Okinawa 沖縄 #2 Day 200 (05/08/22) 旧宜野湾間切 (20) Nodake Hamlet 野嵩集落

旧宜野湾間切 野嵩集落 (のだけ、ヌダキ)

  • 村屋跡、野嵩一区公民館
  • トゥニムートゥ
  • 根屋 (ニーヤ) の拝所
  • ヌン殿内 (ヌンドゥンチ)
  • 上門 (イージョー) 屋敷南の拝所
  • 野嵩あしびな公園
  • 西門ガジュマル
  • 野嵩慰霊之塔
  • 新井 (ミーガー)
  • 西門坂 (イリジョウビラ)
  • 上ヌ嶽 (イーヌタキ)
  • 地頭火ヌ神 (ジトーヒヌカン)
  • 中道 (ナカミチ)
  • タキジョーガマ
  • 後ヌ井 (クシヌカー)
  • 野嵩後ヌ井 (クシヌカー)
  • 野嵩収容所
    • ハウスナンバー32
    • 収容所事務所跡
    • 収容所入口跡
    • 洗濯班の詰所跡
    • MP事務所跡配給所跡
    • 警察跡
    • 配給所跡
    • 診療所跡
    • 郵便局跡
  • 上門毛 (イリジョーモ―)
  • ナカジョーグーフ、製糖屋 (サーターヤー) 跡
  • 御願 (ウガン) ヌカタ
  • 樋川井 (ヒージャーガー)
  • 野嵩石畳道
  • 野嵩上後原古墓群
  • 前ヌ井 (メーヌカー)
  • ターバルガマ
  • 拝所 (川神)
  • ビンジリ拝所
  • 普天間米軍基地野嵩ゲート
  • ソニー坊や像
  • 宜野湾市役所、市民会館
  • ウフグティ
  • 真玉馬場 (マダマーンマイー、まつのおか公園)
  • 古牛庭(ウシナー、闘牛場)
  • 野嵩タマタ原遺跡

今日は旧宜野湾間切 (宜野湾市) の最終日で野嵩集落の残りと普天間集落を訪れる。この二つの集落の前に、前回、休館でみれなかった上原集落にある佐喜眞美術館を訪れるので、いつもより1時間ほど早く出発する。



旧宜野湾間切 野嵩集落 (のだけ、ヌダキ)

野嵩は宜野湾市東方の石灰岩台地上、米軍普天間基地に隣接している。1671年 (康熙10年) に宜野湾間切が設置される以前は中城間切の一部だった。湧水は豊富だったが水田は少なく、芋が主食で甘蔗、甘薯、大豆 、麦、粟、モチキビ等の農業も盛んだった。サトウキビ畑より芋畑が多かった。

 集落内とその周辺にいくつもの井泉があり、湧水が豊富であった。集落には12の溜池 (クムイ) があり、防火用水や家畜の水浴び、芋や野菜の洗い場として利用されていたが、蚊の発生を防ぐために収容所時代に米軍がすべて埋めて現在は消滅している。集落内にサーターヤーが14ヵ所もあったが、普野城製糖工場ができてからは使われなくなった。雌牛の飼育も盛んで、戦前から神戸牛などの出荷も多く、宜野湾村内でも比較的裕福な集落であったという。野嵩は、開戦後すぐに、民間人収容所として利用されたので大きな戦災は受けず、当時の碁盤目状の区画がほぼ残っている。 集落を巡ると昔からの琉球石灰岩の石垣が多くの民家に残っていた。

戦後の人口増加に伴い、1964年 (昭和39年) に野嵩一区 (旧集落)、野嵩二区、野嵩三区が行政区として発足している。野嵩一区が旧野嵩集落にあたり、野嵩二区と三区は、戦後に集落が拡張していった地域になる。その後、米軍兵士を目当ての歓楽街となった。数年前まではその面影が残っていると資料には書かれていたが、今は住宅街でその面影は見られなかった。


