Okinawa 沖縄 #2 Day 199 (02/08/22) 旧宜野湾間切 (18) Akamichi Hamlet 赤道集落

旧宜野湾間切 赤道集落 (あかみち)

  • マーカーガー
  • ミーチバカ
  • ジュリバカ (遊女墓)
  • 赤道公民館 (赤道児童センター)
  • 井泉跡 (カーc)
  • 闘牛場 (ウシモー) 跡
  • 村屋 (ムラヤー)
  • 井泉跡 (カーd)
  • 井泉跡 (カーa)
  • シキルガー跡
  • ホー三―アブ跡
  • 按司墓 (アジバカ)
  • 井泉跡 (カーb)


今日、二つ目の訪問地の赤道集落に移る。

旧宜野湾間切 赤道集落 (あかみち)

宜野湾市の中央部東側に位置する中原区内の住宅地域で、中央部を国道330号が南北に通り、国道の沿線には小売店や飲食店、自動車教習所、事業所などが所在している。主に住宅地となっている。赤道は東から西に向けて標高が低くなり、東側は崖 (ハンタ) になっており、中城村との境界だった。集落には水が染み出たジーシルタイプの小さな湧水がいくつもあった。赤道では、ほとんどの家庭に井戸があったので、共同井泉はあまり使われなかったが、 移住してきた頃、まだ各家庭に井戸がない時代は、このようなカーを利用していたので はないかという。また、干ばつの際には中原のアブガーや上原ンナジガーなどへ水を汲みにいっていた。
赤道は、周囲を上原、中原、神山、愛知に囲まれ、東側は中城村北上原に接していた。旧士族層の屋取 (ヤードゥイ) 集落で、新城、喜友名、神山、宜野湾に点在していた。1939年 (昭和14年) に、新城の上原 (イーバ ル) の一部、喜友名の上原 (イーバル) の一部、神山の総喜呂原 (シキローバル)、渡呂寒原 (トゥヌグヮンバル)、宜野湾の上原の一部と半田原 (ハンタバル) が分離独立し、赤道となった。1964年 (昭和39年) の行政区再編で、中原区と上原区と共に統合し現在の中原区となっている。

赤道単独の人口情報は、戦前直前の1944年から1953年までしか見つからなかったが、それによれば、中原と赤道の人口はほぼ同じぐらいだった。どのような背景なのかは分からないが赤道、中原、上原ともに、1953年にはそれ以前の人口に比べて6割程度に減っている。これがその後の合併するに至った理由なのだろうか?

赤道の集落全体としての聖地はないが、シキルガーやマーカーガーなど、移住してきた 当時の小集団で利用した井泉カーは拝みの対象となっていた。 年中行事では、首里や那覇などの本家を拝むウマチーを門中一族ごとに行っていた。赤道部落としては、数軒単位で腰憩い (クスッキー) を行っている。

沖縄戦当時では赤道のカーラヤーの家には日本軍が駐留していた。住民は日本軍に徴用され、 並松木を倒したり、戦車を掘らされたりしていた。 日本軍の陣地構築のため畑も潰された。赤道では、県外への学童疎開や今帰仁村への集団疎開に応じたものはあまりなく、ほとんどの住民が、集落内の壕に避難や南部方面へ避難した。1944年 (昭和19年) の赤道の人口418人に対して、死者行方不明者は153人で37%になっている。(沖縄県平和の礎調査 県外での死者を含めると犠牲者は170人とされる)
米軍の捕虜となった赤道の人々は、県内各地の収容所から野収容所へと集められたが、 元の居住地には戻れず収所生活が続いた。1947年 (昭和22年) 2月に元の居住地へ移動許可がおり、1947年 (昭和22年) 4月に赤道へ戻っている。 ただ、赤道の北西側は普天間飛行場に接収され、残された集落の中央を軍道5号線(現在の国道330号) 北東から南西に向けて貰いておりすべての赤道の人々が元の敷地に住む ことはできず、集落も分断された形になっ ていた。

赤道集落訪問ログ


赤道集落の西から見ていくことにする。


マーカーガー (未訪問)

集落西側のマーカーバルにマーカーガーがあったそうだ。現在は宅地となっているが、拝所が残されていると資料にはあったが、地図で示された場所付近を探すも、香炉は見つからなかった。写真は地図で示された場所。工場の休憩所となっている。


