Okinawa 沖縄 #2 Day 199 (02/08/22) 旧宜野湾間切 (19) Uehara Hamlet 上原集落

旧宜野湾間切 上原集落 (うえはら)

[佐喜真美術館見学レポート追加 8月5日訪問]

  • 佐喜真 (さきま) 美術館
  • 佐喜真 (サチマ) 墓
  • 村屋跡
  • 上原児童公園
  • ヤージヌカー
  • 赤道井 (アカミチガー)
  • ンナジガー
  • 新城井 (アラグスクガー)
  • 新垣山の壕


赤道集落から上原集落に入る。ここには、今日のお目当ての佐喜真美術館があり、まずはそこに向かう。


旧宜野湾間切 上原集落 (うえはら)

宜野湾市の北東部、国道330号が中央を北東から南西方向へと貫く地域で、国道の沿いには小売店や飲食店、銀行、事業所などが所在し、文化施設として佐喜美術館がある。国道を東側に入ると戦前の道路の名残が見られ、西側は区画整理された地域となり、いずれも閑静な住宅地となっている。 現在は上原区は存在せず、行政区は中原区となっている。
上原集落は、周囲を野嵩、新城、中原、赤道に囲まれ、東側は中城村北上原に接していた。 1750年代に屋号 奥間の先祖が、首里から移住して来て開墾を始め、その後、1830年代に屋号ジャーガル仲本や、島袋などの先祖が入植し、次第に形成された旧士族層の屋取 (ヤードゥイ) 集落で、野嵩、新城、喜友名に所属しており、 それぞれ野嵩ヌ前 (ヌダキヌメー)、新城ヌ前 (アラグスヌメー)、喜友名ヌ上 (チュンナーヌイー) などと呼ばれていた。上原は旧士族層が多く居住する集落だった。屋取集落なので、見るべき文化財はそれ程多くない。上原集落では、ほとんどの家庭に協力して掘った井戸があったので、共同の井泉はあまり利用しなかった。各屋敷に井戸ができる以前にはヤージヌカーやアカミチガーなどを利用していた。琉球王国時代の測量点であった印部土手石が現存しているそうだ。
1939年 (昭和14年) に、 野嵩の石嶺原 (イシンミバル)、新城の上原 (イーバル) の一部と仲毛原 (ナカモーバル)、喜友名の濡原 (ヌーリバル) が分離独立し上原区となった。主な作物はサトウキビだったが、かつては赤土の谷間で稲作もしていたという。 稲作の跡地を畑にした場所は、タードーシ (田倒し) と呼ばれた。 サトウキビの刈り取りはイー グナー (共同作業) でやったという。当初、サトウキビはサーターヤー (製糖小屋) で自家製糖したが、トロッコの軌道が敷かれてからは、北谷村の嘉手納製糖工場にサトウキビを搬入する人も増え、廃業するサーターヤーもあった。
明治時代の地図では三つほど集落を形成した屋取集落が見られ、その周りに、ポツンポツンと民家が点在している。戦後、帰還した人達は元の住居地域は普天間飛行場として接収されており戻れず、米軍は建設した軍道5号線 (現在の国道330号線) 沿いの南側に住み始めた様だ。その後、本土復帰以降は国道330号線の北側にも住宅地が広がり、現在は全域に住宅地が広がっている。
戦前から、新しい中原区になるまでは、300人程で新中原区の三つの地域では一番少ない地域だった。1964年にこの三つの地域が合併して新中原区となった以降は上原単独の人口は見当たらない。
上原集落は屋取集落で、他の屋取集落と同様に、村としての共通の祭祀はほとんどなく、唯一、腰憩い (クシッキー) が行われている。豆類の種まきなど忙しい時期が終わった2月、3月頃に行っていた。 それ以外の拝み門中毎に個別に行っていた。上原は琉球王統時代は野嵩、新城、喜友名に属していたので、宜野湾ノロと野嵩ノロの管轄地域なのだが、御嶽や殿などは存在していないので、宜野湾ノロと野嵩ノロが関わる祭祀はなかっただろう。
上原集落内の民家には日本軍が駐留しており、家を追われた家族もいた様だ。住民は飛行場建設などの軍の作業に強制徴用された。
米軍が上陸すると、住民は自宅の避難壕やイエーグチガマのような自然壕に避難した。多くの住民は共同で掘った中城村新垣の新垣山の壕に避難していたが、住民は日本軍に壕を追い出され、多くの住民が犠牲になっている。日本軍の来なかったイエーグチガマやアラグスクガーなどに避難していた人は、その多くが助かったという。この集落でも犠牲者増加に日本軍の行動が深く関わっている。
1944年 (昭和19年) 10月の上原の人口は330人、死者行方不明者は92人で集落全体の28%にあたる。沖縄県平和の礎調査では防衛隊、県外での死者を含めると犠牲者は155人で、この数字だと47%にもなり、戦没者はかなりの高率だ。
米軍の捕虜となった人々は、県内各地の収容所から野収容所へと集められたが、元の居住地には戻れず収容所生活が続いた。1947年 (昭和22年) 2月28日に元の居住地へ移動許可がおり。1947年 (昭和22年) 4月30日にやっと戻ることができている。かつての集落の約半分を基地に接収され、残った地域の中央部を軍道5号線 (現在の国道330号) が貫き、すべての住民が元の場所に住むことはできず、集落が軍道で分断されていた。現在でも上原の土地の半分は普天間飛行場となったままだ。
現在、国道330号の西側は区画整理され新しい住宅地となっている。上原は1964年 (昭和 39年) の行政区再編で中原、赤道と合併し、行政区中原となって現在に至っている。

