Okinawa 沖縄 #2 Day 204 (16/08/22) 旧中城間切 (04) Iju Hamlet 伊集集落

旧中城間切 伊集集落 (いじゅう、ンジュ)

  • 伊集ウガン (伊集ノ嶽)
  • 和宇慶ウガン (未訪問)
  • イーントーカー (未訪問)
  • ターチマーチュー (未訪問)
  • ターチマーチュークサイガー
  • シルドゥングヮー (地頭火ぬ神)
  • チュクサイヌカー (未訪問)
  • 世持殿 (ユージドゥン、與儀之殿)
  • 前ヌ井 (メーヌカー、上ヌ井 イーヌカー)  (未訪問)
  • カンナガー (未訪問)
  • 伊集公民館 (伊集構造改善センター)
  • 山小ヌ御嶽 (ヤマグワーヌウタキ)
  • ナカスージ 
  • 船倉 (フナングヮ、フナグラノ殿)
  • ウマクンジャー
  • 馬場跡 (ンマイー )
  • ジーシヌメー
  • ユージヌモー
  • 前川 (メーガーラ)
  • 後川 (クシガーラ)
  • 津喜武多井 (チキンダガー) (未訪問)
  • 大前 (ウフメー) 門中
  • 前森 (メームイ) 門中
  • 後前森 (クシメームイ)
  • 與儀 (ユージ) 門中
  • 産井 (ンブガー 、ムラガー)
  • 前ヌ毛 (メーヌモー)
  • 上ヌサーターヤー、下ヌサーターヤー
  • アシンモー
  • ノロ殿内 (ヌンドゥンチ)
  • アシビナー
  • 伊集の打花鼓 (ターファークー)
  • 新屋門中 (ハナリビチ)、新垣之井 (アラカチヌカー) 
  • アンディガー (ヌールガー)
  • 東利門中 (ユージビチ)
  • 東利前ヌ井 (アガリメーヌカー)
  • クサイガー
  • 與儀ヌ毛 (ユージヌモー)
  • ウスクンダ原

旧中城間切 伊集集落 (いじゅう、ンジュ)

伊集は中城村の中で最も南側に位置し、東側は宇和宇慶、北側は宇南上原に位置し、南西側は西原町に接する。 集落の北西側は急斜面になっている。 現在の伊集は国道329号を挟むようにして集落を形成しているが、戦前は現在の国道329号から北西側に 集落が集中していた。伊集は現在の集落が集中している伊集原 (ンジュバル)、下原 (シチャバル)、前原 (メーバル) と、その他の殆どが畑地だった宇宙原 (ウチューバル)、上原 (イーバル)、崩原 (クウリバル)、後原 (クシバル) の7つの小字から成り立っている。戦前の伊集は伊集原一帯、下原の東側の一部に集中して集落が形成されていた。
伊集集落は上原に位置する世持殿一帯から始まったという説と、伊集集落の御嶽であるウガンがあることからウガンヤマ一帯にあったという説がある。伊集は戦前からあった集落地域は戦後、米軍に接収されることがなく、元の集落に帰還がかなっている。戦前の集落地図と現在の集落地図を比較すると、ほとんど同じ区画で道が残っている。

2021年末現在の人口は735人となっており、1903年の800人に及ばない。2010年には810人とピークに達し、それ以降は減少に転じ、その減少は現在でも続いている。その一方で、世帯数は増加傾向にある。

中城村の他の地域と比較すると、人口は真ん中より少し下に位置している。

琉球国由来記に記載されている拝所 (太字は訪問したもの)
  • 御嶽: 伊集ノ嶽 (神名 和宇慶ウラソデバナノセジ御イベ)、シキマタノ嶽 (神名 シキ森ノセジ御イベ)
  • 殿: フナグラノ殿 (船倉)與儀之殿 (世持殿)
  • 拝所: 與儀根所伊集巫火神 (ヌン殿内)

いずれも伊集ノロ (伊集ではサンカヌルと呼ばれていた) が祭祀を行っていた。伊集ノロは、伊集、和宇慶、津覇の3 つのムラの祭祀を行っていた。伝承によると、伊集ノロには2人の姉がおり、長女は久高ノロ、次女は棚原ノロであったと言われている。 