野嵩二区公民館


野嵩三区公民館

この地域には消滅してしまった旧安仁屋集落の人たちが住んでいる。

野嵩の人口は沖縄戦後、1953年から1963年の10年間で急増している。理由についてははっきりとは分からないのだが、1964年に行政変更があり、野嵩二区、野嵩三区が発足している。それまでの、住民登録は、曽於地域に住んでいても旧集落の行政区に登録していたので、実際にその地域に住んでいる人数とその地域に住民登録している人数とは大きな乖離があった。この年の行政区変更で、実際に住んでいる地域への住民登録が義務化となっている。野嵩三区には新城や安仁屋の住民が住んでおり、旧集落の返還を待っていた。その人たちが一気に住民登録をしたことにより、統計上の人口が増えたのではないかとも思える。その後も本土復帰の1972年まで伸びている。その後は行政区の変更もあったのかもしれないが以前のような人口の伸びは鈍化し、近年は微減傾向にある。

野嵩は明治時代から、常に人口の多い市域となっている。本土復帰時の1972年では宜野湾市の中で最も人口の多い地域だったこともある。


野嵩の拝所 (太字は訪問)

  • 御嶽: 上ヌ嶽 (イーヌタキ)御願ヌカタ (ウグワンヌカタ)
  • 殿: 殿 (トゥン、トゥニムートゥ)
  • 拝所: 上門神屋、野呂殿内
  • 拝井: 後ヌ井 (クシヌカー)前ヌ井 (メーヌカー)新井 (ミーガー)、ヤラグワーヌカー (消滅)、ユナジガー、トゥナミガー (消滅)、ヒージャーガー


野嵩集落の主な年中行事は、旧暦6月のチナヒチ (綱引き)、旧暦7月の盆のエイサー、アガリーボンボン、旧暦八月十五夜のウチチウマチー (月祭り)、旧暦10月のカママーイ (竈廻り) などがある。 六年マール (廻り) のムラアシビ (村遊び) は大きな行事であった。 野嵩はアギ (内陸国) であるため、海に関する行事はないという。琉球王統時代、野嵩には野嵩ノロがいて、野嵩、普天間、安仁屋集落の祭祀を司っていた。戦前までは、野嵩集落ではアシビ (歌、三線、踊りなどを楽しむ祭事) が盛んで、「アシビ」の地域として賑わっていた。戦中戦後の混乱期にはこの伝統行事も途絶えていたが、生活が安定した後、「チナヒチモーイ」、「ウチチウマチー」、「マールアシ ビ」が復活され、野嵩一区自治会 (旧野嵩集落) に受け継がれている。


公民館前に野嵩の文化遺跡マップが置かれてたので、これを参考に集落を巡る。


野嵩集落訪問ログ



まずは、かつての野嵩集落の中心に向かう。


村屋跡、野嵩一区公民館

野嵩は、1964年 (昭和39年) に野嵩一区、野嵩二区、野嵩三区に編成され、一区が旧野嵩集落にあたる。旧集落の村屋 (ムラヤー) があった場所は野嵩一区公民館になっている。野嵩には、隣接する普天間とともに基地労働者や米兵相手の飲食業者などが多く集まっていた。やがてそれらの地域は野二区、三区として独立した。

トゥニムートゥ

野嵩一区公民館の敷地内にトゥニムートゥと呼ばれる拝所がある。集落の守り神である天の神、地の神、龍宮の神が祀られており、旧暦8月15日のウチチウマチーの際に拝まれている。

根屋 (ニーヤ) の拝所

野嵩一区公民館の通りを少し東に進むと、集落に古くからある草分けの家である根屋の拝所がある。小さな神屋が置かれ、中には4基の香炉 (ウコール) が祀られている。マールアシビ (豊年祭) の際に拝まれている。

ヌン殿内 (ヌンドゥンチ)

根屋 (ニーヤ) の拝所の通りの少し東に野嵩ノロを輩出した家のヌン殿内 (ヌンドゥンチ) があり、御神屋 (ウカミヤー) が置かれている。マールアシビの道ジュネー (行列) の出発地点になっている。 ヌンドゥンチとその斜め向かいの東中加 (屋号)の仏壇を拝んでから、エイサーを踊りながら練り歩く道ジュネーが始まる。マールアシビの衣装や旗頭、ミルク (弥勒) の面等を管理していた。