上原集落訪問ログ



佐喜真 (さきま) 美術館

この美術館は来て見たかった所の一つだ。テレビ番組でこの美術館のことを知った。館長の佐喜眞道夫氏が米軍と交渉して基地の一部返還に成功し1994年 (平成6年) に開館した。美術館に着いたのだが、生憎今日は閉館日だった。事前に調べておけば良かったのだが、次回は野嵩集落を訪問予定で、すぐ近くなので、館内の絵画の見学は次回にするとして、その周りを散策する。
徒歩での入り口と車での入り口の二つがある。徒歩での入り口の小径には沖縄盲学校の生徒の作品が野外展示されていた。目が見えない人の作品とは思えない。見えないのだが、何かを思いそれを手探りで作り表現しているのだろう。
次回に館内見学の際に展示されている絵画について追記する事にする。

3日後の8月5日に美術館館を訪れた。野嵩集落巡りの前に立ち寄った。
館内には3つの展示室があり、「生と死」、「苦悩と救済」、「人間と戦争」というテーマでアートを通じて戦争と平和について語りかけている。それ程多くの絵画は展示されていない。沖縄戦の図に刺激された芸術家がそれぞれの創造力で表現している。一つ一つの作品をじっくりと見て欲しい、消化不良にならないようにとの配慮がある。今は「復帰 後 私たちの日常はどこに帰ったのか展」を開催しており、沖縄出身や在住の芸術家の作品を展示していた。佐喜真さんは、自分達が望んでいた「復帰」が実現されているのか? を考えて欲しいという。これは沖縄だけの話ではなく、全世界で共通の課題だと。沖縄には望んだ自治権が与えられていない。政治により、故郷に戻れない生活が本土復帰後50年も続いている。その人たちにとって復帰は実現されていない。集落巡りで、そのような境遇の人と話す機会がある。「私たちにはまだ戦後は終わっていない」とポツンと言っていたのがいつも思い出される。
二人の沖縄出身の画家の作品が印象的だった。琉球の花鳥図を中心に作品を制作している仁添まりなと世界平和の象徴の白澤を描いた喜屋武千恵の作品。
最後の大広間に丸木位里・俊の沖縄戦の図が展示されている。位里81歳、俊70歳の晩年になって沖縄戦を描き始め、6年の歳月をかけて全14作品が制作された。この美術館はこの作品の展示のために造られている。館長の佐喜真さんが鍼灸師として丸木の治療を行い親交が深まり、沖縄戦の図をどうしても沖縄に置きたいという思いで、当時は接収されていた母方の祖母の土地に美術館の建設を思いたったそうだ。行政経由で米軍と交渉するも全く進展がなく、当時米軍幹部と親交のあった人を介して、直接、自分の思いを伝えたところ、「美術館が出来れは、宜野湾は良くなるだろう」と快諾をとったという。当時を振り返ると、行政は厄介な事を請け負ったと思い、実現させる熱意などはなかった。事務的に処理して、却下となっても良いくらいだったとの印象を持ったそうだ。1994年に開館し約30年になる。「反戦美術館」と冷ややかに批判しる人もいる。30年も続けているには苦労も多いだろう。佐喜真さんはの沖縄戦を伝えるという想いは未だに衰えていない。来館する人と常に話をして、自分の想いを伝えていた。自分にも親切に接して、率直な意見や想いを長い時間語ってくれた。沖縄ではコロナ感染が猛威をふるっているせいか、それ程来館者は多くないので、個人的に長い時間を割いてくれた。この部屋には入った壁一面に沖縄戦を経験したおじい、おばあの写真がある。一人一人の沖縄戦がある。展示されているのは丸木位里・俊の三つの作品だった。沖縄戦の図14作品の一部だ。全作品展もあったのだが、今後も企画するだろうから、その時に見てみたい。1984年制作の沖縄戦の図、1987年製作の読谷三部作のうち、チビチリガマとシムクガマの3作品を、誰もいない部屋で時間をかけて見ていく。

