Okinawa 沖縄 #2 Day 176 (31/03/22) 旧浦添間切 (15) Yafuso Hamlet 屋富祖集落
旧浦添間切 屋富祖集落 (やふそ)
旧親富祖村 (おやふそ、エッソ)
- 漢野味 (かんのみ、神之嶽)
- 親富祖之殿 (エッソヌトゥン、おやふそのとぅん)
- 親富祖井泉 (エッソガー)
- 親富祖の根屋
旧屋富祖村 (ヤフソ)
- 屋富祖公民館 (浦添村屋富祖クラブ跡)
- 前ヌ井泉 (メーヌカー)
- おもろの碑
- 前ヌ田
- 御願 (ウガン) 山 (ニヨケシ森)
- 屋富祖之殿 (ヤフソヌトゥン)
- 屋富祖御願所のガジュマル
- 芳魂の塔
- 屋富祖の根屋 (知念家)
- 浦添オリオン座
- 浦添沖映館
- 屋富祖飲食街
- 屋富祖飲食街「豚の報い」撮影の舞台
- 井戸跡
旧浦添間切 屋富祖集落 (やふそ)
琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: ニヨケシ森 (神名: シュリヒキラヌ御イベ、テルヒキウヌ御イベ 消滅)
- 殿: 親富祖之殿 (消滅)、屋富祖之殿
屋富祖集落で行われていた祭祀行事については情報が見つからなかった。集落にあった拝所の多くは消滅しているのと、集合拝所も無いので、現在でも行われている行事は随分と少なくなっているのだろう。綱引きもかつては6月25日に行われていたが1951年を最後に途絶えてしまっている。かつての祭祀は饒平名ノロによりとり行われていた。
屋富祖集落訪問ログ
旧親富祖村 (おやふそ、エッソ)
先日訪れた宮城 (ナーグスク) 集落にあった旧饒平名 (ヨヘナ) 村の直ぐ近くには親富祖 (おやふそ、エッソ) 村があった場所になる。まずはこの周辺を巡る事から始める。
漢野味 (かんのみ、神之嶽)
そこには、ウガン山の丘陵の延長上の南側の仲西中学校一帯にある漢野味 (かんのみ) と呼ばれていた聖域があった。戦前までは樹林がおい茂っていたそうで、神之嶽と推測され、親富祖 (エッソ) 村の御嶽があった場所と考えられている。現在は中学校建設で整地されてその面影は無くなっているが、中学校正門辺りは一段高くなっており、丘陵地だった事がわかる。
親富祖之殿 (エッソヌトゥン、おやふそのとぅん)
仲西中学校となっている漢野味の傍に親富祖之殿があったとされている。この辺りで親富祖遺跡で、グスク時代の村落跡と考えられ、市道建設の際に緊急発掘調査が行われて石器、土器、中国製陶磁器などが出土している。
資料によっては親富祖グスクと紹介されているものもある。この親富祖遺跡がかつての親富祖集落の場所になる。ここには琉球国由来記の親富祖之殿があったとされており、麦稲四祭には親富祖大屋子と村内の百姓が供物を出し、根屋でつくった神酒が奉納され、饒平名ノロによりの祭祀が行われていた。殿があったとの事から、親富祖グスクは城塞ではなく聖域としてのグスクだったのだろう。ここも他の聖地と同様、破壊され中学校敷地や住宅地になり殿であった場所には給水施設タンクが設けられ、現在は駐車場に変わっている。
親富祖井泉 (エッソガー)
漢野味の宮城集落方面には、親富祖井泉 (エッソガー) が残っている。この下流は水田地稲作の前之田の水田が広がっていたそうだ。 親富祖井泉 (エッソガー) は今でも拝泉として拝まれている。
親富祖の根屋
親富祖之殿 (エッソヌトゥン) の近くには親富祖村の根屋 (ニーヤ) だった親富祖家 (屋号エッソ) の屋敷があったという。屋敷跡は住宅地で、根屋の神屋がある民家は見当たらなかった。である、に接した昔からの屋敷に居住している。 親富祖殿での祭祀ではこの親富祖 (エッソ) 家でつくった神酒 (ウンサク) が捧げられたという。親富祖村 (エッソノシマ) は屋富祖集落に吸収され、住民はそちらに移住していき、村は衰徴、離散していったが、この親富祖家は旧親富祖村に、ただ一戸残り、根屋として漢野味の神之嶽と親富祖之殿を守っていたそうだ。
