埼玉県 (08/04/23) 蓮田市 (2) 蓮田南地域 蓮田・大字蓮田
蓮田南地区 蓮田・大字蓮田 (はすだ)
- 神明社
- 稲荷橋、稲荷社
- 耳だれ地蔵
- 庚申塔 (42番、44番)、石橋供養塔
- 馬頭観音 (1番)、地蔵尊
- 立合橋、瓦葺掛樋跡
- 瓦葺伏越、瓦葺調節堰
- 懸樋修繕碑記
- 土地改良記念碑
- 地蔵尊
- 庚申塔 (43番)
- 蓮華院弥陀堂
- 身代り地蔵
- 慶福寺
- 庚申塔 (45番、46番)、百箇所巡礼塔、六十六部巡礼塔
- 六地蔵
- 馬頭観音 (2番~10番)
- 子安明神
- 諏訪神社
- 天神社
今回の東京滞在は定期健診と娘の結婚相手の両親への挨拶が目的。結婚相手は埼玉県の蓮田市の出身。今は二人とも東京に勤務しているが、いづれは蓮田市の実家に住むことになるのだろう。蓮田市は元荒川と見沼代用水に囲まれた地域で、何年も前に関東の川沿いのサイクリングに凝った時期があり何度も通っている。ただ、蓮田市の市内を巡ったことはなかった。今回の娘の結婚相手の出身地という事で、興味が沸き、今回は蓮田市内にある史跡を何日かかけてみて回ることにした。4月6日に東京に入り、東京に置いている自転車の整備を7日に行きつけの自転車で行い、その自転車で蓮田まで移動。
蓮田市 (はすだ)
蓮田には約3万年前から人が住んでいたといわれており、市内には多くの貝塚・住居跡等の遺跡が残されており、今回はその幾つかを訪れる予定。
江戸時代には高槻藩に属しており、1871年 (明治4年) の廃藩置県で現在の蓮田市域は岩槻県、浦和県、忍県の3県に管轄されたが数か月で、埼玉県となっている。蓮田市域の村々は,1874年 (明治7年) に黒浜村が岡泉村半蔵受日川新田、日川新田、長崎村と合併して黒浜村に、上蓮田村、下蓮田村が合併して蓮田村に、上閏戸村、中閏戸村、下閏戸村が合併して閏戸村に、根金村、根金新田村が合併して根金村になっている。1889年 (明治22年) の町村制施行で、高虫村、上平野村、駒崎村、井沼村、根金村が合併して平野村となり、閏戸村、蓮田村、貝塚村が合併して綾瀬川に因み綾瀬村が、南新宿村、城村、黒浜村、江ケ崎村、笹山村が合併して黒浜村が誕生している。その後、1934年 (昭和9年) には綾瀬村が蓮田町と名称変更している。
蓮田市全体の人口推移は下の通りで、2001年をピークとして、それ以降は人口減少が続いている。ピーク時に比べて、約20年で6%の人口の減少となっている。これはそれ程大きな問題ではないのだが、高齢化と少子化がそれ以上に進んでいる。2000年の高齢化率は13.6%と低いのだが、現在では32.1%に上昇している。この大きな原因は少子化が進み、労働人口が減少していることにある。
蓮田南地区
蓮田南地域は市域の南部に位置し、北側は蓮田駅があり交通利便性に優れ、蓮田市の中心市街地となり、南側の農地集落地は農地・平地林で田園風景が残っている。この二つの地区は特色が異なり、それぞれが個別の課題を有している。蓮田駅西口では再開発事業が行われ、駅を中心とした行政の拠点機能が整備されているが、蓮田駅西側地域は基盤整備の遅れで渋滞などが発生し流通に課題があり商業活力の低下が見られる。これは全土で共通の課題だが、都市化が進むにつれ、域内のコミュニティの衰退が懸念されている。 南西部の農地は高齢化と後継者の不足により耕作放棄地の増加が見られる。
蓮田市の人口が横ばい状態にある中、この地域の人口は堅調に増加している。東北自動車道のインターチェンジがあり、域内には蓮田駅ガあり都心への通勤圏になっていることから、市外からの転入者も人口増加の要素となっている。地下鉄7号線の浦和美園~岩槻~蓮田間の延長計画があり、浦和美園~岩槻間はようやく実現に向けて進んでいる。岩槻~蓮田間の延長は計画にはあるが、まだ具体的に進んでいる様には見えず、実現はいつになるかは不透明。この実現が今後の蓮田の発展の鍵になるだろう。
