Okinawa 沖縄 #2 Day 248 (28/03/23) 旧中城間切 (12) Kitauebaru Hamlet 北上原集落

旧中城間切 北上原集落 (きたうえばる)

  • 風花屋取集落 (カジバナーヤードゥイ) 
    • 奥間毛小 (ウクマモーグヮ)、北上原のユクヤー
    • ウチュー
    • 大屋喜屋武小 (ウフヤチャングヮ) のサーターヤー
    • 安里壱里山 (アサトゥイチリヅカ)
    • ヌバガイのサーターヤー
    • 新城間小 (ミーグスクマ) のサーターヤー
    • ンジーガー
    • 御願毛 (ウガンモー)
    • 161.8高地陣地跡
    • キシマコヌ嶽
  • 若南屋取集落 (ワカナンヤードゥイ) 
    • 屋良 (ヤラ) のサーターヤー 
    • 旧中城村役所への道、本校 (中城尋常小学校) への道跡
    • 新垣公民館、ハンタ道
    • 若南坂 (ワカナンビラ) 石畳
    • 若南原 (ワカナンバル) の石橋
    • 新垣 (アラカチ) の石橋
    • 大屋佐久川 (ウフヤサクガー) のサーターヤー
    • 下ヌ井小 (シチャヌガーグヮー)
    • 新地中眞 (アラジナカマー) のサーターヤー
  • 後原屋取集落 (クシバルヤードゥイ)
    • 親宇原石橋跡 (ウェーウバルイシバシ)
    • 山苧小根 (ヤマウーグヮーニー) のサーターヤー
    • 石嶺坂 (イシンミビラ)
    • 共同井戸跡 (消滅)
    • 北上原公民館、大屋多和田小 (ウフヤタワダグヮー) のサーターヤー
    • 中城尋常小学校分校跡 (北上原公園)
    • 普天間川、ボージグムイ、ウトゥシグムイ、ンマアミサー
    • 下ニ又 (シチャタマタ) のサーターヤー
    • ニ又坂 (タマタビラ) 
    • 大屋苧小根 (ウフヤウーグヮーニー) サーターヤー
    • 仲ヌ前井戸 (ナーカヌメーガー)
    • 大屋桃原 (ウフヤトーバル) サーターヤー
    • 松多和田小 (マチュータワダグヮ) サーターヤー
  • 中屋取集落 (ナカヤ―ドゥイ、米須屋取 クミシヤードゥイ) 
    • 仲ヌ米須小 (ナカヌクミシーグヮ) サーターヤー
    • ウガンヌ下米須小 (ウガンヌシチャークミシグヮー) サーターヤー
    • 御願ヌ下米須小ヌ井戸 (ウガンヌシチャークミシグヮーヌカー)
    • 上ヌ森 (ウィーヌムイ) サーターヤー
  • 平安名屋取集落 (ヘンナヤードゥイ)
    • 西坂田原石橋 (イリハンターバルイシバシ)
    • 西平小坂 (ニシンダグヮービラ)
    • 西平小 (ニシンダグヮー) サーターヤー
    • 龕屋跡
    • 森田坂 (モリタビラ)
    • 次良米須坂 (ジロークミシ―ビラ)
    • 米須ヌ側 (クミシヌスバ) サーターヤー
    • 新仲本 (ミーナカモト) サーターヤー
    • 上平安名小 (ウィーヘンナグヮー)、中平安名小 (ナカヘンナグヮー) サーターヤー
    • イージャー
    • 上花城小 (チジヌハナグシクグヮー) サーターヤー
    • ハギモーグヮ (禿毛小)


旧中城間切 北上原集落 (きたうえばる)

北上原は、中城村の西部に位置し、北側が新垣、東側が当間、安里、奥間、南側が南上原、西側が宜野湾市に面している。 北上原の東側に御願毛 (ウガンモー) と呼ばれる小高い丘が位置し、そこから南北に縦断する普天間川を境にして宜野湾市側に向けて傾斜が上っている。
北上原は、かつては新垣に属していた石嶺原 (イシンミバル)、親苧原 (ウェーウーバル)、当間に属していた榕原 (カジマルバル)、若南原 (ワカナンバル)、安里に属していた砂川原 (シナガーバル)、西坂田原 (イリハンタバル)、東坂田原 (アガリハンタバル)、奥間に属していた新川原 (アラガーバル) の8つの小字から成り立っている。