上門 (イージョー) 屋敷南の拝所

ヌン殿内 (ヌンドゥンチ) のすぐ南の上門 (イージョー) 屋敷の路地脇に小さな石の祠があった。特に名前がついていないのだが、八月十五夜にウンサク (神酒) を供えていたという。 

野嵩あしびな公園

公民館の西側に野嵩あしびな公園がある。前述したマールアシビの祭の会場になっている。かつてはアシビナーとなっていた場所だ。戦前の集落ではここが西の端にあたり、これより西側は畑で、このアシビナー近くにはサーターヤーが二つ置かれていた。
マールアシビは子・午年の旧暦8月15日に行われる祭りで、ここにあったアシビナーで行われている。マールアシビは1860年頃から始まったと伝えられ、開催された年から数えて次に開催されるまで7年あることから、シチネンマール (7年廻る)、マーラシとも呼ばれている。 当日は祈願を終えた後、道ジュネーを行い、舞台上では「忠臣護佐丸」の組踊や歌劇等様々な舞踊が披露されていた。

西門ガジュマル

あしびな公園の入口の屋号地図の後ろ側に二代目の西門 (イリジョー) ガジュマルが植っている。初代イリジョーガジュマルは、道を挟んだ所に若者たちの憩いの場だったマルグーフという広場にあった。この初代ガジュマルは1987年 (昭和62年) 頃から枯れ始め、住民は再生を願い世話をしていたが、枯れてしまい、1991年 (平成3年) に拝みをして、撤去されてしまった。この二代目イリジョーガジュマルは1958年 (昭和33年) に植えられたもので、初代が枯れ、これが二代目として野嵩一区のシンボルになっており、住民に大切にされている。

野嵩慰霊之塔

野嵩あしびな公園の隣に1977年 (昭和52年) に建立された野嵩慰霊之塔があり、戦争で犠牲となった集落民が祀られている。野嵩集落では、毎年、慰霊の日の後の日曜日に慰霊祭を行っている。

米軍は1945年 (昭和20) 年4月1日に沖縄本島へ上陸した。日本軍は米軍侵攻を妨害するため、ナンマチ (並松街道) の松を切って横倒しにして、石を積んでいたが、米軍は戦車に排土板をつけ、なんなく進んで来た。米軍は上陸後3日後には、野嵩に入っている。野嵩の一部の住民は今帰仁村謝名へと避難していたが、多くの住民は野嵩に残っていた。米軍が上陸すると、前村渠 (メーンダカリ) 住民約300人はターバルガマへ、後村渠 (クシンダカリ) の住民約80人はタキジョーガマへと避難した。ターバルガマやタキジョーガマでは、日本兵や警察などが、一部の住民を追い出している。壕を追い出された住民は、南部に避難して命を落としたものも多かった。1944 (昭和19年) 10月の野嵩の人口は848人で、死者行方不明者は248人とされる。 (沖縄県平和の礎調査では、防衛隊、県外での死者を含めると犠牲者は410人とされる。)


新井 (ミーガー)

野嵩あしび庭、公民館の北には新井 (ミーガー) と呼ばれる井泉があった。1830年頃、7ヶ月余りの大干ばつが続き水不足が起っていた。首里王府からの指令で屋号 新松川の祖先が掘ったと伝えられている井泉が新井だ。 水量は豊富で沖縄戦、収容所時代にも多くの人が利用していた。 1979年に市道建設で埋め立てられ、現在はここに移設されて、碑と祠が建てられている。

西門坂 (イリジョウビラ)

新井 (ミーガー) 跡から上ヌ嶽 (イーヌタキ) に向かう坂道があり、この付近は野嵩西門原と呼ばれていた事から、西門坂 (イリジョウビラ) と呼ばれている。

上ヌ嶽 (イーヌタキ)

西門坂 (イリジョウビラ) 登り、あしびな公園の前の慰霊塔の奥に集落西側の上ヌ毛 (イーヌモー) があり、その山頂にある拝所は集落の北の神と言われている。上に登る階段があり、ここを上ると上ヌ嶽 (イーヌタキ) に出る。1982年 (昭和57年) にコンクリート製の祠に改修され、祠内には霊石が祀られている。マールアシビの前には出演者が、このイーヌモーに上って歌い、ムラヤーまで声が届くかを調べて配役を決めるビーシラビ (声調べ) が行われていたそうだ。

