埼玉県 (07/04/23) 蓮田市 (1) 見沼代用水東縁

見沼代用水

東京都足立区

  • 見沼代親水公園
  • 毛長緑道、神領堀
  • 親水緑道
  • 舎人諏訪神社
  • 舎人橋、舎人堰水門

川口市

  • 本郷橋、船着場跡、南前橋、酒盛橋
  • 辰井橋、観音橋
  • 長毛川との合流点、浅間橋、富士見橋
  • 吹上橋、一里塚的場橋、庚申塔
  • 板碑、川魚供養塔、おおぎ橋
  • 見沼橋
  • 見沼大曲公園
  • 的場橋
  • 諏訪山橋
  • 諏訪山下橋
  • 瑞穂橋、緑のヘルシーロード
  • 神明橋
  • 根岸橋
  • 松原橋、祠
  • 博愛橋
  • 台橋
  • 妙蔵寺
  • 祠、木曽呂南橋、山口橋

さいたま市

  • 山口新田稲荷社
  • 見沼通船堀
  • 木曽呂富士塚
  • 見沼新田橋
  • 二つ橋、川口自然公園
  • 東沼神社
  • 宮前橋、妙宣寺
  • 北原橋
  • 無量寺
  • 無量寺橋
  • 公園橋、大崎公園、さいたま市園芸植物園、天神橋
  • 大崎橋、水神社/今宮大杉神社
  • 国昌寺橋
  • 見沼龍
  • 総持院橋
  • 総持院
  • 十色の田んぼ
  • 五斗蒔橋
  • 諏訪橋
  • さぎ山橋
  • 見沼自然公園
  • どんぶり橋、加田屋弁天
  • 見沼弁財天
  • 筆塚
  • 膝子塚
  • 膝子橋、七里総合公園
  • 神明神社
  • 中島橋
  • 春岡橋

上尾市

  • 坂下橋
  • 大島橋


昨日は沖縄那覇から成田に飛び、バスにて東京にに移動、預けている自転車をとり、南千手の安宿でゆっくりと休んだ。今日はここから見沼代用水沿いを走り、目的地の蓮田市に入る予定。蓮田市を巡ろうと思ったきっかけは次女の結婚相手の出身地で、明日は彼の両親との顔合わせが組まれている。それで蓮田市を知ろうという興味が湧き、その楽しみが有れば顔合わせもリラックスできるだろう。今日の行程は約40km程あり、途中に見沼代用水沿いにあるスポットを見ながら走るのだが、外は生憎、強い雨が降っている。雨の中史跡などを見ながら走るのは少々辛い。途中で雨がやんでくれれば良いのだが。


見沼代用水

見沼代用水は1722年 (享保7年)、第8代将軍徳川吉宗の命で、紀の川流域の新田開発に貢のあった見沼代用水路普請奉行の井沢弥惣兵衛によって掘削され、1728年 (享保13年) に完成した関東平野最大の農業用水で、1629年に伊奈忠治が築いた八丁堤によりできた見沼溜井の水を水源として下流の約5,000haの田に水を供給していた。このことにより享保の改革の一環として新田開発が行われた。それまでの八丁堤を壊して見沼溜井に代わるという意味で見沼代用水と呼ばれた。利根大堰近くで利根川から取水し(見沼元圦公園が整備、行田市、久喜市を南下し、元荒川を柴山伏越で越え、蓮田市と上尾市の境を流れる綾瀬川を越え、西縁、東縁に分かれ、見沼たんぼの縁に沿って東西の2本の用水となって流れ、川口市内を流れ、西縁は川口市小谷場で、東縁は足立区で毛長川に合流して舎人堰水門が終点になっている。見沼代用水東縁は全長16km、見沼代用水西縁は全長22kmもある。見沼田んぼでは、見沼代用水西縁-芝川-見沼代用水東縁を結ぶため、見沼代用水と芝川との3mの水位差を閘門式運河で調節する見沼通船堀が1731年 (享保16年) に設置し、見沼田んぼの米を、芝川の舟運で江戸に運んでいた。この様な通船堀は見沼通船堀公園、見沼通船堀東縁、見沼通船堀西縁に整備されている。また、見沼代用水東縁沿いの見沼自然公園、さぎ山記念公園、川口自然公園、川口市立グリーンセンターには、見沼を干拓し見沼代用水を開削した井沢弥惣兵衛の銅像が立っている。