沖縄戦の図 (1984)

この図には丸木が、生存者からの体験談に基づき、描いた集団自決の図だ。犠牲者しか描かれていない。犠牲者の立場から描いたからだ。実際は五体揃っている死体は少なかったそうだが、ここでは全ての人が完全な体で描かれている。丸木が人の尊厳を表すために敢えてこの様に描いているという。それぞれの部分を見ていくと戦争の残酷さが胸を締め付ける。
お互いに紐を首に巻きつけて自決しようとしている婦人達。二人は死ねない。自分の首を絞める相手は死んでしまっている。一緒に死のしたが、相手だけ死に、自分が生き残った人も多くいる。助かったとしてもその後は自分が殺してしまったという苦悩が一生続く。沖縄戦は思い出したくない、話したくないという人は多い。その隣には鎌で自殺しようとしている人が描かれている。鎌での自殺は簡単ではない。長い時間苦しみながら死んでいくのだ。
これはひめゆり部隊だろうか?自決前に祈りをしている。崖から飛び込んだ人たち。子供が、母親の喉にナイフを突き刺している。
海の中には崖から飛び込んで亡くなった人達の死体が積み重なっている。海は流れ出した地で赤く染まる。
その左側には、米軍艦隊が不気味に薄っすらと描かれている。
絵の右上には裸の男たちの死体が描かれている。スパイ容疑で日本兵に処刑された人達だ。沖縄方言は日本兵には理解出来ない。米軍と通じていると疑心暗鬼になり、残虐行為を誘発していた。沖縄戦では住民は米軍も怖かったのだが、友軍と思っていた日本兵はもっと恐ろしかったという。
洞窟に向かう家族、中には赤ん坊を抱いた母親、子供たちが所狭しとして隠れている。この後、集団自決の運命が待っている。
焼け野原を行くあてもなく逃げる母親と子供達。頭には大切そうに風呂敷が。何が入っているのか? 自決する最期の時の着替えだという。死装束を持っていたのだ。死を覚悟しての逃避行だ。その下には幾つもの骸骨が描かれている。実際はバラバラになった死体は腐敗し、悪臭が漂う中の逃避行だった。転がっている骸骨の中に丸木夫婦は自分達の顔を描いている。自分達をその場に置き、当事者として描こうとしたのでは無いだろうか?
この大作の左下に丸木のメッセージが書かれている。
   恥かしめを受けぬ前に死ね
   手りゅうだんを下さい
   鎌で鍬でカミソリでやれ
   親は子を夫は妻を
   若者はとしよりを
   エメラルドの海は紅に
   集団自決とは
   手を下さない虐殺である