1879年の廃藩置県以前には既に、北上原には屋取集落が発生していた。 移住してきた士族は、当初は小作人として荒蕪地を耕していたが、1903年 (明治36年) の土地整理で耕作地の所有化が認められ、徐々に財を有していったといわれている。この後、徐々に人口が増加していったことで、1903年 (明治36年) 以降に行政区として独立している。大正期に北上原の名称が使用されはじめた。戦前の北上原には、若南 (ワカナン) 屋取 (瑞慶覧 [ジキラン] 屋取)、後 (クシ) 屋取、中屋取 (米須 [クミシ] 屋取)、平安名 (ヘンナ) 屋取 (新川 [アラカー] 屋取)、 風花 (カジバナー) 屋取の5つの屋取が形成されていた。

この5つの屋取集落をすべて巡ったが、県道29号線沿いは開発がされて民家も多くあるが、それ以外の地域は畑地帯で、かつての屋取集落のままの所が多いように見受けられた。隣の南上原は都市化が進んでいることに対して、まったく対照的な様相だった。

戦前の北上原の人口についてはデータが見つからなかったが、人口が増加して1919年 (大正8 年) に独立行政区となったとある。先に訪れた南上原は琉球大学移転後開発が進み人口が激増しているが、北上原はその影響は少なく、人口は増加してはいるが、それほど大きな増加ではなかった。2001年に人口はピークとなり、その後は横ばい状態が続いていた。近年は世帯数は増加が続いてはいるが、少子化の影響で僅かに減少傾向となっている。

行政区となった1919年では中城村では4番目に人口の多い地域となっているが、その後の人口の増加率は他の地域に比べ低く、現在では人口は7番目にまで後退している。


北上原集落訪問ログ



中城村の集落巡りは中断していたのだが、今日から再開する。前回 (2022年12月10日) は中城村の南上原集落を訪問したので、今日はその北側にある北上原を見ていく。北上原は琉球王国時代には五つの屋取集落が存在しており、前回からの続きでハンタ道から始める。前回通った南上原のハンタ道は丘陵東の崖の上を北に進み、北上原の風花屋取集落に続いて行く。前回に終了した南上原ユクヤー地点まで行き、そこから始める。



風花屋取集落 (カジバナーヤードゥイ) 

廃藩置県 (西暦1871年) 前後から、この北上原地域には首里から来た帰農士族の屋取集落ができ始め、 明治36年(西暦1903年) には幾つかの屋取集落がまとめられて北上原の字が成立している。北上原には主要な屋取集落が五つあり、その一つが風花屋取集落になる。南上原と隣接した東坂田原 (アガリハンタバル) にあり、元々は安里集落に属していた。この地域には首里城を起点として西原間切番所や幸地グス クの脇を通り、中城の南上原、北上原、新垣を通って中城城に至る歴史の道ハンタ道が通っている。

奥間毛小 (ウクマモーグヮ)、北上原のユクヤー

南上原ユクヤーからハンタ道は緩やかな登り坂になる。道を進むと崖上の墓地となり、そこからは急な下り階段が設置されている。昔は石畳の下り坂だったのだろう。坂の下は広い広場になっている。その向こうはもう一つ山がある。ハンタ道がここから急なアップダウンとなる。自転車を担いで急階段をおり広場に着く。
ここは崖下の奥間集落の上にある事から奥間毛小 (ウクマーグヮ) と呼ばれ、眼下には中城湾が広がる見晴らしのよい場所だった。
階段を降りると広場になる。ここは麓から吹き上げてくる風も涼やかで、ハンタ道を通る人や奥間集落から登ってきた人が休息を取った場所で北上原のユクヤーとも呼ばれていた。明治後半から昭和十年代までこのユクヤーは北上原や周辺地域から若い青年男女が集まってきて毛遊び (モーアシビー) の場所として利用されていた。
かつては、このあたりから崖下の奥間集落への道があったのだが現在では、自動車道路ができ、道は消滅してしまっている。

ウチュー

北上原のユクヤーから、もう一つ山越えになる。自転車を担いで階段を登る。この道はアップダウンが激しく、幾つもの階段がある。
ハンタ道の東側は崖地で、このあたりは東坂田原と字奥間の境界になり、この傾斜地はウチューと呼ばれていた。明治時代にはよく崩落があったそうだ。