伊集集落訪問ログ


きょうも前回と同じルートの与那原バイパスを通り中城村に向かう。前回は、与那原バイパスの途中で国道329号二入ったのだが、今日はバイパスの終点まで行くことにした。国道329号から西原町マリンパークを通り、東崎に通じる。この道路は西原町小那覇の工業団地に行くルートなので、工事車両以外はあまり走っていない。歩道も広く自転車は走りやすい。ポタリングコーストしては最適だ。道を少し外れると西原マリンパークの公園もあり、気持ちの良い場所。



伊集に到着し、まずは伊集集落が始まった場所と伝わり、現在の伊集集落の奥に広がる丘陵地から訪れる



伊集ウガン (伊集ノ嶽)

後原のウガンヤマのを登ると 和宇慶との境にマー二 (クロッグ) が生い茂る広場があり、祠と香炉が二つ (三つ?) 置かれており、火ヌ神として戦後に設けられた。 1713年に首里王府によって編纂された琉球国由来記には、伊集ノ嶽 (神名 和宇慶ウラソ デバナノセジ御イベ) という名が見られ、伊集の御嶽として古くから拝まれ、戦前まで周辺の木々は伐採が禁じられていた。伊集のウガンの近くには隣村の和宇慶のウガンがあり、前者はイナグ (女) 神、後者はイキガ (男) 神とされている。資料では現在でも拝まれているとあったので、集落の外れのウガンヤマ (写真) への道があるはずと探すが見つからず。地元の人に聞くしか無いと、何人かに聞くも分からない。この後、公民館にも寄ってみるので、その時に聞いてみる事にした。
公民館には誰もおらず、区長さんに電話番号があったので、電話をかける。ヌン殿内で村の人達とゲートボール中だった。ヌン殿内に行き、色々と話をすると、現在では御願していないとの事だ。他の拝所も今では拝んでいる所は少なくなり、それ以外はお通し (遥拝) で済ませている。現在、拝んでいるのは、ヌン殿内、産井、船倉、世持殿、山小ヌ御嶽だけだそうだ。それでウガンへの道は整備されず、ほったからしになっており、今は道はない。林の中に入って行くしか無いそうだ。インターネットで探しても、このウガンを訪れたとの記事はなかった。誰も行かないのだろう。資料の写真 (左上) は、まだ拝んでいた時期の様で、祠の周りは綺麗に草がかられている。鬱蒼としている林の中を、枝をかき分け、蜘蛛の巣を取り除きながら、急斜面を上り探すが、中々見つからない。諦めて帰ろうと思った矢先に、石の祠を見つけた。木々で覆われている。やはり拝まれているようには見えない。ここが今日、最終の場所になり、暑さと疲労、そしてなによりも蚊の大群がすごい。多分、何十匹も足にたかっていたと思うが、いつも蚊に噛まれているせいか、慣れてしまい。痒さは、しばくすると無くなってしまう。これは不思議だ。
取り敢えず、ウガンが見つかり、体力と気力は限界に来ているので、帰る事にする。林の中を下る途中に足を滑らせて、踏ん張った際に足がつった。フクロハギの筋肉がひっくり返ったようになり、かなりの痛みがはしり、そのまま転倒、坂を転げ落ちる。暫く、倒れたまま、痛みが和らぐまで待ち、枝に捕まり、体重を支えながら林を抜けた。その後は、足を引きずりながら、自転車を置いている公民館までたどり着き、再度休憩。やっと落ち着いた後、自転車を無事な左足で漕ぎながら帰宅となった。


和宇慶ウガン (未訪問)

伊集ウガンの北側には和宇慶ウガンもあるのだ、伊集ウガンの上は木々が深く、疲れて気力が失せ、探索を断念した。資料によると、「この一帯は、和宇慶集落の発祥地と伝えられている。 戦前はすぐ隣に伊集のウタキ (ウガン) もあり、合わせて伊集ノ嶽 (神名、和宇慶ウラソデバナノセジ御イベ) と推測されていた。以前は和宇慶の御嶽 (ウタキ、ウガン) から伊集のウガンへ行く道もあったが、戦後、地滑りが起き和宇慶のウガンが100mほど下方にズレてしまい、現在地になっている。」とあり、少々辻褄が合わない説明となっている。これによると和宇慶ウガンは伊集ウガンの下にある事になるのだが、地図では上になっている。どうも、和宇慶ウガンと伊集ウガンへは別々の道があったようだ。ここへは和宇慶の人に聞くしかないだろう。次回にでも和宇慶公民館により聞いてみよう。写真は資料にあったもの。


イーントーカー (未訪問)

ウガンから北側にウガンと対になっているイーントーカーと呼ばれるクサイヌカーがあるそうだが、探索は断念。これが伊集ウガンとついになっているチュクサイヌカー (一鎖ヌ井) にあたる。