地頭火ヌ神 (ジトーヒヌカン)

上ヌ毛 (イーヌモー) の麓には地頭火ヌ神 (ジトーヒヌカン) がある。野嵩集落の火の神を祀っている。 以前はトゥングワーグムイに隣接していた。

中道 (ナカミチ)

地頭火ヌ神の南を東西に走る道が、かつての中道 (ナカミチ) で、野嵩集落の真ん中を通り、琉球王国時代、首里から中城間切への公道だった。

この中道では野嵩の祭のチナヒチモーイが行われている。チナヒチモーイは戦前、地域繁栄を願う綱引きの前に、女性が参加者を鼓舞するために踊ったもので、1940年代に始まったが、沖縄戦の混乱で途絶えていたが、1991年に約50ぶりに復活し、以降毎年大会を開催している。


タキジョーガマ

沖縄戦当時、後村渠 (クシンダカリ) 住民は中道沿いのここにあった鍾乳洞のタキジョウガマに避難していた。 ガマの長さは北西に約100mほどでミーガーまで続いていた。現在では、ガマ入口は埋められて駐車場となり、洞窟があったとはわからない。ガマに避難していたのは、 村のクシンダカリの人びとが約80人で、普天間から逃れてきた普天間国民学校長や郵便局長、普天満宮の神官等もいた。ガマ内の生活は、入口から奥へ水が流れていたので、両壁側の広場 (入口付近) で敷物 (ニクブク) 等を敷き生活していた。 このガマでも日本兵による一部住民の追い出しがおこなわれ、追い出された家族の中には、南部逃避行中戦死した人もいたという。

後ヌ井 (クシヌカー)

中道を東に進んだ突き当たり、先程のヌンドゥンチの東側になるのだが、そこに立派な石積みの村井 (ムラガー) だった後ヌ井 (クシヌカー) があり、生活用水として利用され、産井 (ウブミジ)、若水 (ワカミジ) を汲む場所にもなっていた。
後ヌ井は水量が豊富で、前の窪地にはコンクリートで造られた貯水槽があり、米軍専用のランドリーの設立・維持という計画の元、収容された人は野戦病院から送られてくる負傷兵のシャツ、タオル、包帯、毛布などを米軍の指揮下洗濯をしていた。この様に米軍の日常的な洗濯場としても使われ、多い時には一日500〜600着もの米軍の衣類をこの井泉で洗濯していた。洗濯をする彼女たちは軍から重宝され、北部への収容所移動対象から外されていたそうだ。案内板に当時の洗濯の様子 (写真右上) と以前の後ヌ井の写真 (左下) が載っていた。現在残っているものよりももっと広いつくりだった。石畳階段など一部は修復再現されている。
野嵩集落では、最も規模が大きい井泉で、現在でも枯れる事なく水が湧き出ている。この辺りは、井泉の名の如く、旧集落の東端あたりになる。この後ヌ井 (クシヌカー) や前ヌ井 (メーヌカー) は収容所の人達もここを利用していたので、現在でも県内各地から拝みに来るそうだ。水溜水槽の上部に香炉が置かれて、その上には賽銭が置かれていた。今でも拝みにきている人がいる様だ。

