Okinawa 沖縄 #2 Day 198 (23/07/22) 旧宜野湾間切 (15) Kamiyama Hamlet 神山集落

旧宜野湾間切 神山集落 (かみやま)

  • 神山郷誘友会
  • 合祀拝所
  • イームゥイ (基地内)、アカムゥイ (基地内)、高江洲ヌ十字路 (タケーシヌカジマヤー 基地内)
  • 神山之塔
  • 祝女井 (ヌールガー)
  • 神嶺之御嶽 (カンミンヌウタキ)、按司墓、前ヌ井 (メーヌカー)
  • 後ヌ井 (クシヌカー 基地内)
  • 新井 (ミーガー 基地内消滅)
  • 寺窟 (テラガマ 基地内) 
  • 神山殿 (トゥン 基地内)
  • 宜野湾小学校

旧宜野湾間切 神山集落 (かみやま)

神山は宜野湾市の中央部に位置し、北側は中原、喜友名、東側は愛知、赤道、西側は大山、南側は宜野湾に接している。 宜野湾と接していることから宜野湾神山 (ジノーンカミヤマ) と呼ばれていた。 言い伝えでは、神山は宜野湾の属地でヒザバルと言い、宜野湾から屋号 比嘉 (ヒジャ) が原番人 (ハルバーン) として赴任し、そのまま住み着いて神山の根屋になったという。また、琉球千草之巻に記録され伝わっているのは、宜野湾大神の御子神山按司の在所根所と東大里村より来た大里主の在所座神という。神山の始まりについてはもう一つ説があり、伊計島から移住してきた仲村渠 (ナカンダカリ) がここに住み着き、仲村渠比嘉屋取 (ナカンダカリヒジャヤードイ) とも呼ばれていたともいう。この地域には屋取集落が多く、他の地域に比べ士族の割合が非常に高い。宜野湾では45%、神山 44%、安仁屋、伊佐、我如古は30%を超えている。糸満市や南城市の集落では数%何だが、首里に近い事も一つの要素なのかも知れない。
琉球王国時代、1671年に首里王府によって宜野湾間切が設置される以前、神山は浦添間切の一部だった。当時の神山集落は、琉球王国時代 に植付けられた宜野湾並松 (ジノーンナンマチ) の街道沿東側に形成されていた。1721年には城田という名になっている。ここを領有していた脇地頭久米村城田親雲上の名からそう書かれたと思われる。他に同名の村があった事からとも考えられている。
神山は、仲宇川原 (ナカウカーバル)、黒数原 (クルカジバル)、石比付原 (イシフィジチャーバル)、大安武原 (ウファブーバル)、渡呂寒原 (トゥヌグゥンバル)、総喜呂原 (シキローバル)、半田原 (ハンタバル)、後原 (クシバル)、神山原 (カミヤマバル)、東原 (アガリバル)、無手原 (ムーティーバル)、墾良増原 (クンダマシーバル)の12の小字で形成され、神山原に古くからの碁盤型の集落があった。家々が整然として家並みが美しいことから「ウチカイチュラサ」と言われていた。
1908年 (明治41年) の沖縄県及島嶼町村制で宜野湾間切神山村から宜野湾村字神山へと変わっている。1944年 (昭和19年) の戸数は83戶で、その内、瓦葺きの家が4分の一程度で、 残りがカヤブチヤー (茅葺きの家) だった。また、神山では愛知闘牛場を中心に闘牛が繁盛した集落だった。戦前戦後を通じ、神山集落はサトウキビ栽培が中心の農業地域だったが、その後、兼業として養豚業や養鶏業が盛んとなっていた。
1939年 (昭和14年) の行政区再編の際に東原と墾良増原が愛知に、渡呂寒原、総喜呂原、半田原が赤道に、大安武原、石比付原の一部が中原の行政区に編入されている。この再編によって、神山の小字は、神山原、石比付原、黒数原、仲宇川原、無手原、後原の6字になった。
1964年に、神山と愛知が合併するのだが、両集落で区名で対立し字名をつけることができず、暫定的に19区という味気ない呼称になっていたが、2012年 (平成24年) に19区から愛知区と名称が変更されている。これも神山が承諾する前に政治的に決まったようで、神山住民にとっては驚きだった。
戦前は綱引きもあったのだが、1925年を最後に行われていない。これは宜野湾市全土に広がったはシルークルー (白黒) 党争の激化で村が真っ二つに割れお互いに反目状態となっていた事が背景にある。