ターチマチュー (未訪問)

伊集ウガンのあるウガンヤマの麓には、ターチマーチューと呼ばれる、かつての東利 (アガリ) 門中の屋敷跡であったと言われている。伊集ウガンが村の守り神の腰当て (クサティー、聖域) で、その前に有力者の屋敷があった。これは古琉球集落の典型的な村の形だ。ターチマーチューは戦前には二つの大きな松 (マチュー) の木が生えており、その間に香炉が置かれていたという。東利門中は伊集で最も大きな門中で、伊集の根屋 (創始家) の屋号 東利を宗家とし、その中に與儀 (ユージ) 門中や前森 (メームイ) 門中がある。東利門中のことを伊集では 「ユージビチ」と呼んでいる。伝承によると、東利の初代は大城賢雄 (鬼大城) の次男と伝えられている。大城賢雄が第二尚氏に討たれると、その次男が伊集に逃げのび、「先代ノロ」と呼ばれる女性に助けられたという。 やがて、先代ノロと大城賢雄の次男は仲睦まじくなり、先代ノロは子を授かった。その子の子孫が、現在の屋号東利であると言われている。現在でも年中行事の際には東利門中で拝まれているそうだ。屋敷跡は現在では畑になっている。この中のどこかにターチマーチュー の拝所があるのだが、見つけられなかった。写真右下は資料に載っていた拝所。

ターチマーチュークサイガー

ターチマチューの北側には次良大前 (ジラーウフメー) の屋敷跡があり、そのの近くにターチマチューと対になるクサイガーがある。東利がこの近くに住んでいた時に使用した井戸であると言われている。この井戸も現在でも年中行事の際には 東利門中で拝まれている。この井戸は見つかった。井戸の周りは綺麗に草が刈られているので、今でも東利門中で拝んでいるようだ。見つからなかったターチマーチューも整備されていると思われ、もっと探せば見つかったかも知れない。

シルドゥングヮー (地頭火ぬ神)

ターチマチューから道を戻り伊集集落に入る。集落北に外れた山の麓の畑の中に地頭火ぬ神を祀ったシルドゥングヮーの拝所がある。 夫地頭 (ブジトゥ 間切を治める地頭の補佐役にあたる役職) の屋敷跡と言われており、 コンクリート製の祠の中には3つの竈を表す自然石と香炉が置かれている。現在の拝所は1968年 (昭和43年) に改修されたもの。

チュクサイヌカー

シルドゥングヮー (地頭火ぬ神) への小径の脇に井戸跡がある。香炉が置かれ拝所となっている。この井戸はシルドゥングゥーと対になっているクサイヌカーで一鎖ヌ井 (チュクサイヌカー) と呼ばれ、現在でも年中行事の際には門中で拝まれている。

世持殿 (ユージドゥン、與儀之殿)

伊集集落の西の外れの山を登った中腹に世持殿 (ユージドゥン) がある。戦前は瓦葺きであったが、戦後、コンクリート製の祠となり、中には3つの自然石と香炉が置かれている。祠の脇には今帰仁のクボーウタキへのウトゥーシ (遙拝所) が置かれている。琉球国由来記の與儀之殿と考えられている。言い伝えによると、伊集ムラの根屋である屋号 東利が伊集に来たとき、すでにこの場所には伊集ヌシーの屋敷跡とされる空き家があり、観音菩薩が描かれた掛け軸がかけられていたという。いつしかその屋敷跡にビジュルと香炉が置かれるようになり、世持殿として拝まれるようになったと伝えられている。 現在、年中行事の際に伊集集落で拝まれており、村外からの参拝者もあるそうだ。
與儀 (ユージ) 門中は東利 (アガリ) 門中からの分家で、本家は上與儀小とする伊集の旧家の一つ。王家に嫁いだと言われているユージヌアヤーメーや悲恋を遂げた伊集のガマク小に深い関わりを持つと言い伝えられている。
上與儀小出身のユージヌアヤーメーは王家に嫁ぐと、ウマチーの際に実家の上與儀小に観音像を置いて本家の屋号東利にウトゥーシ (遙拝) していたという話や、集落の南東側にあるアシンモーからウトゥーシ (遙拝) していたという逸話がある。 戦前、與儀門中は清明祭になるとユージヌアヤーメーが葬られている末吉の墓と、南城市の奥武殿内を拝みに行ったという。

