Okinawa 沖縄 #2 Day 248 (28/03/23) 旧中城間切 (12) Kitauebaru Hamlet 北上原集落
旧中城間切 北上原集落 (きたうえばる)
- 風花屋取集落 (カジバナーヤードゥイ)
- 奥間毛小 (ウクマモーグヮ)、北上原のユクヤー
- ウチュー
- 大屋喜屋武小 (ウフヤチャングヮ) のサーターヤー
- 安里壱里山 (アサトゥイチリヅカ)
- ヌバガイのサーターヤー
- 新城間小 (ミーグスクマ) のサーターヤー
- ンジーガー
- 御願毛 (ウガンモー)
- 161.8高地陣地跡
- キシマコヌ嶽
- 若南屋取集落 (ワカナンヤードゥイ)
- 屋良 (ヤラ) のサーターヤー
- 旧中城村役所への道、本校 (中城尋常小学校) への道跡
- 新垣公民館、ハンタ道
- 若南坂 (ワカナンビラ) 石畳
- 若南原 (ワカナンバル) の石橋
- 新垣 (アラカチ) の石橋
- 大屋佐久川 (ウフヤサクガー) のサーターヤー
- 下ヌ井小 (シチャヌガーグヮー)
- 新地中眞 (アラジナカマー) のサーターヤー
- 後原屋取集落 (クシバルヤードゥイ)
- 親宇原石橋跡 (ウェーウバルイシバシ)
- 山苧小根 (ヤマウーグヮーニー) のサーターヤー
- 石嶺坂 (イシンミビラ)
- 共同井戸跡 (消滅)
- 北上原公民館、大屋多和田小 (ウフヤタワダグヮー) のサーターヤー
- 中城尋常小学校分校跡 (北上原公園)
- 普天間川、ボージグムイ、ウトゥシグムイ、ンマアミサー
- 下ニ又 (シチャタマタ) のサーターヤー
- ニ又坂 (タマタビラ)
- 大屋苧小根 (ウフヤウーグヮーニー) サーターヤー
- 仲ヌ前井戸 (ナーカヌメーガー)
- 大屋桃原 (ウフヤトーバル) サーターヤー
- 松多和田小 (マチュータワダグヮ) サーターヤー
- 中屋取集落 (ナカヤ―ドゥイ、米須屋取 クミシヤードゥイ)
- 仲ヌ米須小 (ナカヌクミシーグヮ) サーターヤー
- ウガンヌ下米須小 (ウガンヌシチャークミシグヮー) サーターヤー
- 御願ヌ下米須小ヌ井戸 (ウガンヌシチャークミシグヮーヌカー)
- 上ヌ森 (ウィーヌムイ) サーターヤー
- 平安名屋取集落 (ヘンナヤードゥイ)
- 西坂田原石橋 (イリハンターバルイシバシ)
- 西平小坂 (ニシンダグヮービラ)
- 西平小 (ニシンダグヮー) サーターヤー
- 龕屋跡
- 森田坂 (モリタビラ)
- 次良米須坂 (ジロークミシ―ビラ)
- 米須ヌ側 (クミシヌスバ) サーターヤー
- 新仲本 (ミーナカモト) サーターヤー
- 上平安名小 (ウィーヘンナグヮー)、中平安名小 (ナカヘンナグヮー) サーターヤー
- イージャー
- 上花城小 (チジヌハナグシクグヮー) サーターヤー
- ハギモーグヮ (禿毛小)
旧中城間切 北上原集落 (きたうえばる)
1879年の廃藩置県以前には既に、北上原には屋取集落が発生していた。 移住してきた士族は、当初は小作人として荒蕪地を耕していたが、1903年 (明治36年) の土地整理で耕作地の所有化が認められ、徐々に財を有していったといわれている。この後、徐々に人口が増加していったことで、1903年 (明治36年) 以降に行政区として独立している。大正期に北上原の名称が使用されはじめた。戦前の北上原には、若南 (ワカナン) 屋取 (瑞慶覧 [ジキラン] 屋取)、後 (クシ) 屋取、中屋取 (米須 [クミシ] 屋取)、平安名 (ヘンナ) 屋取 (新川 [アラカー] 屋取)、 風花 (カジバナー) 屋取の5つの屋取が形成されていた。
この5つの屋取集落をすべて巡ったが、県道29号線沿いは開発がされて民家も多くあるが、それ以外の地域は畑地帯で、かつての屋取集落のままの所が多いように見受けられた。隣の南上原は都市化が進んでいることに対して、まったく対照的な様相だった。
行政区となった1919年では中城村では4番目に人口の多い地域となっているが、その後の人口の増加率は他の地域に比べ低く、現在では人口は7番目にまで後退している。
北上原集落訪問ログ
風花屋取集落 (カジバナーヤードゥイ)
奥間毛小 (ウクマモーグヮ)、北上原のユクヤー
ウチュー
大屋喜屋武小 (ウフヤチャングヮ) のサーターヤー
安里壱里山 (アサトゥイチリヅカ)
ヌバガイのサーターヤー
新城間小 (ミーグスクマ) のサーターヤー
ンジーガー
