Okinawa 沖縄 #2 Day 243 (10/03/23) 西原町 (20) Senbaru Hamlet 千原集落

千原 (せんばる、センバル)

  • 琉球大学
  • 上原キャンパス、琉球大学医学部
    • 高嶺徳明顕彰碑
    • 献体者の碑、納骨堂
    • 獣魂碑
  • 千原キャンパス
    • 首里の杜
    • 首里城の碑
    • 開学の鐘
    • 複製護国寺の鐘
    • 向学ノモン (日時計)
    • 井戸跡
    • ニフェーマーチューの拝所
    • 千原池 (ナービグムイ)
    • 豆腐喰松 (トーフクェーマーチ)
    • シージマタヌ嶽 (御山獄)
    • 尚灝王の住居跡
    • 坊主御主ヌ井戸 (ボージウシューヌカー)
    • 千原馬場小 (センバルウマィーグヮ)
    • 果樹園跡
    • 茶畑跡、茶山 (チャーヤマ)
    • 黄金 (クガニ) ガマ
    • 普天間サーターヤー跡
    • 糸蒲集落跡

ようやく自転車修理が終わったので、久しぶりに遠出することにする。先日は隣村の棚原を訪れ琉球大学医学部を巡ったので、今日は大学のもう一つの千原キャンパスがある千原を巡ることにした。小さな自転車修理屋だったが親切で、丁寧に自転車の油汚れなどを綺麗に洗浄してもらった。そのせいか、自転車をこいでも軽く感じる。多分、油やほこりがギアに詰まり、以前は重かったのだろう。



千原 (せんばる、センバル)

千原は本町の最北端に位置し、北は、宜野湾市我如古に、東は中城村字南上原に接している。千原は、牧港川上流のナービグムイ の川を境に、北側の牛の放牧試験地に利用されていた前千原 (メーセンバル)、中千原 (ナカセンバル)、後千原 (クシセンバル、道田 ドウダ)  に区分される。 沖縄戦ではイシグスクの日本軍陣地と連動して日本軍の前線基地となり,そのため農学部辺りには日本軍の塹壕などが数多く掘られていた。戦後、1955年から1957年頃まで、米軍は千原、上原、棚原地区を囲い軍事訓練場として使用していたそうだ。琉球大学が移転して来る以前の昭和40年代ごろまでの千原は、西原村内でも辺鄙な地域で、山中に農家が散在していた。琉球大学の移転で、農耕地や宅地はすべて買収され、多くの字民らは農業を諦め、宜野湾市や那覇市への転出を余儀なくされた。千原字民の多くは、 農業を諦めて他の仕事に従事するようになった。民家の分布が判る地図を見ても琉球大学が移転するまで集落などは見当たらず、南側に少し民家があっただけ。移転後は北側に住居が見られるが、ほとんどは琉球大学の学生寮になる。

琉球王国時代には、1733年 (尚敬21年) に棚原山地に茶園が開かれた。そのころから、千原に人々が茶山や杣山の管理人の山番 (ヤマバーン) として住み始める。金武御殿からの分家の普天間一門を始め、8人が配置され、それぞれが管轄地域が割り当てられていた。千原では千原も徳佐田や森川と同様に、棚原の屋取集落で、戦前までは普天間家一門が大半を占めていた。大正時代までは千原は道田と記載されていたようだ。更に時代をさかのぼると、このキャンパスには棚原集落が始まった場所と伝わっている。棚原集落は三、四回にわたり移動している。当初、棚原部落はシージマタヌ (琉球大学大キャンパス内) 附近にあり、そのころ、隣には糸蒲一門の集落があり、この二つの部落間で激しい戦闘が起こり、糸蒲一門が敗れて現在の津覇集落の場所に移動している。棚原集落は、その後、森川一帯に移動し、更に御願山のムンヌ御嶽、浦添城の麓、かつて勢理客 (ジッチャク) と呼ばれた棚原古島へと転々と移動し、17世紀ごろ棚原グスク附近に移ってきたと伝わっている。