大屋喜屋武小 (ウフヤチャングヮ) のサーターヤー

新しい石畳で整備されたハンタ道を進むと村道坂田線に出る。この東側には大屋喜屋武小 (ウフヤチャングヮ) のサーターヤーがあった場所になる。風花屋取集落には三箇所のサーターヤーがあり、戦前まではその周辺に民家が建っていた。

安里壱里山 (アサトゥイチリヅカ)

村道坂田線を渡った所は、かつては旅人が休憩を取った一里塚 (一里山) が設けられていた。尾根の一部を利使用して50坪ほどの平坦な芝の生えた広場を設け安里壱里山と呼ばれていた。この安里壱里山の広場では明治から昭和の初期頃まで、北上原の東側に住んでいた人たちが、毎年秋に集まって農事の成績を品評する原山勝負や学事奨励会、演芸会等の地域の行事を行う場所として活用されていたが、戦後の村道坂田線の拡張工事により壱里山は高さが10mほど削平され壊されてしまった。

ヌバガイのサーターヤー

村道坂田線を少し戻った所には沖縄県消防学校が置かれているが、この場所は戦前迄はヌバガイ一族のサーターヤーがあり、馬浴び場 (ンマアミサー) も置かれた、周りにはヌバガイ家の民家があった。

新城間小 (ミーグスクマ) のサーターヤー

沖縄県消防学校の村道坂田線を挟んだ所にもサーターヤーが存在していた。このサーターヤーは新城間小 (ミーグスクマ) が所有していた。

ンジーガー

御願毛 (ウガンモー) を登る前に、少し離れた所に風花集落の産井 (ウブガー) が県道29号線の西側にあるので、県道29号線を南の戻り訪れる。南上原の井水原にある井戸でンジーガーと呼ばれていた。風花屋取の人も他の南上原の人々とともに利用していた。常に水が湧いている井戸で、干ばつ時にはこの井戸に水を汲みに来たという。 飲み水や洗濯にも使用されていた。 現在も水が湧いており、南上原の産井 (ウブガー) となっている。


御願毛 (ウガンモー)

県道29号線で安里壱里山まで戻る。ここからハンタ道は山を登るルートになる。この道は上りも下りもきつく自転車を担いで登るのを断念し、ここに自転車を置いて徒歩にて登る事にした。この山は地元では御願毛 (ウガンモー) とかシマクのウガンと呼ばれ、丘陵頂上付近は奥間集落の発祥地 (古島) と伝わり、旧集落の拝所や井戸跡が残っているそうだ。
階段を登り、振り返ると、南上原の街並みが見える。幾つもの高層マンションが建っている。北上原は全く様相が異なり、まだかつての屋取集落の名残が残り田畑が多くある。対照的な二つの地域だ。

161.8高地陣地跡

この御願毛 (ウガンモー) には沖縄戦当時に旧日本軍の陣地が置かれていた。頂上へ至るハンタ道の途中に161.8高地陣地の各種防御施設群の一部だった場所がある。
161.8高地陣地は、1945年1月29日にこの地に移動してきた独立歩兵第14大隊第1中隊が築いた陣地で機関銃陣地やそれら各防衛拠点を結ぶ地下道や交通壕、地下退避壕、鉄条網、地雷原などで構成されていた。1945年4月1日に米軍が読谷と北谷の海岸に上陸し、4月5日 には米軍がピナクルロック (尖峰岩) と呼んでいた161.8高地陣地に達し、米軍第7師団第184連隊第1大隊B・C中隊の攻撃を受ける。 当時守備についていたのは、独立歩兵第14大隊の第1中隊(第2小隊欠)、機関銃1個小隊、無線1個分隊の約150名で、105mm榴弾砲、M3スチュアート軽戦車、対戦車砲、重機関銃などを装備する圧倒的戦力の米軍に対し善戦し、翌6日も米軍の猛攻を7~8回撃退した。しかし、西側から登ってきた米軍C中隊に頂上を奪われ、手榴弾と火炎放射器により地下陣地は壊滅的な攻撃を受け、日本軍の損害は著しく、生存者わずか約20名となった。日本軍守備隊は6日夜に南側の142高地に撤退した161.8高地陣地をめぐる戦闘は終了した。沖縄戦では北上原住民の508名が犠牲となっている。当時の人口のデータがないのだが1921年 (大正8年) には784人の住民がいた。これから推測すると、住民の少なくとも60%以上の住民が犠牲になっているのだろう。 