チビチリガマ (1987)

読谷村字波平集落のチビチリ (尻切れ) という名のガマで起こった集団自決の悲劇を描いている。1945年4月2日の事だった。
4月1日に米軍に発見されたチビチリガマの避難民は「デテキナサイ、コロシマセン」という米兵の言葉が信用できず、逆に竹槍を持って反撃に出る。米兵は竹槍で突っ込んでくる避難民に機関銃を撃ち、手榴弾を投げ込んだ。
壕内は混乱し、自決を決めた人々と活路を見い出そうとする人たちが争いとなった。怒りに狂った自決派の男がふとんや毛布などを山積みにし、火を付けた。幼い子を抱え生命の大切さを身をもって知っていた四人の女性が反発し、火を消し止めた。結局、その日は大事には至らなかったが、自決派と反自決派のいさかいはその後も続いた。
この騒然と混乱が続く中、我が子を手にかけた母親もいた。年頃の娘を持つ母親は娘が辱めを受けることを恐れて、赤ん坊を持つ母親は、子供を助ける術もなく絶望の中の事だった。
毒薬を注射して自決した人々もいた。
次第に、大半はガマでの自決を覚悟する様に変わっていった。そして毛布などにに火がつけられた。前日は止めたが、もうそれを止めることはできなかった。真っ暗の洞窟が火で真っ赤に変わり、火が人達に燃え移り、苦しみながら死んでいく。煙が充満する中、それを目の当たりにみながら、自分にも火が燃え移ってくる。地獄絵図さながらの惨状だった。避難民約140人のうち83人が犠牲になった。生き残った57名のその後の人生はどうだっただろう。死ぬも地獄、生きるも地獄だ。真相が明らかになったのは戦後38年経ってからでだった。波平集落の人々は、知っていても語ることなく、口を閉ざしていた。チビチリガマの遺族の人々自らが語り出すまでは話せなかった。地域の人々の思いを反映したものだった。

シムクガマ (1987)

もう一つの大作はチビチリガマの近くにあったシムクガマを描いている。この絵には惨劇は描かれておらず、一人も描かれておらず、ガマだけが描かれている。それは、この二つのガマは住民の運命の明暗が分けたからだ。シクムガマには当時、約千人が非難していた。助かったシムクガマと、83人が集団自決したチビチリガマ。シムクガマの生存者は自分たちが死んでもおかしくなかったと振り返り、チビチリガマで祖父母を亡くした遺族は住民らを死に追いやった戦時教育の恐ろしさを語る。米軍が上陸した1945年4月1日。夕方、炊き出しのためにガマを出た男性が銃を構えて向かってくる米兵を見つけた。「アメリカーが来た」。米兵の姿にガマ内は混乱する。竹やりで応戦しようとする警防団を、平治さんがいさめた。平三さんはガマには日本兵がいないことを説明した。「米兵は住民を殺さない」。2人で住民らを説得し、投降し全員が命拾いをした。絵の左上にメッセージが書かれている。助かった人達もチビチリガマの惨事は衝撃で、その後何十年も沖縄での出来事は話さなかった。

展示されていたのは、以上三点なのだが丸木夫婦の沖縄戦の図は14部あるというので、興味があり、調べてみた。

読谷三部作の残りの残波大獅子


沖縄戦の図 [八連作 1983] 久米島の虐殺 (1)


沖縄戦の図 [八連作 1983] 久米島の虐殺 (2)


沖縄戦の図 [八連作 1983] 喜屋武岬


沖縄戦の図 [八連作 1983] 自然壕(ガマ)


沖縄戦の図 [八連作 1983] 亀甲墓


沖縄戦の図 [八連作 1983] 暁の実弾射撃

沖縄戦の図 [八連作 1983] の「集団自決」と「ひめゆりの塔」は見つからず。

沖縄戦-きゃん岬 (1986)


沖縄戦-ガマ (1986)

