Okinawa 沖縄 #2 Day 240 (26/02/23) 旧首里真和志平等 (4) Yamagawa Area 首里山川町
旧首里真和志平等 首里山川町 (やまがわ、ヤマガー)
旧立岸村 (タチヂシムラ)
- 迫の坂 (サクヌフィラ)
- 観音堂 (クヮンヌンドー)、慈眼院
- 万歳嶺と万歳嶺記碑 (上ミヤキジナハノ碑文)
旧大飩川村 (ウウトゥンガームラ)
- 大飩川小路 (ウウトゥンガースージ)
- 真和志之平等所跡、真和志之平等学校所跡
- ウテェーバンタ
- 真壁殿内小路 (マカンドゥンチスージ)
- 真壁殿内 (マカンドゥンチ) 跡、山川村学校所 (ヤマガームラガッコウジュ) 跡
- 大飩井戸 (ウウトゥンガー)
- 山川入口 (ヤマガーイリグチ)
旧山川村 上山川 (ウィーヤマガー)
- 金武御殿 (チンウドゥン) 跡
- 高嶺御殿 (タカンミウドゥン) 跡
- 玉城御殿 (タマグスィクウドゥン) 跡
- 電車の目方 (デンシヤヌメェー)
- 幸地井戸 (コーチガー)
- 護得久御殿 (グウィークウドゥン) 跡
- 池城殿内 (イチグスィクドゥンチ) 跡
- 池城殿内ヌ井戸 (イチグスィクドゥンチヌカー、上山川井 ウィーヤマガーガー)
- 幽霊屋敷 (ユウリーヤシチ)
- 山川公民館、小林流開祖 拳聖 知花朝信 顕彰
- 大溝 (ウフンジュ)
- 湯風呂屋 (ユーフルヤー、山川湯)
- 首里プール跡
旧山川村 下山川 (シチャヤマガー)
- 山川樋川跡 (ヤマガーヒージャー)
- 山川紙漉所跡 (ヤマガーカビシチドゥクル)
- 佐久ヌ川樋泉 (サクヌガーヒージャー)
- 獅子の目方 [前] (シーサーヌメェー)
旧山川村 山川崎 (ヤマガージャチ)
- 山川陵 (ヤマガーヌタマウドゥン、山川崎御墓、西の玉陵)
- 金武御殿(チンウドゥン) 墓 (本覚山) 本覚山碑
- 玉川御殿 (タマガーウドゥン) の墓と壷川松尾 (チブガーマーチュー) 墓碑
- 池城殿内 (イチグスィクドゥンチ) の墓
旧与那覇堂原村 瓦屋 (カリヤー)
- 瓦屋 (カリヤー)
- 瓦屋森 (カリヤームイ)
- 鳥頭 (トゥイヌカンデー)
- 瓦屋上ヌ井 (カリヤーウィーヌガ-)
- 瓦屋拝所 (カリヤーウガンジュ)
旧首里真和志平等 首里山川町 (やまがわ、ヤマガー)
首里山川町の人口は1880年 (明治13年) には397戸、1916人だったが、昭和初期には300戸程に減少したが、その後、道路が整備されてもとに戻ったのだが、沖縄戦で他の地域と同様に人口は激減している。上の集落の分渦でもわかるように沖縄戦後は民家がまばらとなっている。その後の沖縄の復興期には人口は本土復帰の1972年頃までは順調に増えている。その後は小康状態が続いたが、2000年代に入り、徐々に人口減少が始まり、ここ7年程は人口減少が続いている。
人口は微減傾向ではあるが、首里区内では山川町はまだ人口の多い地域となっている。
今回訪問したスポットと1700年に造られた首里古地図を比べると以下の様になるが、県道29号那覇北中城線がかつての集落の中に新たに造られて、他の地域に比べて町並みは大きく変わっているように見える。
首里山川訪問ログ
旧立岸村 (タチヂシムラ)
首里山川町はかつて存在していた幾つかの村を合併吸収して現在の形になっている。まずは、琉球王国時代に現在の寒川町と山川町にまたがっていた旧立岸村から見ていく。先日訪れた寒川町の丘陵上に上った所が山川町に吸収された立岸村になる。
迫の坂 (サクヌフィラ)
観音堂 (クヮンヌンドー)、慈眼院
尚豊王がまだ佐敷王子の頃、1616年 (尚寧27年) に薩州に人質にとられた。生父大金武王子尚久はこれを苦にして、神仏に「尚豊が無事に帰ることができたら万歳嶺に観音像を勧請して拝むと」と誓願し、翌年、尚豊が摂政を任じられ無事に帰郷し、万歳嶺の中腹に観音堂、南に慈眼院を建立している。