1933年 (昭和8年) に千原は本部落の棚原から分離し独立行政区になった。当時は40戸ほどが茶山を中心に各地に散在していた。沖縄戦で住民多数が戦死した。戦後、生き残った多くの住民は、宜野湾や那覇へ転出したり、南米ペルー 移民したりしたので戦前に比べ人口が減少した。

戦前は250人程の人口だったが、沖縄戦で激減し、琉球大学が移転するまでは55人程で推移していた。大学移転後、人口は激増しているのだが、世帯当たりの人数は1.1~1.2人で、これは大学に通う学生が転入してきたことによる。一般家族世帯数は不明だが、かなり少ないと思われる。千原のほとんどが琉球大学の敷地と考えても良いだろう。

学生の地域だが、西原町の中ではそこそこの人口を持つ地域になっている。

千原で行われていた祭祀行事は以下の通り


千原訪問ログ




琉球大学

琉球大学は、1950年 (昭和25年) に戦火によって壊滅した首里城跡に開学したのだが、当時、琉球大学の候補地は那覇市天久、那覇市小禄、首里城跡の3か所があがり、その選定には民政府内でもいろいろな意見が出ていたが、 結果的には先祖が築いた政治や歴史、文化のシンボ ルである首里城跡に決定し建設された。その後、1972年の本土復帰で琉球大学は国立大学となり、国立一期校並みの規模に整備拡充を図るため、首里キャンパスから千原の棚原山への移転が計画された。この場所は村有地で、昭和47年に、字千原の村有地処分が村議会で議決され、昭和50年、農学部付属農場の造成工事が始まり、昭和57年までには、すべての学部が首里キャンパスから千原キャンパスへとの移転を完了した。琉球大学は千原キャンパスと上原キャンパスがあり、総面積は、約114ヘクタールで、その約三分のニを千原キャンパスが占めている。

琉球大学上原キャンパスには昨年12月に棚原集落を訪問した際に訪れている。この時の訪問記もここに載せておく。



上原キャンパス、琉球大学医学部

棚原集落から東に坂を登ると、棚原と上原にまたがる琉球大学上原キャンパスがある。琉球大学は1977年 (昭和52年) から1984年 (昭和59年) にかけて首里から移転している。この上原キャンパスには1979年 (昭和54年) に医学部と琉球大学附属病院が置かれている。琉球大学医学部と琉球大学附属病院は2015年 (平成27年) に返還されたキャンプ瑞慶覧の西普天間住宅地区跡地に建設される国際医療拠点ゾーンへの移転が決まり、昨年から工事が始まり、2024年6月完成、25年初頭の移転完了の予定となっている。跡地の利用についてはまだ協議中でまだ決まっていないようだ。棚原住民の話では、琉球大学附属病院の一部機能は残るとも聞いていると言っていた。


高嶺徳明顕彰碑

琉球大学上原キャンパス入り口を入った所、正面に高嶺徳明顕彰碑が置かれている。高嶺親方徳明は1653年 (順治10年) 生まれ、中国語の能力を評価されたことで久米村に入り、魏姓 (魏士哲) を賜っている。1688年 (康煕27年)、35歳の時に進貢船の小唐船脇通事 (進貢二号船在船通事) として福州へ赴任した際に口唇裂の治療を学び、1689年 (康煕28年) に帰国し、琉球国内の口唇裂の患者を全身麻酔を用いて治療した後、王孫 (後の尚益王) の口唇裂治療に成功している。華岡清洲が麻酔による乳がんの手術を成功させた1804年 (嘉慶9・文化元年) より100 年以上も前の出来事だった。


