埼玉県 (09/04/23) 蓮田市 (4) 黒浜地域 川島

蓮田市 黒浜地域 川島 (かわじま)

  • 馬頭観音 (7番)
  • 馬頭観音 (6番)
  • 庚申塔 (26番)
  • 馬頭観音 (5番)
  • 庚申塔 (27番)、板碑
  • 元荒川
  • 馬頭観音(一覧になし)、橋場跡
  • 地蔵院跡
  • 馬頭観音 (3番、4番)
  • 富士塚、庚申塔 (28番)
  • 川島久伊豆神社


馬込地区を見終わり、馬込の東隣の川島地区を訪問する。この川島は昨日に顔合わせを行った娘の結婚相手の実家があるところで、昨日そこに向かう途中に幾つかの史跡には気が付いていたが、時間なく見れず、今日じっくりと見る事にした。


蓮田市 黒浜地域 川島 (かわじま)

川島の名は元荒川にとりかこまれた島 (シマは村の意味) だった事で付けられた地名。現在の元荒川は川幅も狭くなったが、かつての荒川は1629年 (寛永三年) に流れを変えるまで、秩父山地から熊谷、行田、鴻巣市を通り、大河となって蓮田の地の西側と東側に流れていた。 江戸に幕府がひらかれるまでの荒川の流域はほとんど開発もされず乱流といってよい時代で各地に谷地や沼地があった。流れが変わった川を元の荒川の意味で元荒川と呼ぶ。この頃の川島は島状の台地に集落をつくり、田畑を耕作して生活していた。江戸時代中頃の村は小字も一つきりで小さな村だったが川島橋がすでに架橋され交通の要地であったことがうかがえる。江戸時代から明治時代にかけては独立した川島村だったが、1889年 (明治22年) の 町村制施行により、掛村、金重村、本宿村、箕輪村、馬込村、川島村、平林寺村の七村新田が合併し、河合村が成立している。川島村は河合村の大字川島となる。1920年 (大正9年) に、大字川島の一部が南埼玉郡綾瀬村に編入され、南埼玉郡綾瀬村大字蓮田の一部が河合村に編入されている。


字川島の人口推移は下のとおり。1981年に人口が2倍になっているがこの背景についてはわからなかった。1989年には行政区変更で、川島の3分の2の人口を持つ地域と馬込の一部が新しくできた桜台に移管されている。人口データから見ると桜台二丁目と三丁目が川島から移管された地域と思われる。その後、旧川島 (新川島+桜台2・3丁目) の人口は 2004年までは順調に増えピークとなる。その後は人口は減少に転じ、現在でもその傾向は続いている。2022年の高齢化率を見ると、川島と桜台では大きく異なっている。川島の19.9%に対して桜台2・3丁目は53.6%とかなり高い数値を示している。現在の川島は比較的新しく民家が建てられ若い層が住んでおり、桜台は古くから住民が住み続けている地域と推測される。


資料に記載されている川島の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り
  • 仏教寺院: 地蔵院跡
  • 神社: 川島久伊豆神社
  • 庚申塔: 3基  馬頭観音: 6+1基
馬頭観音 (8番) は探したが見つからず。

黒浜地域 川島 訪問ログ



馬込地区から川島地区に入り北に向かって史跡を見ていく。川島は元荒川の西側に位置しており、川沿いに村が伸びていた様だ。川島の史跡は村を走る道沿い集中している。


馬頭観音 (7番)

川島地区に南から入り、かつての村の中心の道を北に進んだ所に馬頭観音がある。江戸時代 1831年 (天保2年) 12月16日に造立された馬頭観世音菩薩で、石材に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。祠の中に納められており、盆や彼岸に地域住民に拝まれているそうだ。

馬頭観音 (6番)

道を北に進むと、馬頭観音 (6番) が置かれている。この馬頭観音は比較的新しく1938年 (昭和13年) 11月17日に造立されている。自然石型の石塔に、「馬頭観世音」の文字が刻まれています。ここで飼っていた青毛三歳の「玉泉号」のために建立したという。正月には注連縄などが供えられているそうだ。

庚申塔 (26番)

馬頭観音 (6番) の北、道沿いには、江戸時代 1818年 (文化15年) 4月吉日に造立された庚申塔がある。 山角柱形の石塔に、瑞雲を伴う日輪・月輪が浮き彫りされ、庚申塔の文字が刻まれている。台石には三猿が浮き彫りされている。道しるべも兼ねており、右側面に「右いわつき道」と刻まれている。正月に注連縄などが供えられている。

馬頭観音 (5番)