万歳嶺と万歳嶺記碑 (上ミヤキジナハノ碑文)
旧大飩川村 (ウウトゥンガームラ)
次は同じく消滅してしまった大飩川村 (ウウトゥンガー) に移る。
大飩川小路 (ウウトゥンガースージ)
真和志之平等所跡、真和志之平等学校所跡
ウテェーバンタ
真壁殿内小路 (マカンドゥンチスージ)
もう一度、大飩川小路 (ウウトゥンガースージ) を上がり、観音坂に戻り、中山門跡まで進む。中山門跡から北に下る坂の小路がある。この道沿いに真壁大阿母志良礼 (マカンウフアムシラレ) の神殿になる真壁殿内 (マカンドゥンチ) があったことから真壁殿内小路 (マカンドゥンチスージ) と呼ばれ、山川入口に続いている。
真壁殿内 (マカンドゥンチ) 跡、山川村学校所 (ヤマガームラガッコウジュ) 跡
真壁殿内小路を降りて行き、山川入口近くに琉球王国時代の高級神女の一人の真壁大阿母志良礼の神殿及び住居跡がある。尚真王代 (1477-1526年) に神女組織が整備され、最高女神官の聞得大君加那志 (キコエノオオキミカナシ) の下に琉球王国全域を三区域に分けて管轄する真壁、首里、儀保の大阿母志良礼が置かれていた。各殿内の神殿は、廃琉置県後統合されして、天界寺の一角に移され三殿内と呼ばれましたが、 沖縄戦で失われ、 神女組織も消滅している。また、この真壁殿内の敷地内には1835年 (尚育1年) に山川村学校所が建てられていた。
大飩井戸 (ウウトゥンガー)
真壁殿内には井戸があり、現在でも残っている。ガジュマルの木の根元の古井戸を大飩井戸 (ウウトゥンガー) と呼んでいる。大飩川である。この辺りは大飩川村で、その名はこの井戸が由来という。
山川入口 (ヤマガーイリグチ)
真壁殿内小路を下り抜けた所は広い交差点になっている。山川入口 (ヤマガーイリグチ) と呼ばれ、文字通り山川村の入口だった。また、琉球王国時代には、ここが首里の入り口とも考えられていた。戦争前まではこの交差点にある首里高校の石垣の側には、クルマー駐車場 (人力車待合所) にもなっていて、人力車が客待ちをしていた。
旧山川村 上山川 (ウィーヤマガー)
山川入口の交差点を渡った東側は山川村の中で上山川 (ウィーヤマガー) と呼ばれた地域になる。ここには、琉球王国の王族や重臣である御殿、殿内の屋敷街として古くから発展していた。その屋敷跡を中心に見ていく。
金武御殿 (チンウドゥン) 跡
山川入り口の交差点を渡った所が琉球王国時代には金武御殿 (チンウドゥン) の屋敷があった場所になる。金武御殿は第二尚氏5代尚元王 (1528 - 1572年、在位1556 - 1572) の三男尚久大金武王子朝公 (1550 - 1620年) から始まる。9人の男子を設けたが、長男、二男、三男、六男は早世し、 四男尚豊が8代王位に就いている。先に訪れた観音堂はこの尚久が尚豊の無事帰国の際に建てた。第6代尚永王が死去した際には、 尚久は王位に推挙されたが、固辞して尚寧 (第7代) を立てている。
高嶺御殿 (タカンミウドゥン)
金武御殿の北側路地を挟んだ場所には高嶺御殿 (タカンミウドゥン) がある。高嶺御殿は8代尚豊王の長男 尚恭浦添王子朝良の長女 浦添按司加那志を元祖としている。五世の朝兼が1771年 (尚穆20年) に高嶺間切総地頭職に任じられ、高嶺を名乗っている。元祖の浦添按司加那志は、 勝連按司朝賢の室となり長男朝式が二世となるが、朝式には嫡子がなく、尚質王の六男本部王子朝平の子朝卓を三世として婿養子に入る。六世朝京の長女は尚穆王の世子尚哲の妃。 11世朝教は1882年 (明治15年)、 沖縄県の最初の県費留学生として岸本賀昌、謝花昇、太田朝敷らと共に、東京へ派遣され、その後実業家、政治家に、また12世朝光はジャーナリストとして、沖縄タイムス社長となっている。