シルークルー党争とは

シルー・クルー (白黒) ということばは、もともとは琉球処分をめぐり、琉球の独立を保持しようとする頑固党のなかに、反抗の態度が消極的な白党 (シルー) と、親清国派で頑強に琉球処分に反対する黒党 (クルー) があり、その対立を表したもにだったが、後に政治での党争に使われるようになった。
宜野湾村は村長選挙や議員選挙における対立・抗争が他村以上に熾烈だった。1912 年、村会議員の選挙がおこな われた際に桃原正裕村長が自派の候補者を当選させるべく、とくに我如古と宜野湾の両字で、反対派に対して、村税の過重負担、信用組合からの資金融資の停止などの手段を用いて選挙に干渉したという事件が生じる。村長派が敗北して問題はおさまったかに見えたが、対立は続き、事態は村長の排斥へと泥沼化した。この抗争は、1916 年頃からのシルークルー (白黒) 党争に展開していく。当時は村で掟があったのだが、その一つが娘が他の集落に嫁ぐ場合は馬酒 (ウマザキ) あるいは馬手間 (ウマディマ) と称して娘の家から住んでいた集落に罰金を納める習俗があり、(これは他の多くの集落で存在した) の存廃をめぐる対立が,村会議員選挙の争点にまで発展した。シルー (白) 派とクルー (黒) 派で激しい対立となり村を分断してしまった。綱引きも、盆踊りも,闘牛もそれぞれの派で別々に行い、結婚も両派を跨ぐものは許されなかった。シルー・クルーの対立は、日常の人間関係まで損ない,家庭や親族・知友間の不和を生み,常識を超える数々の問題を残していた。 宜野湾村内のシルー・クルーの政争は、1924年の村議選挙,翌年の村長選挙で再燃した。そのきっかけとなったのは、北谷村長であった伊禮肇が、衆議院議員に立候補する過程で生じたもので、その余波が宜野湾村にも及んだ。当時は政友会 (クルー) と民政党 (シルー) の対立があり、選挙のたびに抗争が過熱し、村を二分する事態に発展した。関係修復のために融和を図る努力がなされ、字宜野湾に夜学校が開設され,青年会への働きかけも試みられ、シルー・クルー党争は融和に向かった。ただこの融和政策は侵略戦争へと進む天皇制国家基盤に障害となる農村の分裂は放置できないとする国策によってもたらされたという見解もある。
神山だけの人口は愛知と合併し19区となってからは見つからなかったので、19区、現在の愛知区として見ていく。1880年 (明治13年) では441人だったのが、45年後の1925年 (大正14年) では864人と約二倍に増加している。その後、1939年 (昭和14年) に神山から愛知、中原、赤道が分離している。この時の人口のデータは見つからなかったのだが、沖縄戦直前の1944年 (昭和19年) では、神山 373人、愛知 527人、中原 431人、赤道 418人、合計1,749人とこの地域で人口がかなり増えているのが判る。本土復帰以降、1990年代半ばまでは高い率で人口は増加している。それ以降は伸び率は鈍化し、現在は、ほぼ横ばい状態にある。

神屋は明治時代までは、広い地域をカバーしており、分離した愛知、中原、赤道の人口を含めると2021年末では、約1.2万人になり、人口は明治13年から27倍にもなっている。宜野湾市では北の海岸沿いの地域よりも、普天間飛行場の南側、かつての屋取集落地域の人口の伸びが非常に大きい。


神山の拝所

  • 御嶽: カンミンヌ御嶽 (基地内 消滅)
  • 殿: 神山之殿 (トゥン 基地内)
  • 拝所: 寺窟 (テラガマ 基地内)、根所比嘉 (ニードゥクルフィジャ)、イームゥイ (基地内)、アカムゥイ (基地内)、高江洲の十字路 (タケーシヌカジマヤー 基地内)、按司墓 (アジバカ 基地内)
  • 拝井: 前ヌ井 (メーヌカー 基地内 消滅)、後ヌ井 (クシヌカー 基地内)、新井 (ミーガー 基地内 消滅)、祝女井 (ヌールガー)
神山では、1968年 (昭和43年) に先祖から受け継がれてきた共有財産の維持管理と祭祀の継承を目的に字神山郷友会を結成している。 1970年代には、基地内に残る御嶽や拝所を郷友会事務所敷地内に移し合祀拝所を建立している。 現在も地域行事の際には、郷友会役員によって祈願が行われている。

