Okinawa 沖縄 #2 Day 205 (24/08/22) 旧中城間切 (05) Tuha Hamlet 津覇集落

旧中城間切 津覇集落 (つは、チファ)

  • 馬場跡 (ンマイー)
  • 津覇の寺 (テラ)
  • トーチカ
  • 潮垣道 (スガチミチ)
  • 津覇公民館 (サーターヤー跡)
  • クバニー (勝連) 門中の拝所
  • クバニーガー
  • ウェーグンガー (2022年9月23日 訪問)
  • 喜友名井戸 (チュンナーガー)
  • 呉屋 (グヤ) 門中御神屋 (ウカミヤー)
  • 中道 (ナカミチ)
  • 山小 (ヤマグワー)
  • 安里小井 (アサトゥグヮーカー)
  • 糸満門中 獅子屋 (シーシーヤー)
  • 津覇の獅子舞
  • 殿小 (トゥングヮー) の火ヌ神、村屋跡
  • シーサー
  • 念仏エイサー
  • 前道 (メーミチ)
  • 前川 (メーガーラ)
  • ヤナジガー
  • 産井 (ウブガー)
  • 津覇集落のサーターヤー跡
  • ケンドー (県道)
  • 津覇尋常高等小学校 (津覇小学校)
  • 津覇龕屋 (ガンヤー)
  • 九年廻り (クニンマール 、コーヌイケー)
  • 富里ヌ嶽 (フサトゥヌタキ)
  • 富里ヌ神井戸 (フサトゥヌカミガー)
  • 上原道 (イーバルミチ)
  • 上津覇ヌ嶽 (イーチファヌタキ)
  • 後原井 (クシバルカー) (未訪問)
  • 南上原にある拝所 (未訪問)
  • 中城龍宮神

前回、伊集集落を訪れた時に、右脚がつったのだが、こむら返りとしては重症の様で、軽い肉離れの様だった。その日は左脚で自転車を漕いでなんとか帰宅したのだが、翌日から3日間は歩くのも辛い程痛みが続いていた。自宅で痛みが治るまで静かに生活、ようやく四日目から、歩き始め、近距離の図書館には平坦道を自転車で走り、快復状況を確かめ、一週間経って痛みも消えた。この一週間はこれから訪問予定集落の事前チェックに費やした。今日、一週間ぶりに集落訪問を再開する。坂道の少ないルートの津覇集落を訪れる。


旧中城間切 津覇集落 (つは、チファ)


宇津覇は中城村の東南部に位置し、東側に中城湾、南側に和宇慶、北浜、西側は南上原、北側は奥間に面している。 津覇集落は国道329号を挟んで、西側の斜面地と東側の平坦地に広がっている。 斜面地には津覇小学校やムラの拝所が立地し、平坦地には集落が立地している。
かつての津覇は、集落の中心地の津覇原 (チファバル) の他、勢理原 (シリーバル)、下勢理原 (シチャシリーバル)、勢理湊原 (シリーミナトバル)、浜原 (ハマバル)、寺原 (テラバル)、前原 (メーバル)、上前原 (イーメーバル)、野国謝原 (ヌーグジャバル)、立川原 (タチカーバル)、仲棚原 (ナーカタナバル)、富里原 (フサトゥバル)、崎門原 (サチジョーバル)、平原 (ヒラバル)、上津覇原 (イーチファバル) の15の小字に加えて、現在の北浜の津覇南浜原 (チファミナミハマバル)、新田原 (ニッタバル)、湊川原 (ミナトガーバル) を含めた広い地域だった。
津覇集落が始まった古島は、集落西側の丘陵地帯にあり、グスク時代から近世期にかけて上津覇、富里、糸蒲の3つの集落が存在していたと推測されている。その後時期は不明だが1700年代以前には、各集落は丘陵地から現在の平坦地へと移動してきたと考えられている。
琉球王国時代、蔡温に始まる農業政策により、首里士族が帰農し、この地でも屋取集落を形成している。津覇集落の東南側、中城湾に面した場所、津覇南浜原、和宇慶北浜原、新田原、湊川原、検地原に耕作地を開拓し住み始めている。仲松姓が多かったことから仲松屋取、その場所にちなんで、津覇の下 (チファヌシチャ) とも呼ばれた。1937年 (昭和12年) に、この仲松屋取が北浜として独立している。