ミーチバカ

マーカーガー跡 (見つからず) のすぐ西に、墓群があり、その中に三連墓があり、ミーチバカと呼ばれている。三連の墓は珍しく、地元の有力門中の墓なのだろう。


ジュリバカ (遊女墓)

ミーチバカから落集中央に向かったところ、赤道公民館の西側のあかみち公園の小高い丘には、公園造成前にはは4~5基の墓があったという。ジュリバカ (遊女墓) と呼ばれていた様だ。実際にジュリ (遊女) が葬られいたのかは書かれていない。イニンビー (火) が出たと いわれ、怖いところといわれていた。墓は造成時に取り壊され、消滅している。幾つかの集落で、ジュリバカ (遊女墓) と伝えられている墓が紹介されていた。身寄りのないジュリ (遊女) を不憫に思い村人が葬っていたのだろう。本土でも、同じ理由で地元の人が遊女を葬った遊女墓があった。


赤道公民館 (赤道児童センター)

あかみち公園の隣に公民館の機能を兼ねた赤道児童センターがある。赤道、中原、上原が合併して、中原区公民館は旧中原集落の近くに移転しているが、その後の赤道の公民館的役割はこの施設でかねている。


井泉跡 (カーc)

ジュリバカ (遊女墓) の少し南東に井戸がある。現在も水が湧いているそうだ。ドアの扉で蓋がされていた。以前は、周囲の家庭が利用していたという。井泉の名前はないそうなのでとりあえず「カーc」として訪問ログの地図に記載する。


闘牛場 (ウシモー) 跡

赤道地区の南側にある特別養護老人ホーム福寿園の敷地内の一画に木々が繁る丘が残っている。戦前は、ここは闘牛場 (ウシモー) だったそうだ。丘を上がると草で覆われてはいるのだが、広場になっている。多分この広場が闘牛場 (ウシモー) 跡なのだろう。


村屋 (ムラヤー)

戦前は集落南東に村屋が置かれていた。戦後は、国道330号沿いに移動し、1964年 (昭和39年) の行政区再編で赤道、上原、中原が統合し、中原区になった際に現在の公民館の場所に移動している。


井泉跡 (カーd)

集落内を走っていて、たまたま見つけた個人宅の井戸。古い手押しポンプが設置されている。戦後はこのような井戸が、各家庭にあったのだろう。


井泉跡 (カーa)

集落東端の屋号 新百久の南側に井戸があり、この場所の二つの家で使っていた。現在も形は残っている。


シキルガー跡

赤道集落の北側あたりにシキルガーがあったそうで、地図に従い、その場所に行くも、それらしものは見当たらない。近所の人に尋ねると、昔は井泉があったと聞いた事があるが、見たことは無いので今でもあるのかも分からないと言っていた。屋号 シキルの個人所有であったので、こう呼ばれている。周辺の家庭で利用していたそうだ。だいたい、この付近にあったのだろう。


ホーミーアブー跡

赤道区の北西の端、普天間飛行場のフェンスに近いところに墓地がある。その中にホーミーアブー又はホーミーアブクワーとも呼ばれた洞窟があったそうだ。ホーミーとは沖縄方言で女性器の事で、入口は小さいが、奥は広 くなっていたので地元ではそう呼んだそうだ。現在は埋没し、消滅している。

按司墓 (アジバカ)

集落東の丘陵の尾根沿いにはハンタミチ (崖道) と呼ばれた道が走っている。今は道幅も広くなってはいるが、昔は馬車が通れるぐらいだった。崖は普天間川に向かって急な崖になっている。普天間川の向こうは中城村になる。このハンタミチが境界線になっている。

ハンタミチの東側斜面に按司墓 (アジバカ) がある。 古戦場の人骨を集めた墓で、昔のサムレー (さむらい) の骨だと伝わっている。墓があった丘の上には印部石もあったのだが、墓も印部石も2010年頃に、丘が削られて消滅してしまった。


井泉跡 (カーb)

按司墓から上原集落に向く途中、赤嶺集落の北東端になるのだが、そこにあった屋号 津堅ヌ下タマター小の北側にもポンプで水を汲み上げる井戸が残っている。現在も残っており蓋がされていたが、井戸からホースが隣の農地に伸びているので今でも使われているようだ。



これで赤道集落巡りは終わり、上原集落に向かう。



参考文献

  • 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
  • ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
  • 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
  • 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
  • ぎのわんの地名 (2012 宜野湾市教育委員会文化課)

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