旧暦7月15日には青年会を中心としたエイサーがある。 以前は各家庭を回わり家の発展を祈願していたが、現在は公民館広場を利用して行なっている。

琉球王統時代から明治時代にかけては神山村の祭祀は、宜野湾ノロによって執り行われていた。琉球国由来記には、宜野湾ノロが麦と稲の四祭には神山之殿で祭祀を行っていたことが記されている。


神山集落訪問ログ



かつての神山集落は普天間飛行場の中にすっぽりと接収されており、現在見学できる文化財は殆ど無い。立ち入り許可が無ければ、基地のフェンス外から遠景を見るしか無い。基地外に僅かにあるスポットを巡り、基地内は文献に基づいて遠景を見て神山集落を掘り下げる。



神山郷誘友会

神山は1964年に愛知と合併し19区となり、神山単独では公民館がなくなってしまった。沖縄では複数の集落が合併しても、元々の集落の結束は強く、簡単には融合までは行っていない。この神山と愛知の関係も似た様なものと思える。愛知は元々は神山地域内にあった屋取集落が分離独立した地域だった。2012年には19区の名称が愛知になっている。これには、色々な繊細な事情があった様だ。ある書籍では、神山が了承する前に決まってしまったとあった。事実関係は分からないが、親集落だった神山としては愛知に吸収された形になったのは残念だったかも知れない。19区になった数年後につくられた神山郷友会が文化的な自治を行い、神山地域の公民館的役割を果たしている。神山郷友会の敷地内にコミュニティープラザ神山が建っている。これが神山の実質上の公民館になり、愛知自治会とは別運営をしている。Google Map では地番表示は宜野湾市愛知ではなく、宜野湾市神山となっている。広場には普天間基地内にあった旧神山集落の家屋見取り図(1996年に設置) が置かれ、公民館入り口には鶴瓶井戸が残されていた。

合祀拝所

公民館前の広場には二つのコンクリート造りの祠が置かれている。普天間基地内にあった旧神山集落の拝所を合祀している。これは、戦後、昭和25年に米軍基地として接収されていた場所にあった拝所や墓に撤去命令が米軍からあり、それらをマーカーガマへ移し、その後、昭和51年に合祀祠を郷友会敷地に造り祀ったという経緯がある
一つは神嶺毛 (カンミンモー) にあった拝所、拝井中心に祀ってある祠になる。祠の中には六つの香炉が置かれれいる。向かって左側から、新川 (ミーガー)、前之川 ( メーヌカー)、後之川 (クシヌカー)、神嶺 (カンミンヌ御嶽)、頓 (トゥン 殿)、寺窟 (ティラガマ) を祀っている。
ここでは初ウビ、2月、3月、5月、6月のウマチーの年五回の祭祀が行われている。
隣にも祠があり、五つの香炉が置かれている。ここには神山の村立ての先祖と火神の香炉が置かれている。向かって左から、村代火神、根所の火神、先代火神、根所クサイ神、根所神が祀られている。
井戸、御嶽、殿拝所の隣に丸い大石が置かれていた。集落で若者たちが力比べをした力石 (チチイシ) だろう。基地内にあった殿 (トゥン) のある殿毛 (トゥンモー) では戦前は重い石を投げて競い合ったそうなので、その石かも知れない。
以前の合祀祠の写真があった。それには二つの祠の隣には神嶺毛 (カンミンモー) から移設された按司墓が建っている。現在は無くなっているのだが、どうなったのかは書かれていなかった。按司墓には、イームイ、アカムイ、伊波の東のカジマヤー (辻) もセメント造りの塚に納められていたそうだ。


イームゥイ (基地内)、アカムゥイ (基地内)、高江洲ヌ十字路 (タケーシヌカジマヤー 基地内)

旧神山集落で拝所になっていた所が普天間飛行場基地内にある。イームゥイ、アカムゥイ、高江洲ヌ十字路 (タケーシヌカジマヤー) または、伊波ヌ東ヌカジマヤーだ。全て基地内にあるのだが、戦前は獅子舞いの獅子を埋葬したと伝わっている。イームゥイには獅子頭を、アカムゥイには尻尾を、高江洲ヌ十字路には胴体を埋めており、旧暦6月15日に供養を行ったそうだ。今まで約200の集落を巡ってきたが、獅子舞の獅子の墓はこれで二つ目だ。珍しい。いつ、どのような理由で3ヶ所に分けて埋葬したのかは不明だそうだ。もとは、宜野湾集落の獅子舞で、神山の龕ガンと交換したという話もある。(この交換の話は過去2つの集落にあった)