キシマコヌ嶽

御願毛の頂上には奥間集落のキシマコヌ嶽 (神名: 天次アマツギノ御イベ) がある。地元ではヒシマク御願とも呼ばれている。このあたりが奥間集落発祥の古島で、その後、移住していったが、今でも奥間集落の人々に拝まれている。ここに来るのは二度目だが、何も草で覆われて御嶽の全体が見えない (写真右)。 拝みの際には草刈りが行われ、その直後に来れば綺麗な状態が見れる。インターネットでその際の写真 (写真左) があったのでそれも併せて掲載しておく。
キシマコヌ嶽の大岩の上 (標高161.8m) には161.8高地陣地の監視哨、岩の根本に本部壕が設けられていた。岩を登ると入口があり中には三方向に監視窓が設けられている。
ここからは中城湾方面 (写真左) も北谷方面 (右) も360°見渡せる。


若南屋取集落 (ワカナンヤードゥイ)

ハンタ道を降りて行くと若南屋取集落 (瑞慶覧屋取 ジキランヤードゥイ) となる。若南原 (ワカナンバル) にあったのでこう呼ばれている。この若南原はかつては当間集落に属していた。ここからハンタ道を自転車を置いている場所まで戻り、次は若南屋取集落を巡る。

屋良 (ヤラ) のサーターヤー 

自転車で村道坂田線を北に下り坂を進んだ所西側へ分岐する道沿いには屋良 (ヤラ) のサーターヤーがあった場所になる。若南屋取集落に戦前まであった三つのサーターヤーの一つだった。

旧中城村役所への道、本校 (中城尋常小学校) への道跡

かつては村道坂田線を進むと県道35線に合流する。その地点からは中城城の一の郭にあった中城村役場への道 (写真左) が伸びている。また、この合流点から崖下への古い道 (右) もあった。この道は当間集落に通じて、戦前は子供たちが屋宜にあった中城尋常小学校に通う道だった。この道を下りていったが途中で樹々が道を塞いでいた。今では使用されなくなったのだろう。

新垣公民館、ハンタ道

村道坂田線から県道35線に入り、道を進むと、隣村の新垣の公民館があった。公民館の手前に新しく整備された石畳の道が北に伸びている。これは新垣グスクから中城グスクへのハンタ道だ。新垣集落については次回訪れた際にレポート予定。

若南坂 (ワカナンビラ) 石畳

ハンタ道は若南集落へも下っている。この道を行くと御願毛 (ウガンモー) 丘陵の麓まで続いている。若南坂も急坂階段なので、ここに自転車を置き、徒歩にてハンタ道を下って行く。若南坂は戦後まで石畳が残っていたが、崩れてしまい、現在は一部だけが残っている。琉球石灰岩の石畳の道幅は崩れてしまい不明確だが、概ね80cmだったと考えられる。坂道を降りると若南川 (ワカナンガーラ) に石橋が架かっているが、これは新しく造られた物のようで、以前はその隣付近に石板が2枚置かれていたが、川幅が広がり石板が川の中に落ちてしまった。
ハンタ道は若南川沿いに御願毛方向に伸びている。川の両側は石垣で固められて、川へ降りる階段 (写真右上) もあった。

若南原 (ワカナンバル) の石橋

若南川で新垣集落と耕作地帯が分断され不便だったので、新垣住民が若南川に橋を3基造っていた。一基は先程の若南坂を降りた所で、下流の方には更にニ基のアーチ形石橋があった。一基は車道整備工事のため取り壊されてしまった。一基だけ現在も残っている。これは中城村内で唯一残っているアーチ形石橋だそうで新垣の石橋として中城村の有形文化財に指定されている。現在、ここに架けられているアーチ式石橋は歴史の道の整備に伴い新しく造った橋で、下流の新垣の石橋を参考に造られたもの。以前は、この地点には橋はなく、川の中に大きな石を置いて川を渡っていたそうだ。
この若南川の下流沿いにコンクリート橋がかかっていたが、これがかつては石橋だったのを壊して道路とした場所だろう。