東京都足立区


見沼代親水公園

まずは見沼代用水の東縁でかつての最末端部になる見沼代親水公園 (東京都足立区舎人にある) に向かう。生憎雨なのだが、天気予報では雨はあがるとなっていた。公園に着いた時には雨はあがっていた。この公園は1984年に開設され、延長約1.7kmの公園になる。桜の時期は終わってしまったが、少しだけ八重桜が咲いている。


毛長緑道、神領堀親水緑道

見沼代親水公園からは毛長緑道 (写真上) が舎人橋まで整備されている。途中で神領堀親水緑道 (写真下) が分岐していた。御神領堀は見沼代用水支流の用水で、 江戸時代には流域の伊興・鹿浜・加賀皿沼・堀内・沼田・高野・舎人などの村々によって用水組合が作られ、地域の人々によって用水を管理・運営していた。


舎人諏訪神社

毛長緑道の途中に舎人諏訪神社があった。拝殿の奥に本殿があり覆舎によって囲われて
いる。隙間から本殿の彫刻を見ることができる。1836年 (天保7年) の建立で、江戸時代末期の神社建築の特徴が表れているそうだ。

舎人橋、舎人堰水門

見沼代用水はこの舎人橋で毛長川に流れ込んでいる。ここが見沼代用水の東縁となっている。見沼代用水は日本あり西縁と東縁になり、蓮田市から分かれている。今回は見沼代用水東縁を走っていく。



川口市

ここから東京都から埼玉県川口市に入る。これ以降は見沼用水にかかっている橋を目安に蓮田市に向かって走る。川沿いに史跡やスポットが有れば寄り道をして見学予定。

本郷橋、船着場跡、南前橋、酒盛橋

本郷橋 (上) と南前橋 (中右) の間に船着場跡 (中左) があった。南前橋を越えると用水は大きく曲がり酒盛橋 (下) が続く。

辰井橋、観音橋

辰井橋 (上) は昔の面影は無く、橋の上には首都高速川口線が走っている。辰井橋を過ぎると幾つかの小さな橋があるが、どれも無味乾燥で面白みがなく、観音橋 (下) まで停車せず通過する。途中に文化放送川口送信所の敷地内に桜 (中右) がまだ綺麗に咲いていた。


長毛川との合流点、浅間橋、富士見橋

浅間橋 (右上、中左) の手前は長毛川との合流点 (伏越、左上) になっている。浅間橋付近にはまだ桜の花が残っていた。そして富士見橋 (中右、左下) へと続く。今では高い建物で富士山は見えない。富士見橋脇には大正15年から昭和7年にかけて行われた鳩谷耕地整理記念碑 (右下) があった。

吹上橋、一里塚

吹上橋の欄干には何故か赤ん坊のブロンド像が置かれていた。この橋を渡った日光御成街道の両脇には江戸時代には一里塚が置かれていた。今では塚は削られて消滅している。日光御成は中山道の本郷追分を起点として北上し、岩淵宿、川口宿、鳩ヶ谷宿から岩槻宿を経て、幸手宿手前の上高野で日光街道に合流する脇街道だった。

的場橋、庚申塔

的場橋 (的場水位調節ゲート) の袂には祠があり、中には青面金剛像庚申塔が安置されていた。

板碑、川魚供養塔、おおぎ橋

的場橋から一つ橋を過ぎ、おおぎ橋 (下) との間に文字が刻まれた石?板碑? (上) があったが何かは不明。その向こうにも石塔がある。川魚供養碑 (中) とある。初めて目にした。鳩ヶ谷市周辺の地域は河川や池沼が多いことから、昔からウナギ・ナマズ・フナなどの淡水魚を専門とする商いの料理屋が栄えていた。この供養碑は昭和54年にウナギの冥福と感謝を込めて建立されたものと思われる。