神山之塔

コミュニティープラザ神山の広場の拝所の向かい側には神山之塔と呼ばれている慰霊碑が建てられている。戦後1968年 (昭和43年) に、本籍や現住所が神山にあり、沖縄本島内に在住する加入希望者を以って組織する「字神山郷友会」を設立し、1974年 (昭和49年) には慰霊塔「神山之塔」を建立し、沖縄戦含め戦争で亡くなった62柱が刻銘されている。郷友会では、毎年6月23日後の日曜日に慰霊祭を執り行っている。
1944年6月ごろから石部隊、球部隊が駐屯し、住民は飛行場や陣地壕建設に駆り出された。この集落から疎開した人は殆ど無く、部落内に壕に避難していた。
1945年 (昭和20年) 4月1日、沖縄本島に上陸した米軍は、翌2日には宜野湾村安仁屋、普天間方面に到達し、早くも普天間の中頭教育会館等 (現普天間高校) に第96師団の司令部を設け、 隣の野嵩には民間人の収容所を設置している。日本軍は大山や神山、中城村の北上原を米軍の動きを牽制する前進陣地とし、大謝名や嘉数、我如古一帯、中城の南上原や和宇慶一帯を主陣地として、 米軍の進攻を阻止するために激戦を繰り広げていた。4月6日頃からは、嘉数高地を中心に日米間の2週間に亘る組織的な攻防戦が展開された。これらの地域では、戦闘に巻き込まれた住民や、日本兵から壕の追い出しを受けた住民、日本軍と共に本島南部へ移動し、そこで追い詰められて亡くなった住民が多くいた。沖縄戦で亡くなった神山の住民は、戦前人口 373人に対して10.9%にあたる39人が犠牲となっている。(宜野湾市全体の戦没者は戦前人口13,636人に対し、26.9%の3,674人) 沖縄県平和の礎調査では123人と非常に多く、33%になる。
1945年 (昭和20年) 1月に米軍が撮影した航空写真には、宜野湾並松 (ジノーンナミマチ) の北西側に蛇行する溝が確認でき、この溝は交通壕で、集落内にも戦闘を想定した陣地が構築されていた。タコツボ壕や、防空壕が発見され、防空壕には日用品や米軍が使用した黄燐弾や爆弾の破片などが出土している。
1944年の那覇での十・十空襲以後、神山等には那覇や浦添方面からの避難民が流れ込んでいる。神山の住民は、ほとんどが今帰仁への疎開をせずに集落内の自然洞窟へ避難し、集落内の各洞窟には、神山住民と余所からの避難民を含めて、テラガマに約180人、メーヌカーガシラに約230人、クシヌメーガシラに約100人、ムーティーガマに約120人、ミーガーのガマに約170人、約700名が避難していた。
村内の自然洞窟等に隠れていた住民の殆どが、4月4~5日には、米軍の捕虜となり野嵩収容所等で数日間過ごした後に、安慶田や石川、具志川等の収容所へ移されていた。神山を通過した米軍は、4月下旬に宜野湾を突破し、南進を続けた。本島南部で掃討作戦が行われ、戦闘が激しくなる6月には、普天間飛行場の建設が始まっている。この建設によって神山の集落をはじめ、字宜野湾や中原、新城等の集落は壊され、畑や宜野湾並松なども整地されてしまい、集落が失われた。
捕虜となった神山住民は各収容所から野嵩収容所に移動し生活をしていたが、1948年 (昭和23年) 2月頃に神山内で飛行場に面していない無手原の土地や、 愛知の一部の墾良増原に移動し新しく集落建設を行った。現在も旧集落地は基地の中にあり、神山の人びとは本来の故郷に戻れない日々が続いている。

祝女井 (ヌールガー)

普天間飛行場に接収されなかった地域に昔からの井 (カー) がある。貴重な文化財として保存され、道路には案内版が数カ所に置かれていた。それに従い井戸を目指すと住宅地から細い路地を通り墓地に出て、更に道を進むと谷間へ下る階段がある。その下に石積みが見えている。そこが祝女井 (ヌールガー)だ。