献体者の碑、納骨堂

上原キャンパス琉球大学医学部の奥には、医学部で人体解剖の授業の為に遺体が献納されていた。医学の発展に貢献した献体者を納骨堂に納め、献体者への感謝とその献身的な精神に対しての畏敬の念と献体運動を広め世界人類の幸せに役立てる事を祈念し、献体者の碑が2006年 (平成18年) に建立されている。医学部では毎年11月に医学部解剖体慰霊祭を行っている。


獣魂碑

医学部では動物実験も行われており、その動物たちの獣魂碑も、医学部の南側に建てられている。


千原キャンパス

今日は上原キャンパスを通り、北側の住宅地を抜けて千原キャンパスの南口 (西原口) に着き、ここから琉球大学内にある史跡や記念碑を散策する。


首里の杜

南口 (西原口) から坂道を登ると千原キャンパスが広がっている。琉球大学の周囲とキャンパス内には一般道路が通っているので、自由に出入りができる。大学本部棟の前には首里の杜と呼ばれる庭がある。1972年の本土復帰で国立大学となり、首里城復元事業に伴い、現在のキャンパスに移ってきた際、1989年 (平成元年) に開学45周年及び移転完了を記念して琉球大学同窓会を中心に造成されたのがこの首里の杜になる。碑の銘文には、
本学は、第二次世界大戦の戦火によって荒廃した沖縄の復興と発展に寄与し、新しい民主社会の形 成者養成をめざして、1950年5月22日米国政府によって設立され、以後1966年7月琉球政府に移管、さらに、1972年5月沖縄の本土復帰に伴い国立大学となった。 この 「首里の杜」は、本学が由緒ある首里城跡に開学し、30年を過ごした首里時代の思い出を残すため、 首里キャンバスにあった開学の鐘や樹木等を移設し、1985年5月の移転統合完了を記念して造成されたものである。
とあり、本学と首里 (城)とのかかわりや、激動の戦後復興の歴史を記憶にとどめている。

首里城の碑

首里の杜の隣にはもう一つ小さな首里城の碑が建っている。琉球大学が米軍統治下で首里城跡に建てられた時の碑になる。1949年 (昭和24年) に、首里城跡に琉球大学の建設がはじまり、大学本館、木造瓦葺普通教室 (8棟)、図書館、コンセット男子寮 (12棟)、職員住宅 (10棟) などが次々と建てられ、 1950年 (昭和25年) 米軍当局により「首里城の碑」 建立された。
沖縄戦で跡形もなく破壊された首里城は、1166年から1879年 の間、琉球国王の居城であった。 琉球王国がその黄金時代を誇った1477年から1526年にかけて、 壮麗な建造物が構築された。 現在は、琉球大学の本館がその首里城正殿跡に建っている。
碑は2000年 (平成12年) の琉球大学50周年記念事業の一つとしての「首里の杜」に移されている。

開学の鐘

首里の杜の隣が少し小高くなており、そこに開学の鐘が見えている。首里の杜記念碑で触れられている開学の鐘がある。碑には、
この「開学の鐘」は、1950年5月22日本学が開学した時、米軍使用 済みのガスボンベを吊して時鐘として使用したものである。 昭和62年3月竣工
このガスボンベの鐘は多くの集落で保存されているのだが、公的な機関だった琉球大学でもガスボンベが連絡用の鐘として使われていたことには少し驚いた。公的機関なのでもっとましなものかと思ったのだが、ここでも他の村と同じく平和を象徴する物として保存されている。

このガスボンベの鐘は1957年にセルフタイマーが設置された後は役目を終え、本学のシンボルとして2019 年まで屋外に展示されていたが、老朽化が激しいことから、実物は保存され、屋外の展示はレプリカとなっている。


