜眞美術館を訪れるので、いつもより1時間ほど早く出発する。
旧宜野湾間切 野嵩集落 (のだけ、ヌダキ)
集落内とその周辺にいくつもの井泉があり、湧水が豊富であった。集落には12の溜池 (クムイ) があり、防火用水や家畜の水浴び、芋や野菜の洗い場として利用されていたが、蚊の発生を防ぐために収容所時代に米軍がすべて埋めて現在は消滅している。集落内にサーターヤーが14ヵ所もあったが、普野城製糖工場ができてからは使われなくなった。雌牛の飼育も盛んで、戦前から神戸牛などの出荷も多く、宜野湾村内でも比較的裕福な集落であったという。野嵩は、開戦後すぐに、民間人収容所として利用されたので大きな戦災は受けず、当時の碁盤目状の区画がほぼ残っている。 集落を巡ると昔からの琉球石灰岩の石垣が多くの民家に残っていた。
戦後の人口増加に伴い、1964年 (昭和39年) に野嵩一区 (旧集落)、野嵩二区、野嵩三区が行政区として発足している。野嵩一区が旧野嵩集落にあたり、野嵩二区と三区は、戦後に集落が拡張していった地域になる。その後、米軍兵士を目当ての歓楽街となった。数年前まではその面影が残っていると資料には書かれていたが、今は住宅街でその面影は見られなかった。
野嵩二区公民館
野嵩三区公民館
この地域には消滅してしまった旧安仁屋集落の人たちが住んでいる。
野嵩の人口は沖縄戦後、1953年から1963年の10年間で急増している。理由についてははっきりとは分からないのだが、1964年に行政変更があり、野嵩二区、野嵩三区が発足している。それまでの、住民登録は、当該地域に住んでいても旧集落の行政区に登録していたので、実際にその地域に住んでいる人数とその地域に住民登録している人数とは大きな乖離があった。この年の行政区変更で、実際に住んでいる地域への住民登録が義務化となっている。野嵩三区には新城や安仁屋の住民が住んでおり、旧集落の返還を待っていた。その人たちが一気に住民登録をしたことにより、統計上の人口が増えたのではないかとも思える。その後も本土復帰の1972年まで伸びている。その後は行政区の変更もあったのかもしれないが以前のような人口の伸びは鈍化し、近年は微減傾向にある。
野嵩は明治時代から、常に人口の多い市域となっている。本土復帰時の1972年では宜野湾市の中で最も人口の多い地域だったこともある。
野嵩の拝所 (太字は訪問)
- 御嶽: 上ヌ嶽 (イーヌタキ)、御願ヌカタ (ウグワンヌカタ)
- 殿: 殿 (トゥン、トゥニムートゥ)
- 拝所: 上門神屋、野呂殿内
- 拝井: 後ヌ井 (クシヌカー)、前ヌ井 (メーヌカー)、新井 (ミーガー)、ヤラグワーヌカー (消滅)、ユナジガー、トゥナミガー (消滅)、ヒージャーガー
野嵩集落の主な年中行事は、旧暦6月のチナヒチ (綱引き)、旧暦7月の盆のエイサー、アガリーボンボン、旧暦八月十五夜のウチチウマチー (月祭り)、旧暦10月のカママーイ (竈廻り) などがある。 六年マール (廻り) のムラアシビ (村遊び) は大きな行事であった。 野嵩はアギ (内陸国) であるため、海に関する行事はないという。琉球王統時代、野嵩には野嵩ノロがいて、野嵩、普天間、安仁屋集落の祭祀を司っていた。戦前までは、野嵩集落ではアシビ (歌、三線、踊りなどを楽しむ祭事) が盛んで、「アシビ」の地域として賑わっていた。戦中戦後の混乱期にはこの伝統行事も途絶えていたが、生活が安定した後、「チナヒチモーイ」、「ウチチウマチー」、「マールアシ ビ」が復活され、野嵩一区自治会 (旧野嵩集落) に受け継がれている。
公民館前に野嵩の文化遺跡マップが置かれてたので、これを参考に集落を巡る。
野嵩集落訪問ログ
村屋跡、野嵩一区公民館
トゥニムートゥ
根屋 (ニーヤ) の拝所
ヌン殿内 (ヌンドゥンチ)
上門 (イージョー) 屋敷南の拝所
野嵩あしびな公園
西門ガジュマル