新垣 (アラカチ) の石橋

更に若南川を下って行くと、唯一残っている新垣 (アラカチ) の石橋があった。新垣集落は昔から石工が多く、石造技術の高い地域と伝えられている。 新垣の石橋は1942年 (昭和17年) 頃に、石工の棟梁が徴兵で残った老人婦人と共に造ったと伝えられている。石橋の大きさは橋脚高約2.1m橋幅約2.8mで、上部は亀甲墓のアーチ式の技法を駆使し、橋脚は布積みで石を積み上げて造られている。
再度、若南原 (ワカナンバル) の石橋の所まで戻り、ハンタ道を通る。向こう側に御願毛付が見え、そこへのハンタ道は綺麗に整備されて遊歩道になっていた。

大屋佐久川 (ウフヤサクガー) のサーターヤー

ハンタ道の東側には大屋佐久川 (ウフヤサクガー) のサーターヤーが置かれていた場所で、若南屋取集落では比較的多くの民家が集まっていた。

下ヌ井小 (シチャヌガーグヮー)

大屋佐久間川 (ウフヤサクガー) のサーターヤーの道を挟んだ所には下ヌ井小 (シチャヌガーグヮー) があると資料にはあったが、写真はなかった。その辺りには二つ井戸があった。どちらかがそうだろう。若南屋取の各家庭には井戸があったのだが、湧水ではなく雨水を溜めて利用していた。この下ヌ井戸 (シチャヌカー) は湧水で集落で利用していた。 

新地中眞 (アラジナカマー) のサーターヤー

ハンタ道の御願毛近くには新地中眞 (アラジナカマー) の所有するサーターヤーが置かれていた場所になる。戦前にはここには二世帯ほどがあった場所。現在も周りには民家は見られず昔からそれ程変わっていないようだ。



後原屋取集落 (クシバルヤードゥイ)

次は道を西に進み、北上原の北の端の後原屋取集落を巡る。後原屋取集落はかつては新垣集落に属していた石嶺原 (イシンミバル) と親宇原 (ウェーウバル)、安里集落に属していた榕原 (カジマルバル) の一部にまたがっていた。


親宇原石橋跡 (ウェーウバルイシバシ)

道を西に進むと普天間川に出る。ここに石嶺橋 (イシンミバシ) が架かっている。この南側が親宇原 (ウェーウバル) で北側が石嶺原 (イシンミバル) という地域になる。橋は現在ではコンクリート製だが以前は一枚石の石橋で親宇原石橋 (ウェーウバルイシバシ) だった。雨が降ると増水し、宜野湾側の子供達は橋を渡ることが出来ず学校に行けなかったそうだ。

山苧小根 (ヤマウーグヮーニー) のサーターヤー

親宇原橋を渡った左側にはかつては山苧小根 (ヤマウーグヮーニー) のサーターヤー (写真上) があった場所で橋の右側、普天間川の辺りには馬浴び場 (ンマアミサー 写真下) があり、そこで馬を洗っていた。


石嶺坂 (イシンミビラ)

山苧小根のサーターヤーの横には登り坂がある。石嶺坂 (イシンミビラ) という。近くで野良仕事をしていたおじいによると、以前は宜野湾への道はこれだけだったそうだ。今でも道は残っているというので登っていった。途中、沖縄自動車道が建設され、道は分断されているが歩道橋で繋がっていた。道の上の方は舗装がされておらず石畳の石が少し残っている。

共同井戸跡 (消滅)

沖縄自動車道の車線が通っている場所にはかつてはこの辺りの住民が使っていた共同井戸があったのだが自動車道路建設で消滅している。

北上原公民館、大屋多和田小 (ウフヤタワダグヮー) のサーターヤー

後原屋取集落の南側へはこの辺りでは県道29号しかない。この道を南に進んだ道沿いに北上原公民館があった。現在では、この辺りは民家も多く立ち並び商店もあった。前半に巡った花風屋取集落と若南屋取集落と街並みが随分と異なっている。北上原の中心部になるのだろう。戦前はここは大屋多和田小 (ウフヤタワダグヮー) のサーターヤーがあった場所だった。

中城尋常小学校分校跡 (北上原公園)

公民館の裏手は北上原公園が造られているかつては分校が置かれていた場所。戦前は瓦屋 (カーラヤー) の建物が1軒あり、机と椅子が並べられていた。 初等科2年生までの生徒が14 ~ 15名学んでいた。3年生からは山越えのある約3.5km先の字屋宜にあった本校の中城尋常小学校に通っていた。

