Okinawa 沖縄 #2 Day 176 (31/03/22) 旧浦添間切 (16) Gusukuma Hamlet 城間集落
旧浦添間切 城間集落 (ぐすくま)
- 城間公民館、皇城 (コーグスク) 跡
- 合祀祠
- 鎮魂之碑
- 尚金福王の墓への遥拝所
- カーグヮー跡
- 屋富祖井泉 (ヤフソガー)
- 屋富祖カマ之嶽跡 (未訪問)
- 泉小公園、おもろの碑
- 城間南公園
- ウシモー跡、うしもー公園
- 軽便鉄道城間駅
- 泉町社交街
- 基地内の拝所跡
- 雨影 (アマカケ) 森
- ウフガ-
- ミ-ガ-
- 旧城間集落
- 青年毛、内原毛
- 東空寿 (あがりくうじゅ) 古墓群
- 古重嶽 (クジュウ)
- 亀瀬 (カーミージー)
- カーミージー橋
- 浦添市西海岸の石切場跡
- 嘉門貝塚
- 城間遺跡、城間古墓群
- パルコシティ
- 那覇軍港移設案
旧浦添間切 城間集落 (ぐすくま)
明治時代は城間集落の人口は断トツで、戦前までは最も人口の多い字だった。その後は他の地域の人口の増加率が高く、抜かれていき、現在では5番目に人口の多い地域になっている。
首位は明け渡してはいるが、それでも人口は多い地域だ。
人口の伸び率は他の字に比べて低い。民家分布の変遷を見ると、字城間の基地以外はほとんど住宅地になっており、これ以上住宅地の開発は見込めないだろう。キャンプキンザ―の返還により、この城間は大きく変わる可能性がある。
キャンプキンザ―は返還は米国、日本両政府で合意されているが、その条件は2006年の日米両政府の協議で基地内施設を他の基地 (嘉手納弾薬庫知花地区) に移設が完了、国外に移転する部隊の支援機能の解除となっているが、移設先計画が進んでおらず、また国外への機能移転は米軍に依存することから、当初2025年とされていた返還は遅れる見込みだ。返還が合意されたことにより、跡地利用の計画が協議されている。
琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: コバ森 (神名: イシノ御イベ、消滅)、 雨影 (アマカケ) 之獄 (神名: マネヅカサ御イベ、消滅)、古重獄 (神名: 羽地コイチコイチョウガナシ、消滅)、波平森 (神名: ツカサ御イベ、消滅)、屋富祖カマ之嶽 (神名: ツカサ御イベ、消滅)
- 殿: 内原之殿の殿 (消滅)
城間集落訪問ログ
屋富祖集落から城間集落に移動する。この二つの集落はぴったりと隣接しており、集落の境界は住所表示板でしかわからないほど。城間集落は戦後、米軍基地に集落が丸々接収されて、収容所から帰還がかなってから、村づくりがされた場所。浦添市の中で元の村に帰れなかったのだ小湾とこの城間の二つ。他の集落住民はが元の村に戻り復興にあったったのとは状況が異なる。村への期間がかなわないことを知った時の住民のショックは計り知れない程大きかっただろう。それでも、現在の国道58号線の東側の畑や山林、原野だった土地に集落住民総出で、住民たち自ら道路を造り、敷地を75坪くらいに定めて区画整理し、一軒ごとに家を建てて新しい部落城間を形成した。当時は戸数は約440戸だったそうだ。現在の様に、行政の支援などはなく、住民が協力して米軍から廃材を調達して造っていった。これが沖縄人の逞しさだ。まずは、新しくできた集落から巡る。
城間公民館、皇城 (コーグスク) 跡
公民館が位置している小高い丘は現在ではマンション住宅が密集しているのだが、昔はこの一帯は皇城 (コーグスク) といわれていた。城塞としてのグスクではなく、第二尚氏の17代尚灝王 ( 1787生、在位1804~1827年) の側女の出産地と伝えられている。尚灝王は1妃、2夫人、8側女がおり、9男17女の子をもうけたそうで、歴代琉球王の中では大記録を作っている?尚灝王については次回訪問先に尚灝王の隠居屋敷跡があるのでそこで詳しく触れる。
合祀祠