蓮田南地区 蓮田・大字蓮田 (はすだ)
中世には蓮田村は箕輪郷、騎西庄、岩槻領に属していた。江戸期の当初は岩槻藩領にあり、1681年 (元和元年) に幕府直轄の天嶺となり、1722年 (享保12年) から1733年 (享保17年) にかけて新田 (下蓮田新田?) が開発されている。1747年 (延享4年) には上蓮田村と下蓮田村の二村に分かれ、上蓮田村は一ツ橋殿、下蓮田村は少し遅れて1770年 (明和7年) に川越藩領になっている。両村は明治維新まで続き、上蓮田村は小菅県を経て浦和、埼玉県となる。下蓮田村は武蔵知県事の管轄となり、大宮県を経て浦和県、埼玉県の管轄になる。二村は1874年 (明治7年) に再度一村となっている。
大字蓮田と蓮田の人口推移は以下の通り。大字蓮田は1980年代半ばから人口が急速に増えている。これは市外からの転入者が大字蓮田は2012年に蓮田と大字蓮田の二つの地区に分離されているのだが、この分離の背景は何だったのかは分からなかった。大字馬込も同様に二つに分割されているのだが、双方に共通するのは元々の大字蓮田と大字馬込は耕作地帯で民家は少なく人口も限られている。大字蓮田として残った地域には僅か140世帯程しか住んでいない。想像するに都市計画上の農地と市街化地区を分けたのではと思う。
資料に記載されている蓮田・大字蓮田の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
- 仏教寺院: 慶福寺、蓮華院弥陀堂
- 神社: 神明社、稲荷橋、稲荷社、子安明神、諏訪神社、天神社
- 庚申塔: 10基 馬頭観音: 2基
蓮田南地区 蓮田・大字蓮田 訪問ログ
神明社
稲荷橋、稲荷社
耳だれ地蔵
庚申塔 (42番、44番)、石橋供養塔
馬頭観音 (1番)、地蔵尊
立合橋、瓦葺掛樋跡
瓦葺伏越、瓦葺調節堰
懸樋修繕碑記
土地改良記念碑
地蔵尊
庚申塔 (43番)
蓮華院弥陀堂
身代り地蔵
慶福寺
蓮華弥陀堂の西隣は天台宗の慶福寺になる。先程訪れた墓地と蓮華弥陀堂はこの慶福寺が管理しているそうだ。慶福寺の創建年代等は不詳だが、慶安年間 (1648-1652寂)に慶運が興したとされていたが、中興としているが、1338年 (建武5年) 銘の板碑が発見されていることから、それ以前と考えられ、一つの説では平安末期の慈覚大師円仁の開眼導師とも伝えられ、とにかく古くより当地に創建されていたと思われる。当時、慶福寺は壕と土塁で囲まれていた様で、戦時には砦の役割を果たしていたと考えられる。戦国時代にはこのあたりは戦場になり、村や寺院は消失している。この慶福寺もその際に焼失したが江戸時代に再建された。境内には三代将軍徳川家光が川越の地へ植えたとされる枝垂れ桜 (写真右下) が残っている。また、この寺は蓮田学校 (現在の蓮田南小学校) の仮校舎として、1873年 (明治6年) に開校し、1880年 (明治13年) まで使用されていた。その開校記念碑 (左下) が建っていた。
- 延命地蔵 (左下): 右手に錫杖、左手に宝珠を持つ地蔵菩薩立像。背面に「今世後世能引導」と延命地蔵菩薩経の偈 (げ) を刻んでいることから、延命地蔵と考えられている。
- 富士見の地蔵 (中下): 右手に錫杖、左手に宝珠を持ち蓮座に立つ地蔵菩薩。台石正面に「一膽一禮 倶生極楽」の文字が刻まれている。俱生神に極楽往生を願って建てたものと思われる。富士山がよく見える場所にあったので、地元では「富士見の地蔵」と呼ばれていた。
- 身代わり地蔵 (右下): 両手で天蓋を持つ地蔵菩薩立像。背面に「若有受苦我代受苦」と刻まれていることから身代り地蔵と考えられている。
庚申塔 (45番、46番)、百箇所巡礼塔、六十六部巡礼塔