普天間川、ボージグムイ、ウトゥシグムイ、ンマアミサー

公民館の西には普天間川 (写真上) が流れている。資料では、この川にはボージグムイ、ウトゥシグムイ、ンマアミサーと三つの池があり、其々は集落住民が使用していたと写真入りで紹介されていた。是非川まで降りて実際に見てみたいと思い、川への降り口を探すも見つからない。数名に声をかけて尋ねるも分からない。公民館でも確認をしたが、高齢者に聞かないと分からないとの事。この高齢者とは80才以上で戦時中か遅くとも戦後数年で生まれた人になる。そのような人に尋ねるも、転入者でやはりわからないとの返事。この様に昔を知っている人は、年毎に減ってきている。
  • ウトゥシグムイ (左下) は普天間川の小さな滝壺で滝の様に水が落ちていることか らウトゥシ (落とし) と呼ばれ、子供達の遊び 場となっていた。
  • ボージグムイ (中下) はウトゥシグムイの南側にあり、水深が他の所よりも深く、底がハガマのように丸い形だったそうだ。
  • 馬浴びせ馬 (ンマアミサー 右下) は川の更に北側にあり、川幅が広く、水深が浅い場所でもあったのでサーターシージョー (製糖作業) で使った馬に水浴びをさせていた場所だった。資料の写真を拝借。

下ニ又 (シチャタマタ) のサーターヤー

上の普天間川の写真を撮った道は宜野湾への登り坂になっている。この道沿いには下ニ又 (シチャタマタ) のサーターヤーがあり、屋号 下ヌニ又 (シチヌタマタ) と屋号 上ヌニ又 (ウィーヌタマタ) が使用していた。

ニ又坂 (タマタビラ) 

この宜野湾へ登りとなっている道はニ又坂 (タマタビラ) と呼ばれる。道沿い下ヌニ又 (シチヌタマタ) 家と上ヌニ又 (ウィーヌタマタ) 家があった事から、そう呼ばれていた。

この坂道を登った所にもサーターヤーが置かれていた場所があるのだが、それはスキップして県道29号線の公民館に戻る。



大屋苧小根 (ウフヤウーグヮーニー) サーターヤー

公民館北側、県道29号線から東に入る道があり、そこを進んだところに広場がある。この場所は戦前まで屋号 大屋苧小根 (ウフヤウーグヮーニー) が所有していたサーターヤーがあった場所で、ここには大屋苧小根しか住んでおらず、専用のサーターヤーだったようだ。


仲ヌ前井戸 (ナーカヌメーガー)

道を東に進むと畑地帯になり、その中に後屋取の共同井戸だった仲ヌ前井戸 (ナーカヌメーガー) がある。 古くはここのすぐ南にある御願毛 (ウガンモー) にあった奥間集落古島の人々がこの仲ヌ前井戸 (ナーカヌメーガー) まで水を汲みに来ていたと伝わり、戦前までは後屋取のほとんどの家が飲料水として利用する為に水を汲みに来ていた。この場所と先ほどの大屋苧小根の間に屋号 仲ヌ前の屋敷があったことからこのように呼ばれていた。


大屋桃原 (ウフヤトーバル) サーターヤー

仲ヌ前井戸の道はぐるっと曲がり、県道29号線に戻る様になっている。道を進むと別のサーターヤー跡がある。屋号 大屋桃原 (ウフヤトーバル) 所有の作業場でここには大屋桃原家しか無く、専用のサーターヤーだったのだろう。


松多和田小 (マチュータワダグヮ) サーターヤー

道を県道29号線に向かい、少し行くと別のサーターヤーがある。屋号 松多和田小 (マチュータワダグヮ) 所有のサーターヤーで、ここに住んでいた4世帯ほどが使用していた。これで戦前まで後原屋取集落にあった8つのサーターヤーの内6つを見終わった。



中屋取集落 (ナカヤ―ドゥイ、米須屋取 クミシヤードゥイ) 

後屋取集落の南は中屋取集落 (ナカヤ―ドゥイ) または米須屋取 (クミシヤードゥイ) と呼ばれた地域だった。中屋取集落はかつては当間集落に属していた榕原 (カジマルバル)、安里集落に属していた砂川原 (シナガーバル) と西坂田原 (イリハンタバル) にまたがる地域だった。この中屋取集落には4つのサーターヤーが置かれていた。