祝女井 (ヌールガー) と呼ばれているので、宜野湾ノロに関係があるそうだ。(その関係とは何かは記載なかった) 昔は宜野湾集落の屋号 嘉手苅 (カリカル) がノロ殿内 (ドゥンチ) などと一緒に管理していた。霊力の高い湧泉と言われ、死者を運ぶ龕はここを通ることは禁じられていた。戦前までは神山集落の草分けである比嘉家が拝んでいたが、戦後は神山郷友会が管理しており、正月行事である初御水 (ハチウビー) で拝まれている。この場所は、愛知の域内で、字愛知では最も古い湧泉として、ヒャーイ (干魃) の時には、ここから水を汲んでいたそうだ。愛知では、古くから産泉 (ウブガー) として拝まれている。

神嶺之御嶽 (カンミンヌウタキ)、按司墓、前ヌ井 (メーヌカー)

現在の神山集落の北側にある普天間基地の中には幾つもの拝所がある。道路から貯水タンクが見えるが、そこは神嶺毛 (カンミンモー) と呼ばれる丘で集落の腰当 (クサティ = 聖域) だった。神嶺毛 (カンミンモー) には小さなガマがあり、香炉が置かれ、中宗家 (ナカムトゥ) が拝んでいたと伝わっている。ここが神嶺之御嶽 (カンミンヌウタキ) と考えられている。沖縄戦当時に日本軍が陣地をつくるために破壊されてしまった。戦後は、米軍がその頂上に水道タンクを設置している。かつてはもっと高台だった。地下には神嶺毛洞 (カンミンモーガマ) があり、沖縄戦では住民の避難場所だった。米軍に見つかり、手榴弾を投げ込まれ、住民は外に出て投降し、命拾いしたそうだ。ここにある貯水タンク建設の際に土砂がガマに流れ込んでガマは塞がれている。この神嶺毛 (カンミンモー) の北斜面には、かつては村の拝所となっていた按司墓があったそうで、宜野湾の屋号嘉手苅 (カリカル) が拝んでおり、神山の人は按司墓の下方にあった小さなガマの祠を拝んでいた。この按司墓は神山で唯一の御嶽に掘られた墓なので神山の始祖の墓の可能性も指摘されている。
また、カンミンモーの北には神山集落の前村渠 (メーンダカリ) の拝井だった前ヌ井 (メーヌカー) があり、産井 (ウブガー) として利用されていた。この場所はメーンダカリ水質は良く、気候や天気に左右されずに常に清流が湧いていたのだが、湧口へは坂を下りなければならず、水量は多くなかったため、利用者はそれほど多くはなかった。大雨で後ヌ井 (クシヌカー) が濁ると、この前ヌ井の水を汲みに来ていた。カンミンモーに貯水タンクを設置する工事の際に埋まり消滅してしまった。写真も残っておらず、その姿は今ではわからない。神嶺之御嶽 (カンミン ヌウタキ) と前ヌ井 (メーヌカー) の拝所は公民館に移設され合祀されている。

後ヌ井 (クシヌカー 基地内)

普天間飛行場基地内の神嶺毛 (カンミンモー) 東の麓の自然洞窟に切石を積んで造られた後ヌ井 (クシヌカー) が残っているそうだ。この後之井は後村渠 (クシンダカリ) の産井だった。
クシヌカーガシラを水源としていたが、水質はあまり良くないが、水量が多く、利用者は多かったそうだ。洗濯物や水浴びに使われていた。また、正月の若水 (ワカミジ) や産水 (ウブミジ)、水撫で (ミジナディー) に使う水を汲んだり、産着を洗うカーウリー (湧泉下り) にも使用されていた。現在は土砂で埋まっている。この後之井も公民館の祠に合祀されている。

新井 (ミーガー 基地内消滅)

後ヌ井の東側にも神山集落の拝井の新井 (ミーガー) があった。現在は普天間飛行場造成工事で破壊され消滅してしまった。かつては体育館ほどの広さの自然洞窟の中にある湧泉で、1905年 (明治38年) の大干ばつの際に新たに掘られた。比較的新しい井泉という事で新泉 (ミーガー) と呼ばれたというが、巳年に掘られたので巳泉とも言われている。水は氷水のように冷たかったそうだ。普段は利用する者はおらず、後ヌ井の水が濁った際に使われていた。この新井も公民館の祠に合祀されている。