見沼橋

見沼代用水は国道122号線と交差し、道路高架橋の下を通っている。この部分は暗渠になって道路が走っている。

見沼大曲公園

見沼橋を越えると代用水が現れ、辺りに見沼大曲公園がある。名の如く、代用水の川筋は大きく右に曲がっている。

的場橋

見沼代用水は左に曲がり、的場橋が架かる。

諏訪山橋

代用水路は今度は右にカーブしている。ここには諏訪山橋が架かっている。

諏訪山下橋

続いて代用水は左に曲がり諏訪山下橋があり、橋の道は緩やかな登り坂になり、諏訪山に通じている。橋の袂には小さな公園があり、ここで休憩。

瑞穂橋、緑のヘルシーロード

諏訪山下橋を通過すると見沼代用水はまた右に曲がり瑞穂橋になる。この先から自転車専用道路の緑のヘルシーロードが始まる。
ここから利根大堰まで見沼代用水東縁を総延長56.5kmの道になる。今日の終点の蓮田市を通り、蓮田市滞在中に利用するインターネットカフェはこの緑のヘルシーロードのすぐ側にあるので、これからは道に迷わずこの緑のヘルシーロードを走れば良い。

神明橋

緑のヘルシーロードには代用水沿には桜並木があるのだが、ちょうど花の時期が終わったばかりで、少しだけまだ花が咲いている木があるだけだった。


根岸橋

川口市グリーンセンターという市民公園を右手に見ながら代用水を走ると根岸橋。ここで水路は大きく左に曲がりっている。

松原橋、祠

松原橋を通過すると水路沿いに小さな祠がある。対岸にも鳥居と祠が見える。

博愛橋

この祠の所ででまたもや水路は大きく右に曲がり、博愛橋が架かっている。

台橋

続いて台橋がある。ここは休憩ができるように、整備されてブロンズ像も置かれている。ここで代用水は大きく左に曲がっている。

妙蔵寺祠、木曽呂南橋、山口橋

台橋を過ぎると妙蔵寺が見えてきた。日蓮宗寺院の岸榮山妙蔵寺は、南北朝時代の1358年 (延文3年/正平13年) に池上本門寺第三世日輪上人を開山に創建された。現在の本堂は昭和40年(1965年)再建されたもの。山門を入った境内に見沼代用水が流れていて橋がかかり、これが参道の一部になっている。


祠、木曽呂南橋、山口橋

見沼代用水は妙蔵寺の敷地沿いをぐるりと右にに円を描き、そして左に曲がり北への上流に続いている。東京外環自動車道を越え、道合神戸住宅脇 (右上) を通り走ると代用水対岸に祠 (中) が見え、更に進み、木曽呂南橋 (左下) を通り、山口橋 (右下) まで来た。


さいたま市


山口新田稲荷社

山口橋は川口市とさいたま市の境に当たる。橋を渡りさいたま市に入った所に稲荷神社が置かれていた。この辺りは江戸時代中期の1728年 (享保13年) に江戸小田原町鯉屋藤左衛門が開発を始め、60年余りの難工事の末にようやく成し遂げられた見沼新田の内の下山口新田村だった。村の名称は開発者である鯉屋の姓である山口を当てたという。橋も山口橋となっている。ここに新田が開発される以前は沼地で、その中に祭竹を立て、三室女体の御旅所としていた。三室女体神社が隔年の9月8日に御船祭を行う際に御旅所が置かれていた。この稲荷神社は新田の開発も終わりに近づいた1791年 (寛政3年) に村民が京都伏見大社から正一位稲荷大明神を分霊することの許しを受け倉稲魂命を祀り創建されている。新田が漸く軌道にのり、五穀豊穣、商売繁盛を願ったのだろう。境内には壊れた石燈籠、手水鉢、その片隅に力石が二つ置かれている。
稲荷神社の隣には六地蔵が置かれている。ここには地蔵堂があったとされている。またここには庚申塔も見られ、山形石塔上部に瑞雲を伴う日輪、月輪が浮き彫りされ、その下に「庚申塔」と刻まれている。

