Okinawa 沖縄 #2 Day 238 (13/02/23) 旧首里真和志平等 (2) Kinjo Area 首里金城町

旧首里真和志平等 首里金城町 (きんじょう、カナグシク)

  • 金城橋 (カナグシクバシ)、重修金城橋碑文
  • 下ヌ道 (シチャヌミチ)、下ヌ新道 (シチャヌミーミチ)
  • 下ヌ田 (シムンター)
  • 金城坂 (カナグシクビラ)

旧内金城村 (首里金城三丁目)

  • 下ヌ東門ヌ井戸 (シチャヌアガリジョーヌカー)
  • 上ヌ東門ヌ井戸 (ウィーヌアガリジョーヌカー)
  • 大見武憑武 (ウフンチャキヒョウブ) 屋敷跡
  • 拝殿 (フェーディン) 
  • 内金城大嶽 (ウチカナグシクウフタキ)
  • 首里金城町の大アカギ
  • 内金城小嶽 (ウチカナグシクコタキ)
  • 仲村渠山 (ナカンダカリヤマ)
  • 鬼餅 (ムーチー) 伝説
  • 上ヌ道 (ウィーヌミチ)
  • 大日寺跡
  • 御仮床跡 (ウサンシチ)
  • 仏ヌ坂 (フトゥキヌフィラ)

旧南風原間切新川村髭川原 (首里金城四丁目)

  • 大慈悲院跡 (デェーフィン)

旧金城村 (首里金城二丁目)

  • 新垣ヌ井戸 (アラカチヌカー、坊主井戸 ボウジガー)
  • 金城村屋樋川毛 (フィージャーモー) 跡
  • 金城大樋川 (カナグシクウフフィージャー)
  • 華茶苑 (カチャエン)
  • 仲之川 (ナーカヌカー)
  • 禰覇井戸 (ニーファガー) 跡
  • 知念坂 (チニンフィラ)
  • 芭蕉原 (バサーラ)
  • 潮汲井戸 (ウスクガー)
  • 苧川原 (ブウジャーラ)

旧真和志村、玉陵、天界寺地域 (首里金城一丁目)

  • 金城村学校所 (カナダシクムラガクコウジュ、訓蒙館)
  • 島添坂 (シマシービラ)
  • 糞放リ道小 (クスマイジョーグヮー)
  • 城ヌ下 (グシクヌシチャー)
  • 真珠道 (マダマミチ)
  • 石門 (イシジョー)
  • 天界寺跡 (ティンケェージ) と三殿内跡 (ミトゥンチ)
  • 旧天界寺の井戸
  • 天界寺松尾 (ティンケージ マーチュー)
  • 佐藤惣之助詩碑
  • 玉陵 (タマウドゥン)
  • 見上森 (ミアーギムイ)
  • 玉陵坂 (タマウドゥンフィラ)
  • 一中健児の塔
  • 沖縄県立第一中学校铁血勤皇隊壕跡
    • 銃器庫跡
    • 教導兵詰所跡
    • 第三小隊壕跡

旧真和志間平等 首里金城町 (きんじょう、カナグシク)

現在の首里金城町は、古くは茶湯崎 (チャナザキ) と呼ばれていた。 首里王府時代は真和志之平等に属し、東側が内金城村、西側が金城村で二つの村があった。1880年 (明治13年) に内金城村 が金城村に合併、1914年 (大正3) に従来の字から町制に変わった時に玉陵、天界寺跡などが真和志村から金城村に編入され現在の1丁目となり、金城の石道の西側部分を占める元の金城村が2丁目となっている。3丁目は石道の東側部分で元の内金城村で、明治39年には崎山町に隣接する現在の4丁目になった南風原間切新川村のから髭川原 (ヒジガーバル) が編入され現在の首里金城町の形になっている。
金城町の地形は南に面した傾斜地。 冬は北風が首里の高台に遮られ、夏は南からの風がそよぎ格好の住宅地となっている。 金城町は上の道 (旧赤マルソウ通り) を境に上の方には御殿、殿内があり、ほとんどが王府の勤め人が住み、下の方には農家が集中していた。
首里金城町の観光スポットの石畳は特に見ごたえがあり県の文化財指定を受けている。金城町は水が豊富で町内には金城大樋川をはじめ仲之川など8つもの村井 (ムラガー) があり、どの家庭でも井戸を掘っていた。ここで造られた泡盛はカナグスク酒と評判が良く、モヤシ作りも盛んに行われていた。 地名の金城は内金城にある拝殿 (フェーデン) の二つの御嶽にちなんで付けられたという。

首里金城町の民家の分布を見ると、明治時代から戦前はほとんどの民家は旧金城村、旧内金城村に集中しており、現在の4丁目にはほとんど民家は見当たらない。1990年以降はこの4丁目に民家が増え始め、現在では4丁目の方が民家が多くある。

民家の分布はそのまま人口の推移とリンクしている。旧金城村と旧内金城村の現在の人口は明治時代の人口よりも少なくなっている。これを埋めるかの様に、昔はほとんど民家のなかった4丁目の人口が激増しており、現在では首里金城町の半分の人口を占めている。現在でもこの4丁目には広大なマンション建設が行われているので、今後は更に増えていくように思える。

首里区の中では首里金城町の人口は比較的多いグループに属している。


首里金城町訪問ログ



今日も徒歩にて首里区の集落を巡る。旧真和志間平等に属していた首里金城町を訪れる。自宅から識名台地を登り繁多川内の真珠道を通り、識名平(シチナンダ) 坂を下る。その先に見える丘陵斜面に広がっている集落が首里金城町になる。


金城橋 (カナグシクバシ)、重修金城橋碑文

真珠道を繁多川集落から識名平(シチナンダ) 坂を下ると金城川 (カナグシクヌガーラ、安里川) に架かる金城橋 (カナグシクバシ) がある。この橋を渡ると首里金城町に入る。金城橋は琉球王府時代に首里と識名台地の間を流れる金城川に架けられた橋で、創建年代は不明だが、球陽によると1677年 (尚貞9年) に木橋から石橋に架け替えられている。
首里金城邑の前に一木杠 (小橋) 有り。有いは虫蛙の為に害はれ、或いは風雨を被りて傷はれ、洊りに頽敗に到る。是に由りて、王、楊壮盛 (山内親方昌方) 等に命じ、石橋を創造せめ、以って往来を通ず

と記され、この橋は、真玉道に架けられた第一番目の橋だった。当初から木橋を架けたか、長方形の切石での飛び石の渡しだったかは不明。橋の袂には1677年に石橋に改修された際に、これを記念して金城橋碑文が建立されたという。

その後、1809年には洪水で石橋が流されたため、翌年1810年 (尚瀬7年) に元の位置から下流の現在の場所に移して石造アーチ橋が再建されている。金城橋改修された際にも、橋の繁多川側ののモーグワー (毛小) に重修金城橋碑文が建立されている。重修金城橋碑文には漢文で、この橋の重要性と王府の方針などが記載されており、当時の様子を垣間見ることができるので、一部をここに載せておく。
すべて川を行くは、橋が有り、さながら車の大切な楔のごときものでありて、なくてはならない物なり、故に昔より此所に橋をこしらえて使い、人の行き来ができ、便利なり、それ此の橋、原は木を架けわたして梁となし、未だ久 くずして或いは壊れ、また腐朽して、通るにあたはず、ここに康熙十六年丁巳七月の初旬を超えて十八日、新しく石橋を築くなり、忽ちの大風雨によって河水が堤防をくずし、この橋人民の通過するあたはず、このことで、修繕を施し、こうして渡ることがやっと出来た。けれどもそれだけに去年九月九日再び暴風雨で洪水が汎濫し橋桁までしきりに到来して破壊した。諸ての人渡ることを得ず、短時日にでなく、再び壊れないようこれを直すに苦労した。それ水を以って国を富ましめ民のために等しくなす。即ち民の為にわざわいを防ぎ、利益をおこし盛んにするは、政治の方法の本来の大要なり、おもうに治水の模範は、地勢の曲直に随って、水の性質をおだやかにすれば、いわんや不慮の即ち力に余る洪水になるという憂いはない。この河川の源は、はるかに遠く、弁ヶ嶽、東苑及び群山高峯より出ず、即ち水源を異にするのが合流し、同じ所へ行きつく、その勢いや水の広々とした限りない様子は海である。激しい暴風雨に遭う毎に、降雨は奔流となって田畑をこはし、種をまき益することも出来ない。またその上、相率いて毎年わが国王が神應寺や南苑への行幸の時この橋を渡らざるはなし、且つ南方諸間切の人民の王都へ赴くは、皆この川故におそれるなり、故に国相尚大烈、三法司毛国棟、毛光国、馬異才深く心を痛め、相ともに論議して決定し、初冬の十月農事すでにおわりて、そこで人民の労力を役使し工事を興すべく上奏する。 
この橋は嘉慶十四年己巳十月二十二日起工し、翌年二月中で完工したことを上奏した。今この橋昔の礎 をかえ、数歩ばかり南のかたわらの岩根を基に移して架け、またこの川の水の性質に随って流れをかえた。 即ち、その流れすでにやわらぎ、すでにしなやかなり、その出来上った橋の構造は、いやが上にも新しい 築造で、ますます堅固で昔の所と同じではないが、むしろつき破られるおそれのないことをこい願うの み」
その後、橋は暴風雨にも耐え、流されることなく使用されていたが、1945年の沖縄戦で破壊され、戦後、コンクリート製の橋が架けられている。金城橋と石碑は、1945年 (昭和20年) の沖縄戦により損壊。1985年 (昭和60年) に橋の拡張工事の際に残っていた1810年の石碑の下部と台座を橋の北側 (首里金城町側) に移設され、その隣には、2005年 (平成17年) に石碑が復元されている。