複製護国寺の鐘

開学の鐘のすぐ側には護国寺の鐘の複製が吊るされていた。ベリー提督が琉球を訪れた1854年 (咸豊4年)、琉米修好条約が締結。 一般的には時の王の尚泰はこれを記念し、護国寺の鐘を贈呈したとなっているが、半ば強制的に掠奪されたともいう。琉球列島米国民政府は琉米修好条約締結百年を記念し、1960年、護国寺の鐘の複製品を琉球大学と琉球の人々へ 贈っている。それが琉球大学首里キャンパス内に置かれていたが、千原キャンパス移転の際に移設された。
1854年7月12日、琉球 国からマシュー・シー・ペリー 提督へ護国寺の鐘が贈呈されたために生れた友好のきずなを一層深める友好のシンボルとして、アメリカ合衆国国民から琉球大学 及び琉球列島 の住民へ複製した護国寺の鐘を贈呈する。
 1980年7月12日   琉球列島高等弁務官   ドナルド・P・ブース 陸軍中将

というのが、この複製護国寺の鐘贈呈の表向きの話だが、この複製が送られた背景はもっと複雑だった。この護国寺の鐘は略奪されたとして、返還を求めていたが、米国は贈呈されたとして返還を拒否をし、複製が送られた。その後、返還を求め続け、1987年に複製と本物との交換という形で本物の鐘の返還に成功し、現在は沖縄県立博物館美術館に保管されている。


向学ノモン (日時計)

首里の杜から中城口 (東口) へ道を進むと、法文学部・観光産業科学部正面玄関前の芝生に日時計が設置されている。1996年 (平成8年) に短期大学閉学を記念して設置されたもの。台座部正面には「向学ノモン」と、古代ギリシャ哲学者ヘラクレイトスの言葉「太陽は日々に新しい」が刻まれている。日時計の影を落とす部分を gnomon(ノモン)といい、古代ギリシャ語では指針という意味で、「向学ノモン」は「学ぶ者の指針」という意味だそうだ。


井戸跡

向学ノモン (日時計) と琉大東門の間の小高い森の中に学生の休憩所があり、そこに井戸跡がある。この場所にはかつては屋敷があった場所だった。残念なことに井戸の中はたばこの吸い殻だらけになっている。どうも学生の喫煙所代わりになっているようだ。琉球大学建設時には51の民家があったことが確認されている。これから判断すると当時は200人から300人程が住んでいたと推測される。


ニフェーマーチューの拝所

この拝所がいつごろできたか定かでないが、この場所は琉球王国の中城間切時代にはカナイタ山と呼ばれる王府直轄の杣山王府の御用木を生産する山だった。琉球王国時代に杣山の山番人 (管理人) として八人が配置されていた。八人がそれぞれの区域を管理し、千原では石原 (屋号 西石原)、普天間 (茶山普天間)、親泊、泉川、喜納の五人がそれぞれの管理区域内に居住していた。 袖山番人には、400坪のクチバタ (口畑、 耕作地) が与えられた。王府直轄の杣山ではあったが、クサカチと言って、台風後に落ちた枝葉や自然に落ちた枯枝葉は、住民が自由に杣山に入り、採取してよかった。その ため、近隣の津覇、南上原、棚原、森川、上原の住民ら が来て枯枝葉などを取っていった。また、杣山の松材は、村内で災害 の火事が起きたときの非常用資材として保護・管理されていた。ニフェーマーチューのニフェーとは感謝、マーチューは松のことで、「感謝の松」の意味になる。 人々はこのニフェーマーチューの拝所で、山の神様に山を利用できることへの感謝と、山の安全への祈りを捧げてから入山したという。大学キャンパスができた後も、この拝所は地域の人々の信仰の場所として残されている。

千原池 (ナービグムイ)

千原キャンパス内には大きな池がある。琉球大学が移転してきた1977年に造られた農学部農場用の用水ダムで、このダムに流れこむ谷底にあり、千原池と呼ばれている。以前は普通の川で、ナービグムは用水ダムに注ぐ渓流の上流部にあり、その下流にウフタチグムイという淵があったが、ダム造成で水没している。この琉球大学がある場所は、昔は津覇集落の人たちが住んでいた糸蒲集落が、隣の棚原一門と戦争になり、津覇の一族はこの千原池附近で 全滅し、糸蒲のノロも、ナービグムイという淵で水死したという。その水死した糸蒲ノロの墓がこの池に水没していると伝わる。 ナービグムイは、鍋 (ナービ) 底の形をした淵だったのでこの名がついたという。この千原池で千原キャンパスは二つに分かれており、その行き来は池を迂回するか、池に架けられた橋を渡ってとなっている。