仲ヌ米須小 (ナカヌクミシーグヮ) サーターヤー

県道29号線に戻り、南に少し進み、東に入った所に、ラポール学童クラブがあるが、戦前には仲ヌ米須小 (ナカヌクミシーグヮ) 所有のサーターヤーが置かれていた場所になる。この付近には4世帯程が集まって住んで農業に従事していた。


ウガンヌ下米須小 (ウガンヌシチャークミシグヮー) サーターヤー

仲ヌ米須小サーターヤーの直ぐ南側にはもう一つサーターヤーがあり、屋号 ウガンヌ下米須小所有のもので、ここに住んでいた3世帯が使用していた。


御願ヌ下米須小ヌ井戸 (ウガンヌシチャークミシグヮーヌカー)

仲ヌ米須小サーターヤーの脇には中屋取の共同井戸があった。この近辺は水が湧く井戸が少なく、隣近所の人々が共同で利用していた。屋号ウガンヌ下米須小の屋敷の近くにあったので、御願ヌ下米須小ヌ井戸 (ウガンヌシチャークミシグヮーヌカー) と呼ばれていた。

上ヌ森 (ウィーヌムイ) サーターヤー

県道29号線を南に進み、宜野湾への坂道に通じる道に入った所に戦前にはサーターヤーが置かれていた。上ヌ森 (ウィーヌムイ) サーターヤーで屋号 上ヌ森 (ウィーヌムイ) の専用作業場だった。

平安名屋取集落 (ヘンナヤードゥイ、新川屋取 アラカーヤードゥイ)

中屋取集落 (米須屋取) の南には平安名屋取集落 (ヘンナヤードゥイ) だった。新川屋取 (アラカーヤードゥイ) とも呼ばれていた。かつては安里集落に属していた西坂田原 (イリハンタバル) と奥間集落に属していた新川原 (アラカーバル) にまたがっていた。



西坂田原石橋 (イリハンターバルイシバシ)

上ヌ森サーターヤー跡の道は普天間川に橋が架かって宜野湾方面に伸びている。現在はコンクリート製だが、かつては一枚石が置かれた石橋だった。西坂田原石橋 (イリハンターバルイシバシ) と呼ばれていた。普天間川より宜野湾側の後屋取の住民は雨で川が増水すると先に訪れた親苧原の石橋が渡れなくなり、迂回してこの橋を利用していたそうだ。


西平小坂 (ニシンダグヮービラ)

西坂田原橋を渡り坂道を登っていく。戦前にはこの坂道は無かったようだ。現在の坂道は丘陵斜面を斜めに通っている。戦前には斜面を直角に通り、宜野湾の愛知方面へ向かう長く険しい坂道だった。愛知の闘牛場 (ウシナー)  ヘ闘牛 (オーヤーウシ) を連れて行く際にも利用していたという。屋号 西平小の側を通る坂道だったことで、西平小坂 (ニシンダグヮービラ) と呼ばれていた。そのような急な坂道を探すと、細い道が坂上から一直線に下に伸びていた。多分ここがニシンダグヮービラと思う。


西平小 (ニシンダグヮー) サーターヤー

西平小坂の横は民家と反対側は空き地となっている。民家はかつての屋号 西平小の屋敷だったのだろう。空き地はその屋号 西平小が所有していたサーターヤーが置かれていた。


龕屋跡

屋号西平小の北側、坂道を登り切った所は平地で住宅街になっている。その中に小さな広場があった。資料では、この辺りに龕屋が置かれていたとあった。はっきりとは分からないが、この辺りではないかと思う。ここにあった龕屋は石積みで、入口がアーチ状になっていたそうだ。宜野湾の愛知からも借りに来ていたという。 北上原地区ではここに近い屋取集落はこの龕屋を使っていたが、遠い屋取集落は近くの字 (新垣、当間、奥間)  の龕を、いくらかお金を払って借りていた。


森田坂 (モリタビラ)

龕屋跡から丘陵尾根沿いに道があり南東に進むと、ここにも坂道があった。資料にあった屋号 森田の屋敷側の森田坂 (モリタビラ) の様だ。道幅は狭く、石も敷かれておらず、 プトゥプトゥ (粘度のある泥の状態) した道だったため、汚れないように裸足で下りていたそうだ。 戦前はこの近くに細い竹がたくさん生えており、これでよく竹箒を作ったという。