旧屋富祖村
屋富祖公民館 (浦添村屋富祖クラブ跡)
まずは公民館を訪れる。この場所は戦後の復興期の1949年に開館した露天の劇場の「浦添村屋富祖クラブ」の敷地跡になる。斜面を利用した露天の劇場だったらしい。1952年に浦添沖映館が開館し、それに伴って閉館している。
前ヌ井泉 (メーヌカー)
屋富祖集落には二つの拝泉 (ウガミガー) があった。前ヌ井泉と後ヌ井泉だったが、後ヌ井泉は住宅地となり消滅している。もう一つの拝泉の前ヌ井泉が公民館の下にある。現型は失なっているが、わずかに一部が残っている。
おもろの碑
前ヌ井泉 (メーヌカー) の隣にはおもろの碑が立てられ、屋富祖集落所縁の親富祖の大親、又吉の大親と呼ばれる村の役人が、王に献上物を届ける状況を詠んだおもろが刻まれている。
一 おゑやふその大や
大やこがかない
のぼていけば
てだがほこりよわちへ
又 またよしの大や
大やこがささえ
又 けおの世かるひに
大やこがさゝげ
又 けおのきやがるひに
親富祖の大親
前ヌ田
前ヌ井泉 (カー) から流れ出る川の下流、公民館南側の一段下った所に水田があり、前ヌ田とよばれていた。かつてはそこで稲作が行われていた。水田地は時代と共にサトウキビ栽培に切り替わり消失、現在住宅地化している。公民館から住宅地にかけて、なかよし公園という広場になっており、そこには前ヌ井泉からの水で池が造られ、モニュメントとして釣瓶井戸が置かれていた。池の中には鯉やメダカが泳ぎ、蓮の花など様々な花が咲いていた。
御願 (ウガン) 山 (ニヨケシ森)
屋富祖之殿 (ヤフソヌトゥン)
屋富祖御願所のガジュマル
芳魂の塔
屋富祖集落では沖縄戦で住民の40%が犠牲になっている。また、一家全滅は集落世帯数の25%にもなっていた。
屋富祖の根屋 (知念家)
御願 (ウガン) 山の御嶽の北側、屋富祖之殿 (ヤフソヌトゥン) の近くには、屋富祖集落の根屋だった知念家の屋敷があった場所。現在は焦点になっており、神屋などは見当たらない。屋富祖集落の路地を廻ってみても、神屋をおいている民家は見当たらなかった。これは他の集落と比べて、異なっている。屋富祖集落では、旧小湾集落に移した拝所を沖縄戦後、戻さず放置したことや、戦後、繁華街に変貌したことで、かつての拝所場所などが売却されてしまったことがの原因と思える。何か事情があったのだろうが、他の浦添の集落の様に集合拝所だけは残したほうが良かったのではないかと思える。
浦添オリオン座
屋富祖の根屋の前、当時、浦添市の繁華街であった屋富祖大通りに浦添オリオン座という映画館があった。1953年に開館し、1990年まで営業をしていた。現在も建物は残っており、ヤフソオリオンという名のレストランになっている。
浦添沖映館
屋富祖大通りには別の映画館もあった。1949年に浦添劇場が沖映チェーンの傘下に入り、浦添沖映館として別の場所に開館している。その後、この場所に移動してきている。移転した時期は不明。移転後の建物は現在も残っており、OKIEIビルとなっている。映画館の裏手にはレトロな昔に映画の看板がかかっていた。
集落にはもう二つ映画館があったそうだ。一つは浦添琉映館といい、1953年に開館している。四つの開館時期から見ると、この三つの映画館が同時期に営業していたことが判る。それほど長くない屋富祖大通りに四つも映画館があったことから、戦後、屋富祖の繁昌ぶりがわかる。
屋富祖飲食街