下ヌ道 (シチャヌミチ)、下ヌ新道 (シチャヌミーミチ)

金城橋を渡ると金城ダム通りと呼ばれている市道崎山松川線 (首里1号線) が通っている。首里古地図ではこの道は存在していない。
下ヌ道は集落の南端に通っていたのだが、その道は金城ダム通りの北側、上にあった。1929年 (昭和4年) の大恐慌で庶民の生活は苦しく、子女の身売は中農層にまで及んだ時期だったが、政府は対策も打てず、多くの人がやむなく移民として海を渡っていった。ようやく政府の失業対策事業として1931年 (昭和6年) から1934年 (昭和9年) にかけての県道整備事業が行われ、その一環として金城橋から西側に伸びる道が建設された。曲折していたこの下ヌ道が、松川から寒川を経て直線に改修され、さらに新しく崎山町のナゲーラまで延長されて首里一号線となった。下ヌ新道 (シチャヌミーミチ) と呼ばれたが、いつしか下の道といわれるようになった

下ヌ田 (シムンター)

下ヌ道から金城川の一帯は戦後までは金城川の水を引いた一面水田で、下ヌ田 (シムンター) と呼ばれ、水芋や水稲が作られていた。現在はその面影はなく、住宅となっている。


金城坂 (カナグシクビラ)

金城ダム通り (市道崎山松川線、首里1号線) を渡ると石畳の登り坂の金城坂 (カナグシクビラ) となる。首里金城町の石道として那覇の人気の観光地で、県の史跡名勝に指定されている。この坂は尚真王の時代、1522年 (尚真46年) に建造された真珠道の一部にあたり、樋川毛から下の道までを金城坂 (カナグシクビラ、カナグシクフィラ) という。道幅は平均4m、全長約300mで琉球石灰岩の敷石の表面を「小叩き仕上げ」という方法で整えられている。沖縄戦で那覇首里は壊滅したのだが、この金城は戦禍を奇跡的に免れた場所で、石畳や石垣が今でも当時の姿で残っている貴重な文化遺産になる。



旧内金城村

琉球王国時代の金城は茶湯崎 (チャナザキ) と呼ばれ、現在の2丁目と3丁目にあたり、この金城坂が境界線になる。3丁目は金城石道の東側部分でかつては内金城村だった。まずはこの旧内金城村に残っている史跡を見ていく。

下ヌ東門ヌ井戸 (シチャヌアガリジョーヌカー)

金城橋から金城ダム通りを東に進むと丘陵へ登る小路が三本あり、いずれも斜めに金城坂に向かい伸びている。その一番下の小路を少し奥に入ったところに下ヌ東門ヌ井戸 (シチャヌアガリジョーヌカー) と呼ばれる村井 (ムラガー、共同井戸) がある。 東門 (アガリジョー) 地域の下方に位置しているのでこう呼ばれている。18世紀頃につくられた井戸は、斜面をL字型に削り、三日月形の井戸口になるようにして垂直に掘り下げ、内側を石積みして固めている。前面には水汲み場の石敷広場が設けられ、上下二段に分けられ、下段の広場は水を溜めて洗濯や芋洗いなどができるようになっており、未だ豊富な湧水量を誇っている。

上ヌ東門ヌ井戸 (ウィーヌアガリジョーヌカー)

金城ダム通りからの三本の小路の一番上の道を登って行くと、別の箱井 (ハクガー) がある。これも18世紀ごろに造られたもので、上ヌ東門ヌ井戸 (ウィーヌアガリジョーヌカー) と呼ばれている。東門 (アガリジョー) 地域にある二つの井戸の下ヌ東門ヌ井戸 (シチャヌアガリジョウヌカー) の上にあるのでこう呼ばれている。井戸の構造は、下ヌ東門ヌ井戸と同じで、斜面をL字型に削り、半円形の井戸口となるようにして垂直に掘り下げ、 内側を石積みで固めている。 半円形の井戸口の頭に当たる所を、周りから囲むようにして土留の石垣を積み上げ、 弦に当たる所に水汲み場の石敷広場を設け、その東南隅には排水溝が 延びている。毎年旧暦9月に行われる防火災祈願のウマーチヌ御願 (ウグヮン) の拝所の一つになっている。

東門 (アガリジョー)

上ヌ東門ヌ井戸の小路は金城坂にある樋川毛の十字路に通じている。この石畳の小路は東門 (アガリジョー)と呼ばれていた。次第に小路の名前から、この地域の名前となっていき、内金城村の大部分を表す様になった。東門と当字されており、沖縄では門をジョーと呼んでいるので、門があったのかと思っていたのだが、資料にはジョーは元来は「通り」を表していたと解説されていた。


大見武憑武 (ウフンチャキヒョウブ) 屋敷跡

東門 (アガリジョー) の小路が金城坂に合流する場所には大見武憑武 (ウフンチャキヒョウブ) の屋敷があった。大見武 (ウフンチャキ) は1663年に壺細工 (陶工) となっている。1683年の渡清の際には杭州で白糸の拵えかた、縮緬の織り方、煮方を修得し、久米島にで綿糸白糸の製法を伝授している。1686年 (尚貞18年) に薩摩に派遣された際には、白糸及び縮緬の技法を教え、杉原、百田の紙漉法を学んで帰国している。1690年 (尚貞22年) には進貢船の貢物宰領として北京へ赴いた際には、海賊に襲われたり、福建省で争乱に遭遇しながらも、中国で細い白綿糸の製法や螺鈿材料の螺殻を煮て剥く技法を学んで帰り、貝摺主取 (カイズリヌシドゥイ) の神谷親雲上 (カミヤペーチン) にその技術を伝授している。1694年 (尚貞26年) に紙漉主取となり、金城大樋川の水を利用して紙漉きを指導するために、ここに屋敷を下賜されている。これらの功績によって1699年に、無系 (百姓身分) から系持 (士族身分) に陞り、さらに1704年に嘉手納地頭に叙され、嘉手納親雲上を名乗っている。金城町ではじめられた百田紙 (ムンダカビ)、杉原紙 (スイバラカビ) の紙漉きも、1843年 (尚育9年) に儀保村宝口に紙漉所を造り、儀保井戸 (ジブガー) の豊富な水を利用して行われる様になっていく。それと並行して、紙漉きの技術は久米島、宮古島、多良間島、石垣島、西表島にも伝授された。この様に、大見武憑武は琉球にはじめて製紙の技法を伝え製紙業を起こした人物で、産業の恩人とされている。


拝殿 (フェーディン)

大見武憑武屋敷跡の細い石畳の路地を東に行くと内金城村の御嶽がある。12世紀以前からあったとされる御嶽が二つあり、真壁大阿武志良礼 (マカビーオオアムシラレ) の崇所だった。東側には男性を象徴する内金城大嶽 (ウチカナグシクウフタキ、神名: カネノ御イべまたはモジヨルキヨノ大神) と西側の女性を象徴する内金城小嶽 (ウチカナグシクコタキ、神名: イベツカサ御セジ) で、この二つの御嶽は村人からは二つまとめて拝殿 (フェーディン) と呼ばれ、子孫繁盛の祈願所とされていた。球陽には1660年 (尚質13年) に内金城の村人が首里王府に請願書を出して、建築費用など出し合って創建したと記載されている。 

内金城小嶽 (ウチカナグシクコタキ)

西側の内金城小嶽は女性を象徴する御嶽とかいたが具体的には女陰を張る御嶽でホーハイ ウガンとも呼ばれている。年中行事の一つで、旧暦12月8日 に行われる鬼餅 (ムーチー) の拝みの由来となる伝説が伝えられている。その伝説がホーハイ ウガンに関わっている理由はその伝説を後述している。この伝説は妹が鬼となった兄を退治する話だが、その兄妹の住居跡をがここにあり、その家を封じて小嶽としたと伝わっており、ムーチー伝説発祥の地とされている。節日には内金城村、松川村から村人が訪れ、鬼餅 (ムーチー) を供え、御願祀を行っていた。御嶽は丸く石垣で囲まれ、正面は石門の形になっており、石囲いの中には神聖とされるアカギの大木がある。
内金城嶽の境内には推定樹齢300年以上と思われるアカギの大木が以前は六本自生していたが、2013年の台風で1本が倒壊し、現在は五本が残っている。

首里金城町の大アカギ

最大のものは小嶽の後方にあり、根っこが四方に大きく張り出してコブを作り、人が入れるほどの空洞がある。 

内金城大嶽 (ウチカナグシクウフタキ) 

