Okinawa 沖縄 #2 Day 197 (19/07/22) 旧宜野湾間切 (11) Ganeko Hamlet 我如古集落
旧宜野湾間切 我如古集落 (がねこ、ガニク)
- 上之川 (イーヌカー) 橋
- 下之川 (シチャヌカー) 橋
- 我如古樋川 (ヒージャーガー)
- 我如古公民館
- 我如古平松 (ヒラマーチャー)
- 地頭火の神 (ジトゥーヒヌカン)、殿山小(トゥンヤマグヮー)
- 我如古慰霊之塔
- 我如古・西原高地の戦闘
- 我如古ヌ前 (ガニクヌメー)
- 村屋跡、砂糖屋 (サーターヤー) 跡
- 沖縄念法寺
- 西ヌ井 (イリヌカー)
- 産井 (ウブガー) ヌシッティ
- チンガーガマ
- 仲里家
- 我如古グスク
- グスクヌカー
- チブガー (未訪問)
- 我如古の陣地壕群
- メーヌワイトゥイ (前の切通し)
- ナカヌワイトゥイ (中の切通し)
- クシヌワイトゥイ (後の切通し)
- 本部御殿 (ウドゥン) 墓
もともとは、昨日に外出をし、集落巡りを予定していたが、出発直前に大雨となった。半時間程で終わったのだが、気持ちが萎えてしまい、今日にずれ込んだ。沖縄は梅雨が明けると、スコールの季節となる。一日で数回、大雨のシャワーがふる。それほど長い時間は降らないが、遭遇するとずぶぬれになる。今日も、降るかもしれないと思うが、まだ大丈夫そうなので出発。案の定、我如古集落に着いた際にパラパラと雨が降り出した。スコールはまずはこのようにパラパラと始まり、暫くするとドバーと大雨になる。直ぐに雨宿り場所を探す。閉まっている店舗の軒先に避難。やはり大雨になった。半時間程で止み、快晴となった。ここから集落巡りを開始する。
旧宜野湾間切 我如古集落 (がねこ、ガニク)
我如古の人口は比較的多い方で、米軍基地に接収されなかったためか、戦後コンスタントに人口は増え、現在でもその増加は続いている。
明治から大正にかけての人口は、宜野湾市では五番目に多い地域だったが、戦後は帰還できない集落の割り当て地として使用されたため、人口の伸びが鈍っていたが、本土復帰以降は順調に人口が増加している。現在では長田、真栄原に次いで三番目に人口の多い地区となっている。
集落民家の分布が判る地図では戦後の割り当て居住区以外には民家が見られなかったが、元の集落に戻り本土復帰当たりまでに、県道と国道沿いに住宅地が集中している。近年はそれまで、開発されていなかった東側にも住宅地が増えているのが判る。この地域はまだまだ住宅化される可能性があるように思えるので、まだまだ人口の増加は続きそうだ。
我如古集落の拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: なし
- 殿: 殿 (トゥン)
- その他拝所: 根所火ヌ神、我如古グスク、地頭火ヌ神
- 拝井: グスクガー、産井 (ウブガー 西ヌ井 イリヌカー)、我如古樋川 (ヒージャーガー)、前ヌ井 (メーヌカー、消滅)
我如古集落訪問ログ
上之川 (イーヌカー) 橋
下之川 (シチャヌカー) 橋
我如古樋川 (ヒージャーガー)
我如古公民館
我如古平松 (ヒラマーチャー)
地頭火の神 (ジトゥーヒヌカン)、殿山小(トゥンヤマグヮー)
我如古慰霊之塔
我如古・西原高地の戦闘
この地での沖縄戦は昭和20年4月6日頃から開始された。西から宇地泊、嘉数、我如古、南上原、和宇慶を結ぶ複廓陣地第一線に於ける攻防戦が行われ、この我如古はその右翼の激戦区の一つだった。右翼は独立歩兵第14大隊 (石3595) が守備を担い、我如古附近には同大隊 第2及び第4中隊と共に、独立速射砲第22大隊 (球15576) の第1中隊が所在し、普天間街道を機動、南下する敵を迎えていた。日本軍は米軍の攻撃によく耐えていたが、4月19日には我如古ラインは突破され、比屋良川を渡り、西原集落北側まで侵攻している。4月21~23日には嘉数高地も西原も陥落して、米軍は4月25日から本格的に前田高地攻略にかかっている。
我如古ヌ前 (ガニクヌメー)
現在の我如古ヌ前 (ガニクヌメー) は県道34号線 (宜野湾西原線) 沿いは商店が並び、割り当て地だった場所は少し低くなったところで住宅地になっている。写真は我如古集落住民が割り当てられていた地区。
村屋跡、砂糖屋 (サーターヤー) 跡
沖縄念法寺
我如古集落内に残っている文化財を見ていく。
西ヌ井 (イリヌカー)
産井 (ウブガー) ヌシッティ
チンガーガマ
仲里家
グスクヌカー
チブガー (未訪問)
我如古の陣地壕群
メーヌワイトゥイ (前の切通し)
ナカヌワイトゥイ (中の切通し)
クシヌワイトゥイ (後の切通し)
本部御殿 (ウドゥン) 墓
我如古集落から南に外れた所、メーヌワイトゥイ (前の切通し) から志真志集落に向かう途中に本部御殿の墓が残っている。本部御殿は、第二尚氏王統第10代尚質王の六男尚弘信、本部王子朝平を元祖とする王族にあたる。ここには亀甲墓が残っており、内部には10基の厨子 甕が確認されている。子孫の
五世の朝求は歌人として活躍し、八世の朝章は琉仏修好条約の締結において総理官を務め、十世の朝勇は一子相伝の本部御殿手の使い手で、その弟に最強空手家として名高い朝基を排出し、名門の家だ。現在は改修調査中で、作業者が測量をしていた。石垣の一つ一つに番号札が貼られていた。見学再開は9月からになると言っていた。その時に再訪することにする。
これで2日間にかけた我如古集落訪問は終了して、志真志集落訪問に移る。訪問記は別途。
参考文献
- 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
- ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
- 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
- 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
- ぎのわんの地名 (2012 宜野湾市教育委員会文化課)
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