玉城御殿 (タマグスィクウドゥン) 跡
高嶺御殿の隣は玉城御殿 (タマグスィクウドゥン) の屋敷跡になる。尚清王の六男尚范国東風平王子朝典が玉城御殿の元祖。九世の朝長が玉城間切総地頭となり、以後、玉城御殿名乗っている。12世玉城按司朝敕は、尚灝王の三女 第15代開得大君加那志を室とし、伊江御殿11世伊江王子朝直の四男から養子となった13世玉城按司朝知の代に琉球併合となっている。尚泰王の五男の尚秀も朝知の婿養子となり首里市議会議長などを務めた。
電車の目方 [前] (デンシヤヌメェー)
玉城御殿と現在の首里高校の間の道には明治期から大正初期までは人力車が走っていた。1914年(大正3年) にチンチン電車の沖縄電気軌道が導入された。那覇の久米大門を起点に、現在の首里高校正門前のこの場所を終点として約4.5km程のルートだった。当時は片道32分だったそうだ。沖縄電気軌道は乗合自動車 (バス) が一般的な乗り物となった1933年 (昭和八年) に廃業している。
幸地井戸 (コーチガー)
玉城御殿の東側の路地の奥まった所に幸地井戸 (コーチガー) がある。山川町の村井 (ムラガー、共同井戸) で、当時は幸地親方元昌の屋敷内にあったので、こう呼ばれていたという説がある。別の説では、この辺りはかつては真和志森と呼ばれた首里城丘阜から西の稜線と、大中から池城山までの稜線の間の谷間だったと推測され、河谷を指すコーチが由来としている。幸地井の背後にはこの後に訪れる瓦屋の大城屋根瓦左官によって瓦で装飾が施されている。この周辺の人たちの若水 (ワカミジ) や産井 (ウブガー)として使われていた。山川町では旧暦の九月九日菊酒の日に町内にある御嶽や拝所、井戸を参拝している。
護得久御殿 (グウィークウドゥン)
高嶺御殿と玉城御殿の北側には尚元王の長男の尚伯久米具志川王子朝通を元祖とする護得久御殿 (グウィークウドゥン) の屋敷跡がある。朝通は庶子のため、王位には就けず、分家として護得久御殿を始めた。12世朝紀には嫡子がなく、従弟で琉歌人と知られる従弟の朝置を迎え、この時期に琉球国併合となっている。 銀行家や政治家となる14世朝惟は尚泰王の長女鶴子を朝置を妻とし、琉球新報の創刊にも関わっていた。
池城殿内 (イチグスィクドゥンチ)
護得久御殿の北側の路地を挟むと五大姓 (五大名門) の一つの池城殿内 (イチグスィクドゥンチ) の屋敷跡になる。池城殿内は毛氏新城親方安基を元祖としている。第三代尚真王が今帰仁巡察のときに見染めた女性を儀保大阿母志良礼 (ジーブウフアムシラレ) に就かせ、安基が誕生している。高級神女の子だったので公に出来なかったといわれ、安基は羽地間切総地頭職に任じられ池城親方と称した。安基が三司官の頃、第四代尚清王 (1497 - 1555年、在位 1527 - 1555年) の後継ぎ争いが起こる。和為美国頭親方景明、葛可昌城間親方秀信の両三司官が、世子弟尚鑑心大伊江王子を擁立し、新城親方安基は尚清王妃が生んだ尚元 (後の五代王 1528 - 1572年 在位1556 - 1572年 写真右) を擁立、勝利している。この嗣立騒動は王府内に止まらず、巷間に流布することとなり、後世流言浮説付随して、沖縄芝居の「大新城忠勇伝」演目とされ、新城親方安置を最大の功臣と描かれている。
尚清王は、幼少の頃から病弱で口もきけない太子 (尚元の事だが、史実ではこの時には28才) と、側室から生まれた聡明な次男 (大伊江王子) のいずれに王位を継承すべきか案じていたが、大新城親方に太子の王位継承を頼みこの世を去った。一方、側室とその兄、津堅親方は、次男を王位に付けて天下を取ろうと企てる。それを知った大新城親方は、尚清王の遺言を守り通す一念で、決死の覚悟で太子の擁立に乗り出す。首里城内は太子擁護派と次男を推す一派の真っ二つに分かれ、王位継承をめぐる激しい戦いが始まった。