西側の内金城大嶽もほぼ同じ形式で造られている。

仲村渠山 (ナカンダカリヤマ)

内金城大嶽の背後は切り立った崖になっている。この山は仲村渠家が所有していたの仲村渠山 (ナカンダカリヤマ) と呼ばれている。崖下に洞窟があり拝所となっている。案内板では、この崖には三つほどの洞窟があり、沖縄戦では日本軍が使用していたとなっている。小嶽に伝わっている鬼餅伝説で、鬼が落ちて死んだ崖がこの場所となっている。ここには鬼の角が埋められていると伝わっている。

鬼餅 (ムーチー) 伝説

内金城小嶽に関わる鬼餅伝説は色々なバージョンがあるのだが、資料に掲載されていたものは下記の通り。
昔、といっても今から800年ほど前の琉球の舜天王の時代の話であるという。首里の金城に兄と妹がいた。後に兄は首里からはなれた大里村のゲオ森に移り住んでいた。妹の名はオタといった。その兄が近ごろ人を殺して食う鬼となり、大里山に住み付いて付近の人々から怖がられているという噂が広がり、妹のオタは心を痛めていた。
妹は実否を確かめようと思い、子供を背負って兄のいるという大里山を探した。家は分かったが留守だった。中に入ってみると掘立て小屋の炊事場にかまどに火が掛かっていた。怖々蓋を開けてみると、果たして人間の肉が見えた。
妹は世間の噂は本当だったのだとおびえてしまって、帰ろうとして屋外に出たところへ鬼となった兄がもどって来た。
お前、何しにきたんだと鬼の兄がいった。長らく会わないからどうしているかと思って、と妹が答えると、それじゃ中に入れ、おいしい肉があるから食べてゆけと兄は誘った。あの気味悪い人肉を見た妹は恐ろしくなって、急いで帰らねばならぬ用事があるからもう帰ると断った。鬼となった兄はせっかく来たんだから是非肉を食べてゆけといってしつこく誘った。
妹はとっさの智恵でせおっている子供の股をうんとつねった。子供は痛いので泣き出した。どうして泣くんだと鬼の兄が尋ねるので、この子は大便がしたいんだよ。外の便所へ行かなくちゃといって行こうとすると、かまわん、家の中でさせろといった。
妹は家の中でさせるわけにもいかないからといって外にいこうとすると、鬼の兄はこわい顔をして、お前逃げるつもりか、待て、外で便をさせるんだったらこうしてから、といって、長い縄紐を妹の一方の手首に結び付けた。
妹は遠く離れた木陰に行って子供に便をさせる真似をしながら手首の縄紐を外して木の枝に掛けると、急いで立ち去った。
それと分かった鬼の兄は妹を追い掛けて、オーイオーイと手招いた。それでも妹が駆けて行くので鬼の兄は、お前なんか行き倒れて死んでしまえとどなった。それでその地点をイキシニヒラという。ヒラとは沖縄方言で坂のことである。
鬼となった兄の正体を知った妹は、世間のためになんとかしなければならぬと思案した。そこでまた智恵を絞った。妹は鬼の兄を接待することにした。自分の食べる餅は当たり前の餅を作り、鬼の兄に食べさせる餅は鉄餅を作った。鉄餅というのは餅の中身に鉄をいれ、月桃の葉で包んで作った物である。妹が鬼の兄を迎えに行く途中で出会った。すると鬼は、お前、この前は逃げたな、さあ今日は肉を食べに行こう、というので、妹は恐ろしくなったが、ここからは兄の家に行くよりも金城の私の家が近いから、うちへ行こう。今日はおいしいご馳走も作ってあるからと言葉巧みに誘った。そして金城大嶽の上にある家へ連れて来た。家よりも御嶽の崖の上の芝生の所がいいからといって、そこへ鬼の兄を座らせた。鉄の餅七個を鬼の前におき、自分のところには普通の餅をおいて鬼に勧めた。
そのとき妹はわざと着物の裾前を広げ、ホー (陰部) を露出して立てひざで応待した。月のものが出ていてそこは赤くにじんでいた。妹はとてもおいしそうに自分の餅を食べてみせた。鬼の兄は鉄餅をバリバリ食べていたが、ホー (陰部) を見付けた鬼の兄はいぶかって、お前の腹の下で血を吐いている口はなんだね、といって妹のホーを指差した。妹は、女には二つの口があるんだよ。上の口は餅を食う口、下の口は鬼を食う口だ、とすごんでみせた。
それを聞いた鬼の兄は魂消てしまった。おお、鬼を食う口かと、妹のすごんだ形相に押されて思わず後ずさりをした。大きくずさった途端に崖の縁から落ちて死んでしまったという。
金城の小さいほうの御嶽には死んだ鬼の角が葬っているとのことである。このことがあって、沖縄では鬼神を祭るといって毎年旧暦の十二月八日には餅を作ってウニムーチー (鬼餅) と名付け、折目の行事をするようになったとのことである。
『沖縄の伝説』 源武雄編著 第一法規出版, 1974.
資料ではこの伝説は沖縄のオナリ神信仰に関わっており、鬼と伝えられる兄はシマ (村) の掟に叛いて共同体から放逐されたか逃散したと考えられる。なお性を更めることがなかったこの兄は、女性の秘部を知ってしまった男性として、妹によって殺された。また女陰神仰も内包されており、「赤が邪霊除け」とされた古代思想のもとに、月経時の女陰は、鬼を亡ぼす強大な呪力を有することを示していると解説されていた。
ここで出てくり鬼餅 (ムーチー) は子供たちの好物で、沖縄のスーパーで売っている。旧暦の12月8日の鬼餅の行事の際に食べるのだが若いお母さんは子供から鬼餅の由来を聞かれて困っているそうだ。
内金城小嶽から崖を登る旧な石階段がある。上ヌ道から拝殿に降りてくる道になる。1700年の首里古地図にもこの道があるので、昔からの御嶽への参道だった。この道を登り切った所、上ヌ道には金城の大アカギへの道と案内柱が建てられている。

上ヌ道 (ウィーヌミチ)

上ヌ道は昔の集落が金城川から丘陵斜面に上に広がっていた上の端になる。玉陵坂から拝殿の石階段を登った所までが上ヌ道だった。 昔はサントー舗装だったが、今は道幅も広くなり舗装道路となっている。


大日寺跡

上ヌ道を東に登って行くと県立芸大金城キャンパスがある。ここは琉球王国時代東松山大日寺があった場所になる。首里在の寺院のほとんどが臨済宗だったが、この大日寺だけは、真言密門に属していた。琉球国由来記によると、1635年に尚豊王 (在位1621~40) 時代に高応寺の頼慶を日本に遣わして京都で真言密教を修め、合わせて儒教、神道を学ばせ、帰国後、久米村の東寿寺に住し、波上宮を再興している。その後、尚質王 (在位1648~68) は頼慶に儒学を講義させたが、久米村から日々遠路からの参内は苦労であろうと、順治年間 (1644~61) にここに寺院と大日如来堂が建立している。頼慶は臨海寺 (沖ヌ宮)護国寺の住持も務めていた。この寺がいつまであったかは不詳だが、明治期にはすでに廃寺となっている。

御仮床跡 (ウサンシチ)

県立芸大金城キャンパスの南端部分は御仮床跡 (ウサンシチ) と呼ばれていた。松金 (後の尚円王) が弟 (後の尚宣威) をつれて伊是名島を逃れ首里にたどり着いた場所で新垣大やくもい武実の居宅であると伝わっている。新垣大やくもいは、尚円の正室の世添御殿宇喜也嘉 (ヨソエウドゥンオギヤカ) の実父で、尚円は新垣大やくもいの食客を経て第二尚氏の初代国王まで陞り詰めている。

仏ヌ坂 (フトゥキヌフィラ)

上ヌ道を崎山の方へ上って行くと城ヌ下の道と交差し、崎山馬場の馬追ヌ尻 (ウマウィーヌチビ) の三叉路に出る。
三叉路の手前、上ヌ道の脇から下るコンクリート舗装の小径がある。この小径の坂道が仏ヌ坂 (フトゥキヌフィラ) になり降っていくと大慈悲院に通じていた。現在は仏ヌ坂は途中で無くなっており大慈悲院跡には大きく迂回しないと行けなくなっている。 フトゥキヌフィラである。仏ヌ坂の途中、右折すると東松山大日寺への道 (写真右下) は残っていた。坂下にあった大慈悲院がこの坂の由来になる。


旧南風原間切新川村髭川原 (首里金城四丁目)

仏ヌ坂が首里金城町の三丁目と四丁目の境になる。四丁目はかつては旧南風原間切新川村の髭川原 (ヒジガーバル) で明治39年に旧金城村に編入されている。明治時代まではほとんど民家はなかった地域なのだが、今では首里金城町人口の半分を占めている。現在でも四丁目の丘陵斜面には一際目をひくマンション街が建設中だった。金城の街並みに溶け込む様に赤瓦のデザインになっている。四丁目はまだまだ人口が増えそうだ。

大慈悲院跡 (デェーフィン)