ここからは集落西側の原野で、集落で一番高い場所になっているヒータテモーが見える。この場所ではタントゥイの時に松明を焚たいて害虫駆除を行っていた。ヒータテモーはタントゥイモー、またはモーエーチヂとも呼ばれている。

ここからは先日訪れた和宇慶、南浜、北浜集落の全景が見渡される。

前ヌ井 (メーヌカー、上ヌ井 イーヌカー) (未訪問)

世持殿から西側に集落に降りるもう一本道がある。集落の端に前ヌ井 (メーヌカー、上ヌ井 イーヌカー) という世持殿のクサイカーがあるそうだが、地図の場所にはそれらしきものは見当たらない。かつて世持殿に住んでいた人が飲み水として使用した井戸と伝えられており、伊集では産井 (ンブガー) と同様に集落の重要な井戸として拝まれている。世持殿の前方に位置することから前ヌ井 (メー ヌカー) と呼ばれるようになった。正月の時に若水を汲む人もいたようで、若水を汲んで自分の家の井戸にメーヌカーの水を移したという。メーヌカーの水はとてもきれいで、カースヌイ (シマチスジノリ) が生育していたという。戦前は豆腐を作る時にはメーヌカーの水を使っており、水の鮮度を保つため、ゴミが溜まらないよう毎日水を汲んで循環させていた。現在で も年中行事の際にムラで拝まれていると資料にはあったが、実際には今では拝まれていないようだ。写真は資料に載っていたもの。(資料ではカンナガーとなっている。) 

カンナガー (未訪問)

世持殿の北側の山道を更に登った所にもにもう一つのクサイカーがある。カンナガーと呼ばれている。大城賢勇の次男が逃げ延びた際に利用した井戸と伝えられている。戦前は石積みで造られており、水量も豊富であったそうだ。戦後まで残っていたが、土砂崩れにより埋まってしまったため、コンクリート製の水タンクを設置し、香炉を置き拝むようになった。現在も年中行事の際に門中で拝まれていると資料にはあるが、区長さんによれば今は拝んでいないそうだ。申し訳ななさそうに、道も整備してないので、草は生え放題でちょっと行けないよと言っていた。確かに、道は途中で、草に覆われて無くなっていた。インターネットでは、ここを見学した様子 (写真左) があった。(中城村の資料では前ヌ井となっているのだが…、集落住民に確認せずに発行したにかも知れない) この村は過疎化が進み、老人には拝所の整備は大変で、次第に整備出来ずに荒れてしまう運命にある。中城村は全国でも人口が増えている村のトップなのだが、中城村で人口が増えているのは南上原だけで、他の地域は過疎化の問題を抱えている。中城村ではこの人口の著しい増加を自慢にしているのだが、実態は南上原以外は忘れられた地域の様な感じがする。これも一つの政策なのだろうが、他の地域はの事も真剣に考えて欲しいものだ。

次は伊集集落内にある文化財を見て行く。

伊集公民館 (伊集構造改善センター)

伊集集落の中心に公民館がある。正式には伊集構造改善センターという。沖縄では多くの村の公民館が構造改善センターと呼ばれている。何故公民館がこう呼ばれているのかに興味があるのだが、聞いても分からない。個人的推測では、多くの村が沖縄戦で壊滅し、村の再建復興を目指し、以前よりも住みやすい村にするという目標があったのではないだろうか? 当時は国、沖縄県や各市町村はそれだけの力はなく、各集落が中心になって進めたのではと思える。今でも、沖縄社会の原点が各集落にある。

山小ヌ御嶽 (ヤマグワーヌウタキ)

伊集構造改善センター敷地内広場の東側にコンクリート製の祠があり、その中に複数の自然石と香炉が置かれている。 戦前、この辺りは小高い山にあるなっており、山小 (ヤマグヮー) と呼ばれ、その頂上に小さな祠が西向きに建っており、山小ヌ御嶽 (ヤマグワーヌウタキ) と呼ばれていた。また、敷地内の中央には井戸もあったそうだ。 伊集構造改善センターを作るときに平地にし、祠を南向きに変えている。 現在も、年中行事の際に拝まれている。

中筋 (ナカスージー)

公民館の前に東西に走っている道が中筋 (ナカスージー) で他の集落では中道 (ナカミチ) に相当する主要な道になる。ケンドー (県道) の集落入口から集落の西側にあるアシンモー へ続く道になる。 この道を境に北側をクシベー  (後ろ側)、南側をメーべー (前側) に分けていた。

