埼玉県 (09/04/23) 蓮田市 (3) 蓮田南地域 馬込/大字馬込
蓮田南地区 馬込・大字馬込 (まごめ)
- 馬込
- 馬頭観音 (1番)
- 庚申塔 (6番)
- 庚申塔 (資料掲載なし)
- 小川家屋敷林
- 地蔵尊
- 庚申塔 (資料掲載なし)
- 根ヶ屋戸公園
- 白山様 (はくさんさま)
- 大字馬込
- 氷川神社 (岩槻馬込)
- 庚申塔と石橋供養塔 (岩槻馬込)
- 綾瀬川、関橋
- 耕地整理記念碑
- 庚申塔 (7番、8番)
- 地蔵尊 (2体)
- 寅子石
- 馬頭観音 (2番)
蓮田南地区 馬込・大字馬込 (まごめ)
馬込村は荏原郡馬込村の住民のひとりが、この地を開発し、住んでいた旧里の名をとって馬込と称するようになったと伝わるが少し疑わしい様だ。研究者によれば、込は「牧」の地名語で、「集まる」の意があるとし、馬が集まっていた場所という。別の説は馬込は地形語で狭隘を意味し「マゴエ」は狭間を越えると解釈し、馬込は綾瀬川の狭間を越える地としてその名がおこったとも考えられる。中世戦国期、1567年 (永禄10年) の太田氏資書状によれば平林寺の安主座の上洛の際、その寺領である「馬籠井四条之村」を安堵とある。1586年 (天正14年) の太田氏房判物には「馬籠井四条村」が安堵とあり、馬込は中世では馬籠と呼ばれていた。
大字馬込と馬込の人口推移は以下の通り。人口推移は先に訪れた大字蓮田・蓮田とよく似た傾向を示している。大字馬込も蓮田市の中では中心地にあたる。1980年代に人口は大きく増加している。この地域の人口増加により、1989年には大字川島と大字馬込の一部が大字桜台に分離し新しい行政区となっている。その後は2003年までは人口は増加し、ピークに達し、以降、人口は横ばい状態になっている。2012年には大字馬込の北の市街化地域を「馬込」として分離しし、残った大字馬込を農業系ゾーンと位置付けている。この大字馬込地域はほとんどが農地で、僅か40世帯しか住んでいない。農業系ゾーンと位置付けているが、農業促進対策が行われているのかは不明で、高齢化と後継者の不足により耕作放棄地の増加が見られる。
資料に記載されている馬込・大字馬込の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
- 仏教寺院: なし
- 神社: 氷川神社
- 庚申塔: 3+3基 馬頭観音: 2基
蓮田南地区 馬込・大字馬込 訪問ログ
馬込
馬頭観音 (1番)
庚申塔 (6番)
庚申塔 (資料掲載なし)
小川家屋敷林
地蔵尊
庚申塔 (資料掲載なし)
ここまでは昨日8日に雨の中、見学したもの、これからが今日、快晴の中、巡ったスポットになる。
根ヶ屋戸公園
白山様 (はくさんさま)
大字馬込
氷川神社 (岩槻馬込)
庚申塔と石橋供養塔 (岩槻馬込)
綾瀬川、関橋
耕地整理記念碑
庚申塔 (7番、8番)
- 庚申塔 (7番 写真右下): 江戸時代 1800年 (寛政12年) 霜月吉日に馬込村辻谷組講中により造立、駒角柱形の石材に庚申塔の文字が刻まれ、台石には三猿が浮き彫り彫りされている。
- 庚申塔 (8番 下右から2番目): 江戸時代の1727年 (享保12年) に造立され、舟形の石材に瑞雲を伴う日輪・月輪が線刻され、邪鬼を踏む六臂の青面金剛立像とニ鶏三猿が浮き彫りされている。
地蔵尊 (2体)
- 手前 (写真左) は1715年 (正徳5年) 10月24日に二世安楽祈願のために造立され、地蔵菩薩は右手に錫杖、左手に宝珠を持った形で丸彫りされている。背面に地蔵菩薩を表す梵字「カ」、「奉造立地蔵菩薩為二世安楽也」の文字が刻まれている。
