Okinawa 沖縄 #2 Day 198 (23/07/22) 旧宜野湾間切 (16) Aichi Hamlet 愛知集落
旧宜野湾間切 愛知集落 (あいち)
- 村屋跡
- 愛知公民館
- まつぼっくり公園、闘牛場 (ウシナー) 跡
- ウトゥシ (滝)
- 下イの後の泉 (サガイヌクシヌカー)
- フッチャガー
- 大堂毛 (ウフドーモー)、愛知の拝所
- ヌールガー
旧宜野湾間切 愛知集落 (あいち)
また、県営愛知高層住宅、沖縄県住宅供給公社愛知団、市営住宅愛知団地などが建設され、閑静な住宅街となっている。戦前の道を残し、戦前からの屋敷に住む旧愛知の住民も多い。愛知の住民は、愛知かじまや一会を設立している。
戦前までは、民家が散在している程度で、昔からあったそれぞれの屋取集落が、それほど変化なくあったように思える。戦後1948年の地図では、帰還した住民も元の集落に戻っている様に見える。その後、1972年の本土復帰までは、屋取集落が少しづつ拡張していき、その後、住宅地や集合住宅開発で急速に拡大している。
愛知区の人口については神谷集落訪問記で記述してので、ここではグラフにのみ掲載しておく。
沖繩戦当時、愛知集落内の民家や村屋 (ムラヤー) には、日本軍が駐屯していた。日本軍がガッコー (宜野湾国民学校) に駐屯すると、学校で授業を受けることが出来なくなり、愛知の生徒は神山の民家で授業を受けたり、嘉手納の飛行場建設に借り出されていた。愛知では、県外への学童疎開や今帰 仁村への疎開者はいなかった。米軍が上陸すると、米軍は4月4日頃には愛知に侵攻し、家屋を焼き払っていた。 集落内の避難壕に避難した住民は4月4‐5日頃には捕虜となったが。 住民の3分の1ほどは南部に逃げ、そのために多くが命を落とした。これは隣の神山が戦没者が少ないことと対照的だ。 愛知の米軍上前、1944年 (昭和19年) 10月1日現在の愛知の人口は527人で死者行方不明者は124人とされ、全住民の23.5%にあたっている。(沖縄県平和の礎調査では、防衛隊、県外での死者を含めた犠牲者 211人)
米軍の捕虜となった愛知の人々は、県内各地の収容所から野嵩収容所へと集められたが、 元の居住地には戻れず収容所生活が続いた。1947年 (昭和22年) 2月28日に、元の居住地へ移動許可がおり、 4月30日に愛知へ戻ることができた。愛知は、基地に接収されることはなかったが、集落の中央を軍道5号線 (現在の国道330号) が貫いており、軍道建設で家屋や土地を奪われた住民もおり、集落も分断された形になっている。隣接する神山は、愛知と接するごく一部の土地を除き、ほぼ全域を普天間飛行場に接収されていたため、残された神山の土地と軍道5号線の北西側の愛知の土地に居住していた。
愛知では、村としての行事には、旧暦2月2日、3日の腰憩い (クシッキー)、旧暦7月の盆のエイサーなどがあった。拝む場所は、ヌールガーやフッチャ ガーなどの井泉だった。 屋取集落だったこともあり、ウマチーなど他の行事はそれぞれ屋取の一族ごとに行っていた。 愛知は神山の一部だったので、宜野湾ノロの管轄地域だった。しかし屋取集落だったので、御嶽や殿などは存在せず、村全体としての祭祀行事はなく、宜野湾ノロが愛知で祭祀を行うことはなかっただろう。
愛知集落訪問ログ
村屋跡
愛知公民館
村屋跡がある坂道を下った所に松ぼっくり公園がありその向こうに公民案が建てられている。公民館の向こうには、1992年 (平成4年) に建てられた172戸の県営愛知高層住宅で、3LDKの家族向きになっている。一棟が半円を描くように建てられている。一般的な何棟の並列に並ぶ集合住宅とは異なり、面白い形になっている。
まつぼっくり公園、闘牛場 (ウシナー) 跡
ウトゥシ (滝)
下イの後の泉 (サガイヌクシヌカー)
フッチャガー
大堂毛 (ウフドーモー)、愛知の拝所
ヌールガー
参考文献
- 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
- ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
- 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
- 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
- ぎのわんの地名 (2012 宜野湾市教育委員会文化課)
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