公民館の前の広場の傍に祠が設けられている。もともとの村屋その周りの拝所は米軍基地として接収されたので、戦後ここに移転して合祀してある。向かって右から古重嶽 (クジュウ)、内原之殿、波平森、コバ森、雨影 (アマカケ) 之嶽、又吉之殿、屋富祖ガマ之嶽が祀られている。入り口に平べったい大石が置かれていた。変わった形だ。集落の拝所で祀っていた霊石なのだろう。このすぐ裏にノロ殿内があり、火の神、後村渠、祝女殿内、前村渠が祀られているそうだが、民家で神屋などは見当たらなかった。資料では写真は載っているのだが、場所は記載されていない。公民館に人がいれば聞けたのだが、また、この近くを通ることがあるので、その時に尋ねて見よう。
資料には以前の拝所の写真があった。現在のものは随分と立派になっている。
鎮魂之碑
合祀祠の前に戦争で亡くなった人への慰霊碑が置かれている。その傍らには、犠牲になった住民の名が記されている。460柱が慰霊されており、沖縄戦で亡くなった人はそのうち407柱になる。この慰霊碑は平成元年に建てられている。
別の資料では、沖縄戦での戦没者427人で、集落人口の37%になる。
尚金福王の墓への遥拝所
公民館と道を隔てた場所はGoogle Mapでは第一尚氏の第五代尚金福王の墓への遥拝所となっていた。その場所は現在は駐車場になっており、インターネットに写真 (下) が出ていたが、遥拝所は無くなっていた。
尚金福の墓はキャンプキンザーの敷地内にあり、立ち入りができないので、ここに遥拝所が置かれた。基地内の墓は仲井真にある側室の墓に2012年 (平成24年) に移葬されている。この時にこの遥拝所も撤去されたのだろう。仲井真の墓へは202年5月に訪れた。
カーグヮー跡
屋富祖井泉 (ヤフソガー)
屋富祖カマ之嶽跡 (未訪問)
資料には琉球国由来記に記載ある屋富祖カマ之嶽 (神名ツカ サ御イベ) があった場所の写真が掲載されていた。屋富祖村と城間村との村境の小高い丘にあったというが、現在は個人の住宅になっていて消失しているそうだ。ここがどこなのかは地図もなく不明だが、屋富祖村と城間村との境界線は西と東両側に向かって下っているので、一番高い場所付近だったのだろう。
泉小公園、おもろの碑
一 ぐすくまの あさいによ
あさいによ ひろみやに
おれなおせ
かみた かみ
又 またよしの あさいによ
城間の長老様
長老様の広い庭に
降り直せ
神たち 神
又吉の長老様
城間南公園
ウシモー跡、うしもー公園
軽便鉄道城間駅
泉町社交街
基地内の拝所跡
雨影 (アマカケ) 森
城間交差点にある琉球ダイハツ販売一帯がかつての雨影 (アマカケ) 森で、ここには雨影 (アマカケ) 之獄があった。以前は米軍基地に接収され、その後返還されているが御嶽は消滅してしまっている。
ウフガ-
雨影 (アマカケ) 森にはウフガ―と呼ばれた拝井があった。現在の城間交差点の道路となっている場所だそうだが、消滅している。
ミ-ガ-
雨影 (アマカケ) 森があった琉球ダイハツ販売の裏の駐車場に部分的に森が残っていた。何かありそうなので行ってみると、窪地があり、そこに降りる通路跡が見受けられる。民族地図で確かめると、ミ-ガ-があった場所の様に思える。降りる道が設けられ、現在でもここだけ整地されていないので、多分ミ-ガ-があった場所だろう。
旧城間集落
青年毛、内原毛東空寿 (あがりくうじゅ) 古墓群
東空寿 (あがりくうじゅ) 古墓群
道から森に入る小径があった。多分墓への道だろう。古墓がある場所は現在でもその子孫たちが当世墓 (トーシーバカ) として使用している事が多くそのお参りの為の道がある。中に入るとやはりそうだった。二つ当世墓 (トーシーバカ) があった。
古重嶽 (クジュウ)
亀瀬 (カーミージー) へ向かう途中、海岸に近い橋にある丘陵には琉球国由来記に記載がある古重 (神名: 羽地コイチコイチョウ ガナシ) があったされる。現在は地形も変わっており、個人の住宅になっている。昔、浮着した羽地ノロを葬し、ニライカナイの神として拝んでおり、旅祀願所と考えられている。
亀瀬 (カーミージー)