- 奥の方 (右) には1824年 (文政7年) 4月8日に造立され、右手に錫杖、左手に宝珠を持った地蔵菩薩立像が丸彫りされている。頭部が落下しています。台石に「奉建立地蔵尊」の文字が刻まれている。
寅子石
永仁の頃とかや、遠い遠い昔の話である。綾瀬川のほとりに開けた辻谷の里に、在郷きっての長者があった。さながらお城のような構えをもったお屋敷を、里の人たち は稲穂御殿と呼んでいた。寅子はここの一人娘として生れ育った稲穂姫であった。幼いころから大の器量よしで、十四の春を迎えるころには咲きにおう花のごとくいよいよ美しい乙女となっていた。春の朝の野辺の摘み草、秋の夕べのもみじ狩りと侍女にかしずかれての外出は美しくことさらに人目をひいた。
やがて近郷近在からは仲人を立てて縁談を申し込む者が次から次とあとをたたなかった。両親も始めのうちこそわが子の果報を喜んでいたけれども、十五、十六と寅子の歳が嫁入り盛りともなると、申し込みが余りにも多いので婿えらびに胸を悩ますよ うになった。
月日の経つうちに、寅子を思う若者たちの間に争いごとさえ起きかねない有様にな った。そのあいだに身を置いて寅子は小さい胸をいためていたが、やがてこうと決心したものか、寅子はある日、自分の部屋にとじこもって悲しい自害をとげてしまった。 寅子がいまわのきわに書き残した書き置きには、自分の体を料理して自分を望んだ若者たちに馳走し、わたしを望んだすべての男たちの希望をみたしてもらいたいというものであった。
長者夫婦は、娘の死で気も転倒せんばかりであったが寅子の気持ちをあわれに思い、娘の死を秘して求婚してきた若者たちを招き酒宴をはるという招待状をだした。招きを受けた若者たちは、自分の願いが今日こそはかなえられるものと喜び勇んで馳せ参じた。山海の珍味の供応で酒宴もようやくたけなわとなったとき、主人の長者は 「只今差し上げました馳走は、娘が心からお進めするしなでございます。どうか心おきなくご賞味願いたい」といいながら、一皿ずつの膾を銘々に配った。恋しい寅子がすすめるものとあらば何がなんでも頂かねばなるまいと、若者たちはその生肉をあまげに噛み食った。皿のものがなくなった頃に長者は涙ながらに、「さて皆様、只今差し上げました膾の肉はまことを申せば娘の腿の肉でございます。寅子は余りにも皆様方のご執心がきついのでいずれの方へ参ったらよいのか迷い、とうとう先夜悲しい自害をしてはてました。そのいまわの願いに、せめて自分の肉なりと皆様に馳走して皆様のお心の、等分に 立つようにして頂きたいと言って死んでいったのでございます」 と物語った。若者たちの驚きは大変だった。それと同時に激しい後悔にさいなまれた。 やがて、若者たちは寅子の後生を慰めるために大きな供養塔を建てた。それが寅子石であるという。寅子逝ってから二十年後のことである。
その後、若者たちは出家して僧となり、供養塔の見える場所にそれぞれの名前を号した源悟寺、慶福寺、満蔵寺、正蔵院、多門院を建てて、寅子の冥福を祈ったといわれています。
馬頭観音 (2番)
参考文献
- 故郷歴史探訪 (1992 中里忠博)
- 蓮田市地名誌 (1992 中里忠博)
- 蓮田の歴史 (2015 中里忠博)
- 蓮田の歴史をしろう (中里忠博)
- 蓮田市史・石造物調査報告書一覧
- 蓮田市史 通史編 I (2002 蓮田市教育委員会)
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