津覇集落を巡って、気が付いたのは、多くの家が自前の井戸を持っている。井戸を掘るにはその深さによって大きく経費が変わり、通常は裕福な家しか自前の井戸を持っていなかった。この津覇集落には、驚くほど多くの井戸を見かけた。それほど深く掘らずに水が出たのだろう。水の便は良い地域だったと思われる。

水の便が良いからなのか、集落内に幾つか古い消火栓が置かれていた。

集落には古い石垣塀や沖縄伝統の家もいくつも見られた。


津覇の人口については、明治時代から、それほどの増加は見られない。現在の人口は沖縄戦の直前とほぼ同じとなっている。沖縄戦後人口は激減したが、その後回復し2004年には1300人を超えたが、これがピークで、それ以降、減少に変わり、その傾向は現在でも続いている。

中城村の他の地域と比較すると、人口は多い地域にはなり、大正時代、戦前、戦後1980年代までは、最も人口の多い地域だった。それ以降は人口が減少し、現在は4番目に人口の多い地域となっている。


琉球国由来記に表れる拝所は
  • 御嶽: 上津覇ノ嶽 (神名 津覇コダカネモリノセジ御イベ)、糸カマノ嶽 (神名 糸掛カネ森ノセジ御イべ)
  • 殿富里之殿 (富里之御嶽)
  • 拝所: 古隠根所、里主根所
古隠根所と里主根所については、資料にはどの拝所がこれに該当するのかが記載なく不明。
琉球王統時代に津覇集落で行われていた村祭祀はここを管轄していた伊集ノロにより執り行われていた。


津覇集落訪問ログ


先日訪れた北浜集落から潮垣道を通って津覇集落に向かう。


馬場跡 (ンマイー)

津覇のテラの前を走る潮垣道 (スガチミチ) に馬場がある。馬場とは呼ばれていたが、ンマスーブ (馬勝負、琉球競馬) をしたり、馬を走らせたりすることはなく、遊場 (アシビナー) として使われていた。

津覇の寺 (テラ)

馬場跡 (ンマイー) を越えた所に津覇の寺 (テラ) がある。この拝所には北浜集落を訪れた際、北浜で拝まれているという事で見学に来ている。津覇集落の東南側、潮垣道 (スガチミチ) 沿いにある。鬱蒼とした木々に囲まれていることから寺山 (テラヤマ)、山小 (ヤマグヮー) とも呼ばれ、1991年 (平成3年) に改修された祠が建てられている。 祠内には 「霊石」 と崇められている8つの自然石が置かれ、それと対になるように3つの香炉と1つの自然石が置かれている。この津覇のテラの逸話が残っている。 「昔兼城村 (現南風原町) の宮平に住む仲村渠という者が津覇に漁に来ていた。ふと、自分の家のある方角を見てみると、火事で空が燃えるように赤くなっていた。 胸騒ぎがした仲村渠は津覇のテラーに自分の家が無事であるようにと願った。その後家に戻ると、あたり一面焼けていたが、仲村渠の家は無事であった。」と伝えられている。 戦前はウマチーの際に仲村渠の門中が拝みに来ていた。その際、津覇のテラを管理していた屋号 新屋敷 (ミーヤシチ) は、自分たちの畑で収穫した大豆で豆腐を作り振舞っていたという。新屋敷門中 (親根 [ウェーグン] 門中) の先祖は今帰仁から宇涌に移り住み、酒大屋という家を作り、その分家である東大屋の三男 座喜味子と言われている。元祖の時代にはシージマタという場所に住んでいたが、西原の棚原門中との戦いに敗れ糸蒲へ移り、その後、現集落の場所へ移ったと言われている。戦前からムラの年中祭祀の際に拝まれており現在は自治会によって祈願が行われ、 五月ウマチーの際には、集落内の各門中を始め、村外からも参拝者が訪れている。

トーチカ

津覇のテラの敷地内、祠の西側に、沖縄戦の遺構のトーチカが残っている。沖縄戦直前に防御陣地として造られたトーチカは六角形のコンクリート製で、四隅に射撃口が空いている。トーチカへの入り口は見当たらないので、多分トーチカの下から中に入る仕組みになっていたのだろう。津覇では1945年 (昭和20年) 4月6日から米軍が侵攻し、戦闘が始まっている。