船倉 (フナングヮ、フナグラノ殿)

中筋 (ナカスージー) を国道329号方面に進むと道沿いに、少し土が盛り上った所にコンクリート製の祠がある。船倉 (フナングヮ) と呼ばれ、祠の中には3つの自然石と香炉が置かれている。船倉 (フナングヮ) は、航海安全を祈願する拝所の竜宮神と伝えられており、琉球国由来記にはフナグラノ殿という名で見られる。言い伝えでは、この一帯はかつて海岸線で、船着場か船の蔵 (倉庫) があったことからフナングヮ (船倉) と呼ばれるようになったと言われている。戦前は出征する際に見送りをした場所でもあった。現在でも年中行事の際には伊集集落で拝まれている。このフナングワには3つのマーイシ (力石) が置かれていたそうで、石は楕円形で、子ども用、青年用、力持ち用とそれぞれ重さが違い、子ども用でもおよそ30kgほどあったという。

ウマクンジャー

船倉の近く西側にウマクンジャーとばれる岩がある。坊主御主と呼ばれた第二尚氏王統の17代尚灝王 (在位1804年 ~ 1834年) がこの伊集村に立ち寄った際に馬の手綱を結び付けておいた岩と伝えられている。近くには代尚灝王が手足を洗ったと言われている井戸があり、戦後までヒジャナビーの子孫が拝んでいたそうだ。

言い伝えでは、かつて伊集には比嘉 (ヒジャ) ナビーという17 才の美しい女性がおり、それを聞きつけた尚灝王が比嘉 (ヒジャ) ナビーに会い来ていたという。その度にこのウマクンジャーに馬をつないでいたという。妃、夫人 (側室)、妻 (妾) を10人、子は26人ももうけた好色で知られる尚灝王ならではの話だ。妃、夫人 (側室)、妻 (妾) 以外にも、その悪癖は広がっていたのだ。首里から、ここまで通っていたのか… この比嘉ナビーらしき名は10人の妃、夫人、妻にない。ナビーは妻になる前に、翌年18歳の若さで病気で亡くなっている。尚灝王はねんごろにナビーを葬り、ナビーの両親に世帯道具一式を形見として贈った。この下賜品の一部陶器類はナビーの生まれた比嘉家に家宝として戦前まで保存されていたが、戦争で消滅してしまった。


ンマイー  (馬場跡)

船倉 (フナングヮ) から中筋 (ナカスージー) を少し進んだ所に、南に分岐する広い道路がある。この広い道路は新たに造られたのではなく、馬場 (ンマイー) だった。集落内の道の中でも1番幅が広く直線になっている。昭和初期までは馬を走らせたり、遊ばせていたそうだ。この場所で綱引きも行われていたのだが、沖縄戦が近づく1944年頃には綱引きや馬を走らせている光景は見られなくなっていた。 戦前は、夜になると若者が集まり、青年はンマイーに置いてある力石で力試しを行ったり、男女の交流の場としてのモーアシビナー (毛遊び) にも利用されていた。

ジーシヌメー

中筋 (ナカスージー) の東の終点はケンドー (県道) と交わる。この集落の入り口をジーシヌメーと呼んでいる。北側の山は墓地地帯で、その墓に入れるための厨子甕が並んでいたことから、ジーシ (厨子) のメー (前)」と呼ばれるようになったと言われている。 現在バス停留所が立つ場所には、かつてはアーチ状の石橋が架けられており、ジーシヌメー橋と呼ばれていた。

前川 (メーガーラ)

ジーシヌメーからは伊集集落を囲むように川が流れている。その一本が前川 (メーガーラ)で、源流は宇宙原にあり、集落の南側を流れ、国道329号 (旧ケンドー) に沿ってジーシヌメーから海岸へ流れている。 戦前は現在よりも水量が豊富で 深さは足首の上ほどの深さであったが、川の幅は2メートル以上あったという。 水がきれいでカニやエビが多く、メーガーラ付近に住む子どもたちはよくこの川で遊んでいたという。大雨が降ると水量が増し、流れが 速くて危険だったため、雨の日には近づいてはいけないと言われていた。

後川 (クシガーラ)

もう一本が集落の北側を流れる後川 (クシガーラ) で、後原からウガンヤマを通り、ジーシヌメーで前川 (メーガーラ) と合流している。深さはそれほどなかったが、 川の幅は5メート
ルほどあったという。現在は随分と細くなっている。

津喜武多井 (チキンダガー) (未訪問)