- 庚申塔 (45番 写真右): 1718年 (享保3年) 10月に建立された庚申塔で、笠付角柱形の石材に瑞雲を伴う日輪・月輪、餓鬼を踏む青面金剛立像及び二鶏三猿が浮き彫りされている。笠には桃を持つ猿が半彫りされています。本体左側面に胎蔵界大日如来を表す梵字「ア-ンク」と「奉造立庚申眞容大慈大悲之妙術二世安楽也」と刻まれていることから二世安楽供養の為に建てられたと考えられる。
- 庚申塔 (46番 写真左): 1777年 (安永6年) 11月建立。45番の庚申塔と同様に笠付角柱形で瑞雲を伴う日輪・月輪、餓鬼を踏む青面金剛立像及び二鶏三猿が半彫りされている。本体左側面に「奉造立庚申眞容大慈大悲之妙術二世安楽也」と刻まれていることから二世安楽供養のためと考えられる。この庚申塔は道しるべを兼ねており、左側面に「右 ぢおんじ道 左 はらいち道」、右側面に「左 せうぶ道」と記されている。
- 六十六部巡礼塔 (写真右): 1716年 (正徳6年) 10月15日に建立。笠付角柱形の石材に「大乗妙典六十六部日本回国供養成就」の文字が刻まれ、両側面と背面に六地蔵が刻まれている。
- 百箇所巡礼塔 (写真左): 1831年 (天保2年) 8月吉日に建立された塔で、駒角柱上の石材に「奉納 坂東西国 秩父 百箇所供養塔」の文字が刻まれている。
六地蔵
馬頭観音 (2番~10番)
- 馬頭観音 (2番): 1876年 (明治9年) 9月吉日建立。駒角柱形の石材に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。東栄自治会館前から慶福寺に移動されたも。
- 馬頭観音 (3番): 1846年 (弘化3年) 11月吉日建立。駒角柱形の石材に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。
- 馬頭観音 (4番): 1836年 (天保7年) 11月18日建立。駒角柱形の石材に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。
- 馬頭観音 (5番): 1906年 (明治39年) 5月25日建立。駒角柱形の石材に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。
- 馬頭観音 (6番): 1789-1801年の寛政年間に建立。櫛角柱形の石材に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。
- 馬頭観音 (7番): 建立時期不明。隅丸角柱形の石材に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。
- 馬頭観音 (8番): 1796年 (寛政8年) 正月25日建立。 駒角柱形の石材正面に、髪が逆立つ馬頭観音立像が浮き彫りされ、脇には「馬頭観世音菩薩」の文字が刻まれている。
- 馬頭観音 (9番): 1784年 (天明4年) 2月吉日建立。舟形の石材に馬頭観世音菩薩立像と蓮座を浮彫りし、脇に「奉造馬頭観世音」の文字が刻まれている。
- 馬頭観音 (10番): 1764年 (宝暦14年) 2月吉日建立。舟形の石材に馬頭観世音菩薩立像と蓮座が浮彫りされている。
子安明神
諏訪神社
天神社
参考文献
- 故郷歴史探訪 (1992 中里忠博)
- 蓮田市地名誌 (1992 中里忠博)
- 蓮田の歴史 (2015 中里忠博)
- 蓮田の歴史をしろう (中里忠博)
- 蓮田市史・石造物調査報告書一覧
- 蓮田市史 通史編 I (2002 蓮田市教育委員会)
- 蓮田市史 通史編 II (2004 蓮田市教育委員会)
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