屋富祖と隣の城間は、キャンプキンザーのメインゲートに直面していることから、屋富祖大通りと城間通り周辺には、米兵相手の飲食店や雑貨店が多く集まっていた。屋富祖大通りは、一帯で最も賑やかな目抜き通りで、通りの路地にはバーが集中していて、白人専用の特飲街を形成。城間では集落から離れた場所に1951年末頃に米兵相手の風俗店街が造られていた。これが泉町で、沖縄全土に知れ渡っていった。屋富祖大通りはキャンプキンザーができてから基地とともに発展し、かつては那覇市の国際通りと双璧を成す盛隆を誇った通りだった。一方、城間大通りは、2~3軒の雑貨店、1~2軒の沖縄人相手の料亭を有する歓楽街だった。通りの中心部付近に黒人相手の大規模店「バーアラスカ」があったことから、城間大通りは黒人たちが闊歩していた。米兵相手の娼婦に間借りをさせている家庭もあって、米兵の部落への出入りは盛んだったという。屋富祖のAサインバーに黒人が飲みに来るということはなく、それどころか黒人のハーニー (愛人) が屋富祖で間借りすることが許されないほど、この一帯の白黒の区別は徹底されていた。黒人相手の「バーアラスカ」が倒産すると、黒人兵たちは城間から姿を消してしまった。当時は米軍の中で、白人と黒人は明確に区別されていたようで、ここと同じ様に、米軍海軍基地がある小禄で小禄宇栄原の新開地新辻町 (白人向け歓楽街) と那覇山下町のペリー区 (黒人向け歓楽街) が存在していた。
今でも屋富祖大通りには全盛期からはかなりさびれてはいるのだが飲食店は幾つかあり、中にはレトロな感じの店もあった。
戦後、琉球政府は店の衛生や性病防止の目的で厳しい検査を実施しいた。店舗はコンクリート造りであることなど多額の設備投資が迫られたほか、従業員は週1度の検査が課されるなど厳しい運用だった。合格店にはAサインバーと許可証を与えていた。食中毒や性病が見つかると「オフリミット」が出され一定期間営業停止となった。このオフリミットが頻発し、1954年には米兵立ち入り禁止となり、当時の22店舗 (従業員150人) は料亭に変わり、沖縄人向けに変わってしまった。Aサインの「A」は「Approved(許可済)」の頭文字で、業種によって「A」の文字色が違っていた。(赤表示:レストラン、青表示:キャバレーやバー、黒表示:加工食品)
1950年前後から始まった軍作業ブームで全島各地から牧港補給地区 (現キャンプキンザー) 周辺の牧港、城間からの勢理客、安謝に通じる軍道1号線 (国道58号線) 沿いに全島から人々が集まったが、その中には多数の奄美人も含まれていた。当時、奄美も米軍占領下で本土にはパスポートが必要だったが沖縄にはパスポート無しでの移動ができた。このことで多くの奄美人が出稼ぎに来ていた。奄美人の一部は軍作業へ行き、その大部分は警備員になったようで、軍作業に行かなかった一部の奄美人は城間大通りや中通りで飲食店を開いた。これらの奄美人達が次々に泉町に集結していた。泉町の営業が落ち着いた頃から、奄美から呼び寄せられた人達もいたので、経営者とその家族、従業員をあわせると200〜300人は居ただろうといわれている。
屋富祖飲食街「豚の報い」撮影の舞台
屋富祖大通りから路地に入ったところに、飲み屋街がある。ちょっと前の写真 (左) からは飲み屋の軒数は減っているようだ (右) この飲み屋街は、1996年の芥川賞受賞作家の又吉栄喜氏の「豚の報い」を1999年の映画化でロケ舞台となった場所だそうだ。スナックに豚が闖入する場面。この横丁の入口に柵をして20-30頭の豚を追いたてて行われた。
インターネットにこの映画のあらすじがあった。
主人公の青年正吉は、俄に産気づいた母親が豚小屋で産み落としたのだった。その豚を船に乗せて売りに出かけた祖父は、二度と帰らなかった。また、母親と二人の姉はそのすぐ後に死んでしまい、残り三人の姉たちは、都会へ出て正吉とは交流がない。正吉は事実上天涯孤独の身になってしまったのだが、それは「豚の報い」だろうというわけである。
