Okinawa 沖縄 #2 Day 177 (05/04/22) 旧浦添間切 (18) Minatogawa Area 港川区

港川集落

  • 港川自治会
  • 尚穆王邸宅の礎石
  • 港川村代御宮
  • Charlie’s Ridge Battle Site
  • ピザハウス
  • 港川ステイツサイドタウン
  • シール川湧神拝所
  • ユクイ岳
  • 亀瀬 (カーミージ―)

大平地区を訪ねた後、屋富祖、城間を通って港川に入る。


港川集落

港川は、屋取集落で、海岸近くに首里から移り住んだ10世帯が暮らしたのが始まりという。字港川の成立は1944年 (昭和19年) で、当時はわずか50世帯程度の小さな村だった。戦時行政の一環として城間と牧港の一部が分離独立して出来た字。この字港川につての情報はほとんど見当たらなかった。

1944年に分離独立した翌年には沖縄戦となるのだが、当時の人口は226人 (48戸) と浦添では三番目に小さな村だったが、何度か人口が急増している時期が見られる。その背景についてはわからないのだが、いくつもの住宅地ガ開発され、現在ではそれぞれが自治会を持つほどに人口は増えてきた。近年はその増加も落ち着いているようだ。

浦添市の各字の年代別の人口を見ると、港川は本土復帰後に大きく拡大していることが判る。現在では人口の多いグループに入っている。那覇で働く人たちのベッドタウンになっている。

人口の増加率については、元々が小さな村だったこともあるが、断トツでトップになっている。明治時代から約40倍にも人口が増加している。

明治時代は屋取集落で、民家が分散していたことが判る。集落を造る程のまとまった民家の集団はなかった。それが、本土復帰前後に多くの住宅地が開発され急激に民家が広がっている。国道58号線の南側に民家は集中しており、北側には港が近いせいもあり工場、倉庫などが多くある。

明治以降の屋取集落だったので、琉球国由来記には拝所などの記載はない。また、字として行われている祭祀についても分からなかった。ただ、他の屋取集落と少し異なっているのは集合拝所が自治会館に置かれていることだ。どのような経緯でこの集合拝所が置かれたのか、どの集団 (門中) が御願をしているのかは気になった。



港川集落訪問ログ



港川自治会

港川自治会は1944年 (昭和19年) に始まった。成立時の世帯構成がわずか50世帯程度だった。戦時行政の一環として城間、牧港の一部が分離独立して出来た地区だった。


尚穆王邸宅の礎石

自治会館敷地内には「尚穆王邸宅の礎石」記念碑が置かれていた。尚穆王 (1787-1834年) は首里王府の第17代王 (1804-1834年) で、病気療養を兼ねて港川に移り住み、その住居は城間御殿と呼ばれた。その御殿跡にあったの建物の礎石が置かれ、石碑も市文化課と共同で建立されていた。

尚灝王は、その在位期間で目立つ功績は記録されていないのだが、沖縄ではある意味で有名な王となっている。それは、歴代王の中で最も多くの妻を持ち、最も多くの子女を持っていた。妃、夫人 (側室)、妻 (妾) を10人、子は26人ももうけた。それと、精神疾患で最後は自殺したという。尚灝王は元々は王となる立場では無かった。祖父の14代尚穆王の孫ではあるが、王に即位しなかった尚哲の四男だった。父であった尚哲が尚穆王の在位中に亡くなったので、15代は兄であった尚温が11才で即位したが、7年後の18才で死去、16代は尚温の長男の尚成が2才で即位、在位一年で死去。他に主要な王候補もなく、尚灝が17才で17代王に即位した。この時代は若い尚灝王にとっては難しい時期で、飢饉、台風など天災続きで琉球国財政は苦難の真っ只中、琉球を治めていた薩摩藩は島津斉興が藩主で財政破綻に陥っていたので、琉球国からの搾取も厳しかった。この中で若い尚灝王には打開策などは無く、祖父の14代尚穆王の死去以降は三司官が政治を牛耳っていたので、若い尚灝王の出る幕は無く、政治に興味を失い色欲に走ったとも言われている。

妃、夫人 (側室)、妻 (妾) を10人、子は26人と言われてもピンとこないので、下の表を作って見た。これを見ると、最初の子供は26才の時、即位してから9年後。この9年の期間は何とか王として努力しようとしていた時期かも知れない。思う様に行かずストレスが溜まり、精神疾患に至ったとも考えられる。その後に46才で死去するまでの20年間で26人もの子供を成している。子供が生まれなかったのは、そのうち3年だけだ。一年で三人の子をもうけた年もある。妻 (妾) の中で目立つのは又吉と宮城で、この二人は姉妹いう特異な関係で、最も寵愛されていた。尚灝王の30才を過ぎてからは、この二人の妾に内原 (大奥) は牛耳られ、他の妾などは讒言で追い出されている。この二人が産んだ子供は15人にも及ぶ。41才の時に、家臣団が尚灝王を城間御殿に移し、長男の尚育が摂政となり実質上の18代王となっている。尚灝王はこの待遇に対しては、特に感情は無く、政治に対しては全く興味が無かった様だ。御殿の隠居時代については、頭を丸めていたので坊主御主 (ぼうずうしゅう) と呼ばれ、狂人状態とされている。そう鬱状態の様で、凶暴な行いの中で、住民に優しい時もあったという。ただ、色欲だけは旺盛で、住民は娘や妻には近づかない様に注意していた。尚灝王の最期は小舟で海上遊覧をしていた時に、小湾村の沖で突如奇声を発して海に身を投げたと記録されている。更に記録では、小湾村住民に捜索を求めたとある。家臣や近習が同船していたのだが、その連中が飛び込み助けようとしたとの記録は無い。少々理解できない行動の様で、これは自殺では無く、尚灝王の精神病が悪化していくのを持て余し、殺害されたとする説もある。王となるべきでない人が無理矢理人生を変えられた様な気もして、少々気の毒にも思える。