美しい女を娶った男がいた。男は幸せに暮らしていたが重い病におかされてしまう。それから男は美しい妻を残して死ぬことに煩悶するようになる。あげくは「俺が死ぬと他の男と一緒になるだろう。お前を残しては死んでも死にきれない」と執拗に妻をなじった。その煩悶の悪循環で病はますます重くなる一方であった。みかねた妻は男の煩悶を断ち切ろうと自らの鼻をそぎ落とす。それに安堵したのかいつしか病も癒えた。恢復してみると今度は鼻をそいだ妻が疎ましくなる。とうとう愛人と結託して妻を殺してしまう。妻は夜な夜な幽霊となってふたりの暮らす家に現れるようになる。男は幽霊となって出てこれないようにマカンミチの墓に眠る、妻の足に釘を打ちつける。家には天界寺のフーフダを門と家の四隅にはりつける。足に釘を打ちつけられ、家にも入れない幽霊はマカンミチの墓のあたりに立つ。怖がって誰も寄り付かないなか、ある日池城親方が通りかかり、その訳を知り足の釘を抜き、フーフダもはがしてしまう。それで幽霊は復讐をとげることができた。
池城殿内ヌ井戸 (イチグスィクドゥンチヌカー、上山川井 ウィーヤマガーガー)
池城殿内跡の前の道路には、琉球王に年始め水を納めた井戸が残っており、池城殿内ヌ井戸 (イチグスィクドゥンチヌカー)、又は上山川井 (ウィーヤマガーガー) と呼ばれている。
幽霊屋敷 (ユウリーヤシチ)
山川公民館、小林流開祖 拳聖 知花朝信 顕彰
大溝 (ウフンジュ)
山川公民館から道を進むと緩やかな登坂になり、大中坂にぶつかる。龍潭から溢れ出た水がここを通り、歩いてきた道で先ほど訪れた池城殿内までは大溝 (ウフンジュ) と呼ばれるは、龍潭から溢れ出た水が、世持橋下から山川公民館前を流れ池城殿内の前から下山川へ流れる排水路が設けられていた。かつては大雨で水量が増すと、 排水路からあふれ出た水は道路上を流れていき、水と一緒に流れ出した鯉や鮒が路上ではねている光景がみられたという。
湯風呂屋 (ユーフルヤー、山川湯)
大中坂を龍潭通りに向かうと、その合流地点は階段になっている。階段の脇には銭湯にあたる湯風呂屋の山川湯が営業をしていた。新垣さんがオーナーだったのでの新垣ヌ湯風呂屋 (アラカチヌユーフルヤー) とも呼ばれていた。那覇ではこの様な銭湯は17世紀後半には外来船員などのために存在していたが、首里ではこれよりも遅く、琉球王府消滅後、随分と後世になってからと思われる。
首里プール跡
湯風呂屋から、もう一度大溝に戻り、大中坂を登り、石頂から道を下っていくと、道の脇にモニュメントが設けられている。首里プールの碑だった。この首里プールは戦後の荒廃した郷土復興の中で沖縄県内最初の淡水プールだった。その竣工は、沖縄県水泳連盟が中心となり、旧首里市の小学校や那覇市内の城南、城西、城北の三つの小学校、首里中学校、首里高校の児童生徒等もバケツ一杯の小石を持参し、ハワイなど国外からのも協力を得て完成している。以来、水泳の普及振興と競技力の向上で、 沖縄を代表する選手を輩出していた。
旧山川村 下山川 (シチャヤマガー)
山川樋川跡 (ヤマガーヒージャー)
山川紙漉所跡 (ヤマガーカビシチドゥクル)
佐久ヌ川樋泉 (サクヌガーヒージャー)
獅子の目方 [前] (シーサーヌメェー)
旧山川村 山川崎 (ヤマガージャチ)
下山川 (シチャヤマガー) の北側、真嘉比川 (マカンガーラ) までの一帯は、250年-300年ほど前まで海中へ突き出した短少な岬状地形を為していた。この地形から、この辺り一帯は山川崎 (ヤマガージャチ) と呼ばれていた。