このトーチカを調査した際の写真が掲載されていた。津覇のトーチカは六角形で、6面のうち4面に銃眼と思われる小さな開口部がある。ります。 トー チカの開口部は周囲の平野部や南上原側の斜面地を向いており、米軍を攻撃するためではなく、平野部を進攻する米軍を監視監視哨だった可能性が高い。当時、津覇のテラを管理していた屋号 新屋敷へ日本軍がトーチカ構築の意向が示され、住民は聖域ということで一度は断ったが、軍には逆らえず最終的には構築を認めたという。弾痕などは無く、沖縄戦でどのように使われたかは不明。当時はコンクリートの屋根部分も土で覆って隠されていた。出入口が見当たらないので地下にトンネルを掘って出入りしていたと考えられる。

4月1日に上陸した米軍は、海兵隊を沖縄本島北部へ、陸軍部隊を沖縄本島南部へ進撃させた。南部侵攻軍は、日本軍が布陣している丘陵上部と、海岸線の2ルートを取っていた。戦車などは海岸線の平坦地を進むのだが、丘陵上にいる日本軍の攻撃で進むことは容易ではない、そのため、丘陵上の北上原の161.8高地 (ピナクル) の日本軍陣地を4月6日に攻略し、平坦部を進む米軍主力戦車部隊への日本軍攻撃を最小にするため丘陵部に陣を敷く日本軍を激しく攻め立てていた。この様にして、4月6日に米軍が津覇に侵攻し、4月8日には集落を越えて、155高地攻略をしている丘陵上を侵攻していた米軍に、155高地下からの攻撃に参加し、もう一帯は海岸線を進み北浜まで進んでいる。

沖縄戦では津覇集落住民は398人が犠牲になっている。当時の津覇集落の人口のデータがないのだが、1200人程だったとすると集落住民の33%が犠牲になっていると考えられる。


潮垣道 (スガチミチ)

津覇のテラから潮垣道を通り津覇集落に入る。

津覇公民館 (サーターヤー跡)

津覇の公民館は前道沿いのあり、正式には構造改善センターという。この場所は、戦前まで集落内にあったサーターヤー1号~4号までが置かれていた。集落の1班から4班はそれぞれのサーターヤーを使っていた。ここに自転車を停めて、徒歩にて集落内にある文化財を見て行く。

クバニー (勝連) 門中の拝所

公民館から1ブロック北にクバニー門中の屋敷跡があり、空き地になっている。ここにはコンクリート製の祠が置かれている。久場■ 勝連と書かれた石碑が建っている。この門中の先祖の出身地については不明だが、勝連グスク、座喜味グスク、中城グスクの築城のさいに細工人をしていたと伝えられており、その関係でこの地に移住してきたという。住み始めた所にクバニーが多く生えていたことでクバニー門中と呼ぶようになったそうだ。津覇以外にもうるま市赤野や沖縄本島北部へも門中関係者が多くおり、ウマチーの際にはこの拝所を拝みにくる。
祠の隣には、この屋敷にあった井戸を形式保存した拝所がある。戦前は初水の御願、3月、5月、6月のウマチーで拝まれていた。

クバニーガー

クバニーの拝所の斜向かいの屋号 勝連 (カッチン) 民家の塀の奥まった所にクバニーガーがある。クバニー拝所のクサイガーなのだろうか? 戦前まで初水の御願、3月、5月、6月のウマチーで拝まれていた。

ウェーグンガー (2022年9月23日 訪問)

クバニーガーの通りのすぐ北側にウェーグンガーが同じように塀に柵をした井戸があるのだが、見落としてしまった。ようやく年9月23日に寄ることができた。この井戸も戦前まで初水の御願、3月、5月、6月のウマチーで拝まれていた。

喜友名井戸 (チュンナーガー)

クバニー拝所の前の道を西に進んだ所にもクバニーガーと同じ形式で塀の所にチュンナーガーが保存されている。この井戸も戦前は初水の御願、3月、5月、6月のウマチーで拝まれていた。

呉屋 (グヤ) 門中御神屋 (ウカミヤー)