港川村代御宮

自治会館の敷地内にコンクリート造りの祠が見えた。道路側に周り中を覗くと、多くの香炉が並んでいる。村にあった拝所を集め合祀しているようだ。タキ (嶽) グサイ、トン (殿) グサイ、ミヤ (宮) グサイ、ウビイ (威部?)、井戸神、りうぐ (竜宮) 神、ノロ神、地頭火神、火の神とある。この名を見る限り、昔から血縁門中が村立てをした集落の拝所とほぼ同じだ。屋取集落だったので、御嶽や殿は存在していなかったはずだし、ノロもいなかった、地頭代なども村組織ではなかったので、なぜこのような拝所があったのかが気になる。ここの屋取集落の成り立ちに興味が沸く。

琉球王府時代から明治にかけてのノロの管轄地域にはこの港川は含まれていない。


Charlie’s Ridge Battle Site

自治会館の前の道を西に進んだ突き当りが公園になっている。険しい崖の下にある。この場所は沖縄戦で米軍がCharlie’s Ridgeと呼んでいた激戦地だ。(真和志の真嘉比にはCharlie Ridgeがある。こことは別物) 海岸から浦添城の前田高地、首里城二侵攻するには、この丘を越える必要がある。丘の上には日本軍が守りを固めていた。当然、激しい戦闘が行われた場所になる。

沖縄戦では港川住民97人が犠牲になっている。それは集落人口の43%にもあたる。


ピザハウス

港川ステイツサイドタウンに向かう道沿いにピザハウスという店がある。沖縄では有名なレストランだ。1958年に旧コザ市にオープンし、その当時アメリカでブームのピザをネーミングに起用し評判になった。その一年後に宜野湾市大山へ移転し、アメリカンスタイルのレストランとして、アメリカ軍人や軍属、家族や外国人客に人気があった。1988年、浦添市城間の旧アメリカ総領事館を南欧風に改装し浦添市城間へ移転したが、道路拡張工事に伴い2010年に閉店となった。6年間の休業の後、2017年に浦添市港川のこの地へ移転し、城間旧本店を踏襲した外観になっている。

昔のピザハウスの写真がある。写真上は旧コザ市の初代。写真下が浦添市城間の時代の建物。外観は現在のピザハウスの原型になっているのがわかる。


港川ステイツサイドタウン

ピザハウスから坂道を下った所が今では観光地となった港川ステイツサイドタウン。米軍統治時代にキャンプキンザー内の住居が不足し始めた事から、1960年代にダイナマイトで丘を平らにして軍人関係者用住宅を70棟近く建設したのがこの住宅地で、港川ステイツサイドタウン(通称:港川外人住宅街)と呼ばれていた。当時の定型住宅家屋はそのまま残り、このエリア内には現在57戸が使用されている。(店舗43戸、一般住宅14戸)

店舗は同じ形だが、それぞれが外壁を色々な色で塗り、雑貨やカフェ、スイーツ、ラーメン店、刺青屋などがある。駐車場の看板はアメリカ色になっていた。


シール川湧神拝所

港川ステイツサイドタウンのすぐ近くの駐車場の中に拝所がある。この地域は上港川で、かつては「シードバル」と呼ばれた一帯は田圃だった。この地域の人々が使っていた湧き水があり、シールガ-と呼ばれていた。現在は拝所となっている。


ユクイ岳

伊祖城跡から港川へ延びる細長い石灰岩の丘陵、嘉手納、読谷方面から那覇へ行くときこの丘陵を登りつめると那覇がもう少しというので、この丘で一休みしたところから、この丘をユクイダキともよんだ。現在は同様に58号線によってこの丘陵が分断されている。


亀瀬 (カーミージ―)

亀瀬 (カーミージ―) は行政区では港川にあるのだが、元々は城間村であった。城間村の拝所だった。港川の屋取集落が独立して今は港川になる。この亀瀬 (カーミージ―) については城間集落訪問記で触れている。



港川集落の次に浦添市の北の端、宜野湾市と接する牧港集落に向かう。



参考文献

  • 浦添市史 第1巻 通史編 浦添のあゆみ (1989 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第3巻 資料編 2 民話・芸能・美術・工芸 (1982 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第4巻 資料編 3 浦添の民俗 (1983 浦添市史編集委員会)
  • 浦添市史 第5巻 資料編 4 戦争体験記録 (1984 浦添市教育委員会)
  • 新 琉球王統史 16 尚灝王 (2006 与並岳生)

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