母親がおんぶした幼い子供に記憶に留めて欲しいという願いで、惨劇のあったガマを見せている。

今年の6月23日の慰霊の日に、選ばれた沖縄県沖縄市立山内小学校2年生の徳元穂菜さんの「こわいをしって、へいわがわかった」の朗読について、佐喜真さんは嬉しそうに語ってくれた。多くの小学生がこの美術館を訪れ、佐喜真さんは沖縄戦の図の話をする。その度に、この絵が伝えている事を想像しなさいというそうだ。想像する事で自分のこととして捉えられる。徳元穂菜さんはここを訪れた一人だった。「こわい」と感じ想像したのが、ここに展示されている沖縄戦の図だった。この詩は大人から、こうしたらとかアドバイスがあったそうだが、穂菜さんは最後まで自分の想いと言葉にこだわってそうだ。佐喜真さんは、沖縄戦を語り継ぐ事が出来る。子供の想像力 (創造力) に可能性を見出したという。本当に嬉しそうに語ってくれた。穂菜さんの詩には感心する。想いが伝わる。それと同じように、佐喜真さんのその話ぶりには感動を得た。佐喜真さんは素晴らしい人だ。

  びじゅつかんへお出かけ
  おじいちゃんや
  おばあちゃんも
  いっしょに
  みんなでお出かけ
  うれしいな
  こわくてかなしい絵だった
  たくさんの人がしんでいた
  小さな赤ちゃんや、おかあさん
  風ぐるまや
  チョウチョの絵もあったけど
  とてもかなしい絵だった
  おかあさんが、
  七十七年前のおきなわの絵だと言った
  ほんとうにあったことなのだ
  たくさんの人たちがしんでいて
  ガイコツもあった
  わたしとおなじ年の子どもが
  かなしそうに見ている
  こわいよ
  かなしいよ
  かわいそうだよ
  せんそうのはんたいはなに?
  へいわ?
  へいわってなに?
  きゅうにこわくなって
  おかあさんにくっついた
  あたたかくてほっとした
  これがへいわなのかな
  おねえちゃんとけんかした
  おかあさんは、二人の話を聞いてくれた
  そして仲なおり
  これがへいわなのかな
  せんそうがこわいから
  へいわをつかみたい
  ずっとポケットにいれてもっておく
  ぜったいおとさないように
  なくさないように
  わすれないように
  こわいをしって、へいわがわかった

美術館の屋上には展望台が造られている。館長のアイデアで、沖縄戦の図を見て、それぞれの解釈や思いが残っている内に、この屋上に登り、沖縄戦を想像してほしいという願いから造られている。階段で上まで行くのだが、6段登り、踊り場へ、更に23段登り、景色が見える。沖縄の慰霊の日が6月23日だ。階段を数えながら登り、その日を再確認する。海の向こうに小さく薄ら島が見える。慶良間諸島だ。この島で戦闘があり集団自決の悲劇が起こった。その後、この海におびただしい数の米軍の軍艦が押し寄せ、上陸した。目の前には普天間飛行場が横たわり、宜野湾住民の生活を分断した。この飛行場の中を普天間から首里までの宿道が通り、並松 (ナンマチ) と呼ばれた松並木が通り、その街道沿いに民家が立ち並び、住民生活があった。佐喜真さんは、それを感じて欲しいという。


佐喜真 (サチマ) 墓

佐喜真美術館の前に立派な亀甲墓がある。サチマ墓と呼ばれている。この墓は佐喜真美術館の館長の佐喜真道夫さんの祖先代々の墓で、土地が帰ってきたときに、周辺住民の協力 (ユイマール) で土を盛り修復整備をしたそうだ。

村屋跡

佐喜真美術館のすぐ東には戦前の村屋があった場所になる。(佐喜美術館の道をはさんだフェンスの中あたり) 村屋は1941~1942年 (昭和16~17年) 頃に造られ、隣の広場は、エイサーの練習で使われたり、トロッコに積み込むサトウキビを一時的に置いておく場所になっていた。戦時中には日本軍が駐屯していた。