チュンナーガーの前の道を北に1ブロック進むと、津覇の根屋の一つとされる呉屋門中 (屋号 呉屋) の屋敷内に神屋が建っている。津覇集落の旗頭を保管している。 呉屋門中は恵祖世主を初代とし、10代目の大湾按司の三男 大湾子を元祖とと伝わっている。呉屋門中の神人は、集落内ではヌール (ノロ) と呼ばれており、伊集ノロ殿内へ貢物を運んでいたといわれている。 また、 同門中の男性から、伊集ノロが各拝所へ向かう際の馬と手綱役を出していたともいわれている。

中道 (ナカミチ)

呉屋門中の屋敷跡の東西に走る道が中道 (ナカミチ) で集落の中心の道になる。集落内は殆どが細い路地だが中道は道幅が広くなっている。

山小 (ヤマグワー)

呉屋門中屋敷跡の前の中道 (ナカミチ) の向かい側に空き地にがありその奥に渡った所に沿いに山小 (ヤマグワー) の拝所がある。この拝所はお墓だった所で、大湾按司に仕えていた家来や奉公していた人の中で身寄りがない人を葬った墓と伝えられている。 現在は敷地の奥に竹が生えているスペースがあり、その根本に石と香炉が置かれている。

安里小井 (アサトゥグヮーカー)

山小 (ヤマグワー) の空き地の中に井戸跡がある。屋号 安里小 (アサトゥグヮー) の民家に側にあるので、資料には安里小 (アサトゥグヮー) 隣の井戸 (カー) と書かれていた。この井戸の詳細は見当たらないのだが、戦前までは初水の御願、3月、5月、6月のウマチーで拝まれていた。

糸満門中 獅子屋 (シーシーヤー)

中道の南に並行して走る路地沿いに屋号 糸満の屋敷跡があり、津覇の根屋の一つと言われており、津覇の伝統芸能の獅子舞を保管管理しているので獅子屋 (シーシーヤー) と呼ばれている。 戦前は、ムラの祭祀を行う神人をだした家でもあった。

津覇の獅子舞

中城村の無形民俗文化財に指定された獅子舞が津覇では続いている。1600年頃に伝わったといわれ、五穀豊穣、無病息災、集落の繁栄を祈願し、集落の各拝所で祭祀として演じられ奉納されている。津覇の獅子舞には、剛をイメージした雄の舞と柔らかな所作を主体とした雌の舞があり、オス、メスの踊りを一頭の獅子で踊り分けるのが特徴という。コロナ禍でここ2年は中止されていたが、先々週の8月13日 (旧暦7月16日) に、火之神殿内で三年ぶりの獅子舞を行われた。津覇集落の獅子舞は旧暦の1月2日の初起こし (ハチウクシー)、7月16日の旧盆、8月15日の十五夜 (ジューグヤ) に奉納演舞されている。

殿小 (トゥングヮー) の火ヌ神

津覇集落の南側、に広い広場がある。ここには殿小 (トゥングヮー) の火ヌ神の祠があり、獅子舞いが奉納される拝所だ。戦前は現在よりも少し北側の鬱蒼とした木々で覆われた林の中に小さな瓦葺きの祠があったといわれている。祠の中に殿小 (トゥングヮー) の火ヌ神が祀られている。現在でも初起し (ハチウクシー) や7月16日の旧盆、8月15日の十五夜 (ジューグヤ) に獅子舞の奉納が行われている。
この広場は戦前は村屋 (旧公民館) があった。
祠の側には井戸跡がある。

シーサー

殿小 (トゥングヮー) の角ににシーサーが置かれている。以前は、前道 (メーミチ) の入口にあったといわれている。以前の写真では赤色では無かったので、最近赤に塗られた様だ。戦前は富里山 (フサトゥヤマ) に向かってヒーゲーシ (火伏 厄除け) のため、3~4体置かれいたそうだ。

念仏エイサー

獅子舞が行われる旧盆最終日7月16日 (ウークイ) には念仏エイサーが行われている。戦前はこの殿小 (トゥングヮー) に集まり焚火をおこして、それを中心に集落の人々が二重の円を作り、キーヌファー (葉のついた枝) やダキガヤを肩に軽く打ち、グルグルと回りながら曲に合わせて踊ったという。戦後一度途絶えたが、伝統芸能保存会によって復活し集落の行事の際に踊られている。ここ数年はコロナ禍で開催されていなかったが、今年久しぶりに再開したそうだ。

前道 (メーミチ)

シーサーから現在の公民館に通じる道が前道 (メーミチ) で津覇集落の南にあたる。この道も集落では主要な道で、道幅も広くなっている。

前川 (メーガーラ) 