見沼通船堀

稲荷社のすぐ北側には江戸時代の見沼通船堀が復元保存され、見沼通船堀公園になっている。見沼代用水は江戸時代徳川吉宗の時代に井澤弥惣兵衛為永に命じ新田開発の際に造られ、新田で収穫された米を江戸に船で運ぶため、見沼通船堀を1731年 (享保16年) に造っている。見沼代用水東縁と芝川を挟んで見沼代用水西縁を結ぶ閘門式運河で、パナマ運河と同じ様式で芝川本流と用水の水位差 (3m) を閘門で水位を調整しながら通船させていた。年貢米の他野菜、薪炭、酒、柿渋など代用水縁辺の村々の生産物を江戸へ、江戸からは肥料、塩、魚類、醬油、荒物などが運ばれていた。
通船を行うのは、田に水を使わない時期で、 初め秋の彼岸から春の彼岸までだったが、後に冬場の2ヶ月程と短くなっている。明治時代までは盛んに使用されていたが、次第に陸上交通が発達し、大正時代の終わり頃には使われてなくなり、昭和6年の通船許可期限が切れ幕をおろしましている 。
今回は見沼代用水東縁と芝川の間だけを見学した。見沼通船堀沿いは公園になっており、散策道が設けられている。まだ桜が咲いていた。ここには休憩所もあったので、ここで昼食をとって休憩。
江戸時代から大正時代までは通船堀としては船が芝川 (写真上) から見沼代用水に入って来ていた。その仕組みは、芝川から通船堀に入り「東縁一の関 (写真中)」に向かう。中へ入ると「一の関」を閉め、見沼代用水から水を流して水位を上げ、「一の関」から「二の関」方向に出る。
船は「二の関」に向かい、中に入ると「二の関」を閉め、見沼代用水から水を流して水位を上げ、見沼代用水と水位が同じになってから見沼代用水へ進んでいく。
この通船堀からは新田に向けて細い用水路が

木曽呂富士塚

見沼代用水の向こうに丘がある。そこは木曽呂の富士塚になり、地元では「ふじやま」、「木曽呂浅間」と呼ばれている。1800年 (寛政12年) に富士講の丸参講の蓮見知重が見沼代用水東縁と見沼通船堀の連絡点の崖上に富士山を模して築造している。現存する県内最古の高さ5.4m、直径20mの富士塚で国指定重要有形民俗文化財となっている。
1800年 (寛政12年) に富士塚が完成する前に江戸高田の行者藤四郎が、老若男女だれでも心安く富士に登山できるようにと、1780年 (安永9年) に高田水稲荷の境内に築いたのが始まりで、塚の下に稲荷神社がある。
周囲には、丸参講により造立された石造物が多く残存している。頂上には火口が掘られ、お中道、胎内めぐりの穴などが設置されている。富士塚東側には皇太子殿下行啓記念樹が植えられている。昭和陛下が皇太子殿下の時代に見沼通船堀、木曽呂の富士塚を訪れた事を記念して平成18年に植樹されたもの。

見沼新田橋

富士塚の北側から見沼代用水に降りると見沼新田橋が架かっている。見沼代用水と綾瀬川の間は江戸時代に新田開発された地域で、各地に「新田」を冠した地名が多くある。


二つ橋、川口自然公園

見沼代用水を北に進むと二つ橋があり東には高齢者向け高級マンション、西原大きな池がある川口自然公園があった。

東沼神社

見沼代用水沿に朱塗の大鳥居がある。東沼神社でここが裏参道なので反対側にある本参道鳥居から神社 (1987年) に入る。木花咲耶姫命を奉斎した浅間神社として1573年 (天正元年) 以前に創立された。かつて、この辺りには大門町、下野田村、北原村、間宮村、差間村、玄蕃新田があったが、1889年 (明治22年) の町村制施行によって合併して大門村 (1956年 昭和31年にさいたま市緑区大門となっている) が成立している。1907年 (明治40年) に差間村の菅原社と稲荷社、間宮村の大白天社と氷川社、北原村の稲荷社、行衛の稲荷社と天神社をこの差間村の浅間神社に合社し東沼神社と改称し、木花咲耶姫命、素盞鳴命、倉稲魂命、菅原道真公を祭神として祀っている。
境内奥には1986年 (昭和61年) に竣工された社殿があり、江戸時代に存在していた富士塚を2012年 (平成24年) に丸岩一信講により修繕し復元されている。