前川 (メーガーラ) の南側にチキンダガーと呼ばれる井泉がある。津喜武多按司 (按司時代に西原町小波津に津喜 (記) 武多グスクを構えた) と関わりがある井戸とも言われている。 (どのような関係なのかは調べてもわからず) 戦前までは伊集で初めて稲作が行われたという田がこの近くにあり、この井戸から水を引いていたと言われている。戦後、元の位置が分からなくなり、 国道をつくる際に現在の場所にコンクリートで移設されている。 井戸は民家の裏にあり、民家内を突っ切って行くのは躊躇われたので、見学は遠慮した。

公民館に戻り、その周辺にあるスポットを見て行く。

大前 (ウフメー) 門中

公民館の周りには、伊集集落の有力者の屋敷があった場所が集中している。公民館に西の道を挟んだ所が大前 (ウフメー) 門中の屋敷だった。大前門中の先祖は 安慶名城跡の城主である大川按司と深い関わりがあると言い伝えられている。 戦前、清明祭には安慶名城跡に拝みに行ったという。

前森 (メームイ) 門中

大前 (ウフメー) 門中の屋敷の北側には、東利門中からの分家で、伊集の旧家の一つである前森 (メームイ) 門中屋敷跡がある。

前森 (メームイ) 門中

先に触れた王家に嫁いだヒジャナビー (比嘉ナビー) は前森門中の後前森出身であると言い伝えられており、このことから、 後比嘉とも呼ばれている。 戦前、後前森はウマクンジャーや、王様がヒジャナビーに会いに行く際に手足を洗ったという井戸を拝んでいたという。後前森は前森すぐ近くに屋敷があった。前森屋敷は現在ではアパートになっており、その前にあった下門小の屋敷跡には昔からの石の塀が残っている。

與儀 (ユージ) 門中

公民館の南側には、東利門中からの分家で、伊集の旧家の一つの上與儀小の屋敷があった。
先に訪れた世持殿 (ユージドゥン) でこの門中については触れているが、もう少し詳しい伝承を以下に記載する。
第二尚氏13代尚敬王の長男の代14代尚穆王 (在位 1752-1794) は、伊集村の与儀家に真加戸樽と呼ばれる美しい娘がいて、そのうわさは首里までひろがり、やがて尚穆王のお目にもとまった。各間切に下知役を派遣して疲弊をいやしたり、清明祭を定めたり、山林を視察して営林をすすめたり、大飢饉があるときには貧民を救済するなどして多忙きわまる尚 穆王であったが、百合よりも白く美しい真加戸樽を首里 の王宮に召して夫人としてしまった。尚穆王には年上の王妃がいたがその王妃よりも二十四歳も若くて美しい真加戸樽に心をひかれるのをおさえることができなかったのだろうか。老いた王妃はこの若くて美しい伊集生まれの小娘を憎む力まではなかったが、うらやましくなって、その心 情を歌に託した。

  伊集の木の花や
  あがきよらさ咲きゆり
  わぬも伊集やとて
  真白さかな

王妃の心情がせつせつと伝わる。この歌は「伊集の木節」といわれ、今に伝わっている。

産井 (ンブガー 、ムラガー)

大前 (ウフメー) 門中屋敷跡の前には産井 (ンブガー) と呼ばれる村井 (ムラガー) がある。集落の井戸の中では唯一カブイ (アーチ 状の石積み) を残している。戦前は、子どもが生まれるとンブガーから産水 (ウブミジ) を汲んで沸かし、生まれたばかりの子どもや母親の身体を拭いたという。 戦後も、自宅で出産していた頃までは、ここから汲んでいた。 また、正月になると子どもたちがチューカーグヮー (ヤカン) を持って若水 (ワカミジ) を汲みに行った。 現在でも 年中行事の際にムラで拝まれている。

前ヌ毛 (メーヌモー)

産井 (ンブガー) の南は、戦前は小高い山で前ヌ毛 (メーヌモー) と呼ばれていた。頂上は広 場になっていたため、子どもたちの遊び場となっていた。 現在は住宅地になっている。

上ヌサーターヤー、下ヌサーターヤー

前ヌ毛 (メーヌモー) の西側は上ヌサーターヤーと下ヌサーターヤーの二つのサーターヤーがあった場所だった。現在でもサトウギビ畑となっている。伊集には3つのサーターヤーがあり、仲の良い人同士でグループとなって交代でサーターヤーを利用した。時期以外には、子どもたちの遊び場となっていたという。もう一つは集落から西側の外れの和宇慶ヌ前のサーターヤーで、県道沿いにあり、和宇慶ヌ前に住む人が利用していた。