前道 (メーミチ) の南側には前道に並行して前川 (メーガーラ) が流れている。源流は仲棚原にあから富里毛、津覇小学校南側を通り、寺原、浜原を経て海へ流れ込んでいる。

ヤナジガー

前川 (メーガーラ) を渡ると南側は一面畑になる。その畑の中にヤナジガーと呼ばれる井戸跡があり、生え茂っている草をかき分けて探し見つけた。井戸の水は既に枯れているが、形式保存されて香炉が置かれている。この井戸も戦前までは初水の御願、3月、5月、6月のウマチーで拝まれていた。


産井 (ウブガー)

津覇集落の北側、畑に囲まれた場所には津覇集落では最も大切な産井 (ウブガー) がある。 井戸の側に香炉が置かれている。産水 (ウブミジ) や正月の若水 (ワカミジ) を汲んでいた場所で村で共同で使用していた村井 (ムラガー) となっていた。 戦前はクムイ (溜池) のようになっており稲も植えられ、ターイユ (鯉) やウナギもとれたそうだ。 また、丘陵の上の南上原からも水を汲みに来る人も多かったという。戦前からムラの年中行事の際に拝まれており、現在でも自治会によって、初水の御願や五月、六月のウマチーの際に祈願が行われている。

津覇集落のサーターヤー跡

先程訪れた公民館の場所には1班から4班までの4つのサーターヤーがあったのだが、集落にはこれ以外にも五カ所のサーターヤーが置かれていた。産井近くのサーターヤー (左上) 、中門小のサーターヤー (右上)、5番入口のサーターヤー (左下)、ハマサーターヤー (右下) の四つは集落のすぐ外にあり、現在では畑や空き地になっている。
ケンドー (旧県道、現国道329号) を西側に渡った所にはイージョーイのサーターヤーがあった場所。

ケンドー (旧県道、現国道329号) 

戦前の津覇集落はケンドーの東側で終わっていた。ケンドーは戦前の主要道路として利用され、かつては中頭郡が管理する郡道13号だったが、1909年 (明治42年) 頃に改修され県道となった。 久場から吉の浦線を経由し、奥問、津覇、和宇慶 を通っっていた。1914年 (大正3年) には西原製糖工場へサトウキビを運ぶために、沖縄人車軌道が敷設され、その後、馬車軌道も敷設されていた。交通の弁が良くなった事で、ケンドー沿いには津覇尋常高等小学校、その前には馬車停留所、駐在所、自転車屋、診療所、ダンパチャー (散髪屋) やマチヤー (商店) が数軒並び、賑やかだったそうだ。

津覇尋常高等小学校 (津覇小学校)

明治23年に津覇簡易小学校が開校し、明治26年に中城尋常小学校津覇分校としてこのケンドー沿いに校舎が建てられた。翌年には中城尋常小学校より分離独立し、津覇尋常小学校に校名を改称している。戦前では殆どの学校が茅葺だったが、この津覇尋常高等小学校は、珍しい鉄筋コンクリート製の校舎だった。学校の裏には農園があり、高等科から農業の授業で野菜や家畜の育て方を教えていた。ヤギ、豚、鶏も生徒が字ごとに交代で飼育していた。農園で作った野菜や卵は学校の先生たちの食事となっていた。 生徒たちも時々収穫した野菜を津覇や和宇慶のマチヤー (市場) に売りに行ったともいう。1941年 (昭和16年) に津覇国民学校へ改称し、1944年 (昭和19年) には沖縄戦間近、日本軍の兵舎として使われ、授業は各字の村屋 (ムラヤー) や民家を借りて行ったという。

津覇龕屋 (ガンヤー)