古重獄の北側に隆起石灰岩の大岩があり、亀の形に似ていることから亀瀬 (カーミージー) とよばれている。方言で「カーミー」は亀、「シー」は岩礁または瀬という意味。地元では牛が横たわった姿に似ているとして「ウーシモウモウ」などともいわれている。大岩の上にはロープで登れるようになっている。亀の頭部分の岩場には小学生が吊をしていた。春休みで遊びに来ている。鉾にも釣り客がいたので、何が釣れるのか聞いてみたが、ここはあまりつれないそうだが、火ともあまり来ないのでのんびりとでき、たまに魚が釣れればそれでいいのだと言っていた。沖縄らしい。
カーミージー橋
このカーミージ―橋は海岸線と平行に設けられている。少し疑問が沸く、陸地に道路を造れば済むのに、わざわざ端にしている。これには複雑な背景がある。当初は海岸を完全に埋立てた敷地に、ボックスカルパート工法という少し海水路を通した「水路方式」の道路建設計画だった。
浦添市西海岸の石切場跡
石切り場跡には行けないのだが、資料にその跡の写真が数点載っていた。
嘉門貝塚
キャンプキンザ―の建設工事の際、緊急発掘調査を実施し、貝集積や埋葬人骨等の遺構に伴い、在地の貝塚時代後期土器と本土の弥生時代前期~中期に位置づけられる土器が大量に検出されている。
城間遺跡、城間古墓群
城間遺跡は石灰岩丘陵上の台地に形成され、概ね内陸側に高く海側へ低い緩やかな傾斜面を呈する地形である。文化層は時代により大きく 2 つに区分できる。上方は近世の石列遺構を主体とし、下方は沖縄貝塚時代後期の土器を包含する。
城間遺跡の海岸側には多くの古墓の見つかっている。城間古墓群と呼ばれている。
パルコシティ
カーミージー橋を渡り切った所にパルコシティの大型ショッピングセンターがある。ここで休憩をした。店内では隣にあるキャンプキンザ―に駐留している米軍兵士家族を多く見かけた。独特の雰囲気がある。
那覇軍港移設案
このパルコシティの前の海は埋め立てて、那覇港にある米軍那覇軍港の移設が決まっている。
米軍那覇軍港の返還は1974年に日米両政府で合意されていたが、その条件が県内移設であったことで、移設先が決まらず、長期間実現していない。那覇市と沖縄県はこの浦添市の海岸を提案していたが、浦添市が移設事態に反対、そして合意するも、新たな軍港案で対立、ようやく今日4月30日に日本政府が新軍港案を沖縄県に提示した (下の図)。しかし、米国が対中国の警戒感を強めている中、本当にこの移転が実現するのかは不透明だ。ここに軍港が造られた時でも、キャンプキンザーを返還するのかも不安視されている。また、キャンプキンザ―も含めての移設案では軍港だけでなく民港、リゾート地や商業地区、住宅地も含まれているが、これが実現できるかも課題。この計画案を浦添市は募集し、現在審査中の段階。
3月31日はこの後、雨の中を、那覇の泊港の那覇クルーズセンターに新型コロナの三回目のワクチン接種にむかった。
参考文献
- 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第3巻 資料編 2 民話・芸能・美術・工芸 (1982 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第4巻 資料編 3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第5巻 資料編 4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
- うらそえの文化財 (1983 浦添市教育委員会)
- 城間字誌 第1巻 城間の風景 (2000 城間自治会)
- 城間字誌 第2巻 城間の歴史 (2003 城間自治会)
- 遺跡にみる昔ぐすくま [むかし城間シリーズ 1] (1997 浦添市字城間自治会)
- 浦添市西海岸の石切場跡 城間-仲西地区 (2010 浦添市教育委員会)
- 嘉門貝塚A (1991 浦添市教育委員会)
- 嘉門貝塚B (1993 浦添市教育委員会)
- 城間遺跡 (1992 浦添市教育委員会)
- 城間東空寿古墓群 (2017 浦添市教育委員会)
- 城間古墓群(1992 浦添市教育委員会)
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