アシンモー

上ヌサーターヤー、下ヌサーターヤー北側、集落の西の端にアシンモーと呼ばれる場所がある。戦前は小高い山で、頂上は広場になっていた。首里に嫁いだユージヌアヤーメーがここから世持殿に向かって拝んだ場所で、そこには平らな石が置かれていたという。種取り (タントゥイ) の時にはヒータテモーから降りてきて、豊作祈願を行った場所だった。

ノロ殿内 (ヌンドゥンチ)

アシンモーの北にはノロ殿内 (ヌンドゥンチ) 拝所がある。祠が建てられて、中にはノロ火ぬ神、久高島 (あるいは首里) へのウトゥーシ (遙拝) があり、獅子舞も保管されている。琉球国由来記にある伊集巫祟所で、古くから伊集集落で拝まれていた。 戦前は瓦葺きの建物で、今よりも前方に建っていた。 かつては細長い池があり、その池では村で鯉を飼育していたという。戦前から屋号 東利が管理しており、毎月1日15日には ウチャトー (お茶) を供えている。 現在もムラの年中行 事の際には拝まれている。

アシビナー

ノロ殿内敷地内にはアシビナーの広場があり、戦前は十五夜のときに盛り土をして舞台を作り、村芝居を行っていた。ノロ殿内からアシビナーにかけてなだらかな斜面になっており、青年会が段差を造り、観客が座って舞台を鑑賞できるように整備を行っていたそうだ。今日はこの広場で老人たちがゲートボールに興じていた。
アシビナーの隅には井戸跡があり、香炉が置かれている。この井戸についての情報は見当たらないなかったのだが、ヌン殿内の敷地内にあるので、ヌン殿内と関係があるのだろう。ノロが祭祀の前にこの井戸で身を清めていたのかも知れない。

伊集の打花鼓 (ターファークー)

旧暦の8月15日の十五夜の祭りでは、この場所で、古くから伝わる中国風の踊りの打花鼓 (ターファークー) が演じられていた。打花鼓 (ターファークー) は、18世紀に名護親方によって那覇の久米村に創設された教育施設「明倫堂」で行われていた中国の戯曲を、明治20年代に奉公で久米村に来ていた伊集出身者が習得し、明倫堂の廃止で久米村では上演されなくなった後も伊集の若者たちだけが受け継いで現在に至っている。色鮮やかな衣装を身にまとい、跳ねやひねりの多い振りで荘厳な行列をつくり、ダイナミックな動きの踊りで、沖縄県無形民俗文化財に指定されている。

新屋門中 (ハナリビチ)、新垣之井 (アラカチヌカー) 

ノロ殿内 (ヌンドゥンチ) の南には、伊集に古くからある新屋門中の屋敷があった場所になる。新屋は伊集では宮城島と深く関わりを持つことから「ハナリビチ」と呼ばれている。 伝承では、新屋の祖先が伊集に移り住もうとしたが、当時集落がなかったため、親戚を頼って宮城島に住み、結婚して男の子が生まれたという。その後、再び伊集を訪れてみると、集落が形成されていたため伊集に移り住み、結婚して男の子をもうけた。 このことから、新屋門中は清明祭には縁のある宮城島へ拝みに行っている。 また、本家である屋号新屋が最初に住んだと伝えられている場所には新垣ヌ井 (アラカチヌカー) と呼ばれる井戸があり、年中行事の際には門中で拝まれているそうだ。屋敷の裏にこの井戸があるのだが、そこへの道は草が生え放題で、道の脇、家の庭に犬小屋があり、道を進もうとすると、思いっきり吠えられ、それ以上進む気力が失せてしまった。写真(中) に写っている林の中に資料に掲載されていた井戸 (写真右) があるのだが…

アンディガー (ヌールガー)

ノロ殿内のアシビナーから階段があり、降りると北西側の畑の中にアンディガー (ヌールガー) がある。ノロが髪を洗った井戸と伝えられている。井戸の側にはノロがクチャ (昔のシャンプー代わりの泥) を溶く際に用いた窪んだ石が現存している。

東利門中 (ユージビチ)