宮前橋、妙宣寺

曲がりくねった見沼代用水を進み、右手に妙宣寺の墓地がある宮前橋を通過。

北原橋

更に進むと北原橋が架かっている。この辺りは北原村があった地域になる。旧北原村は日光御成道第三番目の宿場の大門宿の南西に位置し、旧中山道と日光御成道を大門宿で結ぶ主要地方道浦和越谷線が北原村の南側を通っていた。西の端には見沼大用水東縁の見沼通船荷揚場もあり、人の往来も多く栄えていった。1633年 (寛永10年) に旧行衛を合併し、1792年 (延政7年) に南の見沼新田内に行衛北原村新田を飛地として保有し、差間、間宮の二村、下山口新田の見沼新田、大門宿、下野田村及び北高畑村内にも飛地を有して村が拡張されている。

無量寺

北原橋の北側には如意輪観音を本尊とする真言宗智山派寺院の福壽山光明院無量寺がある。大坂城落城の折に東国に下向した大坂方の残党一派がこの地に入植し、先住者と共に北原村を落成した際、源慶法師が村のため1615年 (元和元年) 開山したと伝わっている。比較的大きな綺麗に整備されている。駐車場には鐘楼門が置かれている。山門前には五百羅漢像が置かれ、山門をくぐると、本堂のある境内への入り口の門がある。
境内奥には立派な本堂があり、本堂から見沼代用水側を見下ろすと墓地があり、墓地への道は綺麗に整備されている。この寺は空間が多く、ゆったりとした雰囲気で、多分寺全体が作り直されたのではと思われる。

無量寺橋

北原橋の次の橋が無量寺橋で、ちょうど無量寺の墓地のところに架かっている。


公園橋、大崎公園、さいたま市園芸植物園、天神橋

次にあったのは公園橋 (上) で、その次の天神橋 (下) までの北側には大崎公園 (中)、南側にはさいたま市園芸植物園が造られている。散歩コースには良い所だ。子供も多く訪れるのか、両方の橋には子供の像と鳥に像が置かれている。

大崎橋、水神社/今宮大杉神社

次に大崎橋がある。この辺りはさいたま市の大崎という地域になる。橋に近くには水神社/今宮大杉神社と刻まれた石塔が置かれていた。


国昌寺橋

新見沼大崎有料道路をくぐり更に道を進むと国昌橋がある。この橋の近くに国昌寺がある事からの名だが、今回は時間に余裕が無いので訪問しない。

見沼龍

国昌寺橋を過ぎると見沼代用水は大きく右に曲がっている。この対岸一帯は自然保護区になっている。その自然保護区の見沼代用水の一部に龍神伝説が残っており、モニュメントも作られていた。竜神伝説の説明板が置かれている。
将軍吉宗の命を受けた井沢弥惣兵衛為永は、この辺りの見沼を干拓し、利根川から代わりの水を引く工事をしていまし た。ある晩のこと、為永は夢をみました。 見沼の主である龍神という美しい娘が現れ、「私の住むところがなくなる、新しい住処を探すまで工事を中止してほしい・・ ・」といいます。 来春の稲の作付けに間に合わせるため工事は一日も休めません。そのうち工事に負傷者や障害が続出し、為永も病に倒れてしまいました。するとまた夢に先ほどの美女が現れ、「おまえの病を治してあげるから、私の頼みも聞いて欲しい。 」 毎夜やってきては、夜明けに姿を消します。為永の病気はにわかに良くなりましたが、家来が為永の部屋を覗くと、蛇身の女が為永の体をなめまわしていました。家来の者もそれには気を失い、為永もその話を聞くと肝を冷やしました。 為永は、詰所を萬年寺 (見沼区片柳) に移しました。萬年寺でも、棺が門をくぐろうとすると中に舞い上がるというようなことが起こったため、人々は、龍神が為永の仕打ちを怨んでの仕業に違いないといいあったといいます。

総持院橋

見沼龍を過ぎると総持院橋がある。この西に総持院がある。総持院に立ち寄ってみる事にした。見沼代用水から西に道を外れると「南部野田土地改良記念碑」が建てられている。この辺りは上野田と呼ばれた地域。この辺りは代用水原形保全区間で、見沼龍の森 緑のトラスト1号地とあり、見事な竹林が保存され休憩所も設けられている。