野嵩慰霊之塔
野嵩あしびな公園の隣に1977年 (昭和52年) に建立された野嵩慰霊之塔があり、戦争で犠牲となった集落民が祀られている。野嵩集落では、毎年、慰霊の日の後の日曜日に慰霊祭を行っている。
米軍は1945年 (昭和20) 年4月1日に沖縄本島へ上陸した。日本軍は米軍侵攻を妨害するため、ナンマチ (並松街道) の松を切って横倒しにして、石を積んでいたが、米軍は戦車に排土板をつけ、なんなく進んで来た。米軍は上陸後3日後には、野嵩に入っている。野嵩の一部の住民は今帰仁村謝名へと避難していたが、多くの住民は野嵩に残っていた。米軍が上陸すると、前村渠 (メーンダカリ) 住民約300人はターバルガマへ、後村渠 (クシンダカリ) の住民約80人はタキジョーガマへと避難した。ターバルガマやタキジョーガマでは、日本兵や警察などが、一部の住民を追い出している。壕を追い出された住民は、南部に避難して命を落としたものも多かった。1944 (昭和19年) 10月の野嵩の人口は848人で、死者行方不明者は248人とされる。 (沖縄県平和の礎調査では、防衛隊、県外での死者を含めると犠牲者は410人とされる。)
新井 (ミーガー)
西門坂 (イリジョウビラ)
上ヌ嶽 (イーヌタキ)
地頭火ヌ神 (ジトーヒヌカン)
中道 (ナカミチ)
この中道では野嵩の祭のチナヒチモーイが行われている。チナヒチモーイは戦前、地域繁栄を願う綱引きの前に、女性が参加者を鼓舞するために踊ったもので、1940年代に始まったが、沖縄戦の混乱で途絶えていたが、1991年に約50ぶりに復活し、以降毎年大会を開催している。
タキジョーガマ
後ヌ井 (クシヌカー)
野嵩収容所
宜野湾村民は、沖縄戦終了後もすぐには元の 居住地へ帰ることは許されず、野嵩の収容所から村内の耕作地へ通い、軍の仕事をしていた。 戦後2~3年の間に元居住地に戻れる事が出来たのは、喜友名、嘉数、上原、赤道、愛知、長田のみだった。普天間飛行場用地として接収された宜野湾、神山、新城、中原やキャンプ瑞慶覧の用地として接収された普天間、安仁屋、伊佐は元の集落地には戻れずに基地周辺部への移動を余儀なくされた。収容所は、1946年6月頃まで設置されていたが、それ以降は、移動が許可されても元居住地が米軍基地に囲まれていた住民は収容所の場所に戻っている。また、移動許可がされていない住民は、野嵩や普天間周辺に移動し仮住まいをしていた。疎開者や復員軍人の帰郷も続いており、その人たちはこの場所に移動してきている。まだまだ返還されていない地域も多く、その状況は今日でも続いている。
ハウスナンバー32
後ヌ井の北にも旧集落が広がっており、そこに米軍統治時代の名残がある。収容所として利用された民家を管理するため、各家には米軍が番号を付けていた。番号は163番まであったが、現在はヒンプン (衝立) に記された32番のみ残っている。当時はハウスの割当は区長が行い、保護された住民は入るハウスが決まると、警察でハウスナンバーと氏名を登録した。登録すると、食糧や衣服等の配給を受ける事が出来た。屋敷一軒には、10世帯程が住んでいたというから、公共施設が10程あったとすると、153番 x 10世帯 x 4人 で約6千人が野嵩の民家に収容されていたのだろう。ピーク時には1万人が収容されて、民家が足りず、空き地や畑に大型テントを建て収容していた。
収容所事務所跡
収容所入口跡
洗濯班の詰所跡
MP事務所跡
警察跡
配給所跡
診療所跡
郵便局跡
上門毛 (イージョーモー)
野嵩集落の北側、野嵩収容所入り口があった所の前の道路の向かいに小高い丘がある。上門毛 (イージョーモー) と呼ばれ、その中にユクターと呼ばれた集落共同墓地がある。階段を上り、林の中に入っていくと、小さな墓がいくつもある。横穴を掘り埋葬し、周囲に石を積んだ簡単な墓で、斜面を歩くと墓に足がはまってしまうこともあったという。たしかに幾つもの穴がある。多くは、現在では使われていないようで墓口が開いており、雑草に埋もれている。