ヌールガーの東隣は伊集の根屋 (創始家) の屋号 東利 (アガリ) を宗家とする東利門中の屋敷があった場所。東利門中はは伊集で最も大きな門中で、その中に與儀門中と前森門中がある。東利門中のことを伊集では 「ユージビチ」と呼んでいる。伝承によると、東利の初代は大城賢雄 (鬼大城) の次男と伝えられている。 大城賢雄が第二尚氏に討たれると、その次男が伊集に逃げのび、「先代ノロ」と呼ばれる女性に助けられたという。 やがて、先代ノロと大城賢雄の次男は仲睦まじくなり、先代ノロは子を授かった。その子の子孫が、現在の屋号東利であると言われている。屋号東利の屋敷内には神屋があり、7つの香炉と東利門中の火ぬ神がある。

東利前ヌ井 (アガリメーヌカー)

東利門中屋敷前には旧暦1月2日のハチウビー (初水、仕事始め) の際に拝まれていたカーがあり、東利前ヌ井 (アガリメーヌカー) と呼ばれている。

クサイガー

集落の北側真ん中辺りの民家の狭い駐車場の奥に井戸があった。これは、かつて東利門中が使用していたと伝わっている。クサイと呼ばれているので、いずれかの拝所にリンクしているのだろうが、その拝所が何なのかは書かれていなかった。

ユージヌモー

集落から北西の丘にはハートライフ病院が建っている。この病院んの裏手側は屋号 與儀が所有する土地が多くあったことからユージヌモーと呼ばれるようになった。 ユージヌモーには與儀が多くの松の木を植林しており、その松はタムン (薪) として利用されていたという。
沖縄戦では、ユージヌモーに日本軍の陣地掘られていた。壕はトンネルのように山を掘り抜いて造られ、一方の入口は字北浜、もう一方は仲伊保へ向けられていた。ユージモーの松の木は、陣地壕を補強するために切り倒された。壕には小型の砲が配備され、壕の1番広い場所は大砲を回転させることができるほどの広さだった。壕の中へ住民が入ることは禁じられ、兵隊しか出入りすることができなかった。
ユージヌモーに構築された陣地は米軍はここをオーキヒル (和宇慶の丘) と呼んでいた。
1945年(昭和20) 4月、ここには日本軍の重砲兵第7連隊第3中隊が配置され、4月19日から23日頃まで日米両軍がこの丘をめぐる激しい戦闘を繰り広げ、米軍に占領されている。
護佐丸歴史資料図書館の敷地内に、 伊集の屋敷 (屋号又吉) にあったヒンプンが移設されており、ヒンプンの両面にはは沖縄戦の時に受けた弾痕跡が残っている。 この事から、集落を巻き込んだ激しい戦闘があったことがうかがえる。伊集の周辺丘陵地には日本軍の陣地 があり、 1945年 (昭和20年) 4月19日から23日にかけ激しい戦闘が行われた。 集落周辺の斜面地には多くの住民が隠れていたそうで、壕に手榴弾を投げ込まれて犠牲になっている。

ウスクンダ原

ユージヌモーから少し下った一帯はウスクンダ原と呼ばれて、ここにも日本軍の独立歩兵第11大隊第5中隊の陣地があった。 現在は国道によって丘が分断されているが、 かつてはユージヌモーから一連の稜線で繋がっており、その地形から米軍はスカイラインリッジ  (地平線の尾根) と呼んでいた。
陣地には、深さ90cmぐらいの塹壕や怪我人を治療するための壕や炊事をする壕もった。4月19日からこの地で日米両軍の激しい戦闘が繰り広げられ、23日頃に米軍により占領されている。この地で米軍により戦死した日本兵500 人の遺体は確認された程の激戦地だった。

沖縄戦では伊集集落住民は316人の犠牲者を出している。当時の伊集の人口データが見つからないので、犠牲者の割合は不明だが、戦後1946年は435人とある。移ってきた南浜住民も含まれているかもしれないが、この数字を生存者と考えると、集落の40%以上が犠牲になったと考えられる。



これで伊集集落巡りは、なんとか終了した。見つからない拝所も多くあった。先に書いたとおり、終盤で肉離れが起こり、ゆっくりと脚に負担がなるべくかからないように自転車で帰る。


参考文献

  • 中城村史 第1巻 通史編 (1994 中城村史編集委員会)
  • 中城村の文化財 第5集 中城村の拝所 (2004 中城村教育委員会)
  • 中城村地域散策 (中城村教育委員会)
  • 戦前の中城 (2022 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 中城村 戦前の集落 シリーズ 6 和宇慶 (2016 中城村教育委員会)
  • ガイドブック 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 百年の軌跡 (2009 中城村役場企画課)

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