下の写真上は首里金城町の三丁目と四丁目の境で、林の下は谷で川が流れている。かつてはここがかつての内金城村と南風原間切新川村髭川原 (ヒジガーバル) で自然境界線だった。昔の仏ヌ坂はこの谷の川の東側 (新川内) を通っていた。坂を下ると天界寺の末寺だった大慈悲院跡 (デェーフィン) が存在していた。1700年に作成された首里古地図には載っているので、創建はそれ以前だが、開祖や創建時期、廃寺時期などは不詳。寺跡はいつの頃からか水田となり、水田脇に石積み古井戸の大慈悲院井 (デェーフィンガー) が残っているそうだが雑草に埋れて今では確認できない。現在は寺跡一帯は住宅地となっている。


旧金城村 (カナグシク、首里金城二丁目)

次は金城坂の西側にあった旧金城村 (カナグシク) の史跡を巡る。もう一度金城橋まで戻り、金城坂を登っていく。


新垣ヌ井戸 (アラカチヌカー、坊主井戸 ボウジガー)

金城坂を少し上がった所に新垣ヌ井戸 (アラカチヌカー) が残っている。琉球王府時代の終わりごろには、まだこの一帯に村井 (ムラガー、共同井戸) がなかったことから、ここに住んでいた新垣恒佳が、男子の誕生を祈って私財を投じ、道に面する屋敷の一角に貯水槽を掘り、屋敷内の奥の井戸から地下水路を設けて泉水を導き入れ、村人の飲料水として提供したと伝えられている。男子 (ボウジュ) の誕生を祈っての井戸という事で「ボウジュガー」、坊主井戸 (ボウジガー) とも呼ばれていたそうだ。


金城村屋樋川毛 (フィージャーモー) 跡

更に金城坂の石道を登ると、四叉路に出る。ここには木造瓦葺きの金城村屋が置かれている。ここは樋川毛 (フィージャーモー) と呼ばれた金城の村庭 (ムラナー、村の広場) になる。

王府時代は坂道を上り下りする人々が隣にある樋川の水で喉を潤し、一息入れた場所だった。 国王が識名の神応寺を参詣したり、南苑 (識名園) 遊覧の折には、国王がすぐ側にある華茶苑 (カチャエン) で休憩している間は、お供の者たちはここで休憩し、村人がお茶でもてなした所だった。戦前は、村の若者たちが沖縄相撲や差し石 (力石) などで身体を鍛えた場所だったそうだ。また、往昔は金城村の拝所もあったとも伝わっている。建物は金城村屋となり、現在でも金城町の公民館として使われており、町内の祭事や集会にも利用されている。観光客にも開放しており、観光客はここで休憩もでき、沖縄の昔の雰囲気を楽しめるようになっている。

この樋川毛の東南隅の下、三角状に畳石が敷かれた場所に、円形に敷かれた小さな畳石がある。これは陰陽石と思われ、不妊の婦人がその石に跨り樋川毛の御嶽に願かけをすると、児が授るとの民俗信仰があったという。


金城大樋川 (カナグシクウフフィージャー)

金城村屋樋川毛の西隣には琉球石灰岩で造られた金城大樋川 (カナグシクウフフィージャー) がある。この樋川は家庭に水道がひかれる以前は、村井 (ムラガー、共同井戸) として広く使われていた。大樋川がいつの時代に造られたかは不明だが、金城村屋樋川毛の向かいに屋敷を賜った大見武憑武がこの水を使い紙漉きを行い杉原紙 (スギハラシ) や百田紙 (ムムダカビ) を製造していた。沖縄での紙漉発祥の地となっている。樋川の周囲の三方は、土留めの石積みがなされ、背後は4段にも積まれている。井戸は急な崖の下から2つの樋で地下水を引き入れ、その前方には約10m程の石積みで半月型の貯水池が設けられている。その前には、石敷きの広場が造られ、南側には排水溝が見られる。


華茶苑 (カチャエン)

金城大樋川の西側の高い石垣に上には華茶苑 (カチャエン) と呼ばれた国王の別邸宅だった。庭園は、大きくはないが、地形を活用した累山池泉式庭園だった。第二尚氏後半の時代に、国王が識名神応寺の参詣や、南苑 (識名園) の遊覧の際に、そこへの道の途中に、ここに立ち寄って途中休憩 (ナカユクイ)をしていた。築庭年代は明確にはなっていないが、1799年 (尚温王5年) に尚温王が南苑 (識名園) を造園した頃と推測されている。後に国王からこの地の第一尚氏の流れを汲む当真家に下賜され「樋川の上の當眞」という屋名で呼ばれる様になったそうだ。


仲之川 (ナーカヌカー)

金城大樋川と華茶苑の前の石畳道を西側に登っていくと仲之川 (ナーカヌカー) と呼ばれた湧水がある。寒水川樋川と金城大樋川の間にあったことからこう呼ばれている。この川は水質、水量ともにすぐれ、ひでりにも水量がかわらず、雨天にも濁らず、付近住民の用水だけでなく、王府時代はひでりなどのときには首里城内の御用水になっていた。終戦後もしばらくはこの湧水を使いマーミナ (もやし) 作りが続けられていたそうだ。この井戸への入り口に沖縄戦で破壊されてしまった石碑の下の部分と台座が残っている。碑文によると「水は岩根よりコンコンと湧き出て、雨が降っても濁らず、日照りにも渇れず、他村より水くみにきたり、首里城の御用水にもなる重宝な井戸だったが、1863年6月の大雨で西側の石垣が破壊された。原因は地盤の弱さで、積み直すには多額のお金がかかり村だけでは修復できないと困っている時、宮城筑登之親雲上 (ミヤギチクドゥンぺーチン)、新垣筑登之親雲上 (アラカチチクドゥンペーチン) ほか45人の協力とお金で修理することができた。そして2人は、褒賞として位階を頂戴した」と記されていた。


禰覇井戸 (ニーファガー) 跡

更に道を西に登るともう一つ井戸跡がある。18世紀の初めに活躍した和文学者の平敷屋朝敏の弟の禰覇里之子 (ニーファサトゥヌシ) が掘ったことに因んで禰覇井戸 (ニーファガー) と呼ばれ、かつては村井 (ムラガー) として使われていた。 1700年頃に作成された首里の古地図にも見られる。現在では井戸を取り囲む石垣の一角も崩れ、水も涸れてしまっている。


知念坂 (チニンフィラ)

禰覇井戸の道は直ぐに上ヌ道に合流する。このヌの道が旧金城村の北の境界線になる。禰覇井戸から南下の下ヌ道までは一直線に石段の急坂がある。知念坂 (チニンフィラ) と呼ばれている。南城市にも知念村があり、琉球王国時代は「ちゑねん」と表記され、「崩れ崖の麓の野」の意味だそうだ。この坂を見ると同じ意味から知念坂と名付けられたとも推測されている。
旧金城村にはこの坂の様に下に向かって何本か細い急坂がある。村内部は石畳道も何ヶ所か残っており、人が一人通れるぐらいの路地が多く、自動車には不向きの様だ。村内中心部ではほとんど自動車を見かけない。

芭蕉原 (バサーラ)

知念坂 (チニンフィラ) は旧金城村の集落のほぼ西の端になり、そのの西側、玉陵坂の真下の一帯を芭蕉原 (バサーラ) と呼ばれていた。名の如く、ここでは17世紀ごろに芭蕉が栽培されていた。芭蕉栽培は一大産業として発展し、1648年 (尚質1年) の頃には、芭蕉や芋なども管掌する浮得奉行内の芭蕉当職は独立して設置され、後芭蕉奉行となっている。現在この場所は住宅街となっており、広い道幅の自動車道路が通っている。金城川から丘陵上に登る唯一の自動車道路で金城西線と呼ばれている。歩道は金城の街並みに溶け込むように石畳道になっている。


潮汲井戸 (ウスクガー)

知念坂の半ば程の東側には潮汲井戸 (ウスクガー) がある。創設年代は不明だが、1735年 (尚敬23年) の蔡温の「独物語」に 「茶湯崎に湊仕置きなば (金城村の茶湯崎に港を設置したならば)」とあることから、280年ほど前までは現在の松川集落から下の田、下の道一帯までは、入江になっていて海水が流れ込み船着き場で今帰仁船の水夫たちの逗留宿の跡だったとの伝承もある。 海に近い井戸のため潮の満ち引きの影響を受け井戸水は塩味がしたことから、潮汲川 (スクミガー) と呼ばれ、それが訛ってウスクガーとなったとの説がある。また、別の説では植物のウスク (アコウの木) が井戸近くにあったのでウスクガーになったともいう。


苧川原 (ブウジャーラ)

潮汲井戸 (ウスクガー) の西側、二丁目西南部分一帯は苧川原 (ブウジャーラ) と呼ばれていた。ジャーラとはカーラ (川) から音転したもので、この辺りは金城川の川原で、一面に芋を栽培していたと考えられている。今日の沖縄方言で芭蕉をでヲゥというが、琉球王国初期には植物繊維を採集していた苧、紵麻 (カラムシ) などを指していた。芭蕉が琉球に導入され、次第に紵麻にとって代わり、芭蕉芋と呼ばれるようになり、芭蕉をヲゥと呼ぶようになった。この苧川原の名から、この一帯でも芭蕉が栽培されていたと考えられる。まずは崖上の芭蕉原で芭蕉栽培が始まり、芭蕉が苧 (ヲゥ) と呼ばれる様になって、ここでも芭蕉の栽培が行われたと思われる。