御願毛 (ウガンモー) を登る前に、少し離れた所に風花集落の産井 (ウブガー) が県道29号線の西側にあるので、県道29号線を南の戻り訪れる。南上原の井水原にある井戸でンジーガーと呼ばれていた。風花屋取の人も他の南上原の人々とともに利用していた。常に水が湧いている井戸で、干ばつ時にはこの井戸に水を汲みに来たという。 飲み水や洗濯にも使用されていた。 現在も水が湧いており、南上原の産井 (ウブガー) となっている。
御願毛 (ウガンモー)
161.8高地陣地跡
キシマコヌ嶽
若南屋取集落 (ワカナンヤードゥイ)
屋良 (ヤラ) のサーターヤー
新垣公民館、ハンタ道
若南坂 (ワカナンビラ) 石畳
若南原 (ワカナンバル) の石橋
新垣 (アラカチ) の石橋
大屋佐久川 (ウフヤサクガー) のサーターヤー
下ヌ井小 (シチャヌガーグヮー)
新地中眞 (アラジナカマー) のサーターヤー
後原屋取集落 (クシバルヤードゥイ)
親宇原石橋跡 (ウェーウバルイシバシ)
山苧小根 (ヤマウーグヮーニー) のサーターヤー
石嶺坂 (イシンミビラ)
共同井戸跡 (消滅)
北上原公民館、大屋多和田小 (ウフヤタワダグヮー) のサーターヤー
中城尋常小学校分校跡 (北上原公園)
普天間川、ボージグムイ、ウトゥシグムイ、ンマアミサー
- ウトゥシグムイ (左下) は普天間川の小さな滝壺で滝の様に水が落ちていることか らウトゥシ (落とし) と呼ばれ、子供達の遊び 場となっていた。
- ボージグムイ (中下) はウトゥシグムイの南側にあり、水深が他の所よりも深く、底がハガマのように丸い形だったそうだ。
- 馬浴びせ馬 (ンマアミサー 右下) は川の更に北側にあり、川幅が広く、水深が浅い場所でもあったのでサーターシージョー (製糖作業) で使った馬に水浴びをさせていた場所だった。資料の写真を拝借。
下ニ又 (シチャタマタ) のサーターヤー
ニ又坂 (タマタビラ)
この坂道を登った所にもサーターヤーが置かれていた場所があるのだが、それはスキップして県道29号線の公民館に戻る。
大屋苧小根 (ウフヤウーグヮーニー) サーターヤー
公民館北側、県道29号線から東に入る道があり、そこを進んだところに広場がある。この場所は戦前まで屋号 大屋苧小根 (ウフヤウーグヮーニー) が所有していたサーターヤーがあった場所で、ここには大屋苧小根しか住んでおらず、専用のサーターヤーだったようだ。
仲ヌ前井戸 (ナーカヌメーガー)
道を東に進むと畑地帯になり、その中に後屋取の共同井戸だった仲ヌ前井戸 (ナーカヌメーガー) がある。 古くはここのすぐ南にある御願毛 (ウガンモー) にあった奥間集落古島の人々がこの仲ヌ前井戸 (ナーカヌメーガー) まで水を汲みに来ていたと伝わり、戦前までは後屋取のほとんどの家が飲料水として利用する為に水を汲みに来ていた。この場所と先ほどの大屋苧小根の間に屋号 仲ヌ前の屋敷があったことからこのように呼ばれていた。
大屋桃原 (ウフヤトーバル) サーターヤー
松多和田小 (マチュータワダグヮ) サーターヤー
道を県道29号線に向かい、少し行くと別のサーターヤーがある。屋号 松多和田小 (マチュータワダグヮ) 所有のサーターヤーで、ここに住んでいた4世帯ほどが使用していた。これで戦前まで後原屋取集落にあった8つのサーターヤーの内6つを見終わった。
中屋取集落 (ナカヤ―ドゥイ、米須屋取 クミシヤードゥイ)
仲ヌ米須小 (ナカヌクミシーグヮ) サーターヤー
県道29号線に戻り、南に少し進み、東に入った所に、ラポール学童クラブがあるが、戦前には仲ヌ米須小 (ナカヌクミシーグヮ) 所有のサーターヤーが置かれていた場所になる。この付近には4世帯程が集まって住んで農業に従事していた。
ウガンヌ下米須小 (ウガンヌシチャークミシグヮー) サーターヤー
御願ヌ下米須小ヌ井戸 (ウガンヌシチャークミシグヮーヌカー)
上ヌ森 (ウィーヌムイ) サーターヤー
平安名屋取集落 (ヘンナヤードゥイ、新川屋取 アラカーヤードゥイ)
中屋取集落 (米須屋取) の南には平安名屋取集落 (ヘンナヤードゥイ) だった。新川屋取 (アラカーヤードゥイ) とも呼ばれていた。かつては安里集落に属していた西坂田原 (イリハンタバル) と奥間集落に属していた新川原 (アラカーバル) にまたがっていた。
西坂田原石橋 (イリハンターバルイシバシ)
西平小坂 (ニシンダグヮービラ)