もう一つ、もっとストレートな報いがある。正吉が入り浸っていたバーに、逃走した豚が入りこんできて、女従業員たちをパニックに陥れる。女たちは、バーのマダムのほか二人のウェイトレスからなっていたが、一番若いワカコというウェイトレスに豚が恋をして、セックスを迫ろうとする。その様子にワカコはショックを受けて、気絶してしまうのだ。小吉はやっとの思いで豚を追い出す。この豚は養豚業者がトラックで大量輸送中に、どういうわけか全員逃げだして、町を行進した部隊の一員だった。その豚が行進する様子が何とも面白い。今村昌平の傑作「豚と軍艦」の一シーンを想起させられる。
バーの女たちは、正吉の勧めもあって、厄払いをする決心をする。正吉の故郷の離島に厄払いの儀式をするところがあり、効き目がよいと言われて、皆でその離島に繰り出すのだ。実は正吉は、風葬されてから十二年たった父親の骨を拾って、墓に埋葬してやろうという魂胆で、女たちは金づるのつもりで誘ったというわけなのである。そんなことは知らない女たちは、正吉に案内されて離島に到着し、ある民宿にとまって厄払いの機会を待つ。
その民宿の女将は正吉をよく知っていて、歓待してくれる。正吉は島の人々に風葬の場所を聞いたりして、父親の骨を拾う準備をする。一方、女たちには、天気が悪いことを理由に、厄払いを先延ばしして時間稼ぎをしようとする。退屈した女たちは、正吉を誘惑してセックスの相手をさせようとしたりもするが、正吉はどうも淡白なようで、その誘いには乗らない。一人とセックスしたら、ほかの二人ともしなければならないし、面倒なだけだ、というふうな雰囲気が伝わって来る。
そのうち、豚の内臓を食ったのが原因で、女たちはみなひどい下痢になる。なかでもママの下痢はひどく、正吉は彼女を背負って病院まで連れていかざるを得なくなる。そのうえ、女に付き添って面倒を見る羽目になり、女が汚した下着を始末しろと命令される始末。挙句は、お前はわたしの恥ずかしいところを見たのだから、もう顔を見たくもないなどと、無闇なことまで言われる。
小吉はついに風葬の場所を見つけ、そこで父親の骸骨を見る。しかしどういうわけか、そのままそこに眠らせておくことにして、墓のかわりに祭壇のようなものをつくる。それをウタキと称して、女たちに拝ませようというのだ。
こんな具合に、風葬とか沖縄流の葬儀とかを種にして、青年と女たちとの関わり合いをコメディタッチに描いた作品。
井戸跡
今日は三回目のコロナ予防接種を予約している。クーポンが届いていたので、電話をかけると、予約はガラガラのようで、今日からでも予約可能という事で予約した。沖縄接種率は相変わらず、ダントツで最下位だ。会場は那覇クルーズセンター。
コロナ流行前は連日中国からの大型クルーズ船が停泊していたが今は訪れるクルーズ船もなく、使い道がなく、接種会場になっている。2年前に撮ったこの場所の写真。こんな大型クルーズが大量の中国人観光客を運んで来ていたのだが、随分と状況は変わってしまった。
参考文献
- 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第3巻 資料編 2 民話・芸能・美術・工芸 (1982 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第4巻 資料編 3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
- 浦添市史 第5巻 資料編 4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
- うらそえの文化財 (1983 浦添市教育委員会)
- 屋富祖戦後写真集 (2012 屋富祖戦後写真集編集委員会)
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