豆腐喰松 (トーフクェーマーチ)

千原池に架かる橋を渡ると北食堂がある。この近くには、かつては大人2人で抱えられるほどの大松が2本並んで生えていて、その下に香炉が一つあり、村の拝所となっていたそうだ。この拝所では旧1月2日に山御願が行われ、千原の最大の字行事だった。 この日は各家庭ではお重を作り、トーフクェーマーチュ まで持参し、その大松の下で一年間の無病息災や山番人らが大禍なく仕事ができるように、山の神へ祈願する山御願が行われた。御願のあと、八人の山番人が毎年各家を持回りで小宴会が催されていた。この拝所に豆腐を供えると、いつの間にかなくなって、そのため松が豆腐を食べていると言われるようになり、豆腐喰松 (トーフクェーマーチ)の名がついた。昭和の初め頃、無断で伐採され大松だけが目印だったこの拝所の場所もわからなくなってしまった。この場所からシージマタヌ嶽への降り口がある。この道沿いにあったのかも知れない。

松が切り倒されてしまい、その場所は琉球大学となってしまった。その結果、棚原集落住民を中心として、千原の北側、棚原集落に近い場所の大学寮の外側に遙拝所を作り、以前と同じように、旧暦1月2日に山御願を行っている。


シージマタヌ嶽 (御山獄)

棚原一門と戦争で水死した糸蒲ノロを祀ったシージマタヌ御嶽への降り口がある。降り口とは表示されていないのだが、千原池 (ナービグムイ) に降りていく道はここしかなかった。

階段を降りていくと、ナービグムイの畔がコンクリートで固められて、香炉が置かれていた。ここが、シージマタヌ嶽で、御山獄とも呼ばれていた。琉球国由来記によると、シギマタノ嶽 神名 コバヅカサノ御イベと記載され、1713年にはすでに拝所として棚原集落が拝んでいたとの記載がある。琉球大学ができるときに墓は千原池に水没し、拝所のみが、この場所にに移動している。ここは、今でも年に数回、棚原集落や津覇集落により拝まれている。この付近にはシージマタヌウカーという井戸もあったのだが、今ではその所在地は確認できていない。 シージは凌ぐの訛りから来たもので、凌ぐというのは、昔、戦が起り、そのときの落武者らがこの森で命を凌いだことに由来しているそうだ。


尚灝王の住居跡

北食堂の裏辺りには、第二尚氏17代尚瀬王 (1787 - 1834年、在位1804-1834年) が、晩年、病を得て、千原の棚原山のこの場所で隠居生活をおくたそうだ。 尚灝王は、その在位期間で目立つ功績は記録されていないのだが、沖縄ではある意味で有名な王となっている。それは、歴代王の中で最も多くの妻を持ち、最も多くの子女を持っていた。妃、夫人 (側室)、妻 (妾) を10人、子は26人ももうけた。尚灝王の時代は財政難に飢饉が続き、国政は難しい状況だった、尚灝王は国勢を放棄し色欲に没頭したと伝われ。精神疾患で最後は自殺したと伝わっている。歴史書では、隠居生活は港川の城間御殿で生活をしたとされており、ここにも済んだ時期があったとは初めて知った。多分、城間御殿に移る前の事だろう。尚灝王については浦添の 港川の城間御殿跡を訪れたレポートに触れている。この尚灝王に係わる史跡は今まで幾つか見てきた。城間公民館付近は尚灝王の側女が出産した場所、中城村伊集のウマクンジャーは尚灝王が女性のもとに通っていた場所。この様に尚灝王は各地に女性がいたようで、ここもその日つつかも知れない。