上原児童公園

佐喜真 (さきま) 美術館の隣は上原児童公園になっている。米軍基地と隣り合わせで、その間は金網フェンスで仕切られている。戦後、美術館も含め、このあたりは米軍基地として接収されていた。1978年に上原のほんの一部ではあるが、この地が返還され、土地区画整理組合をつくり、1984年から7年かけて完成した。公園はその一環で1990年に開園している。将来の発展を祈願し「躍進」と刻まれた竣工記念碑が公園内に置かれていた。美術館のあたりには戦前はアシビナーがあったそうで、場所は少し変わっているのだが、上原住民の現代版アシビナーになっている。


集落には幾つかの共同井泉があったのだが、普天間飛行場にあった井泉は残っているものもあるのだが、基地の外にあった井泉はほとんどが住宅街になり消滅している。資料にはそれぞれの井泉の説明があった。元あった場所を通った際にその付近の写真を撮っている。


ヤージヌカー

集落中央の村屋跡よりやや東側にヤージヌカーがあったそうだ。戦前には住民は飲料水には使用せず、洗濯に利用していた。水は綺麗なので、最も昔は飲料水として使っていたと思われる。水は釣瓶で汲み、洗濯場はセメントで造られていた。現在は区画整理されて消滅している。

赤道井 (アカミチガー)

集落中心から南側には赤道井 (アカミチガー)があった。各家庭に井戸が出来る前は、周囲の家庭が利用していた。 水はきれいな湧水だった。戦前にはほとんど利用されなかった。現在は宅地となって、消滅している。

ンナジガー

赤道井のすぐ西にンナジガーがある。ンナジガマーとも呼ばれた。 ガマ (洞穴) の中に水が湧いており、積石で方形に造られていたという。干ばつの際に利用し、赤道集落からも利用しに来ていたそうだ。 1945年 (昭和20年) 頃には、埋まって平坦になってしまい、現在は宅地となっている。

新城井 (アラグスクガー)

宜野湾市民広場の西側の普天間飛行場のフェンスの中に林があるが、上原集落北方向にあたる。その林の中には新城のムラガー (村井泉) が残っているそうだ。新城ヌ前 (アラグスクヌメー) の屋号 泊上江洲が利用し、若水 (ワカミジ) はここから汲んだという。 戦時中、アラグスクガーに避難した人たちは、米軍上陸後の3日目くらいに捕虜になって助かっている。



今日はいつもより少し早く集発したので、中原、赤道、上原と三つの集落を見てきたが、まだ時間が少し残っているので、次回訪問予定の野嵩集落の一部も見ることにした。巡っていると、近くにまだ文化財があるので、せっかくなので見学していると時間がすぐてしまい、ようやく切り上げて帰途に着く。



新垣山の壕

帰り道の途中、中城村の新垣の普天間川沿いに、沖縄戦当時上原集落住民が避難していた新垣山の壕があった場所を訪れた。はっきりとした場所はわからないが、だいたいこの辺りにあったと思われる。上原集落の西側の地域は自然のガマ (洞穴) があったので、そこを利用したが、 ガマがなかった東側)の地域の住民が、共同で整備した避難壕になる。長さが南北に約100m.、幅約5.6mで、通り抜けができるよう、2ヵ所の入口があったトゥールーガマ (通り抜け洞穴) で、米軍上陸後、100人ほどが避難していたが、日本軍が来て南部に逃げるように指示があり、住民は散り散りになってしまった。直ぐ近くに普天間川が流れているので、避難中はこの川の水を飲料水として使っていたのだろう。



新垣山の壕を後にして、家にたどり着いた時には7時半を回って薄暗くなっていた。今日は、気温は高いのだが (とはいっても32度ぐらいで、東京など関東に比べれば、それほど高くない) 穏やかな風が吹いており、自転車で走っていると風が気持ちよいくらいで過ごしやすい一日だった。 



参考文献

  • 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
  • ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
  • 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
  • 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
  • ぎのわんの地名 (2012 宜野湾市教育委員会文化課)
  • 沖縄戦の図 (1984 丸木位里 原爆の図丸木美術館)
  • 沖縄の心を (2006 佐喜眞道夫 佐喜眞美術館)
  • 「佐喜眞美術館のスタンス 丸木位里・俊、ケーテ・コルヴィッツを中心に」展 (2016 惣城友美)

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