次良米須坂 (ジロークミシ―ビラ)

道を進んだところにもう一つ普天間川へ下る坂の跡があった。次良米須坂 (ジロークミシ―ビラ) とよばれていた。屋号 坂田次郎米須小から次郎米須小にかけての道でクチャで堅い道だったという。


米須ヌ側 (クミシヌスバ) サーターヤー

道を少し進んだ所にも戦前にはサーターヤーが置かれていた。屋号 米須ヌ側 (クミシヌスバ) の所有で、先ほど通った屋号 森田、屋号 次良米須など8世帯ほどで使用していたようだ。この場所が宜野湾市と南上原との境にあたる。


次はこの宜野湾側の丘陵から沖縄自動車道路をくぐり、県道29号線方面に戻る。

新仲本 (ミーナカモト) サーターヤー

沖縄自動車道路をくぐった直ぐの所には戦前まで屋号 新仲本 (ミーナカモト) 所有のサーターヤーが置かれて、この付近に住んでいた3世帯程が使用していた。

上平安名小 (ウィーヘンナグヮー)、中平安名小 (ナカヘンナグヮー) サーターヤー

新仲本 (ミーナカモト) サーターヤーから南へ農道があり、その道の途中には平安名一族の5世帯程が集まっている。この場所には戦前まで上平安名小 (ウィーヘンナグヮー) と中平安名小 (ナカヘンナグヮー) 所有のサーターヤーが置かれていた。


イージャー

更に農道を進む東側に丘陵がへ待ってきた。この丘陵斜面一帯をイージャーと呼んでいた。何故耕呼ばれていたかは不明だが、戦前から木々が生い茂り、料理を作る際のタムン (薪) 取りにこのイージャー行っていたという。


上花城小 (チジヌハナグシクグヮー) サーターヤー

農道を新仲本 (ミーナカモト) サーターヤー跡まで戻り、県道29号線方面に道を進むと上花城小 (チジヌハナグシクグヮー) 所有のサーターヤーが置かれていた。屋号 上花城小 (チジヌハナグシクグヮー) は少し離れた所に屋敷があったのだが、この付近に住んでいた一族も含めた6世帯程が使用していた。

ハギモーグヮ (禿毛小)

新川原の新仲本 (ミーナカモト) サーターヤーと上花城小 (チジヌハナグシクグヮー) サーターヤーとの間は戦前まではハギモーグヮと呼ばれる広場があった。生命力の強いススキでさえも生えない程の固い地盤だったことから、この様にハギモーグヮー (禿げた広場、禿毛小) と呼ばれていた。 モーアシビドゥクル (毛遊び所) だった。現在は畑になっている。


これで北上原にあった5つの屋取集落を反時計回りに巡り終わった。今日は遠出ということで比較的早い時間に家を出たのだが、かなり詳しく見学したので帰宅したのは夜7時半を過ぎていた。朝家を出て少しの所で珍しい花を見つけた。ヒスイカズラという植物で、本土では植物園でしか見られない。はじめ見たときには、造花をぶら下げているんかと思ったのだが、近くで見るとそうではなく、調べるとヒスイカズラと出ていた。沖縄では、道端でもこのような花が咲いている。

来週は定期検査のために東京に移動する。今回は定期検査と共に、娘が結婚することになり、相手の両親に挨拶もする予定。埼玉県の蓮田市が実家なので、蓮田市の史跡巡りもしてみようと思っている。出発までは蓮田市の下調べに集中するので、沖縄の集落巡りは今日で終わりとして再開は5月に帰ってきてからとなる。


参考文献

  • 中城村史 第1巻 通史編 (1994 中城村史編集委員会)
  • 中城村の文化財 第5集 中城村の拝所 (2004 中城村教育委員会)
  • 中城村の文化財 第7集 中城村の屋取 (2004 中城村教育委員会)
  • 中城村地域散策 (中城村教育委員会)
  • 戦前の中城 (2022 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 中城村 戦前の集落 シリーズ 13 北上原 (2016 中城村教育委員会)
  • ガイドブック 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 百年の軌跡 (2009 中城村役場企画課)

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