坊主御主ヌ井戸 (ボージウシューヌカー)

尚灝王の住居跡の近くの農学部に坊主御主ヌ井戸 (ボージウシューヌカー) 跡がある。尚瀬王は坊主頭にしていたので坊主御主 (ボー ジウシュー ) と呼ばれていた。尚瀬王がここで隠居生活中に使われた井戸だったのでこのようにと呼ばれていた。琉球大学がここに移転する際に取り壊される予定だったが、首里のノロから残すように言われ取り壊しを免れている。この坊主御主ヌ井戸については、琉球大学附属図書館の「沖縄資料ガイドブック 琉大史跡編」と琉大農学部の仲間勇栄 (琉球大学名誉教授) の「琉大千原キャンパスの歴史と人々の暮らし」で喰い違いがある。「沖縄資料ガイドブック 琉大史跡編」では、下の写真の場所を坊主御主ヌ井戸としており、現在の様に井戸の周りをコンクリートで固めて盛土で埋められている。

「琉大千原キャンパスの歴史と人々の暮らし」にはこの近くにあるコンクリートの小屋の中にあるとなっている。これは尚瀬王がこの地で生活していた期間に世話をしていたノロの子孫の話にも基づいている。仲間勇栄さんは2002年に「琉球大学千原キャンパスにおける森と人々の暮らしに関するフィールド調査 (2002 中間勇栄)」では「沖縄資料ガイドブック 琉大史跡編」にある井戸を坊主御主ヌ井戸としているようだ。多分、このレポートが「沖縄資料ガイドブック 琉大史跡編 (2015)」になったと思われる、その後、聞き取り調査で、新しいことが判明し、「琉大千原キャンパスの歴史と人々の暮らし (2020)」で訂正したように思える。こちらの方が正しいという指摘を時々アドバイスを送ってくれる幻日さんからいただいた。このコンクリートの小屋は覚えているのだが、写真は撮っていないので、「琉大千原キャンパスの歴史と人々の暮らし」のある写真を借用。


千原馬場小 (センバルウマィーグヮ)

農学部は琉球大学の北の敷地にあり、そこには宜野湾口 (北口) がある。この北口を入った道路は、かつては千原馬場だった。この千原馬場では戦前には春と秋に原山勝負が行われ、その余興として競馬が催されていた。

果樹園跡

千原馬場を進んだ左側農学部の場所には、かつては果樹園が広がっていたそうだ。


茶畑跡、茶山 (チャーヤマ)

琉球大学千原キャンパスの東側には体育館屋テニスコートがあり、この辺りは昔から茶山といわれていたところで、球陽の1733年 (尚敬王21年) の条には、琉球初の茶畑 (茶園) を棚原山地に開いたことが記されている。この棚原山地の茶園は、後に茶山 (チャーヤマ) と呼ばれるようになっている。茶種、樹木などを植え、和漢の茶葉を製造して国用に供すると記されている。


黄金 (クガニ) ガマ

テニスコートの北側の雑木林の中には洞窟 (ガマ) があったそうだ。一帯を見てみたが洞窟らしきものは見当たらなかった。この洞窟内からは黄金の光が輝いたという伝説があり、それでこう呼ばれている。


普天間組サーターヤー跡

千原では糖業が盛んだった。戦前までそれぞれが8~10 戸で構成されたサーターヤーが前千原に2カ所、後千原に3カ所のサーターヤーがあり黒糖の製造も行われていた。この場所はそのサーターヤーのひとつで、千原では最も大きな門中だった金武御殿からの分家の普天間組が使用していた場所になる。現在は琉球大学の駐車場となっている。


棚原古島跡

千原キャンパスの南口 (西原口) の丘には国際交流会館があり、その奥にはかつての棚原集落の古島があった場所になる。沖縄戦ではこの場所には戦車壕が築かれていたそうだ。跡地は金網で囲われ、立ち入り禁止だった。 