苧川原へ降りる道の金城西線の排水溝が目に付いた。昔からこうなっていたのか、村の琉球時代の雰囲気を残す為に造られたのかは分からないが、素敵な造りになっている。




旧真和志村、玉陵、天界寺地域 (首里金城一丁目)

1914年 (大正3年) に旧真和志村から旧金城村にに編入された玉陵、天界寺があった地域、上ヌ道の北側に移動する。現在は首里金城1丁目となっている。


金城村学校所 (カナダシクムラガクコウジュ、訓蒙館)

真珠道の金城坂を上がり切り、上ヌ道と交叉する所に金城村学校所だった訓蒙館跡 (くんもうかん) がある。1835年に開校し、学校所には中取、筆者の王府役人も詰め、村の風俗衛生を取り締まるなど、役所の機能も有していた。訓蒙は童蒙、物事に暗い子供を教えさとすとの意味で、村の子供たちを訓育していた場所だった。1798年 (尚温4年) に、国学や平等学校が創建されて以後、首里で増は学校を建てた村もあったが、1835年 (尚育1年) には首里王府が補助金を拠出して各村に村学校所の設建を命じている。村学校の経営は基本的には各村の責任において為されていたが、状況に応じて王府より補助金が拠出されていた。村学校は王府の文教を掌る鎖之側の指導で7~8歳で入学し、元服する14~15歳までの士族子弟に初等教育を施し、三字経、小学、四書  (大学、中庸、論語、孟子) の素読や並びに手習 (書写) を行っていた。琉球王国末期には136人の生徒が在学していた。1879年 (明治12年) の琉球処分後は、学校所は廃止され村の共有地となったが、その後個人に払い下 げられている。

島添坂 (シマシービラ)

真珠道は金城村学校所の横の坂道になり、この坂道は島添坂 (シマシービラ) と呼ばれ、一部には石畳が残っており、首里城公園まで続いている。この島添坂は真珠道の起点となっていた。琉球王国時代には首里城務めの按司や多くの庶民も汗かきながら、この石坂の細道を上って勤めに行っていたという。島添坂の途中には1987年に選定されたた日本の道百選の記念碑が置かれている。

糞放リ道小 (クスマイジョーグヮー)

島添坂の途中に小路が分岐している。この道は島添坂が開かれる以前には内金城や金城から首里城への道であった。また、内金城村の拝殿 (フェーディン) への里道でもあった。戦前にはこの一帯の児童生徒の通学路となっていた。この道はクスマイジョグヮーと呼ばれていた。陽光も射さない雑木林の中で人通りも少なく、野糞をたれるのに恰好の場所の言う事で糞放リ道小 (クスマイジョーグヮー) と呼ばれた。

城ヌ下 (グシクヌシチャー)

島添坂を登り切ると首里城公園の入り口になる。崎山に向かって公園周囲に道が走っている。この道は1673年 (尚貞5年) に開削され、先に訪れた仏ヌ坂の場所の上ヌ道に合流する。この道には首里城南口バス停に大赤木があり、その辺りから崎山町まで一帯を城ヌ下 (グシクヌシチャー) と呼ばれていた。城ヌ下 (グシクヌシチャー) と呼んでいた場所はいくつかある。首里城城壁の下を表しているので、そこに住んでいた人達にとってはそこが城ヌ下 (グシクヌシチャー) になり、汀良町や当蔵町のカタヌハナ一帯の首里人は、円覚寺側の城壁下の道をそう呼んでいた。

真珠道 (マダマミチ)

道を島添坂の入り口まで戻る。ここから首里城公園内にかつての真珠道 (マダマミチ) がある。道幅は広くなり昔とは変わっているのだろうが、新たに石畳道で整備されて首里城の石門、守礼門へと続いている。

守礼門は首里金城町内になるのだが、これらについては、首里城を訪れる際の訪問記に触れることとする。真珠道は1522年 (尚真46年) 尚真王の治世のもとで築造されている。石門を起点に金城坂、識名、繁多川、上間、国場、真玉橋、石火矢橋、豊見城城北崖下を通り、那覇湊の垣花までの9km程の道で、外敵が攻めて来た時に備えて築造された重要な軍事道路であった。


石門 (イシジョー)

500年前の1522年に造られた真玉道の起点がこの石門 (イシジョー) になる。イシジョウ地名の由来は、石門は首里城段丘から連なる西に延びた琉球石灰岩の小丘を掘削して切通し (ワイトゥイ 割り取り) にし、真玉道の起点にしたことにあり、東西の碑文の建つ石室は、六畳ほどのひろさで、北向きに入口があって、二段の石段がつけられ、角柱型の切石の布積で、それぞれ西方と北方 (東)、東方と北方 (西) が囲われていた。丁度それが、石の門のように映るので、石門 (イシジョー) と呼ばれるようになったと考えられている。

西側の石室の中に、琉球文和文混効の真玉湊碑文 (石門之西之碑文、写真右) がある。この真珠湊碑文は戦災で碑首と碑身の一部しか残ってなかったが、2006年に残欠に加えて戦前に採られた拓本や写真等をもとに復元されている。「首里の王、おきやかもいかなし天のみ御ミ事に、ま玉ミなとのミちつくり、はしわたし申候時のひのもん」(首里の王、おぎやかもいがなし(=尚真さま)のご命令により、真玉湊の道をつくり、橋を渡した時の碑文)とあり、真珠道および真玉橋は一般交通の利便に供するほか、国土の防衛のため王命により建設された。一旦ことある時には、首里の軍勢と南風原、島添大里、知念、佐敷の軍勢は、真玉橋を渡って下島尻の軍勢と合流し、那覇港口の南岸垣花に勢揃いして外敵の侵入に備えた。という内容が記されている。当時は朝鮮半島・中国大陸の沿岸地域で、倭寇が侵犯、略奪をくりかえしており、琉球の重要拠点であった那覇港の防衛は重要な課題で、いざというとき、首里城を出た部隊は真玉橋を渡り、島尻の各地からやって来る軍勢と合流、那覇港口の南岸、垣花に位置する屋良座森城 (ヤラザムイグシク) に集結し、外敵の侵入に備える必要があったという背景のもとに造られた。

東の石室には、漢文主体の国王頌徳碑 (石門之東之碑文、写真左) が建立されていた。この国王頌徳碑は、第二尚氏尚真の治世を讃え、宮古島  から宝剣治金丸 (チガネマル) が献上されたのを、政の瑞祥として、時の円覚寺住持仙岩長老が撰文し、この碑を建立したと考えられている。尚真王の功績をたたえる内容になっており、母親の宇喜也嘉 (オギヤカ) 逝去した時に、それ以降の殉死を禁止したとある。

首里おきやかもいかなしの御代にミやこよりち金丸ミこしミ玉のわたり申候時にたて申候ひのもんここに神通力の依りついた宝剣が有る。 治金丸と名づけていう。貴びて真珠と称する也 御命令をつつしみ奉りて、功績と名誉の銘文を石に刻み碑を立てる。
聖君の政りごとには必ずや瑞祥が現われる。ここにつつしみ、大琉球国の尚真王はやくから君の位にのぼり、大きな栄誉を得る。盛んに業績をあげ、畿内におもいやりがあり、人民、舜帝や大禹より知識がおとることはないと。
昔の舜天、英祖、察度三代以後、其の他の世の主死するといえども、同道は入用でないとしたが、それ以後百年以来、男女とも競いすすんで同道し、其の数二、三十人に及ぶ、人民も五人三人と相応に等しく死去す。仙岩曰く非道の義なり。 今の君日す、朕惟うに斯道は不幸なり、之を用うべからず、母后逝去の日国家において皆禁止す。つつしんで惟うに貢祖を運ぶ船らをいつくしみ、并せて民に心をつかう。 これ現君の志で、自を忘れ、 他をいつくしみ、危ういのを救い、傾いたのを扶け起こす。すなはち政を行うに情がある。 富て驕らず、貯えて良くほどこす、はなはだおそれて身のおきどころもない。臣は君子を尊び、よく親に事え、年下は年長に随い、老人をうやまい、幼児をいつくしみてのみ。
大明嘉靖元年壬午十二月吉日

天界寺跡 (ティンケェージ) と三殿内跡 (ミトゥンチ)

天界寺は臨済宗の寺院で第一尚氏第六代国王尚泰久により、景泰年間 (1450~56年) に円覚寺、天王寺とともに、三大禅寺の一つとして創建され、山号は妙高山、開山は渓隠安濾禅師と伝わっている。守礼門と玉陵の間に位置していた。創建当初は本堂、方丈、両廊、東房、西房、大門、厨司、寝室などが建てられ、第七代尚徳王の時代、1466年に大宝殿が建立され、成化己丑 (1469年) 鐘路の巨鐘も掛けられていた。1576年に火災により焼失したが、順治から康熙年間にかけて堂宇が建立され再興された。 東隣の天界寺松尾も含め寺域は約1,080坪余と広大な寺院だった。再興後は、尚泰久王、尚徳王の位牌のほか、第二尚氏の未婚の王子や王妃が祀られ、円覚寺と天王寺とともに尚家の三つの菩提寺の一つとなった。国王の元服や即位の際には、三ヵ寺詣の慣わしがあった。1609年 (尚寧21年) の薩摩侵略時に焼き打ちされ、1695 (尚貞27年) にはほぼ復旧されたが、その後はいつしか朽ち果て廃れた状態だった。

