Okinawa 沖縄 #2 Day 177 (05/04/22) 旧浦添間切 (17) Ohira Hamlet 大平集落

旧浦添間切 大平集落 (おおひら)

  • 大平公民館
  • 井戸跡
  • 軽便鉄道路線 線路跡

今日は浦添市の集落巡り最終日で牧港集落を訪れる。そこへの道の途中には明治以降に集落が形成された大平集落と港川集落がある。まずは大平集落を訪れる。

旧浦添間切 大平集落 (おおひら)

首里からの帰農士族の屋取が、城間、宮城、仲間沢、安波茶にまたがって存在していた。200-250年前に村が始まったと考えられてる。佐久川家が多かったので佐久川屋取とも呼ばれていた。行政区分では村の主たる地域が安波茶にあり、安波茶集落の管理下になっていたが、1944年 (昭和19年) に安波茶から分離した。
人口の推移を見ると人口が増加したのは戦後、小湾集落住民が新部落を形成した時期と本土復帰の前になる。復帰で米軍関係の仕事が減り人口は停滞していた。それ以降1990年代末にかけて再び増加、2000年代は減少に転じ、ここ数年は再度人口が増加している。
屋取集落として始まった集落としては、比較的人口増加は多い方だ。現在では浦添市の中では人口は真ん中ぐらいに位置している。

沖縄戦の被害は比較的大きく集落住民の53%にあたる139人が命を失っている。

人口の増加率は、元々が小さな集落だったこともあり、戦後、本土復帰で高い率になっている。
明治時代の地図を見ると、屋取集落の特徴が表れている。まとまった集落ではなく、各帰農士族の家族や血縁者が借りた農地の側に家を建てていた。そのような住居が分散して何箇所か見える。戦後は字大平の北側の字宮城に接する地域は、米軍基地として村を接収された小湾集落住民が宮城と大平にまたがって新部落を造っていた。本土復帰以降、民家は南側に広がっている。
明治以降の屋取集落なので、琉球国由来記に記載された拝所は無い。集落を走ってみたが拝所らしきものは無く、唯一移住して新部落を造った小湾集落の集合拝所 (お宮) だけだった。集落ができた明治時代から現在に至ってどのような祭祀が行われているかの情報は無いのだが、屋取集落だったので拝所もなくほとんど行われていなかったと思われる。


大平公民館

大平公民館に向かう。この大平集落の文化財の情報は全く無く、公民館で何か情報がもらえるかと思い来てみたが、生憎、誰も詰めておらず収穫はなかった。

井戸跡

大平公民館のすぐ東の民家の中に二つ井戸跡があった。香炉などは置かれていないので、集落の拝井ではない様だ。二つの井戸は道を挟んであった。民家の敷地内なので個人所有の井戸かも知れない。一つは古びた手押しポンプが付いている。どうも保存している様に思えるので、こちらの井戸は村の人も使用していた大切な井戸と推測できる。もう一つは電動ポンプが設置されている。今でも使われている様だ。

軽便鉄道路線 線路跡

公民館からパイプライン通りに出る。このパイプライン通りは、戦後米軍が給油パイプを敷設していたことから、そう呼ばれているが、戦前は軽便鉄道の路線だった。パイプライン通りの歩道に、当時使われていた線路の一部をモニュメントとして残していた。この場所は旧内間駅から旧城間駅の中間点になる。軽便鉄道はこのパイプラインをもう少し北に進んだ所で、城間通りをとおって現在の城間交差点付近にあった旧城間駅に向かうことになる。

結局大平集落はこれだけしか見どころが無かった。これから軽便鉄道の路線を辿って、屋富祖集落、城間集落を通り港川集落に向かう。

参考文献

  • 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第3巻 資料編 2 民話・芸能・美術・工芸 (1982 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第4巻 資料編 3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第5巻 資料編 4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)

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