イシグスク

琉球大学農学部のフィールドセンター、試験場、農地がキャンプの西側にある。その敷地内標高133メートルの場所には自然の断崖を利用して築かれた人工の小高い丘のイシグスクが存在していた。ここには2021年5月に来ている。今回はイシグスク内に按司墓と五連墓があるというので二回再訪し探したが、樹々が鬱蒼として、結局この墓は見つからず。農地で作業している学生達にも聞いてみても知らないという事だった。もう一度確認してから再々訪することにする。

イシグスクモー頂上部は、人工的に平場になっており、平場の四囲は約3~4メートルの崖を形成して、防御用の削平地となっており、一種の曲輪と考えられている。自動車道の新設や民間の土地造成工事で一部が破壊され工事でグスクは破壊され、三分の一しか残っていない。

このイシグスクは近くに棚原グスクが立地していることから、イシグスクは棚原グスクの北の支城 (出城) として築かれた可能性が高いそうだ。先に訪れた棚原グスクで触れたが、このグスクの成り立ちには諸説ある。イシグスクの周辺には、破壊前には無数の古墓群があり、現在では21基の墓を確認されている。その中に、棚原集落の古い墓があり、棚原グスクとの戦いで滅ぼされた津覇の人たちの墓津覇高屋墓 (つはたかばか) や先代大殿内門中按司墓 (うふどうんちもんちゅうあじばか) があることから、棚原と何らかの関係があったことは確かだ。棚原集落に伝わっている話では、琉球大学キャンパス内にあった棚原古島はこのイシグスクの近くに移動しているという。

向こうに棚原グスクがある丘陵がはっきりと見える。棚原グスクのある丘陵の左の方の高いところが△154.9高地と呼ばれた沖縄戦の激戦地だ。

千原には昭和19年8月頃から石部隊百人程が駐屯していた。地元住民を総動員し、イシグスクに陣地壕、高射砲、210高地などが作られていた。

昭和20年4月1日に米軍が北谷に上陸すると、その日のうちにこの付近に到達し激戦地となった。一面焼け野原となり、イシグスクには人骨がごろごろと転がっていたそうだ。千原住民之46%が戦争の犠牲となっている。




千原集落の史跡は殆どが琉球大学敷地内にあるので、じっくりと資料を確認しながら、訪問記を書きながら巡った。全て見終わりまだ時間は残っているのだが、欲張らず今日はこれでおしまいにして、帰りは中城村中城湾に下るルートをとった。

参考資料

  • 西原町史 第1巻 通史 1 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第1巻 通史 2 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第2巻 西原の文献資料 資料編 1 (1984 西原町史編纂委員会 )
  • 西原町史 第4巻 西原の民俗 (1990 西原町役場)
  • 西原町史 第5巻 西原の考古 (1966 西原町役場)
  • 西原町 歴史文化基本構想
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 沖縄資料ガイドブック (2015 琉球大学附属図書館)
  • 琉大千原キャンパスの歴史と人々の暮らし (2020 琉球大学農学部)

2コメント

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  • Kazu Saeki

    2023.03.18 10:52

    @幻日いつもアドバイスありがとうございます。ご指摘の点についてもう一度資料を見直し、琉大千原キャンパスの歴史と人々の暮らしの著者もこちらに訂正したようで、幻日さんの言われるように、こちらの方がだたしいようです。そのようにレポート訂正しました。ただ、間違えられたものは何だったのかガ気になりますが、キャンパスには多くの民家があった様で、その名残かもしれませんね。今後も気が付いたところはアドバイスいただければ嬉しいです。
  • 幻日

    2023.03.17 10:24

    お久しぶりです。 坊主御主ヌ井戸 (ボージウシューヌカー)につきまして、「琉大千原キャンパスの歴史と人々の暮らし」を見ますと違うものを指しているようで、どうもこちらが正しいように思います。 ご確認ください。