1879年 (明治12年) の琉球処分後は、尚家の私寺となり、その後果樹園、後に払い下げられた。1913年 (大正2年) 頃、 跡地の北東隅に、首里殿内、真壁殿内、 儀保殿内を統合し、三人の大阿母志礼 (オオアムシラレ) を統合した三殿内 (ミトゥンチ) が置かれ、ノロの居室も兼ねて使用されていた。1945年 (昭和20年) の沖縄戦により三殿内は消失し、 天界寺の寺域跡は住宅地となっていた。1992年 (平成4年) の首里城復元に伴い、観光客も増えていき、その受け入れ施設、管理棟、駐車場、道路整備の必要性が増してきて、首里城の城外、西側にあったとされる天界寺跡は県都市計画課のよる園整備計画の対象地となっていた。那覇市教育委員会は文化財がすべて消滅することにはしのびなく、計画変更を要請し、なんとか天界寺の井戸の保存は確保できた。文献などの表現ではでははっきりとはしないのだが、どうも沖縄県が経済効果を生む首里城再建整備を第一として、それ以外の遺跡の保存には関心がなかったようで、那覇市の教育委員会とは立場が異なっていたようだ、那覇市が沖縄県に押し切られる形で計画が進められ、費用は沖縄県負担で教育委員会で発掘調査が行われている。石垣遺構、岩盤を掘り込んだ遺構、敷石、階段状、石列の溝状、ピット群など、当時の天界寺の縄張りが推定できる遺構が見つかり、青磁・ 白磁・染付などのほか瓦、沖縄産の施釉、無釉陶器、更に馬の埋葬などが見つかっている。

この結果、旧天界寺の境内や天界寺史跡を全て取り壊して整備して、駐車場導入路や首里城公園の管理棟となっている。景観の為なのか、復元したのかは分からないが、管理棟の敷地周囲には石積の塀や門が見られる。


旧天界寺の井戸

天界寺跡の道路沿いには天界寺の井戸が残されている。計画されていた道路の位置を変更したことによって、かろうじて消滅を免れた井戸だ。開基以来、創建以来何度も井戸を掘ったが泉を探り得なかったが、1697年 (尚貞29年) に水脈探しの名人の蔡応瑞によってようやく泉を掘り当て、清水が湧出したと伝わっている。水質も良く日照りの時でも涸れないので寺の用水だけでなく付近住民の生活用水にも開放されていた。この井戸は椀胴井戸 (ワンドゥガー)形式の井戸で、ビロウ蒲葵の葉製の釣瓶が破けないように全ての石の角を磨耗させて丸くしてあったそうだ。

天界寺松尾 (ティンケージ マーチュー)

天界寺の東隣には1900年代初頭まで、天界寺松尾、また妙高山 (梵語の須弥山の別称で、仏教の世界観で世界の中心にそびえる高い山の意) ともと呼ばれた地だった。琉球国由来記の妙高山天界寺記には「王城の外、待賢門の傍らに高く大きな松山があり、頂は雲がかかるほど威風堂々としている。それが妙高山である」とこの場所を描写している。天界寺松尾には1886年 (明治19年) に首里小学校 (後の首里第一尋常高等小学校) がおかれたが、1912年 (明治45年) に首里城内へ移転し、跡地は1912~1916年 (大正元年~5年) ごろにかけて、首里市の道路補修用の砕石場となったことから、松尾は姿を消し沖縄師範学校の運動場となり、大正天皇即位の記念運動場と呼ばれ、県下の運動競技大会や首里市内小学校の対校野球大会なども開催されていた。ここから識名坂 (シチナンダビラ) の松並木が一望出来たそうだ。

沖縄戦直前までは、天界寺松尾名残りの老松数本が残っていたが、首里城の日本陸軍第32軍司令部壕の坑木として伐木されてしまった。現在は、レストセンター首里杜館となり、首里城を訪れる観光客の休憩所が置かれている。広場の一画には「徐葆光の高徳と功績を讃え、未来永劫にわたる日中友好を祈念し、恩愛を込めて」と書かれ、2008年に建立された徐葆光 (ジョホコウ) の碑 (写真右下) が置かれていた。枕をイメージした台座には徐葆光が詠んだ漢詩の城嶽靈泉が刻まれ、その上にクバの葉の扇をモチーフにした象が飾られている。徐葆光は1671年、江蘇省蘇州市生まれで、清代の官僚として1718年に琉球国王尚敬の冊封のため、康煕帝から冊封副使に任命され、翌1719年に正使の海宝とその随行員として詩人、画家、料理人<医者、通訳、船員など400~500名で来琉し約八か月間滞在している。帰国後に琉球の滞在記録を各日に赴き、まさにフィールドワークで「中山伝信録」としてまとめている。中山伝信録は、第1巻 - 中国から琉球への航路、冊封使の航海日誌等、第2巻 - 冊封の儀礼や歓待の宴(冊封七宴)等、第3巻 - 舜天から尚敬王に至る歴代中山王の系譜、第4巻 - 琉球各地の地理、地名、産物、第5巻 - 公的機関、官僚機構、教育機関、宗教等、第6巻 - 風俗・産物・言語等で構成され、琉球文化歴史全般にわたっており、この書に匹敵するものは琉球側にもこれだけまとまったものはなかったという。江戸時代の学者はこの書から琉球の知識を学んだとされ、また1751年にはフランス語に抄訳され、ヨーロッパにおける琉球についての貴重な情報源となっていた。また徐葆光は、公式な報告書の中山伝信録には書けなかった日常生活や心情を舶前集、舶中集、舶後集の三部 (長短417首) から成る漢詩集の奉使琉球詩にまとめている。


佐藤惣之助詩碑

先日、虎頭山を訪れた際に見た佐藤惣之助詩碑が亡くなっていたのだが、その詩碑がここ天界寺跡と天界寺松尾の間の道路沿いに2021年に移設されていた。元々は首里城跡に建てられていた琉球大学にあったのだが、首里城再建、琉球大学移転で虎頭山に移設されていたので、移設というよりは戻ったといったほうが良いだろう。佐藤惣之助は1890年生まれの神奈川県川崎市出身の詩人・作詞家で、1922年に沖縄、台湾を旅し、「琉球諸嶋風物詩集」を発表している。 琉歌や琉球の言葉を取り入れた詩と紀行文を収めた詩集は、 琉球の風物文化を伝える異色作として詩壇で名声を博した。 惣之助はその後も随筆 などで沖縄を紹介し、上京してきた沖縄出身の若い詩人を育成した。 作詞家としては「阪神タイガースの歌 (六甲おろし)」 や 「美わしの琉球」などの作詞も手掛けた。 1942年に享年51才で死去。戦後、 川崎市民から、 沖縄と川崎を結ぶ友情の絆、戦火で疲弊した沖縄県民 の希望の灯となるよう惣之助の詩碑が贈呈され、琉球大学構内に設置された。詩碑には沖縄陶芸の伝統維持と紹介に取り組んだ川崎市出身の陶芸家濱田庄司が、惣之助の詩「夏」の冒頭の3行を陶板に刻み、 壺屋の陶工に作製させた赤瓦を織り込ん だヒンブン型台座にはめ込んでいる。その後、1996年川崎市と那覇市との間に友好都市協定が結ばれている。

玉陵 (タマウドゥン)

天界寺の西隣りには第二尚氏王統の陵墓の玉陵 (タマウドゥン) がある。玉陵は尚真王が尚円王の遺骨を見上森から移葬するために1501年 (尚真25年) に板葺屋根の宮殿を表した石造建造物の墓を造った。綾門大道に玉陵への入り口があり、中に入ると資料館があり、左に曲がると参道になる。参道は古来琉球独特のサン トーが敷き詰められている。

参道の途中、玉陵の手前には西ヌ御番所 (イリヌバンジュ) が置かれていた。1736年(尚敬二四) の球陽には「玉陵は松林の中に在ることで、草苅や木樵が入って来る恐れがあり、竹垣を以って松林を囲い、又毎月二日二十日は獄吏に巡察をさせる」とあり、1748年(尚敬36年) には、玉陵の門外の左右に番所を設け、第二尚氏傍流の向氏の座敷や当 (アタイ) [共に位階名] のなかから一年交替で二員ずつを御番役に当てることを定めるとある。この西ヌ御番所は、法事の際には、主に女性方の控所として使われたと考えられている。琉球最後の国王であった尚泰の葬儀の折、東西の御番所が近親の親族や僧侶の控所となっていた。太平洋戦争前まで、格式のある家柄から選ばれた御番役が住み込み、御掃除人たちを使って、 日常の管理を行っていた。発掘調査では、西の御番所の遺構は発見されなかった。