この山川崎に向って進むと石畳の降り階段がある。この道を下っていくと、次に訪問する墓群の場所になる。上山川で訪れた御殿、殿内の墓所がある。
山川陵 (ヤマガーヌタマウドゥン、山川崎御墓、西の玉陵)
山川陵への入り口になる路地を入ると幾つかの小さな墓が目に付いた。その中には慰霊の碑 (写真右下) と書かれたものもある。沖縄の慰霊碑リストにも載っていないので、戦没者を出した一族の慰霊碑ではないかと思う。
この場所には王族の墓が三つある。その最上段にあるのが中山世鑑に山川崎御墓とある王家の脇墓である山川陵になる。 西の玉陵、山川之玉陵(ヤマガーヌタマウドゥン) とも呼ばれている。山川陵は石垣に囲まれて、中に入るには石門をくぐる。ここには2年前にも来ており、その時に撮った写真も含めている。今回はその時より草が生い茂ってよい写真が撮れなかった。この山川陵がいつ造営されたのかは不詳。資料によって、異なった様々な言い伝えがあった。それによると、一説では、三代尚真王の愛妾思戸金の奸計によって、廃された長子 尚維衡は、死後浦添城北の極楽山 (ユードゥリ) に葬られたが、思戸金の産んだ四代尚清王は異母兄の尚維衡の生涯を憐憫に思い、此の墓陵を築き、極楽山から尚維衡の遺骨を移葬したともつたわっているが真疑は定かでない。ただ、王府時代は玉陵と同じ様に、門前に看守舎が設けられていたというので、高貴な王族の陵である事は確かな様だ。妃の一事葬 (洗骨前の遺体保管所) にも使用されたとも伝わっている。別の資料では1596年 (尚寧8年) に亡くなっ た五代尚元王 (1528 - 1572年 在位1556 - 1572年) の夫人前東之按司 (梅嶺) が葬られたとある。現存の石門は、14代尚穆王妃淑徳の三回忌にあたり1781年 (尚穆30年) に造営されたものだそうだ。戦前まで、ここには複数の王夫人や子女の厨子があったが、 沖縄戦のとき日 本軍が防空壕として利用するために、すべて玉陵へ移葬されている。現在この山川陵には、最後の琉球国王18代尚泰の七男で儀保ヌ新御殿 (ジーブヌミーウドゥン) と呼ばれた尚時とその家族が葬られている。
金武御殿(チンウドゥン) 墓 (本覚山) 本覚山碑
山川陵の西隣には、今日前半で訪れた上山川の金武御殿の墓が造られている。八代尚豊王 (1590 - 1640年 在位1621 - 1640年) の生母金武大按司志良札 (戒名一鏡妙円) の死去にともなって1624年 (尚豊4年) に拝領墓として造営された。墓の脇にはこの墓の号の本覚山碑が立っているが、文字は判読不能。碑文には、尚豊王は母が逝去するや本覚山に石工を集め、表の漢文の真字には二夜三日、裏の琉文の仮字には一七日 の内に墓を造営したもので、 折しも冊封のために来琉していた蕭崇基らが供物を供えて祭文を読み祭ったという。これを記念して三司官がこの碑文を建立した」とある。この本覚山碑は 琉文最後の金石文で貴重な碑文になる。この碑文も沖縄戦で墓陵とともに爆破崩壊の災難に遭い、戦後、断崖の崩土の中から完全な形で発見され再建された。
玉川御殿 (タマガーウドゥン) の墓と壷川松尾 (チブガーマーチュー) 墓碑
金武御殿墓の裏、北側には脇墓 (ワチバカ ) と通称されている玉川御殿の墓があり、西に向いて建てられている。 四代尚清王夫人で尚洪徳読谷山王子朝苗 (玉川御殿一世) の生母大按司志良礼真世仁金 (那覇の湧田楚辺一帯の豪農 王農大親の娘) の葬送のため、元々は湧田に建造されたが、大正の初めごろ上之屋に移され、戦後、首里山川町のこの地に移された。墓の脇には1679年 (尚貞11年) に建てられた壷川松尾墓碑が置かれ、尚清王夫人大按司志良礼真世仁金を葬った湧田の墓を修理し、四代孫の墓を壷川松尾に建築したことについて記されている。元の原碑は摩耗し解読不能だったが、拓本をもとに復元した新しい墓碑になる。 