総持院

総持院は1577年 (天正5年) 頃に法印良秀によって開かれたと伝えられている。明治時代に火災に遭い、鐘楼門を残して全焼し、その後再建されている。境内には石仏も並べられ、その中には庚申塔もあった。
総持院はぼたん寺とも呼ばれ、ぼたんを見に多くの人が訪れるそうだ。ばたんは4月下旬から5月上旬が見頃なので、まだ3週間先だ。その時期に訪れると下の様な光景が見られる。

十色の田んぼ

総持院から見沼代用水に戻ると、綾瀬川とに間にある田んぼの中に色鮮やかな所があった。「十色 (といろ) の田んぼ」と言い、さいたま市の見沼田んぼでとうがらしやお米などの農作物の生産と、田植え・稲刈りなど米作り・農作業体験イベントを運営する農業法人の畑だそうだ。

五斗蒔橋

代用水原形保全区間を抜け、更に見沼代用水沿いに北に進むと、五斗蒔橋にでる。変わった名なのだが、その由来ははっきりしない。一説には稲を育てても一反に五斗の米しか獲れない程の痩せた土地に架かる橋ともある。ここにも五斗蒔橋の大蛇という伝説が伝わっている。
この五斗蒔橋は、この付近の人が見沼たんぼの耕作に通うのに利用していました。
むかし、近くの野田に住むおばあさんが、幼い孫娘を背負って、たんぼの見回りに出かけました。橋に近づくと、人のいびきのような音が聞こえ、背中の子が突然、ものにおびえたように激しく泣き出しました。
橋に近づくほどいびきは大きくなり、腹にひびくようなものすごさです。それはどうやら橋の下から聞こえてくるようすでした。泣く子をなだめながら、おそるおそる橋の下をのぞくと、そこには、耳の生えた大蛇が昼寝をしていました。びっくりしたおばあさんは、青くなって家へ逃げ帰りました。話を聞いた村の暴れものの男の子たちが、大蛇退治に行って蛇を傷つけ、後にそのたたりに苦しんだという。

諏訪橋

見沼代用水を進むと諏訪橋が架かっている。この橋に東にはさぎ山自然公園がある。かつてこの地には多くのさぎが飛来し、サギの繁殖地として国の特別天然記念物の指定を受けていた。

さぎ山橋

その次にはさぎ山橋がある。さぎ山の名が付いている。

見沼自然公園

諏訪橋とさぎ山橋の西側は見沼自然公園になっている。かなり広い公園になっている。公園の池には多くの野鳥が泳いでいる。広場の中に井澤弥惣兵衛為永の銅像が建てられている。井澤弥惣兵衛為永は紀州溝ノ口村に生まれ、幼少の頃より学問、特に算術に秀でており、 若くして紀州藩に仕え、水利事業にその才能を発揮し、紀ノ川水系の亀池造成を行なっている。享保元年、徳川吉宗が八代将軍になった頃の幕府は財政状況が悪く、財政改革に乗り出し、治水事業に能力を発揮していた為永を起用し、紀州流土木技術により多くの新田開発をし、財政改革に 大きく貢献した。為永は1725 年 (享保10年) に、見沼溜井の新田開発で、干拓後の水源を見沼に代わって利根川より水を引くこととし、1727年 (享保12年) より工事を開始し、元荒川や綾瀬川との交差点に伏越や掛渡井等を構築し、翌年に総延長 約60kmに及ぶ見沼代用水路を半年にて完成させた。 見沼溜井約1200ヘクタールの新田開発と八丁堤下流の水源を確保している。また、見沼代用水の開削に合わせ数多くの沼地を開墾し、黒沼・笠原沼用水、天久保用水、高沼用水を始めとする多くの用水路を手掛けた。1731年 (享保16年) には芝川と東縁西縁見沼代用水路を結ぶ閘門式運河の通船堀を完成させた。晩年、美濃郡代を兼ね、1738年 (元文3年) に その生涯を閉じている。


どんぶり橋、加田屋弁天

丼 (どんぶり) 橋とは面白い名前だがその名の由来は分からなかった。この橋のすぐ側に祠が建てられている。見沼代用水沿いには多くの弁財天が見られる。河川神であり水を治め、水難から人々を守護する神として信仰を深めた弁財天が造られた。これは加田屋弁天と呼ばれている。見沼自然公園を抜けた所から丼橋まで見沼代用水沿いの地域は加田屋という。この付近の見沼田圃を開発した江戸の坂東家加田屋助右ヱ門に由来する。この坂東家も紀伊国加田村の家だそうだ。新田開発以降は代々加田屋用水圦樋の見守役と名主を務めている。この弁天は1731年 (享保16年) に坂東家が加田屋新田の起工に際して祀った石塔を建て、明治29年に祠が再建されている。