玉陵 (タマウドゥン) の前に着くと、香炉が置かれている。ここは玉陵の遙拝所になる。ここから歴代の王を御願している。

玉陵の東にも御番所が置かれ、東ヌ御番所 (イリヌバンジュ) が置かれていた。この御番所は、 法事の折には国王の控所として使用されていた。太平洋戦争直前には、ニ間四方ほどの大きさしかなく、国王の葬儀に使用する龕やその他の道具類を保管する倉庫として使用されていたそうだ。2000年に発掘調査がおこなわれ、 礎石や建物の周囲に巡らされた石敷、便所跡などの遺構が発見され、瓦や釘、中国製の青磁 や染付壷屋焼の陶器などの破片も出土している。この発掘調査で西ヌ御番所の部屋割を反転させた構造になっていたことが判り、遺構や写真などを元に、東ヌ御番所を復元している。

2年前にここに来た時は雨戸が閉められて内部が見えなかったのだが (上の写真右中)、今日は雨戸が開けられて見学ができるようになっていた。

墓は北向きに造られ、石垣によって内外二つの郭に分けられている。郭の墓庭は内庭と中庭からなり、外壁・内壁の石垣とも一日積 (ヒッチーツミ) と呼ばれる突貫工事で、葬儀の日の朝に取り壊し、葬儀終了と共に修復するという積方で、首里・那覇の石工が総動員されたという。まず外庭に入る。かなり広い。ここには家臣たちが葬儀の際に集まったのだろうか?

玉陵の中庭には1501年に中国産の輝緑岩を使った玉陵碑が建立されている。現存する「ひらがなの琉球文」の金石文では最古のものとされる。碑文には尚衡と尚朝栄の2人を除いた6人と尚真王、尚円 王妃、尚円長女を加えた9人とその子孫は、永久にこの陵墓に葬られるべきであると記され、

首里おきやかもひかしまあかとたる (尚真王の神号)、御一人よそひおとんの大あんしおきやか (尚円妃)、御一人きこ え大きみのあんしおとちとのもいかね (尚円長女)、御一人さすかさのあんしまなへたる(尚真長女)、御一人中 くすくのあんしまにきよたる (尚真第五子尚清)、御一人ミやきせんのあんしまもたいかね (尚真第三子)、御一人こゑくのあんしまさふろかね  (尚真第四子)、御一人きんのあんしまさふろかね (尚真第六子)、御一人とよミ くすくのあんしおもひふたかね (尚真第七子) と九名の名を横列して刻し、

下段にはもしこのことに背く者がい たら 「天に仰ぎ地に伏してたたるべし」 と書かれている。

しよりの御ミ事 い 上九人この御する八千年万年にいたるまでこのところにおさまるへしもしのちにあらそふ人あらはこのすミ見るへしこのかきつけそむく人あらい てんにおをきちにふしてたるへし 大明弘治十四年九月大吉日

と銘されている。この碑文の内容は、 尚真の愛妾思戸金の讒言によって廃された長子の尚維衡の系統を、玉陵へ葬ってはならないとの意図があり、尚円の妻で尚真王の母の宇喜也嘉 (オギヤカ) や尚真の愛妾思戸金の後継者争いを露骨に表している。後に、尚真王の後を襲いだ尚清王によって異母兄にあたる尚維衡も移葬されている。(資料館の埋葬者リストには尚維衡の娘はあるのだが、尚維衡は見当たらない。不明者となっているものの一つなのだろうか?) その後、直系王族だけがこの玉陵に埋葬される仕組みとなり、その他は山川陵や宝口陵を造営し、そこに葬られていた。

第二尚氏歴代王の中でこの玉陵に葬られていない王が二人いる。二代尚宣威王と七代尚寧王だ。尚宣威は尚真王の母の宇喜也嘉 (オギヤカ) の策略で半年で退位している。尚寧王は、尚真の愛妾思戸金の讒言によって廃嫡された尚維衡の子孫にあたる。本来尚宣威を王として認めない、それゆえ玉陵に入る権利がない、という目的だった。尚維衡の子孫は尚氏嫡流なのだが、わざわざ碑文を建てて、尚維衡の子孫を排除しよとしている。尚寧王はこのような因縁のある墓には入りたくなかったのだろう。それで、遺言で生まれ故郷の浦添ようどれに葬られたとされている。

墓のある内庭に入る。

墓室は三つに分かれ、洗骨までの遺体を安置する正寝の中室 (写真右上) 、洗骨後の王、王妃、世子、世子妃の遺骨を納める東室 (左中)、その他の王子、王女などの遺骨を納める西室 (右中) となっている。1768年 (尚穆17年) 旧暦2月12日、玉陵で始めて清明祭が行われ、これ以降、毎年清明の節に国王自ら玉陵で奉祭することを定めている。これが琉球での清明祭のはじまりとされる。沖縄戦では、米軍の艦砲射撃で玉陵も東室、西室が破壊された。その後1974年から3年あまりの時間をかけ、現在の形に修復がなされている。2000年に世界遺産となり、一般公開が始まった。

内庭には東西の隅にそれぞれ井戸のようなものがある。西側のものは庭井戸 (写真右下) で東側が洗骨後の遺体に火を入れる火葬場だそうだ。


東西の両袖塔には玉陵を守護する形で閃緑岩で造られた石獅子の立像が置かれている。東室の上には子どもをあやす母獅子 (左)、中室と西室の間の上には玉紐と遊ぶ父獅子 (右) だそうだ。スマートフォンでは石獅子の様子を捕らえられないので、沖縄博物館が公開している写真を借用。

資料館の玉陵奉円館には玉陵の歴史や構造、内部に安置されている骨甕の写真などが展示されている。

玉陵に係わる歴史

玉陵の構造

玉陵の中室 (写真中下) に一つ蔵骨器が残っている。中室は洗骨まで遺体を保管するシルヒラシの場所で、ここに蔵骨器が残っていることはあり得ないはず。遺体が風化するまでの場所で、ここに一定の期間安置し、洗骨を行い遺骨を蔵骨器に納め、東室か西室に移動するのだが、移動せずにここに放置しているとは何かいわくがありそうだ。以前、旧玉城村前川集落の木田大時 (ムクタウフトゥチ) 拝所を訪れた際に、尚真王が過って木田大時を処刑してしまったことをたいそう悔い、第二尚氏王統の歴代国王が眠る陵墓の玉陵 (たまうどぅん) に、木田大時を大切に祀ったという言い伝えを知った。展示室ではこの蔵骨器は不明とされ、木田大時の伝承には触れていなかった。処刑されたいきさつ自体も少し疑わしいところもあるのと、玉陵は王室の墓で、過って処刑したとは言え、別に立派な墓を造って弔うのが通常の対処の仕方と思えるので、これは謎のままだ。まともに解釈すれば、この残された蔵骨器も筈で、何らかの理由で東室か西室に移さなかったのだろう。

埋葬されている歴代の王、王妃、王子などのリスト

安置されている蔵骨器の写真

玉陵の墓室には遺骨をおさめた蔵骨器が全部で70基ある。その中の27基を展示してた。蔵骨器は時代によって変化しており、初代尚円王の蔵骨器は輝緑岩製で、龍などの細かい彫刻がありが、三代尚真王以降はその大半が石灰岩製で質素なつくりとなっている。五代尚元王以降の蔵骨器には地蔵菩薩が描かれるようになっている。13代尚敬王からは陶器製にかわっていき、 屋根には鯱の装飾がなされている。

玉陵内部写真


見上森 (ミアーギムイ)

玉陵の西南隅には見上森御嶽 (ミアーギムイウタキ) が存在していた。御嶽と書かれているのだが、玉陵が増設されるまでは尚円王の墓があった見上森陵になる。玉陵が北面しているのに対して、この見上森御嶽は南に入口を開いていたそうだ。球陽に「尚円王巳に薨じ、見上森陵に葬る。今番、新に玉陵を中山坊内の地に築く前は首里大街に臨み、東は天界寺に側る。 先王尚円を奉じて此の玉陵に移送す」とある。玉陵の造営の後、見上森御嶽と呼ばれたと考えられる。見上森は「見上げる森」という意味だが、尚円王の第二尚氏王統以前の第一尚氏王統の初期までは、この陵線を含め天界寺松尾ま 真和志森と呼ばれていた。玉陵の裏側のこの見上森あたりに行ってみたが、拝所らしきものはなく木々に覆われている。

見上森の斜面下に、コンクリートの祠があったのだが、これは御嶽ではなく、拝み屋か誰かが、勝手に作った拝所の様で、設置者は那覇市役所に連絡するようにとの張り紙がされていた。


玉陵坂 (タマウドゥンビラ)

綾門大道 (アヤジョウウフミチ) から玉陵と安国寺の間を南へ下る急坂は玉陵坂 (タマウドゥンビラ) と呼ばれていた。この坂は切通し (ワイトゥイ) で金城町と寒川町の町界になっている。開削された時期は不詳だが1700年の首里古地図には見られているのでそれ以前に開通されている。綾門大道と同様にサントーで路面敷設をしていたものとみられる。坂の中ほどに玉陵築造以前、第二尚氏の尚円王の葬所である見上森 (ミアーギムイ) があったことで、見揚森クビリとも呼ばれたらしく、「金城嫁 (カナダシクユミ) やないぶさやあしが見揚森くびり道ぬあぐでい (金城村にお嫁には行きたいが、見揚森クビリの長い坂道があるので思いまどう)」とこの坂を詠った琉歌が残っている。