津覇小学校の南側を流れる前川 (メーガーラ) 沿いを西に進み、小学校の裏の駐車場の中に龕屋跡が保存されている。琉球石灰岩をアーチ状に積み上げ、石積みの目地に漆喰が塗らたれ立派な龕屋で中城村有形民俗文化財にもなっている。これほど立派な龕屋が保存されているのは珍しい。造られた年代は不明だが、戦前から利用されていたそうだ。 津覇ではンマ (馬) と呼ばれていた。沖縄戦で損傷したが、1949年 (昭和24年) と1998年 (平成10年) に行われたクニンマール (九年廻り) コーヌイケー (龕の塗り替え、獅子舞の補修の行事) の際に補修がされている。龕は沖縄戦で焼失してしまったが、死者を墓に運ぶ龕がない事を嘆き、集落住民が獅子頭とともに1949年 (昭和24年) に復元制作がされ、龕屋の中に置かれている。
現在の龕は1998年 (平成10年) のクニンマール・コーメイケー行事で約50年ぶりに造り替えられたもので、龕屋の扉を開けて龕を近くで見れる。これまで多くの龕屋跡を見てきたが、復元とはいえ、実際の龕屋や龕がどのようだったのかを目の前で見れるのは、ここだけだった。集落から墓地までガンが通る道は決まっており、現在の津覇小学校の校舎とグラウンドの間の小道を通ることになっていた。 その後、前川 (メーガーラ) 沿いの道に変更された。

九年廻り (クニンマール 、コーヌイケー)

旧暦の9月9日には九年廻り (クニンマール) と呼ばれる行事が行われている。龕 (ガン) の塗り替えを行う行事でクニンマール (9年廻り) で、龕と龕屋、獅子舞の補修を行い神様に報告をする。 戦前から続いている。行事の際は、現在の5組にあたる海側から津覇小学校後方のガンヤーまで、ガンを担ぎながら多くのムラの人々が道ジュネー (行列) したという。龕は風葬が行われたいた時代に使われ、昭和36年に火葬に変わった後は、使用される事が無いのだが、住民の龕に対する想いは特別で、現在でも龕は保管され、昨年も住民総出でクニンマール・コーメイケー行事が行われている。1998年 (平成10年) と2013年 (平成25年)、そして昨年2021年にクニンマールが行われている。

富里ヌ嶽 (フサトゥヌタキ)

津覇小学校裏手にある富里山 (フサトゥヤマ) の丘陵地に富里ヌ嶽 (フサトゥヌタキ) がある。地図で見ると龕屋の横の上原道 (イーバルミチ) を登ればある様だが、山の中なので正確にはわからない。草刈り作業をしていた地元の人がいたので尋ねたが、この辺りに拝所があるとは知らないという。ちょっと不安だが探す事にした。
この辺りはかつて富里集落があった場所になり、各集落では、村の守り神として村の高台に腰当 (クサティ、聖域) として拝所を置いていた。球国由来記には富里之殿と記されており、昭和61年に改修された祠が建っていると資料にはあったので、確実にあるはずだ。急な坂道を登る。肉離れが心配なので、今日はトレッキングポールでなるべく脚に負担がかからない様にしている。坂道終点まで行き探すも見当たらず、次は坂道から林の中入れそうな道を探す。道では無いが、木々の間に空間がある場所がありそこを木々をかき分け進むと広場があった。広場の向こうに祠が建っている。やっと見つかった。この拝所はかつては5月と6月のウマチーに伊集ノロが祭祀を行っていたそうだ。

富里ヌ神井戸 (フサトヌカミガー)

富里ヌ嶽 (フサトゥヌタキ) の近くに富里ヌ神井戸 (フサトヌカミガー) があるのだが、御嶽からの道は無く、一度、龕屋まで降りる。草刈り作業員に御嶽が見つかったかと聞かれ、場所を教えると、少々びっくりしていた。どこの集落でもそうなのだが、拝みの習慣はどんどんと薄れていき、多くの拝所は忘れ去れ、御願は自治会代表者だけが行っており、おじい以外は知らない人が多い。次に訪問する富里ヌ神井戸 (フサトヌカミガー) も知らなかった。富里ヌ神井戸は富里山を降り、前川 (メーガーラ) を渡った所にあるので、龕屋から前川まで戻り別の道を登って所にあった。井戸の前には香炉が置かれており、戦前までは初水の御願、3月、5月、6月のウマチーで拝まれていた。

上原道 (イーバルミチ) 