ナカジョーグーフ、製糖屋 (サーターヤー) 跡
野嵩収容所入り口から、道を下った所には戦前は製糖屋 (サーターヤー) があった場所で、現在はカトリック普天間教会になっている。教会の前は小高い丘でナカジョーグーフと呼ばれ、亀墓など、先ほどの上門毛 (イージョーモー) にあった小さな墓よりも立派な墓が幾つかあった。
御願 (ウガン) ヌカタ
樋川井 (ヒージャーガー)
野嵩石畳道
県道29号線でこの宿道が分断されてしまったのだが、先程訪れた樋川崖 (ヒージャガーバンタ) の上まで石畳は続いていた。現在その場所は発掘調査中だった。整備されて石畳道が復元出来れば良いのだが。
野嵩上後原古墓群
前ヌ井 (メーヌカー)
ターバルガマ
拝所 (川神)
ターバルガマの西側の道路脇にコンクリート造りの祠がある。資料には載っていない拝所だが、置かれている香炉に「川神」と書かれている。少し道路から奥まっているので、ここにはグムイ (溜池) か井戸があったのではないだろうか?その川 (池、井泉) の神を祀っているのだろう。
ビンジリ拝所
普天間米軍基地野嵩ゲート
ビンジリ拝所から米軍基地のフェンス添いを普天間方面に進んだところに、普天間飛行場基地の野嵩ゲートがあった。基地入り口に置かれている「MCAS」の標識が置かれている。野嵩集落を巡っていると、数分おきに強烈な爆音を発しながら、飛行機やヘリコプターが普天間飛行場で発着陸をしている。飛行場に近いので、かなりの低空飛行だ。この騒音は並大抵のものではなく、住民の生活には支障があるだろう。
ソニー坊や像
国道330号線沿いで、面白いものを見つけた。胸にSONYと書かれたシャツを着た子供の像。ソニーの宣伝なのか?と思い調べたら、そうではなく、沖縄本土復帰前にソニー製品の代理店をやっていた「電波堂」の創業者の新川唯介さんが、得た利益を還元して沖縄の各地に交通安全を訴えるソニー坊やを建て始めたそうだ。どれだけのソニー坊やを建てたのかは不明だが、沖縄全土で10体以上あったそうだ。現在は本部町謝花、うるま市安慶名、西原町兼久、糸満市名城とここ宜野湾市野嵩の5箇所に残っている。
宜野湾市役所、市民会館
ウフグティ
真玉馬場 (マダマーンマイー、まつのおか公園)
古牛庭(ウシナー、闘牛場)
今日は気温は33度と沖縄では高い方なのだが、風があり、日陰を走ると、風が涼しく、体調も崩れることもなく、快調だったので、余裕をもって行き帰りには Smooth Jazz を聴きながらマイペースで走ることができた。佐喜眞美術館で館長さんと長い時間話し込んだので、予定していた普天間集落巡りの時間はなく、宜野湾野集落巡りはもう一日必要となったが、館長さんとの話は今日の一番の収穫で、楽しい時間だった。帰りは後2キロで家の所で、ぽつぽつと雨が降り出した。空を見ると黒い雲が広がっている。沖縄ではカタブイというのだが、スコールが来る兆候だ。急いで、雨宿りの場所を探し、避難。まもなく土砂降りになるが、数十分で雨は上がり、濡れることなく無事に帰宅。
参考文献
- 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
- ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
- 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
- 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
- ぎのわんの地名 (2012 宜野湾市教育委員会文化課)
2コメント
2022.08.09 15:41
2022.08.09 14:20