第一中健児之塔

玉陵坂の東側には1940年に一中六十周年記念事業として建設された一中生徒の寄宿舎養秀寮があった。養秀寮の跡地には、養秀同窓会会館があり、合わせて旧県立首里高等女学校の生徒 (瑞泉学徒隊) の瑞泉同窓会も併設されている。

広場には一中健児の塔が建てられている。1950年4月30日に建立され、沖縄戦で犠牲になった県立一中の教職員や生徒の慰霊塔になる。 沖縄戦では一中鉄血勤皇隊として生徒273名、教師12名が動員され、その内半数強の生徒153名、教師6名が犠牲となった。1980年に一中創立100周年で現在地に改修、2002年に刻銘碑を増設している。塔の前の広場には、

一中健児之塔の案内板には

鉄血勤皇隊、通信隊の学徒兵は、郷土防衛の若い血潮を燃やしつつ、陣地構築、通信、伝令、弾薬・糧食の運搬、戦傷兵の輸送その他の任務に精魂を傾け、熾烈な砲爆撃下に決死敢闘 対戦車肉薄攻撃、挺身斬込みに参加し、終始軍の一員としてその責務を遂行した。非戦闘員であるべき学業半ばの年端もゆかぬ二百有余の学徒兵は、いまだかたい蕾のまま散華した。 先の戦争では、教職員、学徒兵を含め八百有余の同窓の方々が戦没された。まことに痛恨のきわみである。 昭和15年の沖縄県立第一中学校創立六十周年記念事業として養秀寮が建設されたゆかりのこの地に、一中健児之塔を建立し、志むなしく斃れた一中健児を追慕し、謹んで御冥福を祈り、世界の恒久平和を希求する。

とある。

沖縄県立第一中学校の前身は、1880年 (明治13年) に設立された首里中学校 (首里高等学校の前身) で、その後変遷を経て、1911年 (明治44年) に沖縄県立 第一中学校と改称。

  • 1945年 (昭和20年) 3月27日、第一中学校で、米軍の砲爆撃が続いている中、異例で悲壮な卒業式が挙行され、第五学年生と第四学年生が同時に卒業し、ただちに第三学年生とともに鉄血勤皇隊が編成された。また、1944年11月から通信隊要員として教育訓練を 受けていた第二学年生は、3月28日、少年特別志願兵 として電信兵第三六連隊に入隊を命ぜられ、各無線中隊に配属された。第一学年生20人は首里城にあった軍司令部で発電機の冷却水供給作業にあたった。
  • 卒業式の翌日、3月28日に鉄血勤皇隊は第五砲兵司令部に、1944年11月から通信隊要員として教育訓練を受けていた第二学年生は、少年特別志願兵として電信兵第三六連隊に入隊を命ぜられ、第四中隊、第五中隊、第六中隊、固定中隊の四つの無線中隊に分散配属された。
  • 5月14日、鉄血勤皇隊は、勤皇隊本部、第五歩兵司令部、独立測地第一中隊、野戦重砲兵第一連隊、独立重砲兵第百大隊、独立工兵第六十六大隊の6つに再編され、翌15日に分散配置されている。
  • 5月20日 米軍と日本軍は首里の北東で対峙していた。5月27日までは小競り合いはあったものの戦況はあまり変化はなかったが、米軍の攻撃は時間の問題だった。
  • 5月27日~6月3日、第32軍首脳は27日に首里を撤退し津嘉山へ移動。鉄血勤皇隊が配属された各部隊もそれぞれ、現在の糸満市の波平、新垣、真壁、伊原、宇栄城、喜屋武に撤退。 5月27日、通信隊が配属された各部隊は南部に撤退し、29日に摩文仁に到着。鉄血勤皇隊が首里から撤退した後、5月28日には米軍に松川高地 (Beehive Hill) が占領され、29日には松川高地から米軍が綾門大道を通り、首里城に突入し、31日には首里城は米軍が占領し、日本軍は撤退していった。
  • 6月18日、日本軍から鉄血勤皇隊はじめ学徒隊に対して解散命令がだされた。解散とはいえ、行く当てもない学徒たちは、敗残兵と行動を共にしたもの、戦場を逃げ回ったものなど様々だが、多くはこの解散命令後に犠牲となっている。
  • 6月下旬、壕が米軍に包囲され、 兵隊とともに斬り込みに参加するなど多数が死亡している。


沖縄県立第一中学校铁血勤皇隊壕跡

第一中健児の塔の後方の丘の斜面には沖縄県立第一中学校铁血勤皇隊壕の一部が残っている。1944年(昭和19年) 10月10日の米軍による空襲後、沖縄守備軍の一軍が沖縄への米軍進攻に備える中、県立第一中学校においても、学校の南側にある切通しの玉陵坂で独自の壕の構築作業が行われた。慰霊塔の後方斜面には医務室として使用し 古墓跡、銃器庫として使用した古墓跡、一中学徒によって掘られた東壕、安国寺境内には炊事場と教職員用の西壕などが造られていた。斜面の西側の壕 (第一小隊壕) は翌年1945年4月5~6日に完成、東側には2ヶ所の入口があるコの字型の壕 (第二小隊壕)、さらに多数の学徒兵を収容するには壕の拡張が必要となり、東側の第二小隊壕から養秀寮 (一中寮) の裏手の壕 (第三小隊壕) まで貫通による拡張を目指し、玉陵坂側と寮裏手の両方から、生徒たちの手で昼夜を問わず掘り進め完成させた。途中の除隊や、県庁配属の生徒がもどるなど、正確な人数は把握できないが、どの壕にも30名前後の学徒兵がいた。第32軍司令部のあった首里地区へ米軍が迫った5月中旬、鉄血勤皇隊の各隊への分散配備が行われるまで、これの壕は鉄血勤皇隊の活動の拠点となった。

周辺には、その他にも自然洞穴や古い墓の岩穴が多数あり、銃器庫、退避所などに利用された。


銃器庫跡

沖縄戦を前にして、それまで県立第一中校内の銃器庫に収納されていた銃器等を、古い墓の岩穴に移動し、墓を利用し保管していた。九九式小銃、二八式歩兵銃、小銃弾、手榴弾や教練用の古い銃などが多数含まれる貧弱な装備であったが、鉄血勤皇隊の学徒兵たちは大切に保管していた。沖縄戦の戦局が進み、米軍との戦線が首里に迫ると、戦車への体当たり作戦のために対戦車用三式手投げ爆雷や急造爆雷が持ち込まれた。


教導兵詰所跡

鉄血勤皇隊全員に二等兵の襟章のついた軍服、軍帽、軍靴や飯盒などが支給された1945年(昭和20年) 3月29日、勤皇隊を兵員として訓練・指導するため、第5砲兵司令部 (球九七〇〇部隊) から9名の教導兵が派遣され、当初、自然洞穴を利用して寝起きしていた。その後、教導兵は西側に築かれていた第三小隊壕の学徒兵に合流し、対戦車肉薄攻撃の演習など学徒兵への訓練が強化された。米軍の攻撃が激化する中、教導兵による学徒兵への私的制裁も行われた。そのことに対し、鉄血勤皇隊 篠原保司、隊長による教導兵への叱責、指導があり、教導兵による私的制裁もなくなった。


第三小隊壕跡

第一小隊壕には、鉄血勤皇隊 篠原保司隊長、藤野憲太学校長以下、職員及びその家族、第二小隊壕には第三小隊壕には教導兵が詰めていた。鉄血勤皇隊が各部隊へ分散配備が行われる5月中旬まで学徒兵はこれらの壕を拠点に、監視哨での立哨勤務、壕掘り、陣地構築、弾薬、食料運搬等の作業にあたっていた。



首里金城町には他の集落へ向かう途中で何日かに分けて少しずつ見ていたのだが、見どころの多い地域で、資料を調べながらだった。資料を見るたびに新しい発見がありそれを確認するため何度も足を運んだ。この訪問記をまとめるのもかなりの労力で何日もかかってしまった。まだまだ、書き足りないものもあるのだが、これぐらいで終わりにして、後で足していくことにする。本土から来た人には、是非とも金城町を訪れて、昔の琉球の村を味わってもらいたいものだ。個人的には首里城よりおすすめの場所だ。


参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)
  • 首里の地名 (2000 久手堅憲夫)
  • 沖縄「歴史の道」を行く (2001 座間味栄議)
  • 古地図で楽しむ首里・那覇 (2022 安里進)
  • 南島風土記 (1950 東恩納寛惇)
  • 沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書 第2集 天界寺跡 1 (2001 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書 第8集 天界寺跡 2 (2002 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書 第13集 綾門大道跡 (2018 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書 第32集 真珠道跡 1 (2006 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書 第42集 真珠道跡 2 (2007 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 沖縄県立埋蔵文化財センター調査報告書 第48集 真珠道跡 3 (2008 沖縄県立埋蔵文化財センター)

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