川島橋の少し手間の道沿いに1895年 (明治28年) 3月20日に建立の馬頭観音が置かれている。角柱形の石材に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。

庚申塔 (27番)、板碑

川島橋の袂に庚申塔と二基の板碑がある。庚申塔 (27番) は江戸時代 1785年 (天明5年) 11月に造立され、笠付角柱形の石材に、瑞雲を伴う日輪・月輪、邪鬼を踏む六臂の青面金剛立像とニ鶏・三猿が浮き彫りされている。右側面には「庚申供養塔」の文字も刻まれている。道標も兼ねており、右側面に「此方じおんじ道」、左側面に「南いわつき道 かふのす道 (鴻巣)」と刻まれている。二基の板碑についての情報は見つからず。

元荒川

元荒川に架かっている川島橋を渡ると黒浜になる。元荒川はかつては荒川の本流で秩父山地からの水を集めて大河となって蓮田台地、黒浜台地の下を流れ、かなり蛇行した流路だった。1629年 (寛永6年) に伊奈忠治により熊谷市久下で荒川が締め切られ、本流からは切り離され、入間川に繋がれた。同時期に流路も整備されている。ここで荒川の流れを見ながら昼食をとる。対岸に昨日訪れた娘の婚約者の実家が見える。


馬頭観音(一覧になし)、橋場跡

川島橋を渡った元荒川の土手の上に馬頭観音が置かれていた。川島地区ではないのだがここで掲載しておく。この川の袂にはかつては橋場があったという。橋の袂の家は問屋場で江戸時代から明治の終わりまで元荒川の舟運の地で川を登り下りする船の荷あげや荷おろしで賑わっていた、人の乗り降りもあり川の両岸には居酒屋や茶屋が店を開いていたそうだ。この文字型の馬頭観音は蓮田市発行の文化財情報サイトにもなく詳細は不明だが、当時は荷を馬で運んでこの船場で荷物を降ろしたり、積んだりしていたので、馬に対しての感謝、供養の為に造られたのかも知れない。


地蔵院跡

川島橋を戻り、元荒川沿いの道を北に進むと墓地がある。ここにはかつては久伊豆神社の神宮寺の地蔵院という寺院があったのだが、明治の神仏分離後、地蔵院は廃寺となった。地蔵院の草葺き建物は村の集会所として使われ、太平洋戦争中は疎開者の住居にもなっていた。老朽化が進んだために取り壊され、昭和40年に公民館として生まれ変わった。公民館の中には、地蔵院の本尊だったが延命地蔵が祀られているそうだ。墓地だけが残っており、その名残か、墓地の端には六地蔵や多くの供養塔が残っている。

馬頭観音 (3番、4番)

道を更に進み、東北自動車道のガードを越えると、少し内陸部の道沿いに二つの馬頭観音が並んで置かれている。
  • 馬頭観音 (3番 写真左): 江戸時代 1808年 (文化5年) 2月吉日に造立され、角柱形の石材に「馬頭観世音」の文字が刻まれている。この庚申塔は道しるべにもなっており、左側面に「東 志おんじ道」、右側面に「西かうのす道」と記されている。
  • 馬頭観音 (4番 写真右):  この庚申塔は表面の剥落が進んでおり、造立年月日は不明。

富士塚、庚申塔 (28番)

元荒川沿いの道に戻ると富士塚が残っている。高さ三メートル程の土もりした塚で山頂部に富士浅間神社の石神が祀られている。多くの石塔が置かれ、その中に庚申塔 (28番) が一つあった。この庚申塔は江戸時代 1706年 (宝永3年)2月吉祥日に造立され、舟形の石材に、瑞雲を伴う日輪・月輪、邪鬼を踏む青面金剛立像とニ鶏・三猿が浮き彫りされている。「奉造立庚申現当色心堅固祈願成就所」と刻まれている。
塚の周囲にも神々の名を刻んだ石塔が置かれている。手洗い石にこの塚を築いた川島村、深作村、北蓮田村、閏戸村、笹山村の各村の富士信仰の信者の名が刻まれている (写真左下)。富士山を鎮める神の木花咲耶姫命を祭神とする仙元社の碑 (上中) は宝永元年 (1704年) と古いもので、その他の石塔は明治前期までに作られたものになる。