野嵩収容所

1945年 (昭和20年) 4月1日 の米軍上陸の2~3日後には、集落内に民間人収容所が設置された。 周囲の集落が戦闘で破壊されるなか、野嵩集落を収容所として使う計画だった。収容所建設とは言っても新たに建物を建てたのでは無く、野嵩集落の家屋や道路をそのまま使い、ほぼ集落全体が収容所として利用された。このため、集落は米軍の攻撃対象にはならず、破壊を免れている。ほぼ無傷で残った野嵩集落は、有刺鉄線で囲まれ、母屋や家畜小屋に至るまで民間人が収容された。 最も多いときには1万人程にもなった。初期のころ捕虜になった人たちは集落の空き家にはいって生活していたが、後から来た人たちは家には入れず、郊外の畑をブルドーザーでならして、6月ごろにはテント村ができ、大型テント1棟に地べたに適当な敷物をしいて100名ぐらいずつ、すし詰めで暮らしていた。野嵩は湧き水が豊富だったが、人が増えたことで水不足となり、真夜中から水汲みに並んでいたこともあり、収容状況は飽和状態となり、ほかの収容所へ移送されていき、野嵩収容所には、次第に宜野湾村民が集められた。収容所の出入口には見張りが立ち、MP事務所、警察留置場所、配給所、学校、診療所、郵便局などがあった。米軍に保護された収容所の民間人は、野山に放置された死体の埋葬や、伝染病予防の消毒作業などにもかりだされていた。後ヌ井は軍作業の洗濯場となっていた。

宜野湾村民は、沖縄戦終了後もすぐには元の 居住地へ帰ることは許されず、野嵩の収容所から村内の耕作地へ通い、軍の仕事をしていた。 戦後2~3年の間に元居住地に戻れる事が出来たのは、喜友名、嘉数、上原、赤道、愛知、長田のみだった。普天間飛行場用地として接収された宜野湾、神山、新城、中原やキャンプ瑞慶覧の用地として接収された普天間、安仁屋、伊佐は元の集落地には戻れずに基地周辺部への移動を余儀なくされた。収容所は、1946年6月頃まで設置されていたが、それ以降は、移動が許可されても元居住地が米軍基地に囲まれていた住民は収容所に戻っている。また、移動許可がされていない住民は、野嵩や普天間周辺に移動し仮住まいをしていた。疎開者や復員軍人の帰郷も続いており、その人たちはこの場所に移動してきている。その状況は、今日まで続いている。


ハウスナンバー32

後ヌ井の北にも旧集落が広がっており、そこに米軍統治時代の名残がある。収容所として利用された民家を管理するため、各家には米軍が番号を付けていた。番号は163番まであったが、現在はヒンプン (衝立) に記された32番のみ残っている。当時はハウスの割当は区長が行い、保護された住民は入るハウスが決まると、警察でハウスナンバーと氏名を登録した。登録すると、食糧や衣服等の配給を受ける事が出来た。屋敷一軒には、10世帯程が住んでいたというから、公共施設が10程あったとすると、153番 x 10世帯 x 4人 で約6千人が野嵩の民家に収容されていたのだろう。ピーク時には1万人が収容されて、民家が足りず、空き地や畑に大型テントを建て収容していた。


収容所事務所跡

ハウスナンバー32前の道を少し東に進んだ所の民家は収容所事務所として使われていた。


収容所入口跡

ハウスナンバー32のすぐ西の道の入り口が、野嵩集落の北の端で、ここが野嵩収容所の入口となっていた。ここには監視所があり、捕虜になった人びとが、ここでトラックから降ろされ、収容されていた。戦前、この辺りにはウシナーとサーターヤーが四つ置かれていた。

洗濯班の詰所跡

洗濯場となっていた後ヌ井 (クシヌカー) のすぐ側にあった民家は、洗濯班となっていた婦人たち二十名ほどの詰所、休憩所として使われていた。ここに薪や洗濯物を置いていた。

MP事務所跡

ハウスナンバー32番から事務所を過ぎた東側には、MP (憲兵隊) 事務所として利用されていた屋号 喜屋武 (チャン) 屋敷がある。ハウスナンバー27番だった。当初は病院として使用され、その後MP事務所となった。当時の話では、ヒンプンの上に米兵がビール瓶を置き、銃で撃って遊んでいたという。戦後、MP隊が別の場所に移動し、集落の警察署として使われるようになった。家の塀には弾痕らしき跡があった。

警察跡

MP事務所の東、収容所時代の警察が置かれていた場所。

配給所跡

MP事務所の東側には配給所が置かれていた。ハウスナンバー13番だった。食料や衣服がここで配られていたそうだ。この辺りは集落の東端で、収容所の出入口でもあった。ここにも監視所が置かれて、避難民がトラックで運ばれてきて降りる場所だった。この辺りには留置所も置かれていた。