先程の富里御嶽へは上原道 (イーバルミチ) を通っていったのだが、もう一本上原道 (イーバルミチ) がある。2本とも戦前までは、丘陵上にある南上原集落の中組と上組地域の子供達が津覇小学校への通学に使っていた道だ。始めに通った上原道は途中で消滅していた。今度通る上原道は、ルートは以前とは変わっているのだが上津覇山 (イーツハヤマ、写真左上) の丘陵上まで続いている。南上原への道は3本あり、もう一本はガクドーミチと呼ばれて、南上原の糸蒲の下組地域の子供の通学路だった。今では消滅している。2本目の上原道は丘陵上部にある上津覇ヌ嶽 (イーチファヌタキ) に通じている。その御嶽に向かうために登って行く。地元では避難道といった方が通じる様で、龕屋で話した作業員さんは避難道と言って御嶽までの道を教えてくれた。道はかなり急な階段 (右上) を共同墓地の中を登って行く。階段を登り切ると傾斜が緩くなった山道 (左下) になり、上津覇ヌ嶽の場所で自動車道路 (右下) に合流している。

上津覇ヌ嶽 (イーチファヌタキ)

御嶽付近は、津覇の古島の一つである上津覇集落があったといわれ、この集落の腰当 (クサティー) と思われる。元々、御嶽は上津覇山 (イーチファヤマ) の頂上付近に小さな石製の祠があったといわれている。1983年 (昭和58年) の土地改良事業で山が削られ平坦地となり、現在地に移されている。 1713年に編纂の琉球国由来記には、上津覇ノ嶽と記されており、300年以上の歴史を持つ。 戦前は津覇集落の年中祭祀でも祈願が行われていた。
祠の隣には糸満之墓と大湾按司三男 大湾子之墓がある。

後原井 (クシバルカー) (未訪問)

上津覇ヌ嶽 (イーチファヌタキ) の西側の森の中に後原井 (クシバルカー) があると資料には載っていた。大体の場所とぼやけた写真しか見つからない。戦前までは津覇集落で拝まれていたが、戦後は村としては拝んでいないので道があるかどうかは不安材料。門中単位で拝んでいれば、道が見つかるかも知れないと思ったが、それらしき道もなく森の中に入って探すことは断念。

南上原にある拝所 (未訪問)

かつての津覇は今よりも広く、丘陵の上の南上原の一部も含んでいた。その経緯から、南上原には津覇集落で拝まれている (いた) 拝所がある。その拝所は南上原集落を訪問する際に見る事にする。
  • 合同遥拝所 (ウトゥーシ) : かつて糸蒲集落があった場所にある。
  • 糸蒲寺 (イトカマデラ)
  • 糸蒲ヌ嶽
  • シージマタノ嶽 (シキマタヌ嶽)

津覇海岸

今日予定していたスポットは殆ど廻り終わり、残りは拝所一つを残すのみとなった。中城龍宮神で、正確な場所は分からないのだが、北浜集落との境の海岸にあると言う。それで、まずは津覇の海岸まで降りて行く。津覇海岸は小さな砂浜で、今日はだれもいない。ここからは知念半島や久高島が臨める。ここから防波堤を走って龍宮神の拝所を探す事にする。

中城龍宮神

防波堤を走り北浜付近に来た時に小さな祠が目に留まった。赤屋根の祠で中城龍宮神と書いている。祠の中には大きな石が一個、手前には香炉、祠の近くには昔の祠の屋根だったのだろうものが置かれていた。この拝所については資料にも載っておらず詳細はわからない。



これで今日の集落巡りは終了。脚の具合も問題なさそうで一安心。今日は今年一番の猛暑日だったそうだ。とは言え気温は33度で、本土に比べればマシな気温だ。今日は風もあり、比較的快適な真夏日となった。脚の心配もあり、行き帰りはゆっくりと走った。リラックスして走れる様に、久しぶりに音楽をかけての走行だった。日本ではあまり知られていない Dirk K というジャズギタリストで、たまたま聞く機会があり、彼のアルバムを三つ行き帰りに聞いてみた。Smooth Jazzというのだが、色々な曲層にわたり、アコースティックギターも交えて、オーソドックスなSmooth Jazz、フラメンコギター、前衛的なもの、ファンキーなものなど広いジャンルにわたっている。

参考文献

  • 中城村史 第1巻 通史編 (1994 中城村史編集委員会)
  • 中城村の文化財 第5集 中城村の拝所 (2004 中城村教育委員会)
  • 中城村地域散策 (中城村教育委員会)
  • 戦前の中城 (2022 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 中城村 戦前の集落 シリーズ 9 津覇  (2016 中城村教育委員会)
  • ガイドブック 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 百年の軌跡 (2009 中城村役場企画課)

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