見沼弁財天

丼橋を過ぎるとさいたま市見沼区膝子に入る。道沿にもう一つ弁天がある。真っ赤に塗られた祠が目立っている。 見沼溜に干拓で新田開発、見沼代用水を造成した井澤弥惣兵衛為永が見沼田んぼの開発に際し、水路の安定と豊作を祈願するために、水路の要所に河川神の弁天社を祀ったという。弁天社は見沼に沿って7社が祀られ、総称して見沼七弁天と呼んでいる。現在の祠は、昭和54年、埼玉合口2期工事事業の完成を祈念して建てたもの。

筆塚

膝子には膝子塚というものが地図にあったので寄り道をする事にした。見沼代用水から道を外れるそこに向かう途中に、使い古した筆の供養の為に、筆を地に埋めて築いた筆塚が置かれていた。

膝子塚

膝子塚はここにあった膝子村の名の由来になった塚だが、この塚が何だったのかは不明だそうだ。近くでは膝子遺跡、住居跡が見つかっており、古くから人が住んでいた。膝子とい名称については言い伝えがある。
昔農夫の妻が懐妊して異形児を産んだ。その体は人の膝のようだった。その後にその亡骸を塚に埋めて祀ったという。
この赤子伝説は後の作り話と思われ、他の説では、古くからあった広大な沼は膝までもぐるほど地盤が弱かったので「膝子沼」とよばれた事とする。また、別の説ではひさご塚 (瓢塚) とか、ひるこ塚 (蛭子塚) が訛ったのではないかという。塚の頂には愛宕社、その麓には神明社と庚申塔、奥には稲荷社が祀られている。

膝子橋、七里総合公園

見沼代用水に戻り先に進むと、膝子橋が架けられている。ここには七里総合公園が造られている。この見沼代用水沿には適度の距離で公園があり、ウォーキングやサイクリングには最適だ。2000年 (平成12年) に造られ、公園内には総合グラウンドや噴水もある人口川が設けられている。


神明神社

七里総合公園辺りから見沼代用水周辺の景色が変わって来る。田圃は少なくなり、代用水沿が住宅街が迫ってきている。膝子から見沼代用水を進み小深作地区に入る。小深作の 「さく」には、狭間の意があることから、綾瀬川の狭間に由来する。
見沼代用水の西に天照大御神を祭神とする小深作神明神社がある。創建年代等は不詳。明治42年に小深作の小深作の神明社・疱瘡社・三峯社・稲荷社・雷電社・竈神社、程島の厳島社・第六天社、半縄の天神社の九社を合祀している。翌年には茅葺屋根の神明造りで拝殿を新築し、平成3年に銅板葺になっている。
境内には手水舎、新秩父三十四ヶ所霊場30番の観音堂 (写真下) 力石が二つ、境内末社 (祭神分からず) が置かれている。

中島橋

そろそろ日没が近づいてきている。これ以降は史跡への立ち寄りは時間がないので、見沼代用水沿いを蓮田市目指して走る。中島橋を通過。


春岡橋

ついで春岡橋。この辺りはさいたま市見沼区丸ヶ崎町春岡。もうこの地点では畑の風景は少なくなり、住宅地や商業施設が多くなっている。


上尾市

さいたま市から上尾市に入る。この辺りは上尾市の北東の端で、少し進むと蓮田市になる。

坂下橋

蓮田市はもう目の前になってきた。坂下橋を通過。


大島橋

大島橋を通過するとJR東北本線の線路になる。踏切を越えると蓮田市に入る。

蓮田市に入った時点で、薄暗くなってきている。後は見沼代用水を今日から泊まる予定のインターネットカフェまで僅かな距離。蓮田市の史跡は明日から巡る予定。一週間程の滞在を予定しているが、進捗状況で延長もあるだろう。明日は娘の結婚相手の両親宅を訪れ顔合わせだ。

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