「読谷山王子の生母は湧田村の女なり、因って郷里に墓を造るのを願っていた。 読谷山王子とその子南槐は玉陵へ葬られ、その孫寒林道は此の墓に葬られた。真世仁金の四世の孫雲蜂、郷里の近くの松尾に墓を造り、真世仁金を湧田の墓に移葬するのが道理 であろうと、松尾墓へ葬った」と書かれており、資料の説明と少し異なり、わかりにくい。碑文から見ると、真世仁金は故郷の涌田ではなくここに葬られ、それを哀れに思い、故郷涌田に近い壺川松尾に移葬したと読んだ方が自然に思える。また、脇墓と呼ばれていたことから、後にこの墓は王の側妾を葬ったヲゥナジャラ (女按司) 墓との説もる。
池城殿内 (イチグスィクドゥンチ) の墓
山川陵から坂道を真嘉比川 (マカンガーラ) へ降りていくとその途中の林の中に池城殿内の墓がある。この池城殿内の屋敷跡も今日前半の上山川で訪れている。池城殿内屋敷跡の訪問記で「逆立ち幽霊」の伝承があったが、この墓は池城殿内三世安頼が逆立ち幽霊の恨み返しの手助けをしたとき、その恩に報いるために、 逆立ち幽霊が選定してくれた場所で、その場所に墓所を建立している。墓を建造するため岩をえぐったら、 中に池があって緋鯉が泳いでいたという話も伝わっている。
道を下ると真嘉比川 (マカンガーラ) に架かる山川橋に出る。この真嘉比川 (マカンガーラ) が旧真和志間切の松島との境界線になっている。
先に訪れた山川樋川と佐久ヌ川樋泉からの湧く水がこの川に流れ込んでいる。
旧与那覇堂原村 (ユナファドウバル)
瓦屋 (カリヤー)
瓦屋森 (カリヤームイ)
瓦屋 (カリヤ) 集落の北西に在る孤立丘を瓦屋森 (カリヤームイ) と呼んでいる。丘全体が墓地になっており、清明祭 (清明の節の墓前祭) には多くの人が墓参りに訪れ、ムイ全体が賑わいを見せる。 何故か地番的には松川地籍になっており、真和志間切の真嘉比集落を訪問した際にここにも来ている。その際にここに住んでいるおじいと話したのだが、この森には御嶽があると言っていた。真嘉比村の御嶽として前之原御嶽 (メーンハラーヌウタキ) と紹介されていた。丘の上に登る道沿いに祠 (写真下) が置かれている。
鳥頭 (トゥイヌカンデー)
昔、琉球王国時代には瓦屋森 (カリヤームイ) から尾根が東に伸び、その先端部分は最も高い地になり、そこを鳥頭 (トゥイヌカンデー) と呼んでいた。戦後は住宅地開発で尾根も鳥頭も消滅してしまった。
瓦屋上ヌ井 (カリヤーウィーヌガ-)
瓦屋拝所 (カリヤーウガンジュ)
これで山川町にかつてあった四つの村を全部回り終えた。かなり多くのスポットを回ったので、この集落の訪問記もかなり時間をかけてしまった。このペースでいくと、沖縄の全集落を巡りにはまだ数年かかりそうだ。
参考文献
- 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
- 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
- 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
- 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
- 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
- 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
- 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)
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