西坂田原橋を渡り坂道を登っていく。戦前にはこの坂道は無かったようだ。現在の坂道は丘陵斜面を斜めに通っている。戦前には斜面を直角に通り、宜野湾の愛知方面へ向かう長く険しい坂道だった。愛知の闘牛場 (ウシナー) ヘ闘牛 (オーヤーウシ) を連れて行く際にも利用していたという。屋号 西平小の側を通る坂道だったことで、西平小坂 (ニシンダグヮービラ) と呼ばれていた。そのような急な坂道を探すと、細い道が坂上から一直線に下に伸びていた。多分ここがニシンダグヮービラと思う。
西平小 (ニシンダグヮー) サーターヤー
西平小坂の横は民家と反対側は空き地となっている。民家はかつての屋号 西平小の屋敷だったのだろう。空き地はその屋号 西平小が所有していたサーターヤーが置かれていた。
龕屋跡
屋号西平小の北側、坂道を登り切った所は平地で住宅街になっている。その中に小さな広場があった。資料では、この辺りに龕屋が置かれていたとあった。はっきりとは分からないが、この辺りではないかと思う。ここにあった龕屋は石積みで、入口がアーチ状になっていたそうだ。宜野湾の愛知からも借りに来ていたという。 北上原地区ではここに近い屋取集落はこの龕屋を使っていたが、遠い屋取集落は近くの字 (新垣、当間、奥間) の龕を、いくらかお金を払って借りていた。
森田坂 (モリタビラ)
龕屋跡から丘陵尾根沿いに道があり南東に進むと、ここにも坂道があった。資料にあった屋号 森田の屋敷側の森田坂 (モリタビラ) の様だ。道幅は狭く、石も敷かれておらず、 プトゥプトゥ (粘度のある泥の状態) した道だったため、汚れないように裸足で下りていたそうだ。 戦前はこの近くに細い竹がたくさん生えており、これでよく竹箒を作ったという。
次良米須坂 (ジロークミシ―ビラ)
道を進んだところにもう一つ普天間川へ下る坂の跡があった。次良米須坂 (ジロークミシ―ビラ) とよばれていた。屋号 坂田次郎米須小から次郎米須小にかけての道でクチャで堅い道だったという。
米須ヌ側 (クミシヌスバ) サーターヤー
道を少し進んだ所にも戦前にはサーターヤーが置かれていた。屋号 米須ヌ側 (クミシヌスバ) の所有で、先ほど通った屋号 森田、屋号 次良米須など8世帯ほどで使用していたようだ。この場所が宜野湾市と南上原との境にあたる。
新仲本 (ミーナカモト) サーターヤー
上平安名小 (ウィーヘンナグヮー)、中平安名小 (ナカヘンナグヮー) サーターヤー
イージャー
更に農道を進む東側に丘陵がへ待ってきた。この丘陵斜面一帯をイージャーと呼んでいた。何故耕呼ばれていたかは不明だが、戦前から木々が生い茂り、料理を作る際のタムン (薪) 取りにこのイージャー行っていたという。
上花城小 (チジヌハナグシクグヮー) サーターヤー
ハギモーグヮ (禿毛小)
これで北上原にあった5つの屋取集落を反時計回りに巡り終わった。今日は遠出ということで比較的早い時間に家を出たのだが、かなり詳しく見学したので帰宅したのは夜7時半を過ぎていた。朝家を出て少しの所で珍しい花を見つけた。ヒスイカズラという植物で、本土では植物園でしか見られない。はじめ見たときには、造花をぶら下げているんかと思ったのだが、近くで見るとそうではなく、調べるとヒスイカズラと出ていた。沖縄では、道端でもこのような花が咲いている。
来週は定期検査のために東京に移動する。今回は定期検査と共に、娘が結婚することになり、相手の両親に挨拶もする予定。埼玉県の蓮田市が実家なので、蓮田市の史跡巡りもしてみようと思っている。出発までは蓮田市の下調べに集中するので、沖縄の集落巡りは今日で終わりとして再開は5月に帰ってきてからとなる。
参考文献
- 中城村史 第1巻 通史編 (1994 中城村史編集委員会)
- 中城村の文化財 第5集 中城村の拝所 (2004 中城村教育委員会)
- 中城村の文化財 第7集 中城村の屋取 (2004 中城村教育委員会)
- 中城村地域散策 (中城村教育委員会)
- 戦前の中城 (2022 中城村教育委員会生涯学習課)
- 中城村 戦前の集落 シリーズ 13 北上原 (2016 中城村教育委員会)
- ガイドブック 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課)
- 百年の軌跡 (2009 中城村役場企画課)
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