川島久伊豆神社、三宝荒神

元荒川に沿って上流に進み、宮前橋の手前に久伊豆神社 (ヒサイズ、クイズ) がある。1800年代の江戸時代後期に創立され、川島村の鎮守として、農作の神 (作神)、水の神の大己貴命 (大国主命) を祀っている。川島久伊豆神社はかつては地蔵院の持ちだった。明治初期までは、川島の集落から社殿に向かって、80m程の 一直線の長い参道があり、鳥居の手前には堀があり、太鼓橋が架かっていた。その後、民家が増え始め、参道 も住宅などの敷地になってしまい、昔の面影は失われてしまった。現在の拝殿は、昭和3年に改築されたもの。
境内には末社として、天神社 (右下)、三宝荒神社 (左下)、弁天社 (中下)、稲荷社 (写真上の左側の2社)、雷電社 (写真上の右端) が祀られている。
久伊豆社は蓮田市内には現在では村社で7社 (10社とする資料もある) あり、その他個人所有のものが数社あるそうだ。この後、蓮田市を巡ると各地域に久伊豆神社に出会す事になる。埼玉県内では久伊豆社は南埼玉郡及、北埼玉郡の元荒川流域に多くみられる。現在では57社 (以前は87社) が確認されている。蓮田市の久伊豆神社は全て元荒川沿いにあり、かつて元荒川を舟での運搬に使っており、川に沿って土地が開拓されたと考えられる。平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党の私市 (騎西) 党の勢力範囲とほぼ一致し、篤く崇敬されていたことから、何らかの影響力があったと思われる。因みに元荒川の東は千葉県の香取神社系と西の埼玉県の氷川神社系、そして久喜の鷲宮神社系があり、それぞれが一祭祀圏をなしていた。
この川島久伊豆神社は、地元では「ぬすっと宮」と呼ばれている。この由来については諸説あるが、一つは、
いまから200年も昔のことです。そのころ日本中がうちつづく日照りや大雨による洪水がおきたり、寒さでお米も麦もとれない年が長く続きました。たくさんの人が飢えや寒さのために亡くなりました。ある日、川の上流のほうから役人におわれて盗人とが逃げてき ました。盗人は自分のために盗みを働くのでなく困っている人たちを見かねて、裕福な長者や因業者から金品を掠めとり貧しい人々に与えてなにくわぬふりをして、昼は仕事に精をだしていました。誰いうとなく義賊といわれるようになっていましたが、役人の知るところとなり追われる身となってこの地まで逃げてきたのです。いよいよ追いつめられ捕まりそうになったとき、盗人の耳に「この森に隠れよ」という声が聞こえ、盗人は急いで森の中に隠れました。 追っ手の役人たちが森の中をいくら探しても見つからず、とうとう引き上げていきました。盗人がおそるおそる頭をもたげてあたりを見まわすと、そこは久伊豆社の森だったのです。 この話を聞いて、この後、土地の人々は「ぬすっと宮」と呼 びいよいよ信仰あつい神様としてお参りをたやさなかったといいます。
もう一つのものは
昔、この地方に毎日毎日雨が振り続き大洪水が起こりました、久伊豆神社も水没してしまった。 一か月も水が引かずようやく水が引いたので、村人は家に帰り、自分の家や田畑の手入れに夢中になり神様のことなどみんながすっかり忘れていました。 秋のお祭りの日が近づいて村人は神社に集まって社の中に入ってみて驚きました。社の中の御神体が見当たらないのです。さっそく村人たちはお坊さんにこの事を話しました。 お坊さんは大変徳の高いひとでしたから、「早速、占ってあげよう」と、いって仏様を拝みはじめました。 しばらくして「これこれお前たちよ、これはお前たちが日頃信心深かいので神様が身代わりになって大水に流されていらっしゃったのだ、お前たちを救ってくれたのだ。お陰で村の人はみんな助かったではないか。大水が神様をもっていかれたのだ」と、伝えました。それ以後、村人は神様をいままで以上に大切にしお供えやお参りをかかしませんでした。霊験あらたかな神様として近郷近在の人々もお参りにやってきました。そのうちに誰となく、「ぬすっと宮」というようなったと言うことです。

これで、今日の予定の馬込と川島地区の史跡巡りは終了。今回の蓮田の旅では日中は史跡を巡り、終わると図書館で資料をチェック、図書館に閉館後はショッピングモールで夕食と訪問記編集。夜は宿泊費節約の為、インターネットカフェでシャワーを浴びて就寝の日課になる。


参考文献

  • 故郷歴史探訪 (1992 中里忠博)
  • 蓮田市地名誌 (1992 中里忠博)
  • 蓮田の歴史 (2015 中里忠博)
  • 蓮田の歴史をしろう (中里忠博)
  • 蓮田市史・石造物調査報告書一覧
  • 蓮田市史 通史編 I (2002 蓮田市教育委員会)

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