寺窟 (テラガマ 基地内) 

神山部落の北側二軒の森の中に寺窟 (テラガマ) があり、俗に普天満小 (フテンマグヮー) とも言われる。現在は公民館の祠に合祀されている。
ここは普天満権現 (女神) が首里桃原より普天満に行く (逃げる) 途中、この洞窟で休憩したと伝わっている。 ここでの逸話は他のものとほぼ同じだが、ちょっとづつ変わっている。

  • 首里桃源から姉妹がウー糸に繋がれてのがれガマに篭っていた、ある日、姉はガマに潜み、妹が外に用を足しに出た所行商人が妹の美しさに驚くと、妹は姉の方がもっと美しいと言う。行商人は妹に姉を見せて欲しいと頼んだ。妹は転ぶフリをして姉が出てきたところを見た。見られた姉はそれをはじ、妹と一緒にウー糸を引っ張りながら普天間のガマに入った。

この話はこれまで二つの洞窟跡にあった。首里桃源から普天間まで15-20kmを逃げたので何度か休憩は必要。この伝説はその逃避道の5ヶ所に残っている。
  1. 女神の生誕地 那覇市首里桃原 
  2. 西森御嶽洞窟 那覇市首里儀保 
  3. 真地大権現堂洞窟 (普天間小) 浦添経塚 
  4. 嘉数ティラガマ 宜野湾市嘉数 
  5. 神山ティラガマ 宜野湾市愛知 (この場所)

浦添市前田 前田権現も女神が休息を取った所と紹介しているサイトがあったが、それ以外その様に説明した資料は見つからなかった。
寺窟 (テラガマ) 普天満の洞窟と同じく大きな洞窟で中には鐘乳石が無数に垂下って冷気が身にしむ霊所となっている。香炉が安置され、今でも参詣者が絶えないという。沖縄戦では180人がこの洞窟に避難していた。戦前迄は6月ウマチーで神山集落で拝んでいた。またハマウリという厄祓いをするところでもあった。

神山殿 (トゥン 基地内)

寺窟 (テラガマ) の少し北に神山集落の根屋 (ニーヤ) の屋号 比屋 (ヒジャ) などの有力者が寄集まった場所とされる聖地で、現在でも石灰岩製の立派な祠が残っており、中には鍾乳石が安置されているそうだ。祠の前には広い庭があり、殿森 (トゥンムゥイ) と呼ばれ、青年たちは相撲をとったり、重い石を投げて競い合ったという。戦前は、農作物の御願の旧暦2月2日の腰憩い (クスッキー) や稲の豊作を願う9月の種子取 (タントゥイ) の際に拝まれれいた。この拝所も公民館の祠に移設し祀られている。


宜野湾小学校

1881年 (明治14年) に宜野湾間切普天間村神宮司寺内に中頭小学校として歴史が始まっており、翌年には4年制の宜野湾尋常小学校となっている。この宜野湾尋常小学校からは、明治39年に大謝名に分校、大正8年に嘉数尋常小学校が分離開校、大正11年に普天間尋常小学校に高等科を分離、大正14年に生徒増加で旧宜野湾馬場近くに移転し、フルガッコウ (写真左) と呼ばれた。昭和16年に近くに移転ミーガッコー (写真右) 国民学校となり、戦時下では軍施設として接収された。
沖縄戦では校舎が焼失。戦後、昭和21年に野嵩南初等学校として再出発。昭和22年には愛知に分校を開設。昭和23年に現在地に茅葺校舎を建て移転し、宜野湾初等学校となる。昭和27年に宜野湾小学校と改名し、コンクリートで校舎を改修している。児童数の増加に伴い,昭和57年に志真志小学校,平成11年には長田小学校が分離開校しているが、現在でも35学級、児童数800名以上の大規模校だ。


これで神山集落の拝所巡りは終了。炎天下の下、ずうと外にいるので、少々バテているが、この神山区は愛知区に吸収されたようになっており、元々は神山だった愛知ももう少し頑張って見学することにした。愛知の訪問記は別途。


参考文献

  • 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
  • ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
  • 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
  • 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
  • ぎのわんの地名 (2012 宜野湾市教育委員会文化課)
  • ウチカイ美らさ神山 (2022 宜野湾市立博物館)

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