診療所跡

屋号 徳門 (トゥクジョー) の家は診療所として使われていた。ここでは捕虜の中の医師が勤務していた。

郵便局跡

野嵩収容所時代の郵便局は、その他の施設から少し離れた中道沿いにあった。ちょうど、中道から西門坂に向かう角の民家が使われていた。


上門毛 (イージョーモー)

野嵩集落の北側、野嵩収容所入り口があった所の前の道路の向かいに小高い丘がある。上門毛 (イージョーモー) と呼ばれ、その中にユクターと呼ばれた集落共同墓地がある。階段を上り、林の中に入っていくと、小さな墓がいくつもある。横穴を掘り埋葬し、周囲に石を積んだ簡単な墓で、斜面を歩くと墓に足がはまってしまうこともあったという。たしかに幾つもの穴がある。多くは、現在では使われていないようで墓口が開いており、雑草に埋もれている。


ナカジョーグーフ、製糖屋 (サーターヤー) 跡

野嵩収容所入り口から、道を下った所には戦前は製糖屋 (サーターヤー) があった場所で、現在はカトリック普天間教会になっている。教会の前は小高い丘でナカジョーグーフと呼ばれ、亀墓など、先ほどの上門毛 (イージョーモー) にあった小さな墓よりも立派な墓が幾つかあった。


御願 (ウガン) ヌカタ

野嵩集落の北東端の樋川崖 (ヒージャガーバンタ) と呼ばれる丘稜が横たわっている。下の写真は普天間川の東の中城間切から見上げたところ。
この丘陵上部にウガンヌカタ (御願のかた) の御嶽がある。丘陵の北側へ降った県道29号線 (那覇北中城線、北中城村安谷屋 - 中城村新垣) 近くに御嶽への登り口が設けられていた。そこを登ると丘陵の上に広場があり、御嶽の祠が置かれていた。ウガンヌカタは集落の東の神であると言われ、旧暦8月15日のウチチウマチー (収穫祭) の際に祈願されていた。行事の際にはこのウガンヌカタで神酒をもらうのが伝統のしきたりだった。現在、拝所の祠内には霊石が祀られている。

樋川井 (ヒージャーガー)

御願ヌカタがある丘陵は樋川崖 (ヒージャガーバンタ) と呼ばれ、東側は中城村に面した崖 (バンタ) だった。この丘陵の御願ヌカタから道路を挟んだ西下に樋川井 (ヒージャーガー) があり、その事からこの名が付いている。普天間の人は昔は、このヒージャーガーの周辺に住んでおり、そこから普天満山神宮寺前に移動したと伝わっている。 普天間国民学校はここから水道を引いていた。 終戦直後は収容所の人々が水を汲んでいた。井泉は元々は丘陵の上の方にあったのだが、道路建設で水脈が断切られ水は枯れている。水脈の断ち切られた部分からは、今も水が湧き出しており、その通川口には龍頭の像が取り付けられていた。

野嵩石畳道

御願 (ウガン) ヌカタから北側を通る県道29号線を渡った東側に、琉球王国時代に整備された首里から中城間切への宿道の一部の野嵩石畳道が60m程残っている。中城間切の中城グスクはこの石畳道を東に進んだ所にある。当時の主要街道である中頭方東海道のひとつである宜野湾宿道と、それから分岐する勝連、具志川間切や中城間切の宿道を結ぶ要衝の地だった。この道が先程の中道に通じていたのだ。この石畳は野嵩集落から普天間川に架かる我謝橋まで急坂に造られていた。石畳築造 の年代は不明だが、宿道としての整備は薩摩藩調整図などの古地図から考えると、18世紀後半の頃と推測されている。護佐丸・阿麻和利の乱 (1458年) の際に、阿麻和利の軍勢により中城 グスクで敗れた護佐丸の妻子がこの石畳道を渡って逃げてたが、その時に追っ手に射かけられた弓矢により彼女の着物の袖が引き離されたと伝わっている。この故事から袖離れ坂 (スディバナビラ) と呼ばれている。この伝承からは第一尚氏時代に造られた事になる。
島唄の「挽物細工 (ひきものさいく、ふぃちむん)」の語りにも、この急坂に立ち周辺を見下ろす歌詞があり、 中城村一帯の田園風景が一望に見渡せる名勝ともなっている。

県道29号線でこの宿道が分断されてしまったのだが、先程訪れた樋川崖 (ヒージャガーバンタ)  の上まで石畳は続いていた。現在その場所は発掘調査中だった。整備されて石畳道が復元出来れば良いのだが。


野嵩上後原古墓群

落北東側、現在はのだけ公園となっている標高96m程の丘陵上には野嵩上後原古墓群がある。近世から戦後まで使用された古墓群で堀込墓や亀甲墓が混在しているそうだ。 死者にあの世への土産として持たせた銭貨と束にした縫い針を入れたチンダンブクルという白い色の小さな袋と思われる織布片の付着した針の束が見つかっている。


次は中道の南側の文化財を見ていく。

前ヌ井 (メーヌカー)

集落南側にも、石積みの村井 (ムラガー) としての前ヌ井 (メーヌカー) がある。ここも、生活用水、産井 (ウブミジ)、若水 (ワカミジ) として利用されていた。前ヌ井は窪地のなかにあり、道から石段をおりていく。 前方にはメーヌカーグムイがあり、湧き出た水はこのクムイ (溜池)に溜まった。クムイからの排水溝が2つあり、1つはンジュ (溝) と呼ばれ、メー ヌカーグムイを経由して暗渠を通り、北東向 きに流れ、周囲を形成しカンジャーアブからの水路と合流しタキジョーガマへと注いでいた。もう1つの北西への水路はヤマガーラグワーと呼ばれ、メーヌカーから50mほど下の洗濯場に流れていた。

ターバルガマ

沖縄戦では野嵩の前村渠 (メリンダカリ) 住民はターバルガマに避難していた。長さ1,300mにも及ぶ大きなガマで、約300人が避難していた。住宅建設で2ヵ所あった入口は埋められ、現在ではガマがあったとは分からない。日本兵に追い出された住民は南部に逃げるしか無く、そこで多くが犠牲になっている。

拝所 (川神)

ターバルガマン西側の道路脇にコンクリート造りの祠がある。資料には載っていない拝所だが、置かれている香炉に「川神」と書かれている。少し道路から奥まっているので、ここにはグムイ (溜池) か井戸があったのではないだろうか?その川 (池、井泉) の神を祀っているのだろう。


ビンジリ拝所

野嵩集落の西の端、普天間飛行場との境あたりにビンジリモーと呼ばれる山林があり、採石場となっており、石山小 (イシヤマグワー) とも呼ばれた。 ビンジリとは、集落の尻尾という意味ではないかというので、やはり村の端っこだった。戦後、普天間飛行場建設用に採掘され、山林は消滅し、現在は駐車場となっている。普天間飛行場のフェンスで仕切られた駐車場の入り口にビンジリ拝所が残っている。集落の西の神という。 現在はコンクリートの拝所になっている。この拝所は西側に隣接する新城集落に向けて建てられおり、集落の西側から悪霊を追い払う魔除けや守り神として崇められていたそうだ。別の資料ではこの「ビンジリ」とは霊石信仰の「ビジュル」を意味するとあり、先程の村の尻尾という意味とは異なった推測をしていた。

普天間米軍基地野嵩ゲート

ビンジリ拝所から米軍基地のフェンス添いを普天間方面に進んだところに、普天間飛行場基地の野嵩ゲートがあった。基地入り口に置かれている「MCAS」の標識が置かれている。野嵩集落を巡っていると、数分おきに強烈な爆音を発しながら、飛行機やヘリコプターが普天間飛行場で発着陸をしている。飛行場に近いので、かなりの低空飛行だ。この騒音は並大抵のものではなく、住民の生活には支障があるだろう。


ソニー坊や像

国道330号線沿いで、面白いものを見つけた。胸にSONYと書かれたシャツを着た子供の像。ソニーの宣伝なのか?と思い調べたら、そうではなく、沖縄本土復帰前にソニー製品の代理店をやっていた「電波堂」の創業者の新川唯介さんが、得た利益を還元して沖縄の各地に交通安全を訴えるソニー坊やを建て始めたそうだ。どれだけのソニー坊やを建てたのかは不明だが、沖縄全土で10体以上あったそうだ。現在は本部町謝花、うるま市安慶名、西原町兼久、糸満市名城とここ宜野湾市野嵩の5箇所にのこっている。


宜野湾市役所、市民会館

現在の野嵩区の南側に宜野湾市の市役所がある。この辺りは戦前は集落から遠く外れ、民家もなく農地だった。この市役所庁舎周辺のカジマヤー屋取は、戦後、米軍に強制接収され、南側の高台地域は米海軍の通信隊施設だった。復帰後は米軍と自衛隊の共同使用となり、1977年 (昭和52年) に全面返還、1980年 (昭和55年) に宜野湾市役所庁舎が落成している。
市役所の隣には市民会館があり、戦前には市民会館敷地内には拝井だったユナジーガーがあったそうだが、現在は無くなっているようだ。

ウフグティ

野嵩集落の東南の端に野嵩霊園があり、その墓地群のなかに、大石が置かれている。北中城村の新垣集落に向いて牛が座っているように見える石灰岩だったので、ウフ (大きい) クディ (牡牛) と呼ばれ、集落を守る南の神とされていた。 戦後、この場所に移されたそうだ。伝承では「普天間川をはさんで、宜野湾の野嵩にはウフグティの大岩が中城の新垣にはガンワーという大岩があって、大昔、両者は吼えあっていた。ガンワーが吠えると野嵩集落に病気が流行っていたが、ウフグティが天から落ちてきて新垣集落に吠えた。そうすると、野嵩では病気がなくなった」と伝わっている。 この大石は今では牛の形には見えないのだが、伝承では新垣集落の人に割られたという。また、移設の際に欠けてしまったのではないかとも言われている。

真玉馬場 (マダマーンマイー、まつのおか公園)

ウフグティの南、集落南側にまつのおか公園がある。ここはかつては真玉馬場 (マダマーンマイー) という馬場があった場所で、ハンタミチ (崖道) が中を通っていた。 明治のはじめ頃に、馬で人身事故があり、競馬が廃止された。馬の蹄の音がするとか、マジムン (お化け) がでるとか、馬の霊が出るという噂があったそうだ。

古牛庭(ウシナー、闘牛場)

野嵩には二つ闘牛場 (ウシナー) があった。集落南の坊主又原 (ボージマタバル) 、真玉馬場 (マダマーンマイー) の西側、あすなろ児童公園あたりに最初の、周囲を松林で囲まれた古闘牛場 (フルウシナー) があり、明治以前に使われていた。この後、集落の北側、後ヌ井の西あたりに牛毛 (ウシモー) に移っている。沖縄戦当時、占領された後、一時期、米軍兵が駐留していた。

今日は気温は33度と沖縄では高い方なのだが、風があり、日陰を走ると、風が涼しく、体調も崩れることもなく、快調だったので、余裕をもって行き帰りには Smooth Jazz を聴きながらマイペースで走ることができた。佐喜眞美術館で館長さんと長い時間話し込んだので、予定していた普天間集落巡りの時間はなく、宜野湾野集落巡りはもう一日必要となったが、館長さんとの話は今日の一番の収穫で、楽しい時間だった。帰りは後2キロで家の所で、ぽつぽつと雨が降り出した。空を見ると黒い雲が広がっている。沖縄ではカタブイというのだが、スコールが来る兆候だ。急いで、雨宿りの場所を探し、避難。まもなく土砂降りになるが、数十分で雨は上がり、濡れることなく無事に帰宅。


参考文献

  • 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
  • ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
  • 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
  • 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
  • ぎのわんの地名 (2012 宜野湾市教育委員会文化課)

2コメント

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  • Kazu Saeki

    2022.08.09 15:41

    コメントありがとうございます。気持ちの良い場所になってます。是非訪問して下さい。
  • 幻日

    2022.08.09 14:20

    クシヌカー、きれいに改修されたんですね。今度見てきます。情報ありがとうございます。